神廻町
神廻町は、地図の上には存在しない。
けれど、そこは空想の産物でも、単なる死後の世界でもなく、確かに「場所」として在る。
誰かの願望がつくった楽園、という言い方だけでは足りないし、未練に囚われた魂の吹き溜まり、という説明でも本質からずれている。神廻町は、人間が眠るたびに見る夢、忘れたと思い込んでいる記憶、口にできなかった感情、届かなかった未来、叶わなかった約束、それらが長い年月をかけて澱のように積み重なり、やがて都市の輪郭を帯びたものだ。
それは人々の内面に沈んでいたはずの景色が、現実の裏側でひとつの町へ変質した結果でもある。
誰かの夢に一瞬だけ現れた海辺の駅。
幼い頃に住んでいた家の匂い。
夕暮れの校舎。
名前も思い出せない路地。
夏祭りの灯り。
二度と会えない人の笑顔。
そうした断片は、本来なら目覚めとともに失われ、各人の心の奥へ沈んでいくはずだった。けれど、人間の記憶というものは完全には消えない。忘却されたものは無ではなく、行き場をなくしたまま世界の底へ沈殿していく。その沈殿が、長い時間をかけて互いに寄り添い、結びつき、ひとつの地形を形成したものが神廻町である。
だから神廻町には、はじまりがない。
正確には、「この日に生まれた」と言える一点が存在しない。
ある日突然、無から町が出現したのではなく、人類が夢を見はじめた瞬間から、その胎動はすでに始まっていた。夜ごと誰かがまぶたの裏で見た風景が、目覚めたあとにこぼした涙が、声にしなかった祈りが、少しずつ、しかし確実に町の部材になっていった。石畳の一枚は誰かの追想でできており、街灯のほのかな光は誰かがかつて愛した夜の名残であり、坂道のカーブには二度と戻れない放課後の感触が宿っている。
神廻町を構成しているのは、物質ではなく、記憶の密度だ。
だからこの町には、現実の都市にあるような合理性がない。
道は正しく続いているようでいて、ときに夢の論理で繋がる。
昨日まで港へ抜けていたはずの坂道が、今日は高台の団地へ通じていることがある。
廃校になった校舎の裏手が、古い商店街へ繋がっていたり、駅前のロータリーをまっすぐ歩いていたはずなのに、気づけば夏の浜辺へ降りていることもある。
それは町が不安定だからではない。神廻町における地理とは、土木や測量の結果ではなく、人間の記憶どうしの親和性によって決定されるからだ。似た寂しさを持つ場所は近づき、同じ願いがこもった風景は隣り合い、同じ誰かを待ち続けた空間どうしが、町のどこかで自然に接続される。
そのため、神廻町には海があるのに河川の源流がなく、住宅街があるのに行政区分がなく、学校があるのに卒業の概念がない。駅があり、商店街があり、神社があり、堤防があり、団地があり、踏切があり、遊園地めいた残骸の広場まであるのに、都市としての成長史はどこにも見つからない。町は最初から「思い出された形」でそこにある。建設されたのではなく、想起されたのだ。
一、町の外観 — 海辺に沈みきらない薄明の都
神廻町の景観をひと言で表すなら、それは「黄昏に固定された海辺の記憶」である。
町は広大な内海に面している。海は昼にはガラスのように明るく、夜には黒く静まり返るが、神廻町の夜は完全な暗闇にならない。水面の下からほのかな青白い光が滲みつづけており、まるで海そのものが無数の夢の残響を蓄えて発光しているかのように、静かに明滅している。その光は月明かりとも街のネオンとも違う。もっと柔らかく、もっと古く、もっと人肌に近い光だ。見つめていると、思い出せないはずの懐かしさが胸へ流れ込んでくる。
海沿いには長い防波堤が続き、そのコンクリートは潮風と歳月で白く色を失っている。等間隔に並ぶ街灯は、どれも点灯しているのに、まるで節電でもしているかのように頼りない明るさしか持たない。けれど、その頼りなさが町にはよく似合う。光は道を照らすためにあるのではなく、失われた記憶が完全な闇へ沈まないよう、輪郭だけを引き止めておくためにあるからだ。
