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ぼくは太陽がこわい

作者: やしろ

長いです。すみません。

 その昔、神様が「人間というのは本当にどうしようもないやつらだ」と見限ってしまったことがあったらしい。

 神様は1隻の船を造って、許せると思った生き物だけをそこに乗せ、あとはすべて水に流した。言葉のあやとかじゃなく、本当に水に流して捨てたというのだから驚いてしまう。

 嘘かホントか知らないけど、ぼくたちが生きているこの現代も、このままいくとまた神様に見捨てられ、水洗トイレのバーをひねるような気軽さで水に流されてしまうんだとか。完全に汚物扱いじゃないか。おそろしい話だ。

 でも、ぼくはその話は違うんじゃないかと思ってる。

 神様は、次この世界を見離すとき、水の下に沈めたりはしない。

 すべてを埋めても余りあるほどの雪を降らせて、それはそれはきれいな、白いだけの世界を創るだろう。

 まるで誤字を修正液で塗りつぶすみたいに、最初から何もなかったことにしてしまうだろう、って。



 幼馴染を引っぱたいた音は、やけにクリアに教室に響いた。

 その音が銃声で、みんなそれに打ち抜かれてしまったかのように、生きた音がなくなった。

 まだたくさん残っていたクラスメイトの誰もが会話を忘れ、動くことを忘れ、ただぼくを見ていた。

 ぼくはといえば、瞬きを忘れてしまったようで、閉じることも逸らすことも出来ずに、ただ綾子だけを見ていた。

 教室の蛍光灯を受けて星のような光を浮かべた綾子の目は、涙でその光を滲ませていて、澄んだ泉に映った星空を思わせて、とてもきれいだった。

 ぞっとした。

 「翔君、そりゃあかん」

 その場にいた誰もが音を失くしたそのなかで、一人だけ防弾チョッキを着て元気に生き残っていたやつがいた。健太だ。

 「綾子、しっかりしいや。おまえ、足すべらせて誕生日ケーキに顔面突っこんでも平気だったやないか。たかがビンタ一発や、今笑っとかんでどないすんや」

 固まったように動けないでいる綾子の頬をぺちぺちと叩きながら呼びかける健太の声が、ひどく場違いに響く。

 右手が痛い。たった今、綾子を平手打ちにした手だ。

 やすりでこすったように熱を持って、ずきずきと触れる空気を拒絶している。

 痛い。

 「翔君!どこ行くんや!」

 健太の素っ頓狂な声を無視し、ぼくは自分のランドセルを掴むと教室から駆け出した。

 廊下は帰り支度をする他のクラスの声で賑やかだ。

 外は雪をちらつかせて寒い。

 なのに、ぼくのなかに音はなかなか帰って来なかった。

 まるでさっきの音が本当に銃声で、空いた風穴から何もかも出て行ってしまったみたいだ。

 たった一つ残ったものが手の平に居座り続ける痛みで、ぼくはそれから逃げるために走り続けた。



 「着いてくるなよ」

 ぼくは何度目になるかわからない言葉を、また後ろに向かって投げた。

 イライラを塗りたくったというのに、返ってきた言葉は憎たらしいほどいつもどおり、弾んでいた。

 「そんな冷たいこと言わんでぇな。おれと翔君の仲やないの」

 「どんな仲だってんだよ」

 「いややわぁ、翔君、そんなこと言わせんでぇな」

 くねくねと体を揺らす健太に、思わず舌打ちが出た。

 「ただの腐れ縁だろ」

 「そんな味気ないもんちゃうわ。ビシッと親友だ、くらい言うてや」

 「おまえと親友になった覚えはない」

 「おれはあるで。身に覚えありまくりや。責任取ってくれ言われたらおれ、もう言い逃れ出来ないくらい、身に覚えあるで」

 どこでそんな妊娠ネタを覚えてきたんだ。

 おれは大きくため息をついた。吐く息はいちいち白く変わる。

 冬は日が落ちるのが早い。ここも通学路の一部だというのに、もう小学生はぼくと健太くらいのものだ。おまけに、降る雪もだんだん大きなサイズになってきている。積るパターンだ。

 こいつ、いつまで着いてくるんだろう。

 ぼくが家に帰るのを見届けるつもりなら、こいつはいつまで経っても家に帰れなくなってしまう。

 ぼくは今日、家に帰るつもりなどないのだから。

 「着いてくるな。もうこれ以上言わせるなよ」

 それだけ言ったのに、結局後ろを着いてくる足音はそのままだ。

 「なぁ、翔君」

 無視。

 「おれ、翔君の親友やけど、あいつも大事なんや」

 無視。

 「あ、あいつって、綾子のことな」

 無視。

 「ほいでな、おれ思うんやけど、翔君がおれの親友っちゅうことは、や。翔君にとっても綾子は大事なやつってことになるやんか。ちゅうか、事実、翔君、綾子のこと嫌いやないやろ」

