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第1話



 蝉が鳴いている。


 耳のすぐそばで鳴いているわけじゃないのに、頭の上から空ごと落ちてくるみたいに音が降ってきて、私はしばらくのあいだ、それを本当に雨なんだと思い込んでいた。梅雨の終わりに窓ガラスへ細かい水滴が打ちつけるみたいな絶え間なく続く湿った響きが耳の奥を満たしていて、それなのに肌に触れる空気はじっとりしているくせに妙に熱を持っていて、まぶたの裏では、真昼の太陽をうっかり直視したときみたいな白い残像がちかちか揺れている。雨みたいなのに晴れていて、静かそうなのにうるさくて、眠っているみたいなのに神経だけが変に冴えている感じがなんだかすごく気持ち悪かった。


 そこへサイレンの音が重なった。


 遠くから近づいてくるっていうより、最初からずっと近くにあったものへ急に気づいたみたいな鳴り方で、耳をつんざくような高い音が乾ききったノイズみたいに頭の中へ直接擦り込まれてくる。救急車なのかパトカーなのか、よくわからない。よくわからないままその音だけが異様にはっきりしていて、意識の奥にどろどろと溜まっていた暗いものを、無理やりかき回してくるみたいだった。


 こういうときって、たいてい寝不足なんだよね。


 別に、好きで夜更かししてるわけじゃない。そこはほんとに誤解しないでほしい。私だってできれば毎日ちゃんと十一時くらいには寝て、朝は余裕を持って起きて、バランスのいい朝ごはんとか食べて、健康的な高校生活を送りたい気持ちはある。あるんだけど、高校生って思ってるよりずっと忙しいのだ。学校が終わったらそのまま部活で、帰ってから宿題して、小テストの勉強もして、提出物のことを思い出してちょっと焦ってお風呂に入って髪を乾かす。それでようやくベッドへ転がり込めると思ったら今度はスマホにグループLINEが飛んできて、先輩から連絡が回ってきて、明日の集合時間の確認とか持ち物の話とかそういうのを見ていたら平気で日付が変わる。


 昨日なんて、ほんとに最悪寄りだった。


 いや、最悪っていうと少し盛ってるかもしれないけど、少なくとも「今日はついてないな」くらいの認定は余裕で出せる一日だったと思う。朝から遠征で集合時間がやたら早くて、まだ外もちゃんと明るくなってないうちに家を出たし、眠い目をこすりながらジャージに着替えて重たいバッグを肩にかけて、コンビニで買ったおにぎりを半分しか食べられないままバスへ乗り込んだ。移動中くらい好きな音楽を聴いて気分を上げたっていいじゃんって思って、片耳だけイヤホンつけてぼんやりしてたら、それを見つけた先輩に普通に注意されるんだもん。危機感が足りないとか、団体行動の意識がどうとか、言ってることはまあ正しいのかもしれないけど、こっちだって好きで寝不足なわけじゃないし、せめて眠気覚ましくらい許してほしいって思うじゃん。


 しかも、そのあと試合の内容まで微妙だった。


 自分でもわかるくらい動きが重くて、パスの判断も一瞬遅れてフリースローは一本落とすし、戻りの足も鈍いし、終わったあとに「集中できてなかったよね」って言われたら、そりゃそうですねとしか言えない感じだった。反省はしてる。してるけど、してるからこそ余計に落ち込む。帰りのバスのなかでは疲れすぎてまともに喋る元気もなくて、窓にもたれたまま外の景色を見ていたはずなのにいつのまにか意識が沈んでいた。頭の芯だけが妙に熱くて、夢と現実の境目みたいなところをふらふらしていた。


 ザザァ、と音がした。


 それまで聞こえていたサイレンの甲高さとはまるで違う、もっとやわらかくて、身体の輪郭をそっと撫でるみたいな音で、私はそこでようやく、あれ、と思った。波の音だ。海に寄せて返す、小さな白い泡を連れてくる波の音。耳を澄ませなくても、きちんと海だとわかる音だった。


 ……え?