駅舎は海辺の地方駅を思わせる小ぶりな建物で、古びた時刻表、錆びた手すり、色褪せたベンチ、無人改札の静けさが保たれている。電車は来る。来るが、時刻表どおりではない。現実世界の列車を模しているようでいて、実際には神廻町に迷い込む魂や夢見手の深度に応じて到着する。そのため、ある者にとっては一時間に一本のローカル線に見え、ある者にとっては終電の去った深夜駅に見え、また別の者には、とうの昔に廃線になったはずの路線として現れる。
駅前から伸びる商店街は、閉じたシャッターと営業中の店が奇妙に混在している。
駄菓子屋、古い喫茶店、文房具屋、レコード店、名もない惣菜屋、夏になるとだけ開くかき氷屋、仕立て屋、夜になるとだけ灯りのともる写真館。そこでは買い物ができることもあるし、できないこともある。硬貨を出せば普通に菓子パンが買える日もあれば、店主がこちらの顔を見るなり「今日はそれ、売れない日なんだよ」と笑うこともある。神廻町の商いは貨幣経済によってではなく、記憶の濃淡によって成り立っているからだ。強く思い出されている店ほど物を手渡せるし、忘れられかけている店ほど、ショーケースの中身は蜃気楼のように曖昧になる。
高台には住宅地がある。昭和の気配を残した平屋、団地、公営住宅めいた建物、庭先に朝顔が咲く一戸建て、空き家に見えて夜だけ灯りのともる家。そこに住む者たちは皆、自分の家がどこにあるかを自然に知っている。たとえ現実でその家に住んだことがなくても、その家は彼らの「帰りたい」という感情に最もよく似た形をして現れる。だから神廻町の家とは、かつて実在した家の再現というより、「帰属感」が建築になったものだ。玄関の軋む音、台所に残る夕飯の匂い、冷蔵庫の低い唸り、畳の部屋へ差し込む西日、そのすべてが住人の心を過不足なく慰めるよう調整されている。
さらに町の奥へ行くと、学校区がある。
ここには小学校、中学校、高校の面影が重なったような校舎群があり、チャイムは鳴るが授業は決して完全には始まらない。黒板には消し忘れた数式や日直の名前が残り、廊下にはポスターが剥がれかけたまま張られ、教室には風ばかりが通る。運動場には時折ボールの弾む音が響くが、試合は終わらない。神廻町において学校は教育機関ではなく、もっとも鮮烈な「途中」の象徴である。大人になりきれなかった時間、告げられなかった言葉、叶わなかった進路、終わらなかった部活動、そうした未完の感情が校舎の形をとって残っている。
町の最奥には、神廻町の名の由来ともなった「廻神社」がある。
それは山腹と海風の境目に建つ古社であり、神廻町全体の記憶循環を司る核でもある。石段は長く、途中途中に風鈴や古い絵馬が揺れている。社殿は決して巨大ではないが、町のどの場所よりも「現実でない静けさ」を持つ。人々がここへ来るのは願掛けのためではない。自分が何を忘れているのか、あるいは何を忘れられずにいるのかを確かめるためだ。神社そのものが神を祀る場であると同時に、町の夢と記憶を濾過し、均衡を保つ装置になっている。
二、神廻町の成立原理 — 夢が町になるまで
神廻町は、単独の夢から生まれたわけではない。
誰かひとりが強烈に夢見た理想郷でもなければ、死者の集団意識がつくった共同幻想でもない。むしろ神廻町は、無数の人間が生涯にわたって見た「小さな夢」の寄せ集めである。ここでいう夢とは、睡眠中のイメージだけではなく、願い、回想、白昼夢、郷愁、恐れ、期待、後悔までを含んだ広い概念だ。人は未来へ向けて夢を見るが、それと同じくらい、失った過去を夢見る。神廻町はその両方、つまり「まだ来ていないもの」と「もう戻らないもの」が重なり合ってできた町だ。
この世界の裏側には、夢を受け止める層があるとされる。
それは海より深く、空より広い、名称のない精神圏で、人類が誕生した時代から存在している。夢は目覚めとともに消えるように見えて、その実、完全には失われず、微細な痕跡としてこの層へ沈む。ふつう、その痕跡は他と混ざり、意味を持たない曖昧な靄へ変わる。ところが、ある種の夢だけは沈みきらない。強い感情を伴った夢、複数人に共有された記憶、死の間際に握りしめられた景色、心の避難所として繰り返し思い描かれた場所。そうしたものは比重を持ち、浮力を持ち、互いに結びついて塊になる。
神廻町は、その塊が臨界点を超えたときに成立した。
成立の瞬間を観測した者はいない。