 「嫌いじゃないってことと大事ってことは違うだろ。そもそも、なんでいちいちおまえが間に挟まってくるんだよ」

 しまった。つい口を挟んでしまった。

 取りつく島を見つけたとばかりに健太が間合いを詰めてくることをとっさに身構えたけど、健太の声は今までと少し違っていた。

 「なぁ、翔君。なんでそんなにおれらを信用せぇへんのや」

 心臓を掴まれたような衝撃に、肩が跳ねた。

 間合いを詰めるどころじゃない。

 健太は、いきなり懐をぶすりと突き刺すような居合でぼくを打ちのめした。

 「綾子は翔君が好きや。おれかてそうや。おれたち二人共、翔君が大事や。なのに、なんで一番肝心なところで突き放すんや」

 健太の黒目がちな目は、日の光を失いつつある今の風景を反映して、まるで夜の海みたいにぼくを吸い込もうとしていた。表面に浮かびあがらない大きくて獰猛な潮のうねりが、そこに息づいている。

 「翔君、こわいんと違う?」

 「・・・何が、だよ」

 「そう、それがわからんのや」

 算数のテストで20点を取ろうと、授業参観に親の目の前で答えを間違えようと、へらへらしたスタンスを崩すことのなかった健太が、途方に暮れたように息をついた。

 「オバケがこわい言う子どもがそうや。電気の点いてない部屋を指さして、こわいこわい泣くんや。そのオバケはどんだけこわいんか聞いたら、見たことはない、でもこわい言うてまた泣きよる。綾子もそうやった」

 「何が言いたいんだよ」

 怖い、というのはもっとたしかな迫力があるのだと思っていた。

 ホラー映画を見て背筋が冷たくなったり、高いビルから地上を見下ろして引っ張られるような錯覚をしたり、感覚にダイレクトに訴える迫力があるのだと。

 でも、健太の言葉は違った。

 内側からひたひたと溜まり、溢れつつある何かがあることはわかっているのに、その正体がわからない。

 ぼくはその感覚を、目の前の健太の静かな言葉を、こわいと思った。

 「なぁ、翔君。何をそんなにこわがっとるんや」



 ぼくと健太と綾子は、物心ついたときから一緒に過ごしてきた。幼馴染というやつだ。

 「翔ちゃん、健太がまた木から落ちてケガしたんだよ」

 心配性のくせに、告げ口するような言い方しか出来ない不器用な綾子。

 「綾子があの枝に咲いた花がほしい言うから」

 底抜けなお人好しなのに、間が抜けているせいでピエロにしかなれない健太。

 「あのなぁ。綾子も健太も、そういうときは大人に言えよ」

 2人の保護者役で、それがまんざらでもなかった、ぼく。

 小学校に上がる前からぼくたちはいつも一緒で、ランドセルを背負うようになってからも一緒で、クラスメイトの男女の間に微妙に距離が出来始める年齢になった今までだって一緒だった。

 健太がドジを踏んで、綾子がそれをハラハラしながら見守り、そんな2人をやれやれとぼくがフォローする。

 ジグソーパズルがぱちんとはまるように、ぼくたちはお互いがお互いを受け入れ、必要とする形を持っていた。それを疑ったことはない。



 「小学生って、子ども料金やったっけ」

 マジックテープ式の財布をばりっと開けてから、健太は自信なさそうに首をかしげる。

 駅に着いたぼくと、金魚のフンのごとくくっついてきた健太は、電車に乗るために切符売り場に来ていた。

 「良い子割引とかあらへん?」

 「何だそれ」

 「良い子は7割引きで乗せてくれる制度」

 「今考えただろ」

 「へへ、ばれてん?」

 「足りないなら、それでいいだろ。いい加減おまえは家に帰れ。そろそろおばさん、心配してるだろうし」

 非常事態用に取っておいた千円札を入れ、目的地までの料金ボタンを押す。ピンと凛々しい切符と一緒に、じゃらじゃらと小銭も出てくる。帰りの分には、ちょっと足りない。

 「翔君のおばさんも心配してると思うで」

 ぼくが答えずに時刻表を確認しているのを見て諦めたのか、健太も同じ行き先の切符を買った。おつりは出てこなかった。

 自動改札を抜け、ホームへと降りる。

 健太はまったく乗り慣れていないようで、電光掲示板をしげしげと眺めてはいつの間にかぼくと距離が空き、走って追いつこうとして何度か転びそうになったり、反対方向に向かう人の群れにぶつかりそうになっていた。

