婚約者は妹に譲りますが、馬は譲りません。あの子は人を見る目がありますので
婚約者の声より先に、白星の耳が動いた。
右耳が前。
左耳が後ろ。
尻尾は低い。
前脚には体重を乗せていない。
つまり、かなり嫌がっている。
私は婚約者であるダリウス・グレイ侯爵子息の顔より、まず自分の愛馬を見た。
白星。
母方の祖母から私へ譲られた、白い牝馬である。
私個人の所有馬で、アストン伯爵家の馬房に預けている。
仔馬のころから世話をしてきたので、私の声にはよく反応する。
ただし、誰にでも愛想のよい馬ではない。
むしろ、人を見る。
たいへん見る。
今日も、見ている。
「イザベル」
ダリウス様が、厳しい声で私の名を呼んだ。
「聞いているのか」
聞いてはいる。
ただ、今は白星の左後脚の置き方が気になっていた。
昨日、少し湿気が強かった。
蹄の縁が柔らかくなっているかもしれない。
あとで乾いた布でよく拭いて、油を薄く塗る必要がある。
「聞いております」
私はようやく顔を上げた。
「婚約解消のお申し入れですね」
「ずいぶん落ち着いているな」
ダリウス様は眉をひそめる。
ここは、アストン伯爵家の王都屋敷にある厩舎前の馬見場である。
屋根付きの広い馬見場には、私の父であるアストン伯爵、母、ダリウス様の父君であるグレイ侯爵が同席していた。
つまり、今日の話し合いは正式なものだ。
ただし、婚約解消には両家当主の書面確認が必要なので、今この場で決まるのは、あくまで申し入れと条件の確認である。
そのくらいは、私にも分かる。
馬の血統ほどではないが、婚約の手続きも少しは知っている。
問題は、ダリウス様の隣に私の妹クララがいることだった。
淡い桃色の乗馬服。
白い手袋。
つやつやした髪。
そして手には、砂糖をまぶした人参。
白星に与えるつもりなのだろう。
やめてほしい。
白星は砂糖まぶしの人参を食べると、少し機嫌が派手になる。
あと、今朝はもう林檎を一切れ食べている。
甘いものは足りている。
「イザベル」
父が低い声で言った。
「まずは話を聞きなさい」
「はい、お父様」
私は白星から視線を剥がした。
かなり努力した。
「理由を伺っても?」
父がダリウス様へ問う。
ダリウス様は、待っていたように息を吐いた。
「イザベルは、侯爵家の妻にふさわしくありません」
「ふさわしくない」
「彼女はいつも馬に構っている。夜会でも馬の話、散歩でも馬の話、贈り物をしても鞍の革を見る。妻にするには、あまりに厩舎臭い」
だいたい合っている。
私は少しだけ頷いた。
厩舎の匂いは落ち着く。
干し草。
革。
木屑。
馬の体温。
それを嫌う方もいるのだろうが、私はかなり好きだ。
「しかも」
ダリウス様は続けた。
「私が贈った首飾りより、馬の蹄鉄を喜んだ」
「あの蹄鉄はよい仕事でした」
「そういうところだ!」
「鍛冶師の打ち目が美しかったので」
「だからそういうところだと言っている!」
父がこめかみを押さえた。
母は扇の陰で、少しだけ笑っている。
母は慣れている。
私が十二歳の誕生日に、宝石箱より新しい鞍掛けを喜んだことを知っているからだ。
「私は」
ダリウス様は、隣のクララを見た。
「クララ嬢のように、華やかで、私を見てくれる女性を妻にしたい」
クララが頬を染めてうつむいた。
「お姉様」
彼女は、申し訳なさそうな顔を作った。
「ごめんなさい。でも、わたくし、ダリウス様をお慕いしているの」
「そう」
「怒らないの?」
「怒る前に、一つ確認したいのだけれど」
「何かしら」
「その人参、白星にあげるつもり?」
「え?」
クララが手元を見た。
砂糖をまぶした人参が、白い手袋の上できらきらしている。
「ええ。仲良くなりたいと思って」
「白星は今朝、林檎を食べています」
「それが何?」
「甘いものは足りています」
「……お姉様、今それを言うの?」
「今です」
今でなければならない。
馬の食べ物は、その場で止めないと口に入る。
婚約破棄は、たぶん口に入らない。
「ほら、ダリウス様」
クララが困ったように彼へ寄り添った。