ただ、町の古い住人たちのあいだには、ひとつの口伝が残っている。最初に現れたのは「波音」だった、と。まだ町も道もなく、ただ果てのない暗がりと静かな海だけが広がっていた場所に、誰かが「帰りたい」と願ったとき、小さな波音が生まれた。次に灯りがひとつ生まれ、やがて駅のホームが浮かび、誰かの待つベンチが置かれ、見知らぬはずの人々がそこへ降り立つようになった。つまり神廻町は、建築されたのではなく、まず「迎える場所」として出現したのだ。
誰かが戻りたいと願えば路地ができ、誰かが会いたいと願えば広場が生まれ、誰かが言えなかったさよならを繰り返し夢見れば、夕暮れの駅がそのたび少しずつ精度を増していく。
ゆえに神廻町は、本質的に受容の町である。
来る者を拒まない。
追われた者、死にかけた者、眠りの深みに沈んだ者、現実から少しだけはみ出した者、誰であれ、心のどこかで「ここではないどこか」を強く求めた瞬間に、神廻町と接続されうる。だが、誰も彼も自由に来られるわけではない。神廻町へ至るには、現実と夢の境界が一時的に薄くなっていなければならない。重度の睡眠状態、臨死、昏睡、記憶の断絶、極度の感情高揚、あるいは深い喪失。それらによって人の心が「現実の固定」から一瞬ゆるんだとき、神廻町はその隙間へ入口を開く。
三、住人の分類 — 現実由来の魂と夢の住人
神廻町に暮らす者は大きく二種類に分かれる。
ひとつは、現実世界に起源を持つ者。
もうひとつは、神廻町そのものから生まれた「夢の住人」である。
1. 現実由来の住人
現実に生きている者、あるいは生きていた者の魂や意識が、何らかのかたちで神廻町に漂着した存在である。
生者のまま迷い込む者もいるし、死の淵で一時的にここへ流れ着く者もいる。すでに現実で命を終えた者が、記憶の残滓として定着することもある。彼らは自分の名前や人生を比較的よく保持しているが、滞在が長くなるほど、現実との接続が薄れ、何を失ってここへ来たのかを徐々に曖昧にしていく。
彼らの特徴は、「可能性の匂い」を微かに持っていることだ。
それは神廻町において異質なものとされる。未来を選び取りうる気配、まだ変わりうる輪郭、生きた時間特有の未確定性。それゆえ、町の古い住人は生者が迷い込んだとき、どこか懐かしさと不安を同時に覚える。生者は神廻町にとって客人であると同時に、町の均衡を乱しうる存在だからだ。
2. 夢の住人
夢の住人は、現実のどこにも戸籍を持たない。
人々の夢、記憶、期待、喪失、理想化された面影が混ざり合い、ひとりの人格として結晶した存在である。彼らは生まれながらにして神廻町の住人であり、町の外を知らない。にもかかわらず、海の向こうに何かがあることだけは本能的に感じている。彼らの目には、現実世界の輪郭は直接見えないが、風向きの変化や波の色の違いとしてその存在を察知する。
夢の住人には、必ず「由来の核」がある。
たとえば、誰かが幼い日に憧れた優しい先輩。
果たせなかった初恋の面影。
もう会えない兄の笑顔。
事故で失われたはずのクラスメイトの手つき。
そうした複数の記憶片が凝集し、人格を得たものが彼らだ。
ただし、彼ら自身は自分が誰の夢から生まれたかを知らない。
知らないまま、ここで生まれ、ここで笑い、ここで暮らしている。彼らにとって自分の人生は偽物ではない。現実に由来しないことは欠陥ではなく、むしろ神廻町そのものと同じく、記憶の海から生まれたという出自に過ぎない。問題は、彼らが「本来なら存在しない」ことを知らない点にある。彼らは世界に受け入れられていると思っている。けれど実際には、神廻町の外側に出た瞬間、輪郭の維持が難しくなる。なぜなら彼らは、夢を見る者たちの心によってのみ支えられているからだ。
四、時間の性質 — 永遠に夕暮れへ近づきつづける町
神廻町には時間がある。
だが、それは進行というより循環に近い。
朝は来る。昼も来る。夜もある。
季節の移ろいも一応は存在する。夏祭りの提灯が灯る時期があり、金木犀が香る通りがあり、雨ばかり降る日もあれば、吐く息が白くなる朝もある。けれど、それらは現実の天体運行に従っているのではなく、町全体の感情気候によって緩やかに変動している。もっとも安定して現れるのは夏の終わりと夕暮れであり、それが神廻町の基調色になっている。