 ぼくは少しだけ歩調を緩め、健太が追いつくのをそれとなく待った。こんなところで置き去りにするのは、さすがに後ろめたい。

 乗りこんだ電車は帰宅ラッシュにかぶっていたのか、思いのほか混んでいた。

 ランドセルを背負ったぼくらは完全に邪魔もの扱いで、電車が止まったり、また動き出したりするたびに誰かがぶつかってきて、そのたびによろめいた。

 でも、それも街中を走っている間だけの話で、トンネルが増えてきたなぁと思う頃には、寝転んで過ごせるほど広々したスペースが空くようになっていた。電車がだんだん山に入ってきたのだ。

 「なんか遠足みたいやな」

 健太は降ろしたランドセルを膝の上に置いて、車内しか映っていない暗い窓を見ながら言った。

 よく見ると雪が横殴りに吹きつけている。山に入るほど、自然現象というのは人間に容赦なくなってくる。

 降りた駅では止んでくれていればいいと思っていたけど、我ながら甘いというほかない。

 「これでお弁当があれば完璧なんやけど」

 「おまえなぁ・・・この状況、わかってんの?」

 足をぶらぶらさせている健太の様子は無邪気というよりは能天気の方がしっくりくる。

 「親友と遠出するんや。立派な遠足やないか」

 「ぼくはおまえの親友じゃない。帰りの電車賃がないから帰ることは出来ない。だから遠足じゃない。ないないだらけなんだよ。わかるか」

 健太は窓から目を離さなかった。

 もう外は真っ暗だから、窓に映った車内くらいしか見えないだろうに、それでもぼくを見ることはなかった。

 正面を見ていると、誰も座っていない向かい座席から窓が見えて、鏡のように映った自分の情けない顔が嫌でも目に入る。だからちょっと目線を上げて、吊り下げられた広告を眺めてすごした。

 ビールの宣伝紙には口の端に泡をつけたまま「かーっ、もう一杯!」とでも叫んでいるような芸能人が映っていて、これを飲んだらこんな幸せそうな表情が誰にでも出来るのかな、なんてことを考えた。

 振り返りたくなるような思い出なんてなくて、行き先のわからない未来なんてない、ただこの瞬間だけを光り輝こうとする、この笑顔に。

 買えやしないことなんてわかっているのに。

 「卵焼きが食べたい」

 「はぁ?」

 健太の方に視線を下ろすと、ランドセルを枕に寝転んでいた。ぼくの座るすぐ隣にランドセルが置かれ、頭を乗せている健太と目が合う。行儀が悪いと叱られかねない恰好だけど、この車両に乗っているのはぼくらと眠りこんでいるサラリーマン一人だけだ。

 「いや、な。お弁当があれば完璧や言うたやん、おれ。そんでお弁当のことばっかり考えとったら、急に食べとうなってきたんや。卵焼き」

 「だからないって言ってるだろ」

 「翔君のお弁当、あのだしまき卵が食べたいねん」

 「なんでおまえんちのじゃないんだよ」

 「うちの母ちゃん、子どもは甘いの好きや決めつけて、やたら砂糖入れるねん。おれは渋いだしまき派言うとるんに、聞く耳持たん」

 「何が言いたいんだよ、おまえは」

 ぼくはまた自分がイライラしていくのがわかった。

 健太が何を言おうとしているか、ぼくには悲しいほどよくわかっていたから。

 「だから、あんな料理上手な母ちゃんのいる翔君が羨ま、うおっ」

 ぼくは健太の言葉をすべて聞かないうちに、枕になっていたランドセルを引っこ抜いた。警戒心ゼロの健太は、後頭部に叩き込まれた、いや、固い椅子に叩きこんだ衝撃に身をよじった。

