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第一章 ホワイト・モード

グロテスクな描写が所々にあります。


六章まで、物語は続いています。

 女という性別に生まれてしまったらしい。

 彼女には、水月という名が与えられた。

 物心付く前。女とは何なのか、と思った。

 街にいる友人達、彼女達に訊ねてみた。

 すると、女とは恋をする者だと言われた。

 水月は、自分自身の肉体に違和感を覚えていた。

 あるいは、自分自身の存在そのものに対して、懐疑の念を抱いていたのかもしれない。

 それは幾ら年齢を重ねても、変わらなかった。

 日々、成長していく肉体。

 整っていく顔立ち。いや、昔から街で一番の美人だと言われた。

 思春期の頃だろう。絶世の美女だ、と友人から冗談交じりに言われた。

 絶世とは何なのだろうか。

 美女とは?

 水月の疑問は尽きない。

 彼女はよく、理屈っぽいとも言われる。しかし、思考の渦が頭の中を回っている。

 まるで、思考する、という事を前提にしか生きられないかのような。

 容姿が良い、という事はどういう事なのだろうか。彼女はただただ、そんな事を強く考えていた。

 水月は、男達から告白された。

 告白の意味が分からない。

 付き合うというのは、どういう事なのだろうか。一緒に会話したり、食事したりする事とどう違うのだろうか。その先の事が、頭に浮かばない。……いや、その先の事は多分、分かる。しかし、実感が持てない上に。その意味を感じない。価値を感じない。

 どうにも受け入れがたい事実があるだけだ。

 ただ、自分の肉体の成長を知って。

 彼女は夏でも、厚着を着込むようになった。

 そして、帽子を目深く被り、日中を過ごした。

 引き篭もりがちになった日もある。

 他人との関わりが酷く、億劫になった。

 自分は人間ではないんだなあ、とふと思った。

 壁に架けられた天使絵。

 それから、悪魔画。

 そういった神話の世界に強く憧れていた。

 水月は自分の肉体が醜いと思っている。

 肉体を他人に晒したくない。そんな思いでいっぱいだった。

 雪のように白い肌。透き通るような長い金髪。

 彼女は、美しいらしい。

 しかし、それは彼女にとって何の価値も無いものだ。必要の無いものなのだ。

 水月は気付く。

 ああ、自分は女じゃないんだ、と。

 身体は女らしいのだが、どうやら、心が女じゃないのだろうと。

 しかし、男なのか、と問われると分からない。

 水月は、自分では自分の事を“中性”だと思っている。聞く所によると、天使には性別が無いらしい。

 水月はひきこもりがちになった。

 自分自身の肌も何故か見れなくなっていた為、浴室には余り、入れなくなってしまった。

 鏡も見れない。自分の顔が嫌だった。

 何故、他人から美しいと言われるものを、自身は醜いと感じてしまうのか。

 水月は気付いていた。

 人間は美しさに見惚れるみたいだが、自らが美しい肉体を有しているのならば、それは果たして幸福なのか、と。美しさは愛でるものであって、纏うものではないのではないかと。自分の美貌が嫌だった。自分の豊満な肉体が嫌だった。

 自分は人間では無いのではないか、そんな事ばかり考えて過ごしていた。

 それから、少しずつ、少しずつ、他人が醜いと呼ばれる物や感性に魅了されていった。

 水月は死体集めが趣味になった。

 まずは、剥製やホルマリン漬けの小動物、ピンで止められた標本箱の蝶を大量に集めた。

 家が資産家で、両親が不在だった為。家政婦も遠ざけて、学校にも通わなくなり。一人、大きな屋敷の中に篭っていた。

 彼女の感覚は、天と地が反転するかのように、美醜がどんどん捻じ曲がっていった。

 今後の人生の一切を、閉塞的に生きるしかないのだろう。

 自分が好む耽溺の中で生きるしかない。

 水月は、そう確信していた。

 それにしても分からないものがある。

 同い年の女達。

 彼女達と、何故か話が合わなかった。

 男の話。交際の話。それから、他人の陰口。

 どうしようもなく馬鹿馬鹿しくなって、興味を失い、彼女達とは距離を置いた。

 自分の肉体は呪われていると思った。

 自分の肉体は、死なのだと。

 だからこそ、水月は死体に憧れた。

 死体はみなが煙たがるが故に、美しい。

 それに比べて、生きている存在は酷く醜く感じた。

 自分の体臭が気持ち悪い。

 排泄という行為さえも、気持ちが悪い。

 呼吸しているという事さえも、気味が悪くて気持ちが悪かった。

 ちなみに、この部屋には時計が無い。

 ただただ、時間ばかりが過ぎていく。

 水月は、今の自分の年齢を知らない。

 大体、思春期の頃に、部屋を出なくなった。

 今は幾つくらいなのだろう。二十は過ぎている筈だ。

 もしかしたら、三十に届いているのかもしれない。どうだっていい。

 問題はだ。

 いつの間にか、自分の時間が止まっているという事だった。

 老いないという現象が、肉体に発生している。

 水月は、いつしか病的に、世界各地の奇妙な品物ばかりを集めるようになっていた。

 彼女の家には、財産が腐る程ある。どうやら、地主とやららしい。

 この辺りに住んでいる者達の財産を徴収して、生きているみたいだ。

 全部、顔も見ない家政婦と、年に数回のやり取りだけで財産の徴収を済ませていた。

 両親は、何となく、彼女を捨てたのだろうと知った。

 そういえば、もう二年くらいの間、外に出ていない。

 欲しいものがあれば、カタログを見て、注文を入れる。

 そうやって過ごすのが、何よりも幸せだった。

 将来は、骨董品などを売って過ごそうと考えている。

 そういう風に、生きようと。



 テレサは給仕のバイトをしていた。

 客商売というのは、大変だが、やりがいはある。

 店にやってくる客の一人一人を眺めるのが好きだ。

 客の癖なども見つかったりして、楽しい。

 仕事が終わり、家に帰る。

 何となく、外の世界を見てみたいなあと思った。

 旅費はある程度、溜めている。

 窓の外を見る。夜景が綺麗だ。

 何となく、外に散歩に出かけた。

 今日は何だか、空気がいい。長閑な風も吹いている。

 テレサは周りを見渡しながら歩いていた、何か面白いものは無い事かと。

 いつも歩いていく、散歩道。

 一人の女性が、街頭にある露店に立っていた。

 彼女はスレンダーな身体に、豊満な胸と腰をしていた。

 それから、何よりも透き通るような白皙の美貌をしている。

 彼女は何やら、唸っていた。

 テレサは遠目で、彼女を見てみる。

 何やら、大きなものを手に取って見ている。

 どうやら、オウム貝の化石を選んでいるらしかった。

 その露店は、珍妙なものばかりを売る店で、街の中でも一風変わった道具屋だった。

 テレサは女を眺め続ける。

「両方、買おう。買っておいて、損は無いからな」

 そう言って、彼女は露店の主人に、貝の入った袋を渡されて陽気な顔で歩き出す。

「あ、あのっ」

 テレサが何故、こんな行動に移ったのか分からない。

 彼女は、気が付くと、見も知らない美人に話し掛けていた。

「ん……?」

 美女は、テレサをまじまじと見る。

「あ、あ、えと。あの、こういうのお好きなんですか?」

「……んーん、大好きだぞ」

「も、もっと、良い店。教えましょうか?」

 少しどもりがちだ。

「そうだな、教えて欲しい」

 彼女は晴れやかな笑顔を浮かべていた。

 テレサは、何だか。良い人そうだな、と思った。

 