なぜなら、人間の郷愁は「終わりかけの時間」と強く結びついているからだ。
完全な真昼は記憶に残りにくい。
真夜中は深すぎて形を失いやすい。
その点、夕暮れは輪郭と喪失を同時に持つ。明るいのに終わりへ向かっており、美しいのに続かない。人が何かを惜しむとき、その多くは夕暮れの色を帯びる。神廻町がいつもどこか夕方めいて見えるのは、そのためだ。ここでは時間そのものが、人間の懐かしさへ最適化されている。
また、神廻町では「未来」が弱い。
明日という概念はある。
住人たちは明日の約束もするし、翌日に店を開ける話もする。けれど、その明日は現実世界のように不可逆な推進力を持たない。予定は立つが、運命は進まない。子どもは一定以上には成長せず、老人は老いきらず、傷は癒えるが運命を変えるほどの治癒にはならない。学校は卒業へ向かわず、恋は大きな決着へ届きにくい。神廻町では、あらゆるものが「いちばん記憶に残りやすい瞬間」に留め置かれる傾向を持つからだ。
ここに住み続けることは、穏やかであると同時に、きわめて残酷でもある。
苦痛は薄れる。
飢えも、病も、老いも、現実ほど苛烈ではない。
だが、それと引き換えに、可能性がない。
人生には失敗がある代わりに変化があり、選択の重みがある代わりに未来がある。神廻町からは、その未来へ踏み出すための不確定性が抜き取られている。ここは楽園に見えるが、正確には「喪失をこれ以上増やさないよう調整された保存庫」なのだ。保存されたものは美しいが、育たない。神廻町の住人たちは、長く暮らすほどそのことに鈍くなる。違和感が痛みへ変わる前に、町が優しく撫でてしまうからだ。
五、海と光 — 神廻町の根幹をなすもの
神廻町の中心は神社ではなく、海である。
町をつくっている夢と記憶は、最終的にすべて海へ流れ込む。
海は巨大な貯蔵庫であり、墓所であり、揺り籠であり、鏡である。忘れられた記憶は海底へ沈み、思い出されかけた記憶は夜の水面で淡く発光する。そのため神廻町の海辺は、昼よりも夜にこそ美しい。波間には無数の燐光めいた粒が浮かび、潮の満ち引きにあわせて微細な光が寄ったり散ったりする。それはプランクトンではない。人々の夢の破片だ。
特に、町の沖合には「灯りの帯」と呼ばれる海域がある。
風のない夜、水平線近くにだけ青白い光が集まり、まるで海の上に見えない道路が通っているように見える場所だ。住人たちはあそこを指して、海の向こう側、と呼ぶ。そこが現実世界と最も近い境界だと信じられている。
死にかけた者が帰還するとき、あるいは夢見手が目覚めへ引き戻されるとき、意識はしばしばその光の帯を渡っていくとされる。逆に、夢の住人がそこへ近づきすぎると、輪郭が薄れ、声が届きにくくなる。彼らにとって海は故郷であると同時に、越えてはならない境界なのだ。
光にもまた、独自の法則がある。
神廻町の灯りは電力では説明できない。
街灯、看板、教室の蛍光灯、祭りの提灯、駅の自動販売機の明かり、海面の発光、それらはすべて「誰かに思い出されている量」に応じて明滅する。強く記憶されている場所ほど明るく、忘れられた場所ほど暗い。だから、突然ある路地が温かな光を帯びることがある。遠い現実のどこかで、誰かがその路地を夢見たからだ。反対に、かつて賑わっていたはずの広場が一夜で薄暗くなることもある。もう誰もその景色を思い出せなくなったからだ。
神廻町の住人たちは、光の揺れを天気のように受け止めている。
「あの校舎、今日は明るいね」
「誰かが強く思い出してるんだろう」
そうした会話は日常的に交わされる。記憶が町を照らすことを、彼らは経験的に知っている。
六、神廻町の宗教性 — 神ではなく「想いの巡り」を祀る
神廻町には信仰がある。
ただし、それは万能の人格神への崇拝ではない。
廻神社で祀られているものの正体は、「巡り」そのものだと考えられている。
人の想いが生まれ、失われ、忘れられ、誰かへ受け継がれ、また別の形で戻ってくる、その循環である。神廻町では、記憶は個人の所有物ではなく、世界を循環する水のようなものだ。だから神社は願いを叶える場所ではなく、想いが滞りなく巡るよう祈る場所となっている。