「お姉様はいつもこうなのです。大事な話をしていても、馬のことばかり」
「分かっている」
ダリウス様は、深く頷いた。
「だからこそ、今日で終わりにしたい」
なるほど。
それなら仕方がない。
私も、馬を邪魔に思う人と暮らすのは難しいと思っていた。
問題はここからだった。
「それで」
ダリウス様は、白星へ視線を向けた。
「婚約解消に伴い、白星をこちらへ譲ってもらいたい」
厩舎前の空気が止まった。
父が、ゆっくり顔を上げる。
母の扇が止まる。
私は白星を見た。
白星は耳をさらに伏せた。
分かる。
たいへん分かる。
「白星を?」
私は確認した。
「そうだ」
「なぜ」
「私とクララの婚礼行列に使う」
ダリウス様は、当然のように言った。
「白い馬は縁起がよい。クララが乗れば美しいだろう」
「白星は飾りではありません」
「馬だろう」
「馬です」
「なら、行列に使える」
「使えません」
「なぜだ」
「嫌がっていますので」
私は白星を指した。
白星は、まるで証明するように一歩下がった。
頭がいい。
とてもいい。
「たまたまだ」
ダリウス様は不機嫌そうに言った。
「馬は主人に従うものだ」
「はい」
「ならば、侯爵家が引き取れば私に従う」
「無理です」
「なぜ言い切れる」
「あの子は人を見る目がありますので」
私は真剣に言った。
嘘ではない。
白星は人を見る。
特に、手綱を強く引く人、馬の横から急に触る人、香水の強すぎる人、機嫌が悪いと声が尖る人を嫌う。
ダリウス様は、残念ながらほぼ全部である。
「イザベル」
ダリウス様の顔が赤くなった。
「君は婚約者を侮辱しているのか」
「いえ」
「では何だ」
「白星の判断を信頼しています」
「それが侮辱だ!」
「そうでしたか」
少し考える。
でも、やはりそこは譲れない。
「婚約者はお譲りします」
私ははっきり言った。
「ですが、馬は譲りません。あの子は人を見る目がありますので」
馬見場が静かになった。
クララが目を丸くする。
「お姉様、婚約者は譲るのに、馬は譲らないの?」
「はい」
「ひどくない?」
「どちらに対して?」
「わたくしに!」
「あなたはダリウス様をお慕いしているのでしょう?」
「そうだけれど」
「では、婚約者は問題ありません」
「問題はそこじゃないわ!」
「白星も問題です」
「お姉様!」
クララは泣きそうな顔をした。
でも、白星は譲れない。
妹に婚約者を譲ることと、馬を譲ることは、まったく別の話である。
婚約者は、自分の意思でクララを選んだ。
白星は、まだ一度もそう言っていない。
「アストン伯爵」
グレイ侯爵が低い声で言った。
「白星は、婚礼行列に貸し出す予定だったと聞いておりますが」
「婚約が継続し、イザベルがグレイ家へ嫁ぐ場合に限った話です」
父はすぐに答えた。
「白星はイザベル個人の所有馬です。当家で預かっておりますが、贈与ではありません」
「なるほど」
「貸し出し契約も、まだ交わしておりません」
「では、息子の認識違いですね」
「そうなります」
グレイ侯爵は、息子を見る目を少し冷たくした。
まともな方でよかった。
少なくとも、白星を飾りだと思っている息子よりは、話が早い。
「父上」
ダリウス様が慌てる。
「ですが、婚礼行列の準備はもう進めています」
「誰の婚礼行列だ」
「私とクララの」
「正式な婚約もまだ成立していない」
「それは」
「イザベル嬢との婚約解消も、まだ書面前だ」
「ですが」
「順番を間違えるな」
グレイ侯爵の声は静かだった。
かなり怒っているときの声だと思う。
馬も、ああいう静かな声の人には案外従う。
「それに」
父が続けた。
「白星を使う前提で馬具職人へ注文を出したと聞いておりますが」
今度は、ダリウス様の顔色が変わった。
クララも目を逸らす。
私は、少しだけ白星の鬣を撫でた。
やはりそうか。
最近、王都の馬具職人ベルナール親方が、白い牝馬の採寸について妙な確認をしてきたのだ。
私は白星の測り直し予定など聞いていなかったので、断った。
あれは、この件だったらしい。
「ダリウス様」
私は尋ねた。