 「ってぇ・・・」

 今、健太の視界にはたくさんの星が散っていることだろう。頭に受ける衝撃というのは、もろに目につながるから不思議だ。

 ようやく焦点が合ってきたのか、あお向けになった健太と見下ろすぼくの目が合った。

 「ごめん」

 消え入りそうな声で健太が言った。

 こいつに悪気がないことは知っている。健太はいつも他人のために一生懸命だ。

 今だって、健太なりにぼくを前向きにさせようとしたのだろう。「羨ましい」というのは、健太にとっての最上級の褒め言葉なのだ。

 ただ、傷薬と間違えて塩を塗ってしまうようなうかつさが危ういだけ。

 それを許せるのが大人だと思う。「その気持ちが嬉しいから」と、傷口の痛みを相手に悟られないように笑って見せるのが、人としての理想的な姿なんだろう。

 「べつにいいよ、謝んなくても」

 ぼくはなるべく感情を込めないように、ぶっきらぼうにそれだけ言って顔を逸らした。

 ぼくは子どもだ。

 それが、泣きたいくらいみじめだ。



 母さんは、ぼくが一番大事なものに「家族」を挙げると喜んだ。家族思いの優しい子に育てたかったからだ。

 父さんは、ぼくが「強くなりたい」と言うと喜んだ。芯の強い、男らしい息子に育てたかったからだ。

 一人っ子のぼくは、そんな両親の、期待というにはあまりにもささやかな希望を叶えることを自分に課して育った。

 今にして思えば、ぼくが綾子と健太の保護者のようなポジションに落ち着いたのは、その影響が強かったからなのだろう。

 人にはそれぞれの役割があるのだというのが、父さんと母さんの口癖だった。

 父さんは仕事でバリバリ働いて、母さんとぼくを養うこと。

 母さんはおいしい料理を作って、父さんとぼくを元気にしてくれること。

 ぼくはといえば、その頃はまだ自分の役割をちゃんと見つけていなかった。せいぜい勉強を抜かりなくやって、良い点数を取って2人を満足させることくらいにしか考えていなかった。

 生まれた頃からぼくを守ってきてくれた2人。

 怠ることなく役目を守ってきた2人。

 父さんも母さんも、とても真面目だったのだろう。

 いつの間にか、2人は役目を果たすことに一生懸命になりすぎるようになった。

 父さんは仕事漬けで、休みの日も会社に出かけ、帰って来るのはいつもぼくが寝付いたあとだった。朝起きると母さんが物言わぬ人形みたいにテーブルに座っているのを見ると、父さんまた会社に泊ったんだなと知る。

 母さんは、父さんが帰って来やしないことをわかっているはずなのに、いつも食べきれないほどの料理を作るようになった。残すと「おまえもお母さんを裏切るのか」と、その両目が訴えてきた。ぼくは残さずすべて食べ、夜中に眠れなくなって、吐いた。

 父さんが家に寄りつかなくなって、母さんが口の端でしか笑わなくなってようやく、ぼくは自分の生まれてきた役割に気付いた。

 「子はかすがい」と昔の人は言ったらしい。夫婦をつなぐのは子どもの仕事ということだ。ことわざに残るくらいだ。これは大昔から続く、世界のルールなんだ。

 ぼくは、2人をつなぎとめるために、生まれてきたんだ。

 そう知ってからのぼくは、週に1回しか登場しないヒーロー戦隊よりも甲斐甲斐しく行動した。

 父さんの携帯はいつかけても留守録にしかつながらなかったけど、毎回メッセージを吹き込んだ。

 「今度の体育で野球をすることになったんだ。キャッチボールを教えてよ」「作文でね、父さんのことを書くようにって宿題が出たんだ。ねぇ、父さんの仕事のこととか教えてよ」「今日ね、母さんと一緒にコロッケ作ったんだ。冷めないうちに早く帰って来てよ」

 一日に何度もかけたりもした。口実が尽きると、嘘も混ぜるようになった。それでも、父さんに早く帰って来てほしかった。家にそろってこそ、ぼくらは家族なのだから。

 父さんが家に戻ってくれば母さんは喜ぶのだと決めつけていたけど、事はそんなに簡単ではなく、顔を合わせた2人は言い争いばかりした。

 そのくせ、ぼくが間にいるときは無理に笑顔をつくっていた。漢字のプリントされたTシャツ着て「ニッポンダイスキデース」とはしゃぐアメリカ人くらい、その笑顔には「理解」の二文字が足りていなかった。

 ぼくは2人に笑ってもらいたいわけじゃない。

 一緒にいると幸せで、家族と過ごす時間が何よりくつろげると思ってほしいのだ。笑顔なんて、そのおまけでしかない。

 笑うことに神経すり減らして、その結果疲れていくのなら意味がない。

 それでも、自分の使命を悟ったぼくに後戻りなんて選択肢はなく、父さんと母さんがそうだったように、ぼくも自分の役割にのめり込むようになった。

 そうすることで、たくさんの矛盾から自分を守ろうとしているのだと気が付いたのは、つい最近の話。

 父さんと母さんが離婚を決めたときだ。



 終点の一つ前の駅で降りると、氷で出来たみたいに冷たくて澄みきった風にぶつかった。電車の中では緩めていたマフラーをきつく巻き直す。

 「ここってスキー場あるところと違う?」

 駅の名前を確認した健太は、きょろきょろとそれらしいものを探そうとしている。落ち着きのないやつだ。

 「そうだけど、スキーをしに来たわけじゃない」

 「わかっとるがな。翔君、雪遊び嫌いやもんな」

 ホームの階段をのぼり、改札へと向かう。

 端が黄ばんだポスターばかり貼られた、冴えない駅だ。降りたのもぼくら2人だけだった。

 もう少し先まで乗っていればスキー場のあるところまで行けるのだが、ぼくらが降りた駅はスキー場の地名が着いただけの駅で、レジャー施設の栄えた場所を取り巻くように存在する、さびれた町だ。少し離れた場所にあるスキー場だけがこの町の存在意義なのかもしれない。