 彼女の名は、ミナヅキと言うらしい。

 文字も教えてくれた。文字は不思議な形をしている。彼女は異国の者だという。

『水月』。みなづき。

 テレサ達の街の言葉は、比較的この辺りの共通言語だ。

 水月は、少し勉強して、ここにやってきたらしい。

「テレサ、というのか」

「は、はい」

 お友達になってくれませんか? と言いそうになって、口を噤む。

 彼女は街から外れた場所へと向かっていく。テレサは彼女に付いていった。

 そこは、朽ちた教会を改造した場所だった。

 夜中まで開いている。所謂、ブラック・マーケットと呼ばれる場所。

 テレサは危険だから、行くなと親や友人から言われていた。

 しかし、何故だか、水月と一緒ならば、平気だろうと思った。

 不思議と彼女といると、妙な安心感を覚えて仕方が無い。

「この辺りでは、魔女狩りが流行っていたらしいな」

「ええ。でも、もう一昔前です。私の生まれた頃は無かった。私も教え聞かされたばかりで。とっても、怖い話でした」

「ふむ。成る程な」

 彼女は何処か男言葉だった。

 この地方においての、ちゃんとした女言葉を教えようかと言うと。

「いや、意図的に男言葉を使っている。私は女じゃないからな」

「女じゃない?」

 テレサは困惑したような顔になる。

「性自認の問題かな。といっても、男だとも思っていない。強いて言えば、中性かな」

 意味深な事を言う。

 深夜の教会。

 蝙蝠が空を飛んでいた。

 教会の明かりが煌々と灯っている。

 此処では、週に二回程、ブラック・マーケットと呼ばれるバザールが行われていた。

 テレサ自身、此処に来るのは初めてだった。

 様々なものが売られている。

 異国の調味料に、船や馬車の模型。

 沢山のあらゆる種類のナイフ、剣。手斧。乾いた血がこびり付いた、錆びた刀剣。

 不気味なものが陳列されている。

 奥に進むにつれて、怪しげなものが売られている。

 動物の目玉の瓶詰め。トナカイの頭部の剥製。虎の毛皮。

 更に、使い古された、拷問道具、処刑道具などが置かれている。

 水月は廃教会にて行われるバザールにて、色々な人間と話していた。

 此処にやってくるのは、表の世界では何をやっている人間なのだろうか。

 明らかに、カタギではない。

 そんな臭いが充満している。

 顔に大きな傷のある女。

 ぶつぶつと水晶球を覗き込んで、独り言を言い続ける老人。

 延々とカードを並べ続ける中年の紳士。

 テレサは占いをしてみないか、と言われて、断った。彼女に声を掛けた男は、片目を眼帯で覆った男だった。

 様々な種類の蝿の標本箱。

 白骨で作られたと銘打たれているナイフ。

 なめされた動物の内臓で作った絨毯。

 猿の首の生えた植木。

 奥に進むにつれて、グロテスクなものの割合が増えていく。

 水月は立ち止まった。

 顔を包帯で覆った男に聞く。

「その棺桶に入っている標本は何だ?」

「処刑によって、生皮を剥がされた囚人の死体だ。刑務官がヤバイってんで、売ってくれた。こいつな、後で事件を調べた結果、何とまあ無罪だったんだよ。だから、ヤバイってんで、俺に売ってくれたんだな」

「それ、買いたい。最高だ。また、私のコレクションが増える」

「持っていくの、大変じゃないか? お前、細腕だろう?」

「平気さ」

 水月は底知れない、悪意と歓喜の表情を浮かべる。

 その相貌は、何処までも無垢だった。

 テレサは彼女を見て、少し、怖いな、と感じた。

 正直、テレサは此処に来た事を後悔している。

 見てはいけないものを見せられているような。

「それにしても、奇妙なもんだよなあ」

 包帯の男は言う。

「お前さんみたいな、美人に限って。こういう品物を買いたがるんだよ。貴族階級の女達ばかりだ。まあ、お前さんは少し毛色が違うように見えるがな。もう少し、年の入っている美人が買いたがる。退屈なんだろうな、彼女達は」

「そうか、そうか。みんな、考える事は同じなんじゃないのか?」

 彼女はとても楽しそう。



 テレサは水月の泊まっている、宿に招かれた。

 彼女が今晩のうちに購入した沢山の品物が、部屋の中に置かれている。

 全部、馬車などで持って帰るのだと言う。

「後は、女の生首が沢山、欲しいんだよなあ。美人の生首」

 彼女はぽつりと言う。

 テレサは反応に困った。

「み、水月さん。貴方も相当、美人じゃないですか」

 実際、テレサは彼女程の美人を見た事が無い。

 絶世の美女という言葉が、遜色無く使える。

「私は、美人なのか……?」

 彼女は、さも不思議そうに訊ねた。

「そうですよ。顔も、身体もすらっとしているし」

「私は、自分の肉体を捨てたいと思っている」

 彼女は本気の声音で言った。

 テレサは面食らったような顔をする。

「私は美人なのか? 分からないなあ。美醜が分からない。私に分かるのは、私がどうも、女としての役割を欲しないのと。強い死の耽溺に魅せられているって事くらいだ」

 彼女は真顔で、そんな事を話し出す。

 テレサは彼女の言っている事がよく理解出来ない。

「いいかい、テレサ。美ってのはな、美人ってのはな、認識の問題なんじゃないかなあ。時代によって、美人の形ってのも違うだろう? それから、自分自身が美しいとかされる肉体を所有していても、仕方ないんじゃないか? 何故なら、美しいものは、標本にしたり、瓶詰めにしたりするのが面白いだろう。加工して改造したりするのもいい。美は俯瞰によって顕現されている。私は自ら、纏いたいとは思わないんだよ」

 顎に手を置いて、少し苦悩するような顔になる。

「私はな、人間を解体したいんだ。人間の欲望が何なのか、の研究をしている。けれども、私自身はどんな欲望も行使しない。私は傍観者でいたいんだ。沢山の書物、沢山のコレクションに囲まれて生きたい。人間の底知れない暗黒が好きなんだ。書物がそれを教えてくれる。聖書もね。あれはとても邪悪な教典だ。だから、私は聖書が好きだ」