「白星用の鞍を、私の許可なく注文なさいましたか」
「婚礼用の飾り鞍だ」
「つまり、なさいましたね」
「白星は婚礼行列に使う予定だったのだから、問題ないだろう」
「問題です」
私はきっぱり言った。
「白星は胸前が深いので、既製の飾り鞍は合いません。腹帯の位置も少し後ろへ逃がす必要があります。飾り房を前に垂らしすぎると、脚へ当たって嫌がります」
「また馬具の話か!」
「馬の話です」
「同じだ!」
「違います」
馬と馬具は違う。
密接に関係はある。
でも違う。
ここは大事である。
「それに、白星の背に合わない鞍を置くのは、白星に失礼です」
「私には?」
「ダリウス様にも、たぶん失礼です」
「たぶん?」
「はい」
「そこは断言しろ!」
父がまた咳をした。
母はもう完全に笑っている。
グレイ侯爵は、頭痛をこらえるように眉間を揉んでいた。
「ならば」
ダリウス様は、白星の手綱へ手を伸ばした。
「馬本人に確かめればいい」
「本人」
「馬だ」
「白星は本人です」
「訂正するな!」
ダリウス様は厩務員から手綱を受け取ろうとした。
厩務員のトマスは、私の顔を見た。
私は小さく頷いた。
無理に止めると、あとで「試してもいない」と言われる。
ただし、危険があればすぐ止める。
白星は賢いが、人間の愚かさには限界がない。
ダリウス様が手綱を持つ。
白星は動かない。
彼が少し引く。
白星は動かない。
彼がさらに引く。
白星は、ゆっくり首を下げて、足元の干し草を食べ始めた。
静かだった。
とても静かだった。
でも、厩務員たちの肩が震えている。
父も口元を押さえている。
母は扇で完全に顔を隠した。
クララは、何が起きたのか分からない顔をしている。
「白星」
ダリウス様が低い声で呼んだ。
「歩け」
白星は、干し草を噛んだ。
たいへん丁寧に噛んだ。
「歩けと言っている!」
「声が強いです」
「君は黙っていろ!」
「白星が嫌がります」
「馬ごときが嫌がるな!」
その瞬間、白星が顔を上げた。
耳を伏せる。
私は即座に一歩前へ出た。
「ダリウス様」
「何だ」
「今の言い方はよくありません」
「馬にまで敬意を払えと言うのか」
「はい」
「馬だぞ」
「はい」
私は頷いた。
「だからです」
ダリウス様は言葉を失った。
馬だから雑に扱っていい、という人とは、たぶん根本的に合わない。
この婚約解消は正しい。
かなり正しい。
「貸しなさい」
クララが前へ出た。
「わたくしなら大丈夫ですわ。白星も、きっとわたくしを気に入ってくれます」
「クララ、その人参は下げて」
「どうして」
「砂糖が多いです」
「お姉様は本当に細かいわね!」
クララは人参を持ったまま近づいた。
白星は、すっと横へ一歩ずれた。
クララも一歩寄る。
白星は、また横へずれる。
クララがさらに寄る。
白星は、厩務員トマスの背後へ回った。
逃げ方がうまい。
とても上品に、誰も傷つけず、でも完全に拒否している。
さすが白星である。
「白星!」
クララが涙目で叫ぶ。
「どうして逃げるの!」
「砂糖と香水と声です」
「全部わたくし?」
「はい」
「ひどい!」
「白星は正直ですので」
クララはついに泣き出した。
私は少しだけ申し訳なく思った。
ただ、白星が嫌がっているのは事実だった。
馬は社交辞令を言わない。
そこがよい。
「イザベル嬢」
低い声がした。
振り向くと、厩舎の入口に一人の男性が立っていた。
黒い騎士服。
落ち着いた目。
手袋はしているが、香水はない。
レナード・フォスター子爵。
王都騎馬隊の隊長で、今日は父と若馬の購入相談をするために来ていた方である。
先ほどまでは別棟の馬房を見ていたはずだ。
「レナード様」
私は一礼した。
「お騒がせしております」
「いや」
彼は、白星を見た。
「よい判断をする馬だ」
その一言で、私は少し胸を押さえた。
危ない。
婚約破棄の場で、愛馬を正しく褒める男性はかなり危ない。
「お分かりになりますか」
「ああ」
「動かなかったのは反抗ではありません」
「判断だな」
「分かる方ですね」
思わず言ってしまった。