 改札は、予想通り、駅員さんが管理している人力タイプだった。

 切符を取りだし、渡す際に、じろりと睨まれる。

 「君ら、この辺の子じゃないよね」

 とおせんぼうされたわけでもないのに、やけに迫力のある声音に怯んで、つい立ち止まってしまう。

 「もう遅い時間だけど、親御さんは迎えに来てくれるのかな?外、雪降ってるけど」

 心配しているというよりは、まるでぼくらがこれからコソ泥をこの町で働くんじゃないかと疑っているような、つっけんどんな言い方だった。

 ぼくが口を開く前に、健太が駅員のおじさんの前に横入りする。

 「あ、大丈夫です。これからばあちゃん家行くとこなんですわ。すぐの距離だし、ほら、子どもは風の子言うじゃないですか」

 駅員のおじさんの、出目金を思わせる大きくてぎょろぎょろした目が、ぼくと健太の間を往復する。

反射的に、ごくりと唾を飲みこんだ。

 「ふん。気ぃつけて行きなよ」

 追い払うように手をしっしっと振られる。気まぐれに犬猫に話しかけたようなものだったんだろう。家出をしてきた身としては、いちいち心臓に悪い。

 駅を出ると、あまりにも寒くて強い風に、何もかも吹き飛ばされるような感覚に襲われて、一度目を閉じた。

 北風と太陽という話で、寒い風に身ぐるみ剥がされないようにと頑なに背を丸めた旅人のことを思い出す。ぼくは今、まったく逆の気持ちだ。

 冷たい風にさらされて、ぼくのなかでくすぶっていたいろんなものが凍っていくようだった。

 凍ってしまえば、もう痛みも感じない。

 積り始めた雪を踏みしめ、歩き始める。

 健太は、少し前にぼくが学校を飛び出したときのように、当たり前のように着いて来た。

 「なぁ、翔君」

 「なんだよ」

 「ここ、来たことあるん?」

 「まぁな」

 もっとも、最後にこの地を踏んだのは小学校に上がるよりもさらに前のことだから、記憶もだいぶ曖昧だ。

 スキー場への案内板ばかりが立派に建っているなか、ぼくの目指す住所まで導いてくれる案内板はずいぶん古くて頼りない。

 それでも、駅からあまり離れていなかったことだけは覚えていたから、方向のめどはほどなくついた。あとは、ここから1本道だ。

 真横に吹きつけてくる雪に顔を上げられないぼくは、自分のつま先が出たり引っ込んだりするのを見つめていた。

 「やっぱり、歩いた方が遠足って感じするわ」

 風にかき消されていくぶん小さくなった健太の声に、ぼくは呆れる。

 「おまえ、まだ言ってんのか」

 「さすがにこんなに寒いのは初めてやけど」

 「ぼくは何度も言ったからな。着いてくるなって」

 「サンタさんって、ここに住んでるんと違う?」

 「はぁ?」

 「昔、先生言うてたやん?サンタさんはごっつ寒いところに住んでるて。んで、子どもがいいこにしてるか、1年かけて観察してるて。ここ山やし、おれらの住んでるとこより高いやん。アジトにちょうどいいんちゃう?」