 テレサは彼女の言っている事がまるで分からない。

 理解出来ない。

 どういう感性の下で、どういう発想なのだろうか。

 水月が言っている話の内容は、テレサにはまるで理解出来ない世界の話だった。

 先ほどの廃教会での出来事も、夢の只中を歩いているような。

 不気味な夢の中を歩いているような気分だった。

 テレサは育ちが良かった。

 彼女を虐げる者はいなかったし。彼女は太陽や草木を愛でていた。

 幽霊話に本気で震え上がり、料理を作ったりするのが何よりも好きだった。

 彼女は男達によくもてた。しかし、本物の相手と出会うまでは交際はしないと誓っていた為、誰とも付き合った事が無かった。

 そんなテレサの理解の中においては、まるで異存在として水月は立っていた。

 魔人。

 そうとしか思えない。

「人間の眼鼻、顔の骨格。スタイルってのは幾らでも加工によって作れるんだよ、テレサ。私が仮に美人だとしても、それは私に何の意味も齎さないだろう? 私は自身の容姿を何の有効活用もさせる気が無いからな。恋愛に興味が無い。性愛に興味が無い。この容姿を使って、金を稼ぐつもりもない。話を聞く限り、随分と面倒臭いらしいじゃないか。美人とやらはな。いや、女っていう生き物がかな? 私は女という生き物の享楽を貪るつもりが、欠片程も無い。でも、女の邪悪さは好きだ。情念、情欲。彼女達の醜さが好きだ。それこそ、コレクションにしたいんだよ」

 流れるような言葉の数々。

 テレサは黙らされる。

 構わず、水月は喋り続ける。

「絶世の美女、美男ってのは捏造だ。人間の認識、頭の中のな。虚構物。問題は、人間は美しい異性を求めたがる。認識したがる。皮膚一枚めくれば、筋組織が露呈するのにな。それはどういう事なのだろうか。私は考えるわけだ。なあ、どういう事なんだろうな?」

 水月の思考は、テレサにはまるで理解が出来ない。

 それでも、彼女の言葉は。聞き入ってしまう、何かがあった。

「人間の精神の暗黒。私が何よりも愛して止まないもの」

 水月の両眼は怖い。

 まるで、テレサの心の内部の内部に、踏み込んでくるかのような。



「処で、テレサ。聞いてくれるか。私はどうも、不死の化け物らしい」

 テレサは面食らう。

 彼女の言っている言葉が、よく分からなかったからだ。

 水月は。今日はかなり厚着をしていた。

 全身を隠すマントを羽織っている。

 スタイルがいいと言ったのが、とても気に障ったらしい。

 彼女の思考はまるで理解が出来ない。

「私の眼からしてみると、どいつもこいつもストリッパーに見える」

 と、分けの分からない毒を吐いた。

 テレサには分からない。

 彼女の女性性の否定が。

「私は観る側でいたい。つまり、鑑賞者でいたいという事だな。観られる側でいたくない。従って、芸術なども行わない。私は愛でるだけだ」

 少しずつ、少しずつ、何だか。蝕まれていきそうな感覚。

 テレサには分からなかった。彼女の事が何もかも。

「女ってのはあれだ。化粧で着飾る。ファッションで着飾る。肉体美で男性を誘惑し、同性をも扇情する。私はそんな生き物の仲間である事を止めたかった。別に君が理解する必要なんて無い」

 何かに対して、彼女は恨みを抱いているかのようだった。

 きっと、それはテレサが理解出来ない領域のものを、彼女が認識しているからなのだろう。彼女の価値観、抱えている視野を理解する事は叶わないかもしれない。

 それでも、テレサは彼女に酷く惹かれている。

「それにしてもだ」

 水月は微笑する。

「今日は空が美しいな。天体が輝いている。大宇宙の運河は素晴らしいものだな」

 テレサは彼女を奇妙に思う。

 女性らしい、繊細な感性も有していると思う。



「んーん。処で、君は私に付いてくるのか?」

 テレサは困ったような顔をする。

 水月も、困ったような顔になる。

「えと、……旅をしているんですよね?」

「まあ。そうだが」

「お仕事を長期的にお休みして。付いて行こうかなあって」

「何故だ?」

 彼女は本当に分からないといったような顔をする。

「え、えと。私、街の外ってどうなっているか見たくって。資金を貯め続けていたんですけど。踏ん切りが付かなくて。水月さんとなら、いいかなって思って」

 水月は少し、首を傾げる。

「何で、私なんだ?」

「え、ええ?」

 テレサは困った表情。

 水月はまじまじと、テレサを眺める。

 何だか、少し。悪辣さを含んだ表情になる。

 そして、言った。

「いいよ。着いてくるんだろう。じゃあ、二日後の朝。街を出る。準備を整えておいて欲しい」

 水月の声音は、とても優しそうだった。話していると、何だか落ち着く。

 テレサは喜ぶ。

 そして、家に帰った。

 自分の部屋の中。

 何を持っていこうか。二日後までには準備しなければならない。

 何だか、ピクニック気分になっている。

 しかし、街の外。新聞やテレビなどで、見聞きした情報しか知らない。

 化粧品。櫛。ドライヤー。それから着替え。下着。ああ、お気に入りのブローチも持っていこう。花柄のヘアピンも。



「しかし、どうなのかなあ?」

 くっくっ、と。くすんだ長い髪の女は、目の前の男に対して楽しそうに言う。

「そう。お前はこう言いたいのか。女は男の所有物であり、男としての所有の為に。化粧と衣服を纏わなければならないと。あまつさえ、仕草。振る舞いが。男の欲望機械でなければならない、と。つまり、女というものを物質化しているわけだ。凄いな? 私に、官能的であれ、艶かしくあれ、と進言するのはいいだろう。しかし、お前の中にある無意識下の欲望は何なんだろうなあ? 露出度の高い服、見られる主体としての仕草。お前は欲望するわけだ。くっくっ」