 そこでやっと、私は目を開けた。


 まぶたが変に重かった。誰かに上から押さえつけられていたみたいに、意識が浮いてこない。首を少し持ち上げるだけでも後頭部の奥がじんと鈍くて、熱っぽいというより長いこと同じ姿勢で寝ていたときみたいな妙なこわばりがあった。ゆっくり息を吸うと、湿った風が頬を撫でていく。冷たくはないのに、熱にのぼせた頭には心地よかった。どこかで誰かが話している声もする。はっきり内容が聞き取れるほど近くはないけれど、人がいる場所特有の、あのざわざわした気配。規則的じゃない足音も、コツ、コツ、とときどき混じっている。


 ……駅?


 ぼんやりした視界のなかで、最初に輪郭を持って浮かび上がったのはホームの端を示す黄色い点字ブロックで、その向こうに伸びる線路で、その先にある改札口だった。赤いベンチが見えた。少し色の褪せた屋根。小さな駅名標。無人駅っぽい簡素さがあるのに、なぜか目に入るもの全部が、初めて見る景色じゃなかった。


 私は上半身を起こして、瞬きを何度か繰り返した。


 そこは間違いなく駅のホームだった。


 線路を挟んだ向こう側に改札口があって、白い柱に支えられた小さな待合スペースがある。赤いベンチがぽつんと置かれていて、そのどれもが見覚えのある配置で並んでいた。風に乗って潮の匂いがする。夏の熱を含んだ空気のなかに、海沿いの町にしかない少し塩っぽくて青い匂いが混ざっている。


 見慣れた光景だった。


 そう思った瞬間、自分で自分にびっくりした。


 だって、そんなはずないのだ。この景色を最後に見たのは、たぶん四年くらい前で、それもほんの少しの時間だけだったはずなのに、目の前のホームの色も錆びた手すりの感じも、線路の向こうで揺れている草の緑も、懐かしいを通り越して身体のどこかが知っているものみたいに自然だった。


 駅名標に書かれた文字を見て、私は息を止めた。


 上田浦駅。


 その三文字が、夏の光のなかでくっきり見えた。


 ……なんで、ここにいるの。


 声には出なかったけれど、頭のなかではかなりはっきりそう言った。というか言わずにいられなかった。意識が全然追いつかない。私はたしかバスに乗っていたはずだ。遠征の帰りで窓にもたれて、眠くて疲れていて、たぶんそのままうとうとしていた。そこから何をどうしたら、熊本の、それも上田浦駅のホームで目を覚ます流れになるのか、理屈が一ミリもつながらない。


 この場所のことは知っている。


 知っているなんてもんじゃない。知りすぎているくらい知っている。


 だって、ここは私の故郷だ。


 小学生の頃まで、私はこの町に住んでいた。海と山に挟まれた、小さくて静かな場所。でも夏だけはやたら光の強いこの町で、毎朝同じ道を通って学校へ行って、帰りは友達と寄り道をして、坂道の途中で息を切らせたり海沿いの道で風に髪をぐしゃぐしゃにされたりしながら、何気ない日々を過ごしていた。卒業してすぐ、親の都合で神奈川へ引っ越した。あまりにも急で、ちゃんと心の準備をする暇もないまま段ボールに荷物を詰め込んで、見慣れた家も学校も駅も置いてきた。


 ……ううん、正確には、一度だけ戻ってきたことがある。


 引っ越してまだそこまで時間が経っていなかった頃、用事があって家族で一日だけ帰ってきたんだ。あのときこの上田浦駅で降りた。ホームへ足をつけた瞬間、見慣れていたはずの景色がよそよそしく見えて、なのに数分もしないうちに懐かしさがどっと込み上げてきて、自分でも変な気分だったのを覚えている。その日は友達に会いに行った。親友だったひーちゃんとか、クラスメイトの子たちとか、引っ越しの日に泣きながら手紙を渡してくれた子とか、校庭の端で最後まで見送ってくれた子とか、みんな少しだけ背が伸びていて、でも喋り方は全然変わっていなくて、時間が進んだのか止まったのかよくわからなくなった。