社殿の奥には「夢見石」と呼ばれる白い石が安置されている。
触れると、忘れていた記憶の断片を見ることがあると言われるが、見たいものが見えるわけではない。むしろ、自分がいちばん見たくないもの、あるいはいちばん大事だったのに見失っていたものが、断片的に返ってくる。そのため夢見石に触れることは一種の通過儀礼とされ、町の古い住人は簡単には近づかない。夢を支えに生きる町で、自分の根にある真実を知ることは、ときに暮らしそのものを揺るがしかねないからだ。
神廻町には祭礼もある。
もっとも大きなものは「送り火祭」で、夏の終わり、海辺一帯に灯籠が流される。
住人たちは自分の忘れたいこと、忘れたくないこと、どちらか一方を灯籠へ書いて海へ流す。面白いのは、どちらを書いたのか本人にも曖昧なことが多い点だ。神廻町において忘却と祈りはよく似ている。手放したいのに手放せない感情こそ、もっとも美しく光るからだ。送り火祭の夜、海には無数の灯りが漂い、沖合の発光と混ざり合って、町全体がひとつの夢の中へ沈んだように見える。
七、禁忌と危うさ — 楽園の均衡を壊すもの
神廻町にはいくつかの禁忌がある。
最も重いものは、「自分の由来を暴きすぎないこと」だ。
現実由来の住人が自分の死や事故の真相に固執しすぎたり、夢の住人が自分が誰の記憶から生まれたのかを執拗に探ったりすると、町はそれに反応して不安定になる。なぜなら神廻町は、厳密な真実の追及よりも、感情の平衡によって保たれているからだ。真実はしばしば、保存された優しさを破壊する。誰もが本当に望んでいたものが、必ずしも事実の回復ではないことを、この町は知っている。
次に重い禁忌は、「海の向こうへ渡ろうとしないこと」である。
生者であれば帰還できる可能性があるが、夢の住人にはそれができない。向こうへ行こうとするほど、彼らの身体は薄れ、名前がほどけ、誰だったのかが曖昧になっていく。にもかかわらず、時折それを試みる者がいる。神廻町にも、現実の匂いに憧れる者がいるからだ。自分の存在が作り物かもしれないと感じた者ほど、「本物の世界」を見たがる。だが、その憧れは悲劇と背中合わせである。
さらに、町には「鐘鳴り」の現象がある。
どこにも鐘楼などないのに、時折、遠くで低い鐘のような音が響く。
それは町の均衡が乱れはじめた徴候だとされる。生者が長く滞在しすぎたとき、忘却されるはずの記憶が町を満たしすぎたとき、あるいは、住人たちのあいだに強すぎる「未来への意志」が生まれたときに鳴る。鐘鳴りが続くと、道のつながりが狂い、夜の光が不自然に強まり、海の発光が赤みを帯びる。つまり神廻町は、可能性を持ち込まれることで揺らぐのである。
それは皮肉でも何でもなく、この町の本質が「終わったものの保存」にあるからだ。
八、感情の気候 — 神廻町が人へ与えるもの
神廻町へ迷い込んだ者のほとんどは、最初に安堵を覚える。
理由は簡単だ。
ここには、現実に付きまとう切迫がない。
締切も、通勤も、試験も、老化も、将来不安も、具体的な病理も、輪郭を失っている。食べなくてもすぐには飢えないし、眠らなくても発狂するようなことはない。人は穏やかで、風景は懐かしく、誰かが自分を知っていてくれる気がする。そのため迷い込んだ者は往々にして、「ここにいてもいいかもしれない」と思ってしまう。
だが、その安堵は徐々に別の感情へ変わる。
説明しがたい薄い寂しさ。
幸福なのに、何かが欠けている感じ。
涙が出るほど懐かしいのに、それを誰にも説明できない孤独。
神廻町では痛みが少ないぶん、自分が本当に求めていたものがじわじわ浮かび上がる。失った人に会いたかったのか。自分の人生をやり直したかったのか。もう疲れたから立ち止まりたかったのか。それらは似ているようでいて、まったく違う願いだ。町は優しい顔でそれを映し返すため、住人はしばしば、自分が何から逃げてきたのかをここで知る。
神廻町は慰めの町であると同時に、真実を遅効性で突きつける町でもある。
その真実は論理ではなく感触として訪れる。
夕暮れのホームを見た瞬間。
誰もいない教室で風鈴の音を聞いた瞬間。