 「おまえ、まだサンタなんて信じてるのかよ・・・」

 「サンタは、いるで。子どもに笑顔を届けるのが仕事やもん」

 「じゃあ、探しに行ってれば。運が良ければ会えるかもな」

 「おれやない。サンタを探しに来たのは、翔君やろ」

 「はぁ?おまえ、寒さで頭がどうかしちゃったんじゃないのか」

 本来ははねつけるつもりだった健太と口を利いている理由は一つ。無駄話でもしていないと、口に雪が張り付いて開かなくなりそうだったからだ。

 なのに、健太の一言に、ぼくの口は呆気なく使い物にならなくなってしまった。

 「翔君、家族に笑顔を返してくれるサンタに会いに、ここまで来たんやろ」

 「っ!」

 図星だった。



 綾子や健太と知り合うより前、つまり今から10年近く前、ぼくはこの町に住んでいた。

 ぼくが生まれる前に死んでしまったというおばあちゃんに一人残されたじいちゃんとぼくら家族3人で暮らしていたのだ。

 「翔、雪かきするぞ」

 じいちゃんとの思い出はあまりない。でも、そのうちのすべて、ぼくらはみんな笑顔だった。

 じいちゃんと雪かきをしたり、こたつでみかんを剥いたり、オセロをしたりするぼくを、父さんと母さんはのんびり眺めてくれていた。

 思えばあの頃が一番、ぼくらは家族として楽でいられたような気がする。

 お互いの顔色を伺ったり、行動を牽制することなく、雪につぶされないようにだけ気をつけて、ぼくらは笑顔ですごしてきた。

 だから、ぼくは父さんたちに離婚を打ち明けられたとき、まずこの土地を思った。

 タイムマシンなんてない。過去になんて戻れない。小学生のぼくだって、それくらい知っている。

 でも、ここに来れば、何かが蘇るんじゃないかと思った。

 雪の下からふきのとうが顔を出す春がいつか来るように、ここには冷たい雪に負けない何かが待っているじゃないかと思ったのだ。

 じいちゃんに会いさえすれば、またここで暮らすようになれば、ひょっとしたら何もかも元通りになるんじゃないか。

 戻る場所のないぼくにあるのは、ただその奇跡の輝きだけだった。



 かつて住んでいたその家は、もう面影を残していなかった。

 表札は外され、こんな時間だというのに電気も点いていない。破くのが楽しかった覚えのある障子も、どの窓にも貼られていなかった。

 「留守かもしれんで。隣の人に聞いてみよ」

 健太は健気にそう言い、すぐ隣の家の呼び鈴を押しに行く。

 ぼくはふらふらとそのあとに続く。

 その際目に入った「売り地」という赤い看板には、気付かないふりをした。

 健太が押した3度目のチャイムで、ようやく人の足音がドアの向こうから聞こえてくる。

 がちゃり、と細く開いたドアからは、すっぴんであろう女の人の怪訝な顔が覗く。

 「誰?あんたら」

 おばさんは、ぼくらがランドセルを背負っているのを見ると、警戒の代わりに不審の色を強く出す。

 「あの、そこの隣の家の人に会いたいんですけど、どこにいるかとか知りませんか?」

 健太の、この土地では使わないイントネーションに、眉間にしわを寄せるおばさん。相変わらず、ドアが開け放たれることはない。

 「あの」

 「知らないわよ、もう何年も前からその家空き家なんだから」

 舌打ちしかねない吐き捨てぶりだけど、ここで怯むわけにはいかなかった。

 「すみません、あの家には岡崎っていう名字のおじいさんが住んでるはずなんです」

 健太に遮られていたぼくが身を乗り出すようにそう言ったせいか、おばさんはふいをつかれたように目を少しだけ見開いた。1対2というのが良かったもかもしれない。

 「知らないって言ってんじゃないの」

 「ぼくの祖父なんです」

 藁にもすがる思いで叫んだのが利いたのか、おばさんは思い出そうとする素振りを見せた。

 どこかに引っ越したのなら、お隣さんなら知っているかもしれない。なら、なんとしてでも聞き出そう。

 ここで土下座したっていい。

 じいちゃんに会わなくちゃ。

 「あのじいさんなら、もうだいぶ前に死んだわよ」

 一瞬、自分が何の話をしているのか、思い出せなくなった。

 主語が人間だとは思えないほど、何の関心も感じさせない声だったからだ。

 「引き取り手がいないだとかで、この近所一帯で葬式代出すことになったんだったわ。聞けば、身内とのいざこざで見捨てられたらしいじゃない。まったく、冗談じゃないわよ。なんで知りもしないじじいのために家計を削らなきゃならないのよって、腹が立って仕方なかったんだったわ、たしか」