 それから――。


 そこまで考えたところで、記憶が一気に膨らんだ。


 胸の奥にしまっていた引き出しが、誰かに乱暴にこじ開けられたみたいに。古い思い出もわりと最近まで鮮明だった感情も、ごちゃごちゃのまま溢れてくる。小学校の教室。海風でめくれるカーテン。夏祭りの屋台。体育館の床の匂い。駅前の自販機で買った炭酸のぬるさ。誰かの笑い声。誰かの横顔。昨日のことみたいに近い記憶と、もう二度と思い出さないと思っていたような昔の景色が同じ重さで頭の中へ流れ込んできて、私はしばらくその場でぼうっと立ち尽くした。


 上田浦駅の周りを見渡すだけで、時間が視界の前に横たわっている感じがする。


 この駅は、熊本県葦北郡芦北町大字井牟田にある、肥薩おれんじ鉄道線の駅だ。この場所から見える景色は、小さい頃の私にとって当たり前の景色だった。海と山に囲まれたほんとうに小ぢんまりした集落で、家の数も多くないし、大きなお店なんてぜんぜんない。便利とは言えない。電車の本数だって都会みたいには来ない。だけど、上田浦駅には上田浦駅にしかない景色がある。跨線橋を上った線路の上から見える、八代海。地平線の向こうに続く青空と、遠くに天草の島々が重なって見える大海原のきらめき。


 昔は鹿児島本線の一部だったとか、特急が通っていたとか、そういう話を大人たちがしているのを聞いたことがある。九州新幹線ができてから定期の特急は来なくなって、この駅の時間はますますゆっくり流れるようになった、って、誰かが少し寂しそうに笑っていたことも覚えている。静かでのんびりしていて、どこか世界から取り残されているみたいでもあるけれど、そういうところまで含めてここはたしかに私の知っている上田浦駅だった。


 だけど——


 私はどうしてここにいるんだろう。いつ来たんだろう。誰かと一緒だったっけ。スマホは。バッグは。部活の遠征帰りだったはずなのに、ジャージの感触もバスの揺れも、先輩の声も、今は全部ひとつ向こうの膜の裏側へ押しやられていて、代わりにこのホームの空気だけが異様にはっきりしていた。


 制服のスカートの裾をぎゅっとつまんでみる。


 ちゃんと制服だ。見慣れた夏服のブラウスで、汗を吸った生地が肌に少し張りついている。足元を見ると部活用じゃないローファーを履いていた。そこでもう一回、え、と小さく思った。遠征の帰りならスニーカーのはずなのに、どうしてローファーなんだろう。爪先にはうっすら土埃がついていて、まるでどこかを歩いてきたみたいだった。


 頭の中が、うまくまとまらない。


 熱中症の一歩手前みたいな、くらっとする鈍さがまだ残っている。額に手を当てるとほんのり熱い気がした。けれど立っていられないほどじゃない。風はやさしく吹いているし、潮の匂いもするし、蝉は相変わらず雨みたいに鳴いているし、どこを切り取っても「真夏の田舎の駅」以外の何ものでもない。夢にしては細かすぎるし、現実にしてはつじつまが合わない。


 ホームの端へ少し歩いてみる。


 線路の向こうに見える改札は、たぶん無人だ。小さな駅舎の影に人の気配はあるけれど、駅員さんの姿は見えない。ベンチの向こうには海側へ抜ける風景がちらっと見えた。線路の脇に生えた草が、風のたびに同じ方向へ揺れている。電光掲示板なんて立派なものはなくて、時刻表が貼られた掲示板があるだけ。白く日焼けしたその紙の感じまで懐かしい。


 こんなに見覚えがあるのに、こんなに変な感じがすることってあるんだ。


 私は目を細めて、ホームの向こうに広がる景色をもう一度見た。


 海の青さが、記憶の中より少しだけ濃い気がする。空も高い。雲の縁がやけにくっきりしている。全体的に世界の輪郭がいつもより少しだけ鋭い。うまく言えないけど、夏の午後の光が現実を現実以上に見せているみたいだった。


 誰かに声をかけたほうがいいのかな、と思う。


 けれど、何て言えばいいんだろう。「すみません、私なんでここにいるかわからないんですけど」とか、意味不明すぎる。迷子の子どもじゃあるまいし、高校生がそんなこと言ったら普通に心配されるし、場合によってはもっと面倒なことになる。いや、もう十分面倒な状況なんだけど、それはそれとして、まずは自分で少し整理したい。