 街中だ。

 水月が、一人の男に絡まれているみたいだった。

 テレサはそんな水月を遠目で見て、完全に呆れていた。

 おそらく、歩いていたら。何気なく声を掛けられ、思わず男は彼女を“ナンパ”しようとしてしまったのだろう。

 男は、本当に困った顔をしていた。

 水月の言葉責めを徹底的に受けている。

 嫌な女に捕まったものだなあ、とテレサは思った。

「お、俺は、ただもっと綺麗な服、着ればいいんじゃないかって」

 ぼそぼそと男は喋る。

「ほう? 他には?」

「え、えと。……これから、お茶しませんかって」

 ぼそぼそっと、聞こえないくらいに喋る。

「ほう? お茶の後、何を目論んでいたのかな? 興味があるな」

 テレサは見かねて、彼女に駆け寄った。

「水月さーんっ!」

 テレサは叫んだ。

 水月は彼女を見て、ううん、と唸った。

「ああ、なんだ。えと、お前の方はなんだったかな?」

 ……忘れてやがる。

 テレサは愕然とした。

「冗談だよ、テレサ。準備は整えたのかい?」

 そう言って。彼女は飄々とした態度になる。

 しかし。その後、ふと思い付いたように。

「ああ、そうだ。お前、女を紹介してやる」

 彼女は逃げていこうとする男に話を振った。

「彼女はテレサと言う。お前が望むならば、何でもしてくれるだろう。お前は汝が欲すべき物を、欲せよ、をこの女に対して行える権利があるのだ。良かったな?」

 男はテレサの顔を、まじまじと見る。

「……えっ、えっ」

「紹介してるんだ。私は駄目だが。彼女は君に一目惚れしたそうだ。良かったな? 何でもしてくれるそうだぞ? そう、何でもだ。一目見て分かった、お前は異性に対して、何処までもエゲツなくなれる。抑圧しているだけに過ぎない。彼女ならば叶えてくれるだろう。どうだろう、彼女に着せたい衣装ならば、幾らでも私が手配するが。それから、彼女にして欲しい事の助言、彼女にしたい事の助言。何でも相談に乗ろう」

 男の眼は、テレサに釘付けになる。

「えっ、えっ。み、水月さん……」

 テレサは、勢いよく彼女の手を掴むと、男の下から急いで去っていく。

 水月は仕方無さそうに男の下から駆け足で、離れる。

 路地裏。

 テレサは息を切らしていた。

「はあっ。はあっ。……み、水月さん……。な、何を考えているんですかっ?」

「出発はやはり明日だ。今夜のバザールで。年代物のフランス人形が売られる。刺し殺された妊婦のドレスもだ。それから、ホルマリン漬けの人体。胡散臭い魔道書もだ。欲しくなった。買ってから出発する」

 水月は。

 テレサの事など、殆ど気にしていない。

「将来、ああいう品々を売る為の店を開店するのが私の夢だ。まあ、ぼんやりとした構想しか持っていないけれどもね。買ってしばらく、愛でた後。売り捌く。ああ、勿論、売りたくないものも出てくるだろうな、本当に気に入ったものは。それはそれで、ずっと保管するさ。今はとにかく、集めたい。そういった、品物をね」

 水月はふふっ、と。一人、空笑いを浮かべていた。

 テレサは顔が引き攣っていた。

 本当に、彼女に着いて行っていいのだろうか、と。

 彼女は、やっぱり異質だ。

 ひょっとして、これ以上、深入りしていいのかどうか分からない。

 ひょっとして、信用出来ない人間なのかもしれない。しかし。

 それでも、彼女には何かしらの魅力を感じた。

 これまで、出会った事がない理解不能な人物だが。

 けれども、彼女に付いていけば。色々な世界を見られるのだろうと。



 バザール。

 来るのは二度目だ。

 二日前にも来た。

 何だか乖離感を伴う感覚だった。

 非日常の中に、また紛れ込んでしまったような。

 此処にいる人々は、何処か異界の住民のようだった。まるで現実世界の中ではなくて、冥界の淵を彷徨っているかのような。

 彼女は。巨大な二つの首を持つ、蛇の剥製を買っていた。

 テレサは段々、彼女の趣味を理解してきた。

 言うならば。

 黒いモノ。

 それに対して、異常なまでに執心している。

 おそらく、この街を訪れたのは、このバザールの噂を聞いてからだろう。

 何だか。彼女と一緒にいると、テレサも背徳的な気分になってくる。

「良い物をお探しかな?」

 ふと。

 そこには、背の低い老婆が立っていた。

「……良い物?」

 水月は訊ねる。

「良い物。欲しいんじゃろう?」

「何かによるな」

「あたしの名はヌーナ。欲しいんじゃろう? 人間の悪意を凝縮させたようなものが」

「……ふふっ? 欲しいぞ。でも、何をくれるのかな? 幾らで?」

 そう言って。

 老婆ヌーナは、水月の目の前にあるものを掲げる。

 それは、短剣だった。

 テレサはこの老婆に怯えていた。

 影が無い。

 いや、それ処か。

 少し、この老婆から距離を離す。すると、何故か老婆の身長が少し高く見えた。更に距離を離す。更に、老婆の身長は高く見え。水月を追い越している。

 ……何なんだ? こいつは?