海辺で、自分が知らないはずの歌を口ずさんでしまった瞬間。
そういうとき、人はふいに理解する。自分はここに来たかったのではなく、ここで失ったものに会いたかったのだと。そして、それは永遠には手に入らないのだと。
九、物語上の機能 — 神廻町は「選べなかった人生」の舞台
物語装置としての神廻町は、死後世界でも異界でもなく、「選ばれなかった可能性の展示室」に近い。
現実世界では、人は常に選び続ける。
行かなかった学校、言えなかった告白、会いに行かなかった日、乗らなかった電車、助けられなかった誰か。人生は選択の連続であり、そのたびに無数の可能性が捨てられていく。神廻町は、それら捨てられた可能性が「完全には消えなかった」ことを示す場所だ。ただし、それらは可能性としてそこにあるのではない。すでに失われたために、もっとも美しい残像となって保存されている。
つまりこの町は、「もしも」を叶える場所ではない。
「もしも」が叶わなかったことを、美しいまま保持する場所である。
だから神廻町におけるドラマは、何かを獲得する話よりも、何を手放し、何を持ち帰るかの話になる。
迷い込んだ者がここで過ごす時間は、ある種の猶予だ。
死ぬための猶予。
生き返るための猶予。
忘れるための猶予。
思い出すための猶予。
ここでは決断は先送りにされるが、消えることはない。むしろ、あまりにも優しく保留されるせいで、最後に選ぶべきものがくっきり見えてしまう。
十、神廻町の本質 — 世界が忘れたものに居場所を与える町
結局のところ、神廻町とは何なのか。
それは、世界が忘れたものに一時的な居場所を与える町である。
忘れられた風景。
忘れられた約束。
忘れられた人。
忘れられた感情。
そして、自分でも忘れたつもりになっていた「本当は失くしたくなかったもの」。
神廻町はそれらを拾い上げ、海風と薄明のなかへ置き直し、「まだここにあるよ」と静かに教える。強引に突きつけはしない。泣けとも言わない。取り戻せとも、諦めろとも言わない。ただ、そこにあるという事実だけを、美しい景色として示してくる。
その優しさは救いであり、同時に毒でもある。
あまりにも居心地がいいから、人はここに留まりたくなる。
あまりにも懐かしいから、現実へ戻る理由を見失いそうになる。
だが、町に長く留まれば留まるほど、人は「これ以上何も失わないかわりに、何も得られない」静かな停滞へ溶けていく。神廻町はその意味で、傷ついた人間に最も魅力的な罠を差し出す。もう頑張らなくていいよ、と。ここにいれば、変わらなくていいよ、と。
その囁きがどれほど甘いかを知っているからこそ、この町は恐ろしい。
それでもなお、神廻町は悪ではない。
この町が存在しなければ、人はあまりにも多くのものを失いっぱなしになる。
現実は進む。
人は忘れる。
日常は喪失の上に新しい出来事を重ねていく。
そうやって生き延びるしかない。けれど、本当に大切だったものまで、すべて時間の彼方へ捨ててしまったら、人は空っぽになる。神廻町は、その空白を埋めるためにある。完全に失われてしまう前に、いちどだけ、あるいは何度でも、失くしたものの輪郭を抱きしめなおすために。
海の見えるホーム。
閉じかけた商店街。
夕焼けに染まる団地。
風の抜ける校舎。
祠のある岬。
帰るあての曖昧な家。
そこで暮らす、現実にも夢にも属しきれない人々。
神廻町は、そういうものの集積だ。
それは世界の裏側にある、もうひとつの故郷である。
本当には帰れないからこそ、いつまでも美しい。
本当には存在しないからこそ、誰の心にも入口がある。
そしていつか必ずそこを出なければならないからこそ、その一瞬一瞬がひどく愛おしい。
神廻町では、今日も海が光っている。
誰かの忘れた夢が、波間で静かに揺れている。
駅には列車が来る。
名も知らない住人が、夕暮れのベンチに腰を下ろしている。
学校の窓には風が通り、神社の鈴は鳴らないまま祈りだけが積もっていく。
そしてこの町は誰かが「帰りたい」と願うかぎり、消えない。
世界が続くかぎり、夢を見る人間がいるかぎり、
神廻町は、記憶の海辺に永遠に少しだけ灯りをともしている。