レナード様は、少しだけ目を細めた。
「近づいても?」
「白星にですか」
「ああ」
「どうぞ。ただし、正面からではなく、少し斜めで」
「分かった」
レナード様は、すぐには近づかなかった。
まず距離を置いたまま、自分の手の甲を見せた。
白星が耳を動かす。
彼はさらに待った。
白星が一歩近づく。
彼はまだ待った。
白星が鼻先で手袋を嗅ぐ。
そこで初めて、彼は小さく言った。
「よい馬だ」
白星は逃げなかった。
むしろ、少しだけ首を伸ばした。
私は両手を握った。
これはよい。
かなりよい。
「馬に挨拶できる方ですのね」
「先にこちらが名乗るべきだろう」
「名乗り方をご存じで」
「馬の前では、人間の肩書きはあまり役に立たない」
「……結婚しましょう」
「まだ名乗り直してもいない」
レナード様が真顔で返した。
私は我に返った。
危ない。
口に出ていた。
馬への挨拶が丁寧な男性は、本当に危険である。
「失礼しました」
「いや」
「今のは、馬沼の発作です」
「そうか」
「驚かないのですか」
「白星の判断は悪くなさそうだから」
「……危険です」
「何が」
「その返しです」
「そうか」
レナード様は少しだけ笑った。
大声ではない。
馬房の前で馬を驚かせない笑い方だった。
かなり危険だった。
「フォスター子爵」
ダリウス様が不機嫌そうに口を挟んだ。
「これは我が家の問題です」
「白星はアストン家預かり、イザベル嬢の所有馬と聞いた」
「それは」
「なら、白星の話はあなたの家の問題ではない」
短く、正確だった。
ダリウス様は口をつぐむ。
グレイ侯爵が、低く息を吐いた。
「ダリウス」
侯爵は言った。
「婚約解消の申し入れは、いったん持ち帰る」
「父上!」
「白星の件も、婚礼行列の件も、順番を間違えている」
「ですが」
「そして、他家の令嬢の所有馬を本人の了承なく使う前提で話を進めたことについては、正式に詫びる」
「……」
「さらに、馬具職人への注文が事実なら、その費用はお前が責任を持つ」
「クララのために必要だったのです」
「正式婚約も前に、姉の婚約者と妹の婚礼用馬具を作る必要はない」
クララの顔が真っ赤になった。
たぶん、今ようやく恥ずかしくなったのだろう。
遅い。
でも、恥ずかしくならないよりはよい。
「アストン伯爵」
グレイ侯爵は、父へ向き直った。
「本日の件、後ほど正式に文書で謝罪いたします」
「承りました」
父は頷いた。
「婚約解消については、当家も異存ありません。ただし、イザベル側の落ち度によるものとは認めません」
「それで結構です」
「白星の貸し出し予定も、白紙とします」
「当然でしょう」
話がまとまりかけた、そのときだった。
厩舎の奥から、厩務員が一人出てきた。
「旦那様」
彼は父へ一礼した。
「ベルナール親方が到着なさいました。例の飾り鞍をお持ちです」
間が悪い。
とても悪い。
でも少し見たい。
いや、白星に使うつもりだった無許可の飾り鞍など、本来怒るべきである。
怒るべきなのだが、馬具職人ベルナール親方の仕事は良い。
見たい。
縫い目だけでも見たい。
「イザベル」
母が静かに言った。
「顔に出ています」
「申し訳ありません」
「見たいのね」
「はい」
「分かりました」
母は小さく笑った。
父は諦めたように息を吐いた。
持ち込まれた飾り鞍は、美しかった。
白い革。
銀糸の刺繍。
小さな房飾り。
クララのドレスに合わせた薄桃色の縁取り。
そして、問題だらけだった。
私は鞍の前に膝をついた。
怒りより先に、確認が始まってしまう。
よくない。
でも止まらない。
「縫い目は美しいです」
ベルナール親方が、ほっとしたように息をついた。
彼は悪くない。
注文を受け、採寸なしで可能な範囲を仕立てたのだろう。
「ありがとうございます、お嬢様」
「ただ、白星には合いません」
「やはり」
「胸前が詰まります。腹帯が前へ来すぎます。房飾りも少し長いです。歩き出した瞬間に嫌がります」
「採寸を断られたので、標準より広くしたのですが」
「それで正解です。白星用ではないなら、調整できます」