 テレサは両足が震えていた。

 ここ数日の間、まるで夢の中を、ふわふわと彷徨っているように思う。

 悪夢の中をだ。

「幾らで売る?」

 彼女は短剣を手にとって、訊ねる。

「お主が出せる。最小限」

「ふーむ、この硬貨一枚でいいのか?」

「おおっ、そうじゃ、そうじゃ」

 水月はこの辺りの硬貨を一枚、老婆の掌に置いた。

「この剣は。ヤバイな……持ち主の生命を奪う」

「そうよ、そうよ、わしは四十年、時間を奪われた。持ち主の生命力を吸い取る。もう少し言えば、所有者によって多少の変化はあるらしいのう」

 けっけっ、と老婆は笑う。

「ふーん、いい品物じゃないか。欲しいなあ、これ。でも、お前」

 水月は意地悪そうに笑った、

「手放したいんだな?」

「そうよ。残り短い人生、楽しみたい」

「ふうーん。この短剣は何て名前だ?」

「『アンサラー』という。大事に取っておいてくれないか?」

「分かった、買った」

 そう言って、彼女は硬貨を老婆に渡した。

 水月はクスクスと嬉しそうな笑みを浮かべる。

 そして、テレサに向き直る。

「ああ、いい買い物したよ」

 彼女はその短剣を腰の袋に仕舞う。そして、とても満足そうな顔をした。



 水月とテレサの二人は馬車に乗る。

 御者の男は、二人に礼をする。

 馬車の中は、水月の荷物でいっぱいだった。

 彼女はうきうきと、それらを撫でている。待ちきれなくなったのか。包みを開いて、仲のものを確かめていく。テレサは少し引いていた。

 大きな棺桶に入った、グロテスクな死体。

 テレサはずっと、窓の辺りを眺め続けてやり過ごす。

「まずは、これらの荷物を。宅配便で私の自宅に送り届けられる街まで行く」

 彼女はそう言った。

 此処から、数十キロ先に進むと、デュラスという女君主の領地に着くらしい。

 そこでは、郵便所があるとの事だった。

 水月は御者にそこに行くように言った。

 荷物は馬車の御者に頼んで。郵便物として送って貰う事になった。

 水月は送り先の住所を紙に書きとめて、渡す。

 そういえば、彼女の家は何処にあるのだろう。



 自分の肉体は体細胞の集積体でしかなく。それらを構成しているのは、分子と分子の結合でしかないのだろう。自らの肉体に神秘性など、何も無いのだ。

 自然でさえも、自らを救済しないのだと思わなくてはならない。

 食べる事、眠る事。空の青さ、花の香り。木々の景色。太陽の紅さ。それらも黒い闇を感じるのだと。

 ぼんやりと、人間である事を止めたいなあとばかり思っていた。

 日々、怠惰で倦怠な生活ばかりが続いていく。

 何となく、老いに対する下らなさも感じていた。

 人間は変わっていく。肉体の変化と共に。環境の変化と共に。

 しかしだ、私は変わるつもりはない。それだけは私の唯一の信念なのかもしれないな。

 どうしようもないくらいに、私は私自身の変化を拒んだ。

 たとえばそれは、衣服。たとえば、それは老い。

 自分自身の意思は他人の従属物でしかなく。

 自分自身の意思は、他人によって変えさせられる。冗談ではなかった。

 たとえば、性。

 たとえば、性の役割。

 女である、という事。

 男である、という事。

 エロス。

 人間の、ありのままの生。人間が周囲によってあてがわれる生。

 その渦の中から、抜け出したい。どうにも居心地が悪いからだ。

 女の性。

 見られる客体としての肉体。

 あらゆる男に媚びる衣装。

 女は性としての商品なのだと思う。そして。

 女は男に商品にされた後、子供を孕み。男の補完物として生きていく。そんな風に見えてしまって。女の側もそれを喜んでいて。男に所有されたいという意思を持ち。

 水月は肉体を捨てたいと願った。

 この肉体に意味を与えたくない、と。

 世界のルールの一切を根絶したいのだと。

 自らを世界のルールの価値に閉ざしたくない。

 水月は。そんな事ばかり考えて、日々、生きていた。



 夢の中で目覚める。

 そいつは、そこに立っていた。

 茶色に何処か薄っすらと、深緑が混ざるドレスを身に纏っている。

 髪は両サイドを縛っている。美貌だ。

 周りは、灰色の大地だ。岩山の中にいる。

「おや。こんにちは」

 そいつは笑顔で会釈した。

「お前は、何だ?」

「私は貴方が買った、短剣です」

「アンサラーという名前だったかな?」

「そう、でも。私の名前は『他人の死』と呼んで下さい」

 そいつは、再び。会釈した。

 ドレス姿の美貌。曲線的な肉体をしているが。

「お前、男だろう?」

 彼女は断言した。

「ええ。そうです」

 他人の死は頷く。

「ふむ、私と同じ匂いがするな。性別を超えたいのか?」

「というよりも。人間を止めた向こう側には、性の否定があるのかもしれません」

 他人の死と言ったか。

 意味深な名前だった。

 どういう事なのだろうか。他人の死。不可解な名前だ。

「あれは、あの人は。何ですか?」

 隣で、一人の女が目を覚ました。

 彼女も、この世界に来たのか。

 そいつは、クスリと笑う。

「私は悪魔。君達で言う処のそれかもしれないね」

 風で、両サイドの髪が揺れる。

 テレサは辺りを見渡す。

 枯れた木々。枯渇した湖。太陽の無い、灰色の空。

「此処はどこなんですか?」

「夢の世界だろうな。何で、お前と私は意識を共有しているんだ?」

「えっ、えっ。そんな事、言われても……」

 水月は他人の死に向き直る。

「それで、お前は何の為に出てきたんだ?」

 とても、つまらなそうな顔。

 他人の死と名乗る者は。そんな彼女の表情を、意に介する事なく。自身の目的を言う。

「貴方の運命を見る為に」

「ふうん?」

「運命が欲しくありませんか?」

「いや、別に」

 水月は淡々と返した。

「そうですか。貴方はそうなんですね」

 そいつの周囲から。瘴気が満ち溢れていく。

「他の誰も。私を使いきれない。私は幸福と共に、彼らから寿命などを頂きます。まあ、等価交換みたいなもんですよ」

「ああ、そう。呪いの道具って奴か」

 水月ははあっと溜め息を吐いた。

「呪われるのは間に合っている。それで、話は終わりか?」

「……えっえと」

 テレサは思わず、噴き出した。

「何か、願いでも……」

「無い」

 水月は、きっぱりと言った。

「でも、その為に私を買ったのでしょう?」

「いや。何か、この手のものを集めるのが私の趣味なんだ。効用に興味は無い。願いなんて、もう自分で叶えられる。お前はちゃんとコレクションの一つをやっていればいいんだ」

 悪魔は無言になる。

 水月の方が、一枚上手だな。

 テレサはそう、苦笑した。

「とにかく。私は貴方の旅を見たい。私を色々な場所に連れていってください。私は旅する悪意なんだ。そっちの方は約束出来ませんか?」

[いいだろう]

 水月は笑った。

 鋭利な悪意。彼らから、そのようなものを感じた。



 馬車から降りて。道端を歩いていると、河が流れていた。美しい河だ。

 奇怪な顔の者が釣りをしていた。

 魚だ。

 大きな魚がヒレで釣竿を持って、釣り糸を河の中に垂らしている。

「何が釣れるんだ?」

 水月は魚に訊ねた。

 魚は此方を見る。横からはみ出た、巨大な黒い眼球。

「鳥と獣を釣っている」

 魚はそう言う。

「そうか。釣れたものはあるか?」

 魚はヒレを動かして、後ろにある樹木を差した。

 そこには。ぴちり、ぴちりと、陸の上に上がって跳ねている大きな虎の姿があった。

 テレサは水月の背後に隠れて、その様子を眺めていた。

 彼女は水月の袖を引っ張って、此処から離れるように示唆する。

 異空間だ。

 魚は、びちぃ、びちぃ、と背ビレを揺らし、エラを震わせている。

 隣には。大きなザリガニがいた。同じように、釣竿を垂らしている。

 水月は、テレサを眺めていた。

 そして、おもむろに呟く。

「気にするな。テレサ。ああいう異形は何もしてこない。只、いるだけだ。街中を歩いている群衆と同じだ」

 そう言いながら、水月は河沿いを歩いていった。

 デュラスの領地。あるいは中心地である『ヴァーゲン』に向かって。



 デュラスは経済を回している。

 彼女は言う。欺瞞無く言う。

 私は支配をしているわけじゃない。民に手を貸しているだけに過ぎない。民が望んでいるんだ。

 街中では、沢山の餓死者がいる。もっと、酷いのは餓死も出来ずに、中途半端に餓えて、過酷な労働環境の中に生きる人々だ。

 この国は自由主義なのだと言う。なので、国民の在り方は平等なのだと。

 実態は、資本家が自由に生きている。

 彼らは、労働者は悪だと言う。弱者は悪だと言って、罵る。生存競争を持ち出し、適者生存論を持ち出して。資本家は本を出す。上流階級から中流階級の暮らしをしている者達が、本を手に取り、資本家を賛辞する。