 スマホを探そうとして、スカートのポケットに手を入れる。空っぽだった。


 ブラウスの胸ポケット。ない。


 肩にかけていたはずのバッグも見当たらない。


 その事実に気づいた瞬間、背中がひやっとした。財布も、スマホも、部活の荷物も、何もない。手ぶらだ。駅に来る人の格好じゃないし、家から出る人の格好でもない。制服だけ着て、記憶がところどころ曖昧で、気づいたら故郷の駅に立っている。冷静に考えなくても、状況が不審者ぎりぎりである。


 私はいったん深呼吸をした。


 潮の匂いが肺に入る。


 それだけで、少しだけ頭がすっきりした。


 落ち着こう。ほんとに。こういうときはパニックになっても良いことない。たぶん何か理由がある。気を失っていたのかもしれないし、夢遊病みたいな変な移動をしたわけでもないはずだし、もしかしたらまだ夢の中なのかもしれない。そこまで考えて、自分で「いやいや、いくらなんでも」って思う。夢にしては潮風がリアルすぎる。ブラウスの袖口に触れる風の温度も、ホームのコンクリートから跳ね返ってくる熱も、蝉の声の立体感も、全部がちゃんとありすぎる。


 少し先のベンチに、おばあさんが座っていた。


 薄い紫の上着を羽織って、小さな手提げを膝に置いている。髪はきれいにまとめられていて姿勢がいい。さっきから人の気配は感じていたけれど、その人のことを私は今の今まで風景の一部みたいに見ていたらしい。おばあさんはホームの向こうを見ながら、静かに何かを待っているようだった。


 話しかけようか迷って、やっぱりやめた。


 なんとなく、今はまだそのタイミングじゃない気がした。理由はない。ただここで人の声を聞いたら、本当に現実へ戻されてしまうような、そんな変な予感があった。現実へ戻されるって表現もおかしいんだけど、今の私はたしかに上田浦駅に立っているのに、どこか半分だけ別の場所へ足を置いている感じがしていた。たとえば夢のふちとか昔の記憶の中とか、そういうものが現実のホームに薄く重なっているみたいな、不安定な感覚。


 ホームの中央あたりに立ち止まって、私は駅名標をもう一度見た。


 上田浦。


 白地に黒い文字。隣駅の表示。見上げれば青空。背後には山の緑。


 ああ、本当に戻ってきたんだ、と思った。


 戻ってきた、という言い方が正しいのかはわからない。“来た”なのか、“連れてこられた”なのか、“迷い込んだ”なのか、どれもしっくりこない。でも少なくとも今この瞬間の私は、神奈川の高校の女子バスケ部の夏凪ウミじゃなくて、もっと昔、この駅の階段を上った先の海の見えるあの跨線橋、——あの場所で立ち止まって、改札の外で友達を探していた小学生の私と地続きになっていた。


 ひーちゃん、元気かな。


 そんなことを急に思う。連絡先は知っている。知っているけど、ずっと頻繁にやり取りしているわけじゃない。たまに誕生日にメッセージを送ったり、年賀状を返したり、そのくらいだ。時間が経つってこういうことなんだろうなと思う。大好きで毎日一緒にいた友達とも、住む場所が変われば会えない日が当たり前になっていく。嫌いになったわけじゃない。忘れたわけでもない。それでも同じ時間を共有できなくなった瞬間から、少しずつ人生の流れが分かれていってしまう。


 その感覚を、この駅は全部覚えている気がした。


 別れた日も戻ってきた日も、会いたいと思った日も、そんなの知らない顔でただここにあったくせに、私が見上げると何もかも知っているみたいな沈黙で立っている。駅って不思議だ。どこかへ行くための場所で、誰かを見送る場所で、帰ってくる場所でもある。始まりと終わりが同時にある。だからなのか、昔から私は駅が少し苦手だった。わくわくするのにどこか寂しい。嬉しいのにもう戻れない気がする。そういう相反する気持ちが、同じ場所に平気で居座っているからだと思う。