 おばさんはぼくの方に視線をやると、ぎょっとしたような顔になって、「もういいでしょ」とだけ言い捨てて乱暴にドアを閉めた。

 部屋から漏れる明かりがなくなり、真っ暗になった。

 「翔君・・・」

 初めて口にした言葉のように頼りなく発音する健太に、ぼくは努めて強く言う。

 「健太、これ持って電車乗れ」

 ポケットから出した財布を押し付ける。

 「この金と、おまえの持ってる小銭で、ぎりぎり足りるはずだから。電車がまだ動いてるうちに帰れ」

 「翔君」

 「明日でいいから、綾子に謝っといて」

 「翔君!」

 健太の悲鳴じみた声を振りきり、ぼくは駆け出した。今日は2度目だ。でも、次はもうない。

 綾子を引っぱたいて教室を飛び出したときとは違う。

 ぼくには、もう行く場所がはっきりと頭のなかにあって、そこめがけて走って行けばいいだけだった。

 猫が死ぬ間際に姿を消すのと、この衝動は似ているのかもしれないなと、人ごとみたいに思った。



 「いいか、翔。ここは雪深いところだ。積った雪で家が潰れることだってざらだ。でもな、信じられないかもしれんが、これだけは覚えておけ」

 じいちゃんが昔言っていた。

 記憶を辿っていくほど、正解はちゃんとあった。

 ただ、思い出したくなかったというだけだった。

 じいちゃんとは、半ばケンカ別れだった。理由はわからない。たぶん、今聞いたとしても理解できないような、大人の事情なんだろう。相続とか、分配とか、日常じゃあまず使わないような言葉ばかりが飛び交っていたから。

 父さんと母さんに手を引かれ、じいちゃんの家から出るとき、荷物の整理に追われた2人の隙をついてじいちゃんが教えてくれたのが、この言葉だった。

 「雪は、春になればとける。いつまでも冷たくあるわけじゃない。これは、人間も同じだ」



 崖の上から見下ろした先は、誰も踏み込んだことのない、ひたすら白い雪原だった。

 もう真っ暗だというのに、雪は光を放つように、ぼんやりと白い存在感をそこに留めている。

 雪は不思議だ。何もかもを、その冷たい白で覆い隠してしまう。

 神様はこの世界の終わりに、きっと地球すべてを押しつぶすほどの雪を降らせるだろう。

 汚いものも、醜いものも、数えきれないほどの罪も、居場所のないたくさんの涙も、冷たくてひたすら美しい雪の下で一つになる。

 呼吸を忘れたぼくらは、無垢な存在として眠りにつく。

 それが一番きれいな、この星の終わり方なんだろう。

 なだらかに広がる雪原を見下ろして、ぼくは目を閉じた。

 「翔君!」

 雪に音を吸われて、だいぶか細く聞こえる健太の声にも、ぼくはもう心揺るがされることはなかった。

 「翔君、な、帰ろう。こんなとこ、寒いだけや。家に帰りたくないなら、それでもええ。おれも綾子も、翔君がいてくれんと・・・」

 「健太、もういいんだ。ぼくは寒いのが好きなんだよ」

 自分でも、驚くほど自然に笑えた。

 こんなに穏やかな気持ちになれたのは、初めてかもしれない。

 「翔君・・・」

 「わかったんだよ。ぼく、温かいのが嫌いだったんだ。温かいものは、居心地がいい。だから、必ずいつか裏切るんだ」

 父さんと母さんがお互いを見捨てたように、じいちゃんが孫のぼくにも知られずに死んだように、住んでいた家が今にも雪の重みで潰されそうになっていたように、温かいものはダメだ。信用ならない。

 そこに居場所を求めること自体が、間違っていたんだ。

 「綾子を引っぱたいたのだって、そうだ。あいつといると、なんだか変なんだ。信じていいのかなって思っちゃうんだ。一緒にいれば、そのうち無理せず笑えるようになるんじゃないかって、勘違い、しちゃって。ばかだなぁ、わかってるのになぁ」

 親が離婚することになったんだと綾子に告げたら、綾子はあろうことかこう言ったのだ。

 「翔君、もう無理して笑わなくていいんだよ」と。

てっきり混乱して泣きだしかねない泣き虫な綾子にそう言われたぼくは、意表を突かれて黙り込んだ。

 「辛かったら、泣いていいんだよ。私、泣き虫だけど、翔君の代わりには泣けない。翔君の代わりにやってあげることなんて、出来ないの。だから、翔君が自分でやらなきゃいけない」

 太陽にコートを脱がされた旅人に、自分を重ねた。

 このままだと、ぼくは身ぐるみをはがされてしまう。

 それはとてつもなくこわいことだ。

 気がついたら、綾子をぶっていた。

 自分の身を、それで守れた気になっていた。

 「北風と太陽って話、知ってるだろ。コートを脱がされちゃ、ダメなんだ。いつだって、自分を守るものがなくちゃ。おまえと綾子が太陽で、ぼくが必死に身を固めてるのに、剥がそうと、してくるんだもんな、まいっちゃうよ」