 そうやって、体制は維持されていく。

 まるで。一個の収容所のように見えた。

 みな、此処の国の体制を自由だと思っているのだろうか。

 間違いがないのは。

 デュラスを殺したとしても、なお。この国の経済状況は変わらないという事実。

 中流階層の暮らしをしている者達の一部で、下流層、最下流層を救済しようと。彼女の暗殺を目論んでいたが、悉く失敗に終わって、次々と投獄され、中心人物は死刑に処された。見せしめとして、彼らは公衆の面前で死体を晒され。新聞記事に顔写真を載せられた。

 そして。

 デュラスは、暗殺の件に関して。言った演説がこれだ。

 ……私を殺しても。この国の制度は何も変わらない。

 と。

 きっぱりと、彼女は述べた。

 実際、デュラス自身、別の支配者の跡継ぎを続けているだけだった。実際、彼女が死んでもなお。この国の制度は変わらないのだろう。そして、この制度は一定数、秩序を保ち続けている。

 デュラスは支配者としては、以前よりもマシな方だとも聞く。

 街のシステムの破壊を目論んでいるのは、いつだって中流階層ばかりだった。下流階層の者達は、自分達の人生を肯定している。宗教を作って肯定している。どれ程貧しくても、救済があるのだと信じている。下流層は更に、下の者達をも見下している。這い上がれるのだと信じて、自らの生き方に疑問を抱いている。

 この空は寒い。

 凍えるような空気だ。極寒の風が吹き荒れる。

 システム自体が動き続けている。

 民は、みな。システムの維持を願っている。

 そうする事によって、安心が得られるからだろう。

 弱者の側もまた。自らが奴隷である事を、享受し。宗教的なものに縋って、自らが奴隷である事に大いなる意味を見出している。神々の環の中で、与えられたものなのだと。死後の世界で救済が行われるのだと考えている。

 ……といったものが。この街の事前知識となる本を読んで分かった。

 どちらかというと、反体制側の人間が、中立的に書いた本だ。

 簡単に手に入るもので、水月は馬車の中で、その本を読んで。テレサにも渡した。

 テレサの住んでいる場所は、比較的経済が安定している場所だ。

 自殺者こそ多いが。『ヴァーゲン』の中央区程に、酷くはない。

 テレサは、自分が如何に。世間知らずなのかを思わされざるを得なかった。

 この世界にはどうしようもない程に、抗いがたいものがあるのだと。

「デュラスを殺しても。資本家達を殺しても、何も変わらないだろうな。システムには終わりが見えないのだからな。支配者が入れ替わるだけだろうな。人間ってのは凄いな? 自らが、支配される事さえ。望んでいるんだ。安心するのかな? どんなに苦痛に満ちた人生でも、慣れるんだろうなあ」

 テレサは、彼女のそんな言動に辟易する。

「私はこの街が好きだよ?」

 彼女は少し、楽しそう。

「水月さん。……」

 テレサは泣いていた。

「何で。この世界は、こんなに酷いんでしょうか……」

「さあね」

 そっけなく返されたが、水月は何か考え事をしているようだった。

「今夜泊まる宿を探そう。また夢の中で『他人の死』とやらに、邪魔されないといいんだけどな」

 彼女は宿を探していた。

 標識のように立っている、街の地図を眺めた。

「幽霊屋敷……?」

 彼女は好奇心に満ちた眼を浮かべている。



 そこは閑散とした場所だった。

 街の外れに建てられている。みなから、放置されているみたいだった。

 途中、街の雑貨屋に寄って、この屋敷の事を訊ねたのだが。ずっと、放置されていると言われた。

 特に、立ち入り禁止というわけでもないらしい。

「今晩は。此処に泊まろうか」

 彼女は楽しそうに笑った。

 テレサは困ったような顔になる。

「シャワーとか無いんじゃないかなって」

「私は何も気にならないけどな」

 屋敷に入って。不思議な光景が広がっていた。

 とても綺麗だ。誰かが住んでいるのだろうか。

 だからこそ。とても不可解だ。

 違和感というものは、とにかく。頭の中ですぐに理由を組み立てられなくても、確かに感じるものだ。

「水月さん、水道から。水、出ますよ」

 ばしゃばしゃ、とテレサは両手を洗う。

「バスルームに電気が点きます」

 テレサははしゃぐ。

「あっ。お湯も出ます」

 テレサは屈託なく、笑った。

 水月は警戒心を露にする。

 しかし。荷物を置くと。気にせずに寝台で眠る。フカフカの毛布だ。

 