「できます」
「では、栗毛の若馬用に直せますか」
「イザベル」
父が呼んだ。
私は顔を上げた。
「何でしょう」
「それは、無断注文された鞍だ」
「はい」
「怒るところではないのか」
「怒っています」
「その顔は?」
「縫い目を見ています」
「そうか」
父は、もう何も言わなかった。
分かってくれてありがたい。
怒りと縫い目の鑑賞は両立する。
「ベルナール親方」
私は続けた。
「白星用ではなく、青鹿毛のセリーヌ用に直すなら、胸前を少し詰めて、房飾りを半分にできますか」
「可能です」
「では、その方向で」
「費用は」
「グレイ家が負担します」
グレイ侯爵が即座に言った。
ダリウス様がぎょっとした顔をする。
私は少し安心した。
馬具職人が泣く必要はない。
悪いのは、馬の採寸も取らずに婚礼行列を夢見た人間である。
「ただし」
私はベルナール親方を見た。
「白星に使う前提で作られた飾り房は外してください。あの子は足元で揺れる房を嫌います」
「承知しました」
「それから、銀糸は残してください。セリーヌの毛色に合います」
「お目が高い」
「銀糸の張りがよいです」
「ありがとうございます」
少し楽しくなってきた。
いけない。
婚約破棄の場で、馬具の改修相談を楽しむ令嬢は、たぶんあまりいない。
でも、仕方がない。
よい縫い目だったのだ。
「イザベル」
ダリウス様が、低く言った。
「君は本当に、婚約がなくなっても平気なのか」
「平気ではありません」
私は答えた。
それは本当だった。
婚約者に厩舎臭い女と言われた。
妹と新しく婚約したいと言われた。
愛馬を婚礼行列の飾りに使われそうになった。
傷つかないはずがない。
「でも」
私は白星を見た。
「今は、白星が無事でよかったと思っています」
「そこが嫌なんだ」
ダリウス様の声には、疲れが混じっていた。
「君はいつも、私より馬を見る」
「はい」
「否定もしないのか」
「事実ですので」
「……」
「でも、ダリウス様も私を見ていませんでした」
彼が目を上げる。
私は続けた。
「私が馬を見ていることだけを見て、なぜ見ているのかは見ていませんでした」
「それは」
「白星の耳。蹄。歩き方。食べ方。息の早さ。そういうものを見ていると、あの子の今日が分かります」
「……」
「私にとっては、大事なことです」
「……」
「それを恥ずかしいと思う方の隣では、たぶん暮らせません」
ダリウス様は何も言わなかった。
言えなかったのかもしれない。
私は少しだけ頭を下げた。
「婚約解消は受け入れます」
「イザベル」
「ただし、白星は譲りません」
「それはもう分かった」
「よかったです」
白星が、ふん、と鼻を鳴らした。
同意だと思う。
たぶん。
その日のうちに、グレイ侯爵家から正式な謝罪状が届いた。
婚約解消は、ダリウス様側の申し入れとして処理。
イザベル側の落ち度ではないこと。
白星の貸し出し予定は白紙。
無断で進めていた飾り鞍の費用はグレイ家が負担。
さらに、クララとの縁談も一時凍結するとのことだった。
クララはその後、しばらく泣いていた。
母にかなり叱られたらしい。
父からも、他人の婚約者と他人の馬を同時に欲しがるものではない、と言われていた。
どちらかならよいという意味ではない。
たぶん。
三日後、クララは私の部屋へ来た。
目元は少し赤い。
手には、今度は何も持っていない。
「お姉様」
「何?」
「白星に謝りたいのだけれど」
「砂糖は?」
「持っていないわ」
「香水は?」
「つけていない」
「声は?」
「大きくしない」
「よろしい」
私は頷いた。
クララは少し不満そうに唇を尖らせた。
「お姉様、白星よりわたくしに厳しくない?」
「白星は嘘をつかないので」
「わたくしも、今回は反省しているわ」
「なら、よい傾向です」
「……お姉様って、本当に馬が絡むと容赦ないわね」
「知っています」
白星は、クララの謝罪を受け入れた。
たぶん。
鼻先で彼女の手袋を嗅ぎ、逃げなかったからだ。
ただし、撫でさせるところまでは許さなかった。