 風が少し強く吹いて、前髪が頬にかかった。


 そのとき、遠くで列車の音がした気がした。


 かすかに線路が鳴るような、金属が熱のなかで震えるような、そんな音。私は反射みたいに顔を上げて音のした方を見る。海の方から来たのか、山の方から来たのかはよくわからない。ただ、何かがこちらへ近づいてくる気配だけはあった。


 電車、来るのかな。


 時刻表を見ようと思って足を踏み出しかけたところで、なぜか胸がざわついた。


 もし電車が来たら、私はどうするんだろう。


 乗るのか。乗らないのか。そもそも、どこへ向かう電車なのか。そんなの時刻表を見ればすぐわかる話なのに、そこへ視線を向けることすら少し怖かった。行き先が書かれてしまえば、この奇妙な時間にも現実の名前がつく。八代方面とか、川内方面とか、そういうふうにちゃんとした目的地が表示されてしまったら、私はただの迷子になってしまう気がした。


 その一方で、どこか期待している自分もいた。


 もしかしたら、電車が来れば何かわかるかもしれない。どうしてここにいるのか。何が起きたのか。私は何を忘れているのか。そんなの電車一本で解決するわけないのに、それでも線路の上を走ってくるものには、いつだって「どこかへ連れていってくれる」感じがあるから。


 私はホームの端ではなく、中央あたりに立ち位置を戻した。


 影が短い。真昼に近い時間なのかもしれない。けれど時計がない。腕時計もしていない。駅舎のほうに目をやると古い時計が掛かっていたような気もするけれど、ここからじゃよく見えない。時間がわからないってこんなに心細かったっけ。スマホが手元にないだけで、自分がどれだけいろんな情報を機械に預けていたのか思わず痛感する。


 蝉はまだ鳴いている。


 相変わらず雨みたいだ。


 空から音だけが降ってきて、ホームの屋根や赤いベンチに積もっていく。見上げれば雲は少ない。日差しはすこしだけきつかった。駅の向こうの海はまぶしく光りながら、どこまでも穏やかな潮風をつれてきていた。それなのに耳のなかではずっと雨が降っているみたいで、自分だけが別の場所に取り残されているみたいだった。


 今日はほんとにどうかしている。寝不足と疲労と反省と暑さが、全部まとめて頭をやらかしているのかもしれない。そんな状態で故郷の駅なんて場所に立たされたら、そりゃ混乱のひとつやふたつ勝手に歩き出すよ、という気もする。


 私は自分を落ち着かせるために、もう一度ゆっくり辺りを見た。


 赤いベンチ。白い柱。薄い影。古い駅名標。線路。海。山。蝉の声。おばあさん。夏。


 どれも確かにそこにある。


 その風景のなかで、私だけが少し浮いている。


 それが、今の一番正確な感覚だった。


 ここは故郷だ。懐かしい。知っている。ずっと覚えていた。でも、私が知っている上田浦駅と、今ここにある上田浦駅は、ぴたりとは重ならない。写真の上に薄いトレーシングペーパーを重ねたみたいに、少しだけずれている。その微妙なずれが、どうにも気になってしまう。


 線路の向こうから、また音がした。


 今度はさっきよりはっきりしている。列車が本当に近づいてくるときの、レールの奥がざわざわし始める感じ。風も少し変わった気がする。私は無意識にホームの白線の内側へ下がった。


 心臓が、さっきからずっと落ち着かない。


 何かが始まる前って、たいていこういう感じだ。試合に出る前もそうだし、告白されそうな空気を察したときもそうだし、先生に指名されそうな気配を感じたときもそうだし、よくわからないくせに身体だけが先に反応する。今も理由はまるでわからないのに、胸の奥が理由もなくそわそわしてしまう。


 列車が来る。


 その確信だけが、なぜかあった。


 私は息を整えて、海の匂いがする風のなかで見知らぬはずなのに懐かしいホームの先を見つめた。


 上田浦駅に降り立ったんじゃない。


 たぶん私は、ここで何かを待っていたのだ。


 ずっと前から。


 そんなはずないのに、そうとしか思えなかった。


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