 テレサは湯船に浸かる。外は寒い。癒される。

 ぽとり。

 音がした。

 ぽとり。音がする。何だろう。と彼女は思う。

 見ると。

 どろっと、赤黒く染まった液体が。蛇口から滴り落ちていく。

 血液。それも、何だか。腐臭さえ漂わせている。わさわさ、と。蛆虫の死体も混ざり合っている。どろり、と。内臓の一部、骨の一部のようなものも混ざっている。

 どろどろと、濡れたタイルの上を赤黒く染めていく。

 もぞもぞっ、と。蛇口の先から生き物が這い出してきた。それは。

 指だった。指が蛇口から咲き出そうとしている。

 気付けば。

 シャワー・ノズルの無数の孔から、黒い髪の毛が這いずり出している。

 ぷちゅり、ぷちゅり、と音が鳴り響く。

 ぱちぃ、ばちぃ、と電灯が明滅していく。

 テレサは震え出した。…………。

 水月に助けを呼ぼうとする。しかし、声が届かない。まるで、防音室のようだ。

 シャワー・ルームの中にある鏡。

 鏡には人影が映り始めていた。女の顔だ。

 顔がどろどろに溶解している。物の腐った臭いも漂ってきた。

 テレサは泣きそうになる。湯船から這い出す。

 そして、必死で。ズブ濡れのまま服を着ると。飛び出した。

 その間にも。

 髪の毛を、後ろから引っ張られる。そのせいで、ひっくり返りそうになった。

 水月は、家に郵便で届けずに置いておいた幾つかの品物に魅入っている。

 テレサが騒いで、面倒臭そうな顔をしていた。

「み、み、水月さんっ! お風呂の中っ!」

「ああ。私達に出ていって欲しいんじゃないのか? 招かれざる客なんだろうよ。まあ、人を殺すだけの力なんて彼らにはあるのかな?」

 と、彼女は眠りに付いた。

 …………しかし。

 気付けば。

 窓の隙間。台所の隙間から、沢山の白い腕が這い出してきた。

 床下からも。無数の白い髪の毛が這い上がってきた。

 大量の目玉が転がっていく。

「テレサ。毛布の中に入れ。私の隣に来い」

 水月は強く言う。

 死が、部屋中を這い回っていた。

 そして、二人は朝まで熟睡した。

 結局、何も起きなかった。

「何だったんですか? あれは」

「幽霊。残留思念というか。壊れた思念が集まってきたんだろうが。私達に危害を加える事は出来なかったらしいな」

 そう言って。二人は屋敷を後にする。

「そっか、みんな天国に行ければいいのだけど」

 テレサは怖い思いをしながらも。時間が経過して、少し安心すると。そんな事を口走った。

「テレサ。この世界には死後の世界なんて無い。冥界なんてものはな」

 水月は意味深な事を言う。

「幽霊ってのは、思念の残り香みたいなものだ。死後の世界があるわけじゃない」

 まるで、テレサの見たものなど、何も無かったんだと断言するように、彼女は告げる。

「『ヴァーゲン』の市場には良さそうなものが売っているらしいじゃないか。何でも香辛料がいいらしい。これから、買いに行こうと思うんだ」

「えっ。そうなんですか」



 市場内には、色々なものが並んでいる。

 …………。

 魚、羊肉、塩漬け、野菜。食糧だけではなく、薬や日用品なども売られている。

 テレサはそれらを眺めて、大きく息を吐いた。

 テレサの街では売られていないものばかり。目新しい。

「何か買って。料理しようか」

 水月がそう呟く。

「はいっ! 私もそんな事を考えていた処ですっ!」

 ふと。

 一人の男が近付いてきた。

 どうやら、市場の路地の奥から歩いてきたみたいだった。

 男はまるで、昔からの知己の仲のような物言いで言う。彼女の方は、この男を知らない。しかし、実際、彼の方は彼女の事をよく知っているのだろう。

「デュラスを暗殺しようと思うんだが」

 男はそう言った。

 彼は背中に布切れに包まれた何かを背負っている。

 それは何か分からないが。とても歪だ。

 彼は顔を布で隠していた。

 髪の毛は白髪交じりだった。若白髪だという。

「ふーん」

 水月は淡々と返す。

「また、何で?」

「民が苦しんでいるから。下層階級の者達が」

「そうなんだ」

 他人事だった。

 水月はふと、思った事を訊ねる。

「それより。紅珊瑚の砂を知らないか? 何人もの者達を死に至らしめた香辛料らしいのだが。此処で手に入ると思ってな」

「お前。……『デス・ウィング』だろう?」

 男は言った。

 水月は、少し眉を顰めた。

「んん。何の事かな?」

「お前の風貌を仲間が知っている。背徳者と呼ばれているらしい連中の一人だそうじゃないか。なあ、頼む。手を貸して欲しい」

「何で?」

「民が苦しんでいる。俺はエリートじゃない。俺は下層出身だ。エリートの奴らのように変な正義感に燃えて権力を壊したいわけじゃねぇんだ。残飯を食って生き延びた事だってある。なあ、協力してくれ。確かにデュラスを殺す事に意味は無いかもしれない。けれども、民は希望を取り戻す。現実が無力じゃないって事が分かると思うんだ」

「知らない。関係無いだろう?」

「お前なら、デュラスを殺せるだろ?」

「知らない。もう、用は無いよね?」

 男は、何だかやるせなさそうな顔になる。

「どうしても、動いてくれないのか?」

「何で。私が人助けを? それは私がすべき事じゃないじゃないか。苦しむ者はいるだろうな。何故、彼らを助けなければならない? また、新たに苦しむ者が変えられるだけなのに?」

 まるで、愚か者を見るかのように。彼女は言う。

 男はそれを聞いて、怒り出しそうになった。

「お前に分かるのか? 不平不満を言えば、ムチ打たれる人間の苦しみが。誰にも認められず、才気を潰されていって。可能性を潰されていく者達の苦しみが」

「分からないよ。分からないな、他人の痛みなんて。他人の痛みは所詮、他人の痛みだろう? それこそ、他人の死だってそうだ。何処まで行っても、死は分からないだろう? 死んでみなければ。だから、私は死が見たいんだ。死臭のするものが大好きなんだよ」

「お前はデュラスを殺せる力があるんだろう?」

「さあてね」

 水月は本当に、鬱陶しそうな顔をしていた。彼との会話に何の意味も感じていない。そういったような。

 男は今にも、彼女に掴み掛かりそうだった。

「そういえば。君の名は?」

 男は。はっ、とする。

「ああ……すまん。俺はジルズ。名乗り忘れた、すまない」

 水月は自分の話をする。

「紅珊瑚の砂は毒殺に使われていたものらしい。分量を少し間違えるだけで。濃度次第で人を死に至らしめる。最高の薬物だ。あの緋色がまた良いらしいんだ」

 男は面食らっていた。

 水月の反応に困っているのだろう。

「他人の傷を見る時。私は何処までも幸福を感じられる。人間の苦痛。それって、私がもっとも愛する者の一つ。何て素敵なんだろうって思うね」

 彼女は何処までも、他人の苦しみに無関心だ。

 冷たい、というよりも。そこには、押し潰してくるような悪意があった。

 まるで。周囲の人間、みなの心を蝕んでくるような闇のごとき言葉。

「やっぱり、この街で手に入るものは良いものが揃っていそうだな」

 紅珊瑚の瓶詰めを手に入れて。水月はとても喜んでいた。

 この色彩に魅入られた、沢山の者達が死んだのだという。

 市場を出ると。ジルズとその仲間達がいた。

「なあ。良い場所に連れて行ってやろうか?」

 ジルズは、場所の概要を説明する。

 すると、水月は喜ばしそうに頷いた。



 沢山の絞首刑に処された者達が吊るされている。

 それは野ざらしにされて、鴉が腐肉に集っていた。

 所々から、白骨が露出して、乾いた粘液が滴り落ちている。

 ぽとり、ぽとり、と。

 彼らの肉体から地面に、滴り落ちた液体は。

 あらゆる、呪詛を吸っているかのようだった。

「俺達の仲間だ」

 ジルズは、言う。

 テレサは思わず、顔を覆っていた。

 木の陰に向かって、蹲っている。

「悔しいんだ。デュラスの奴……。俺の兄貴分も混ざっている。見せしめなんだよ。敢えて降ろさない事にした。眼を背けたくないから」

「なあ。ジルズ」

 水月は笑顔で言う。

「どうかな? 彼らの身体から。部品を頂戴出来ないかな? そしたら、少しは協力してやってもいいけど?」

 本気の眼だ。

 ジルズは感情が洪水のように迸る。一体、それがどのような感情を喚起させたものだったのか分からない。

 ただ、震えていた。全身が小刻みに。

「死体は全部で十一人か。そうだ、左から二番目の奴の頭蓋骨。その右隣の奴の腐った小腸と大腸。右から三人目の奴の右手。右から五人目の奴の胸骨が欲しいかな。どうかな? それで、少しは手伝ってあげるよ?」