 ぼくは、温かいものがこわい。

 すべてをさらけ出さそうとするものがこわい。

 泣くのはいやだ。

 ぼくは、守らなくちゃいけないんだ。家族の絆を。無邪気な健太と綾子を。弱くちゃダメだ。

 ぼく自信がすごく弱いこと、何も出来やしないこと、泣きだしたいほど温かさに焦がれていることを、誰にも気付かれちゃいけない。

 「雪を見るとな、なんか、安心するんだ。きれいだろ、ここの景色。なんにも、ないんだ。雪だけ。きれいで、冷たくて、余計なものが何もなくて、自分が内側から凍っていく気がするんだ。ぼくも、こんなふうに、汚いものなんて初めから何もなかったように、塗りつぶされていけるならって・・・」

 今になって、健太の首元にマフラーが巻かれていないことに気付いた。

 電車から降りてここまで、ずっと寒かっただろうに。ぼく、自分のことで手いっぱいだったんだな。おまえはずっと、ぼくのことを考えてここまで着いて来たっていうのに。

 ぼくはゆっくりマフラーを外すと、健太に巻いた。

 「あったかいだろ」

 とても優しい気持ちで笑うことが出来た。

 「翔君」

 手袋をはめていない健太の手が、ぼくの手を強く握る。

 「おまえ、手袋もしてない・・・」

 「帰ろう」

 強い声だった。

 「なんで?」

 「翔君は、一人しかおらへんからや」

 健太の目は、ぶたれたときの綾子と同じ、とてもきれいな目だった。

 「塗りつぶされて、初めからいなかったことになるんか。それでいいと、翔君、本気で思うとんのか?綾子も言ってたはずやで、翔君の代わりは出来へんのや。笑うことも、泣くことも、怒ることも、翔君がやりたいと思ったことはぜんぶ翔君がやらなあかん。おれにやらせるつもりか。綾子に押し付けるつもりか。そんなんは、卑怯や。翔君が泣かなあかんところを、誰かに代わって泣かせるんか」

 掴まれた手は、ぼくの手袋越しにも冷たい。

 「このまま帰らんかったら、おれと綾子が泣くことになるんや。そんなの許さへん。翔君が今、ここで自分のぶんの涙を全部出すんや。なんで我慢するんや。しんどいときにばっかり笑いやがって、なんでおれらを信用せぇへんのや」

 「信用・・・」

 「してへんやろ」

 健太の流した涙は、凍ることなく頬をすべっていく。流れ星みたいだ。

 どうして綾子も健太も、そんなにきれいな目でぼくを見るのだろう。

 「こわいんだよ」

 ぼくはぽつりとつぶやいた。

 「丸腰に、なりたくないんだ」

 「翔君、いつも武装しとったんか?」

 「強くなきゃ、守ってやれない」

 「守るって、何をや」

 「ぼくを」

 するりと言葉が出た。

 そうだったのか。

 「強くなきゃ、ぼくは寒さから自分を守れない」

 結局、ぼくは自分を守りたかったんだな。

 「守るから」

 健太はぼくを抱きしめた。

 「綾子も、おれも、翔君を守るから」

 熱いものが、するりと頬をすべった。涙だと認識するのに、やけに時間がかかった。

 ぼくは、2人の太陽に身ぐるみをはがされた。

 涙があとからあとから溢れてきたけど、不思議と、もうこわいとは感じなかった。



 「まったく、近頃の若いもんときたら」

 駅員のおじさんは、渋い表情で、本日3回目のセリフをまた吐き捨てた。

 ぼくも健太も、神妙にうなだれる。

 電車賃のないことを説明したぼくらは、出目金みたいな目をしたあの駅員さんにこってりしぼられた。

 「仕方ないから、今回だけ特別に電車賃貸してやる。ただし、条件付きだ」

 皿洗いかな、と脈絡なくぼくは思ったのだが、大人の考えることはわからないなという結論を出すことになった。

 「一杯、付き合っていけ」

 そんなわけで、終電が来るまでの間、ぼくらは駅の暖房の利いた待合室で、ホットミルクをご馳走になっている。

 「牛乳ってのは、あれだな、温めると甘くなるってんだから、隅に置けねぇ。おまえらもそう思うだろ」

 ぎょろりとした二つの目が、マグカップから立ち上る湯気に細められる。

 あの眼力を相殺してしまうのだから、たしかに思う。牛乳、おそるべし。

 「おいしいな、翔君」

 「ああ、そうだな」

 真っ白なホットミルクは、湯気を放ちながら、ぼくにあたたかさをわけてくれた。

 こくりと呑みくだすと、自分の中にある芯がぽっかり明かりを灯った、気がした。

 


こんな下の方まで来てくださってありがとうございました。おつかれさまです。北風と太陽、ときどき太陽の方が手に負えないなと思うことはないでしょうか?ない方が健康にいいような気はします。

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