白星は段階を踏む馬である。
よいことだ。
それから半月後。
アストン伯爵家の厩舎に、レナード様が再び訪れた。
父との若馬取引の続き、という名目である。
ただ、彼は若馬を見る前に、白星の馬房の前で足を止めた。
「白星は元気か」
「はい」
「左後脚は?」
「気づいていらしたのですか」
「あの日、少し浮かせていた」
「分かる方ですね」
また言ってしまった。
でも仕方がない。
レナード様は、本当に分かる方である。
「湿気のせいでした。今は落ち着いています」
「よかった」
「馬の脚を気にかけてくださるのは、たいへん危険です」
「危険?」
「効きます」
「そうか」
「はい」
「では、気をつける」
「気をつけるのですか」
「いや」
彼は少し考えた。
「たぶん、無理だ」
「なぜ」
「気になるから」
「……危険です」
「それも、たぶん無理だな」
この人は、ずるい。
甘い言葉ではなく、蹄で来る。
馬房の湿度と、脚の置き方で来る。
かなり危険だった。
「イザベル嬢」
レナード様は言った。
「うちの領に、引退馬のための放牧地がある」
「引退馬のための」
「脚を痛めた軍馬や、年を取った乗用馬を預かっている」
「軍馬を」
「ああ」
「放牧地の地面は?」
「水はけはよい。夏は少し乾きすぎるから、東側に木陰を増やしている」
「木陰」
「冬は風除けの柵を足した」
「柵」
「馬房は低めの窓で、首を出せる」
「首を」
私は胸を押さえた。
かなり効いている。
婚約解消から半月の令嬢に、引退馬の放牧地と馬房の窓の話をするのは、本当に危険である。
「レナード様」
「何だ」
「それは求婚ですか」
「まだ放牧地の説明だ」
「危険です。私にはかなり求婚に近いです」
「そうか」
「はい」
「では、順番を間違えたかもしれない」
「間違えています」
「なら改める」
レナード様は真面目な顔で頷いた。
本当に改めるつもりらしい。
私は少しだけ慌てた。
「今すぐではなくて大丈夫です」
「そうか」
「はい。馬房の前で急に求婚されると、白星が先に返事をしそうなので」
「白星の返事も大事では」
「大事です」
「なら、ここでもいいのでは」
「……危険です」
「また危険か」
「ずっと危険です」
白星が鼻を鳴らした。
まるで、早く進めろと言っているようだった。
白星はたまに余計な後押しをする。
数日後。
レナード様から、正式な招待が届いた。
父母同伴で、フォスター領の放牧地を見学しないか、というものだった。
父は手紙を読み、少し考え込んだ。
母は私を見て笑った。
「婚約解消から一月足らずで、引退馬の放牧地へ誘われる令嬢は珍しいわね」
「お母様」
「でも、あなたには合っているわ」
「はい」
「とても嬉しそう」
「はい」
隠せなかった。
放牧地。
引退馬。
馬房の低い窓。
水はけのよい地面。
これはもう、ほとんど宝石箱である。
いや、宝石箱より嬉しいかもしれない。
少なくとも、蹄の健康には関係がある。
フォスター領の放牧地は、想像以上だった。
なだらかな丘。
短く刈られた草。
木陰。
風除けの柵。
水場の位置。
馬房の扉の高さ。
すべてが、馬のために考えられていた。
派手ではない。
でも、よい。
かなりよい。
私は丘の上で立ち止まった。
風が草を撫で、遠くで栗毛の老馬がゆっくり歩いている。
脚運びは少し硬い。
でも、無理をしていない。
よい歩き方だった。
「どうだ」
隣のレナード様が尋ねた。
私は真剣に答える。
「危険です」
「帰りたくないのか」
「はい」
「そう言うと思った」
「どうしましょう」
「泊まればいい」
「父母の許可が必要です」
「取ってある」
「手回しがよろしい」
「馬を迎えるときも、客を迎えるときも、段取りはいる」
「本当に危険です」
この人は、馬以外の言葉でも馬に寄ってくる。
かなり危険だった。
見学の最後に、レナード様は古い馬房へ案内してくれた。
そこは、今は使っていない小さな厩舎だった。
窓が低い。
風通しがよい。
床は乾いている。
鞍置き場もある。
干し草の匂いが、静かに残っていた。