「デュラスを殺して欲しい……」

 男は呻くように言った。

「分かった」

 彼女はとても、嬉しそうだった。

 そして。ふと、思い付いて言った。

「なあ、ジルズ」

 彼女は屈託の無い笑みを浮かべて言う。

「そうだ。絞首刑にしているロープ。彼らを吊っている紐、それも全部、私にくれないかな? 腐敗した肉の汁が染み付いたロープ。欲しいんだよ。本当に」

 若白髪の男は。……悪魔と取引しているのだと実感した。



 いつだって。死は他人の死でしかない。自分の死は何処までも分からない。

 他人によって、語られる死。自らが他人の死を参照し、考える死。

 いつだって、死は他人の死でしかない。

 アンサラーと呼ばれる刀剣を見つめながら、他人の死という名前に付いて、色々と想像を巡らせていた。

 水月は。

 テレサを連れて、今日の宿泊先へと向かっていた。

 宿と大衆浴場が一緒になっている場所だ。

「水月さぁーんっ!」

 テレサは叫ぶ。

「凄い。宿の中もあったかい」

「……。全部、底辺労働者から搾り取って作り上げた場所だけどな」

 水月はそっけなく言う。

 テレサは引き攣る。

「一応、言っておくけど。私は風呂は嫌いだからな」

「そんな。綺麗にしておかないと駄目ですよ」

「充分綺麗なんだよ。別に私は臭わないだろう?」

 所謂、大衆浴場と言う奴だ。

 バスローブを借りる。タオルケットも。

「あのなあ。テレサ」

 何処か世間知らずというべきか、どうでもいい事で気分が高揚するというべきか。

「一応、言っておくけど。私は風呂に入れない身体だぞ。……って、聞いていないか」

 テレサはいつになく、はしゃいでいた。



 水月は袖をまくる。

 そこから、得体の知れないものが広がっていく。

 彼女は崩壊する。

 肉体を構成しているもの、それは人とは違うのだ。

 確かに。服くらいは洗濯した方がいいかもしれない。

 自分の服の臭いを嗅ぐ、特に異臭はしない。だが、少しだけ自分自身が不気味に感じた。

 ……服さえも、自分の肉体の一部と化していっている。

 水月は心の中で自嘲する。自分は化け物だな、と。

 しかしまあ、旅の相方の要望に付き合う事にした。

 湯船の中に浸かる。

 まるで、霧の中を進んでいるよう。

 そして、熱が全身の一粒、一粒に駆け巡る。

 水と混合していく肉体。まるで、自然の只中を幻視する。

「水月さん? 水月さぁーん」

 テレサは彼女に呼び掛けていた。

 しかし。彼女はすぐ、傍にいた。

 どうしたのだろうか。あのくすんだ長髪の女性の姿が見えない。



 水月は風呂から上がった。

 脱ぎ捨てた服。その中に、白い靄のようなものが現れて、徐々に立体感を与えていく。

「捨てたものじゃないな。風呂というものも」

 彼女は何の体温の変化もないまま。風呂から上がった。

 それにしても。

 テレサは、何処か空回りしていると思う。まあ、別にどうだっていいのだが。



 ジルズは組織が必要だと考えている。

 君主であるデュラスを倒す為の組織が。

 しかし、彼女を殺す事だけが変革の勝利じゃない。

 他の政府高官、資本家。そいつら全てを暗殺しなければならない。

 何もかもを破壊して、殺戮していけば、未来が見えてくるのだろうと。

 確かな意思はある。出来ると思っているし、可能だと信じられる。

 ジルズが宗教を信じなくなったのは。彼の友達が、中流階級の人間で。小さな商売をしていた事だ。小企業だったと言ってもいい。二十歳くらい離れた友人だった。

 飲み屋で、荒んだ彼に酒を奢ってくれた。いつもだ。

 世話になっていた。

 彼の立ち上げた企業が潰されて、彼は一気に。転落していった。

 そして、そのまま。彼の生活は荒んでいった。

 それを知って。

 ジルズは、デュラスを殺す事に決めた。

 友人を豹変させた奴。

 正義感の為なのだろうか。分からない。

 ジルズは此れまでの生活を、耐え忍んで生きようとしていた。しかし。

 転機のようなものがあった、それは彼にとって生きている道標を大きく変えたものだった。

 何故だろう。複雑な感情。

 彼にとって、生活苦は困難なものではなかった。周りの者達も、当たり前の人生を送っていたから。



 デュラスは会議室に赴く。

 彼女は羽飾りを全身に纏う。富の象徴。

 彼女は言う。

「国を一定数、維持しなければならない」

 机を叩いた。自分の信念を頑なに持たなければならない。決して折れないように。そうする事によって大きなものもまた、支える事が出来るのだから。

 彼女は流血、惨劇の数をコントロールしたいと考えていた。

 それこそが。犠牲者、弱者、苦しむ者達を最小限に抑えられる方法なのだと。

 法を整備しなければ、犯罪が多発して、今以上の暴力が巻き起こる。

 意図的に、階級のようなものが国民の中にあるのは必然だと思っている。そうしなければ、社会の蓋が外れてしまうから。

 デュラスが何よりも警戒しているのは。

 ヒースという女君主だ。

 彼女は危険だ。危険過ぎる。生命原理、欲望に基づいて行動しているのだと聞く。

 兵器開発。

 それから。『背徳者』としての、“能力”。

 それが、もっとも危険なものなのだ。

 ヒースは、人間を化け物にしたがっている。それこそが至上の喜びなのだと。それは、デュラスにとってはまるで理解の出来ない事だ。正直、怖気しか湧き上がってこない。

 国民を守らなければならない。

 デュラスには愛国心がある。国家の維持の為には、沢山の犠牲者は付き物なのだろう。

 いつか、自分もまた。暗殺者によって討伐されたり、身内に毒を盛られて殺されるかもしれない。それは覚悟しなければならない。

 多くの者達を救う為に。一部の者達には苦痛を与えなければならない。それはもうどうしようもない程の、自然の摂理なのだと考えている。あるいは、現状の人間の限界なのかもしれない。

 政府高官の代表であり、軍人でもあるムシュフシュ。

 参謀を務めているワーロック。

 彼らはデュラスによくしてくれる。

 この国は、デュラスだけのものではない。この地位は、自分の力だけで獲得し続けているものではない。

 しかし。

 暗殺者を討伐する為。それから、ヒースとの戦いの為の戦力が不足している。

 武装訓練を行っている親衛隊員、騎兵団は存在する。しかし、そんなもの、『背徳者』の前では、紙屑同然なのだ。

 政府高官、親衛隊長、政治家達が悉く、殺されてもなお。国家を維持しなければならない。

 デュラスは国民を愛している。愛しているが故に、独裁者を務めなければならない。

 一党独裁。特務警察を用いてでも、謀反人達は処刑しなければならない。

 この国家の基盤こそが、信じるに値するものだった。

 それが、彼女の根底を支えている、揺るがないものだ。

 下層労働者達には、まず農業や工場労働を営んで貰う必要がある。

 彼らの苦痛、不満は。宗教における思想によって満たさなければならない。

 これは、神々の与えた試練なのだと。デュラスは下層労働者に訴えるのだった。

 迷いは無い。みな、なすべき事をなすべきなのだと彼女は考えている。


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