「イザベル嬢」
レナード様は、馬房の前で足を止めた。
「はい」
「私は、あなたが婚約者より馬を見るところを面白いと思っている」
「面白い」
「ああ」
「褒め言葉ですか」
「そのつもりだ」
「なら受け取ります」
「あなたは、厩舎臭い女ではない」
「では何でしょう」
「馬にうるさい女だ」
「正確です」
私は深く頷いた。
「たいへん正確です」
「そして私は、そういうあなたと、馬を見ながら暮らしてみたい」
馬房の空気が、少しだけ変わった。
干し草。
木。
革。
遠くの馬の鼻息。
そして、余計な香水をまとわない人の気配。
「それは」
私はゆっくり言った。
「求婚でしょうか」
「そうだ」
「馬房で?」
「あなたには、ここが一番効くと思った」
「効いています」
「ならよかった」
「よくありません。判断が鈍ります」
「鈍った返事でもいい」
「だめです」
私は首を振った。
「馬も返事も、急かすと失敗します」
「では待つ」
「どれくらい?」
「あなたが納得するまで」
「白星に相談してからでも?」
「もちろん」
「白星の返事が必要です」
「分かっている」
「本当に?」
「たぶん、私より大事なのだろう」
「はい」
「少しは迷ってほしかった」
「申し訳ありません」
「いや、知っていた」
レナード様は少し笑った。
その笑い方が、やはり馬房向きだった。
静かで、馬を驚かせない。
よい。
「条件があります」
私は言った。
レナード様は頷く。
「聞こう」
「結婚後も、私の馬房へ勝手に香水を持ち込まないでください」
「持ち込まない」
「馬に砂糖を与えるときは、必ず確認してください」
「確認する」
「白星を飾りとして扱わないでください」
「扱わない」
「私があなたより白星の蹄を先に見る朝があるかもしれません」
「知っている」
「いいのですか」
「蹄は大事だろう」
だめだった。
少し泣きそうになった。
婚約破棄の場では泣かなかったのに、蹄は大事と言われて泣きそうになる。
自分でもどうかと思う。
でも仕方がない。
私には、そういう言葉が効く。
「お受けします」
私は言った。
「ただし、白星にも会っていただきます」
「もちろん」
「白星が耳を伏せたら、考え直します」
「分かった」
「本気です」
「私も本気だ」
「では、大丈夫です」
レナード様は、そっと私の手を取った。
強く握らない。
急がない。
手綱のように引かない。
ただ、こちらが逃げなければそこにある手だった。
よい手だと思った。
後日、白星はレナード様を改めて確認した。
彼はいつものように距離を置き、手の甲を見せ、白星が近づくまで待った。
白星は鼻先で彼の手袋を嗅いだ。
そして、逃げなかった。
さらに、彼の袖を軽く噛んだ。
「これは」
レナード様が私を見る。
「かなり気に入っています」
「噛んだが」
「袖だけです。指ではありません」
「判断基準が難しいな」
「白星なりの歓迎です」
「なら光栄だ」
白星は、ふん、と鼻を鳴らした。
たぶん、満足したのだと思う。
グレイ家のダリウス様は、その後しばらく社交界で「白馬にも歩いてもらえなかった方」と呼ばれたらしい。
少し言い方がひどい。
でも、だいたい合っている。
クララは、馬房へ来るときだけ香水を控えるようになった。
砂糖まぶしの人参も持ってこなくなった。
それは、かなりよい進歩だと思う。
私は今でも、王都でときどき噂される。
厩舎臭いと言われて婚約破棄された令嬢。
婚約者は妹に譲ったのに、馬は絶対に譲らなかった令嬢。
元婚約者より馬の蹄を気にした令嬢。
白馬に人を見る目があると真顔で言った令嬢。
どれも、だいたい合っている。
少しだけ言い方がひどいけれど、間違ってはいない。
だから私は、訂正しない。
ただ、もし誰かがこう言うなら、そこだけは直すつもりだ。
厩舎臭い女。
それは違う。
私は、馬にうるさい女である。
そして近いうちに、馬にうるさい妻になる予定だ。
お読みいただきありがとうございました。
面白いと思っていただけましたら、評価・ブックマークで応援いただけると嬉しいです。




