舞が制服を選んだ日
あれは、京都祭り殺人事件が解決し、北条水道局での最後の確認を終えて署へ戻った日のことだった。
夕方から降り出した雨は、夜になるころには本降りになっていた。アスファルトを叩く水音が絶え間なく続き、街灯の光が滲んで揺れている。事件が終わった安堵と、どこか空虚な疲労が胸の奥に残っていた。
署に着いたとき、空は墨を流したように暗かった。
私はロッカーを閉め、濡れた髪をタオルで軽く拭きながら、そろそろ帰ろうかと考えていた。
そのときだった。
「送ろうか?」
背後から、低い声がした。
振り向くと、吉川先輩が立っていた。
私は一瞬、言葉を失った。五年以上同じ部署にいるが、そんなことを言われたのは初めてだった。吉川は必要以上に距離を詰める人ではない。むしろ、どこか一線を引く人だ。
「……ありがとうございます」
戸惑いを隠すように、私は頭を下げた。
署を出ると、雨はさらに強くなっていた。吉川の車は古びたセダンで、ワイパーが忙しなく左右に揺れている。
助手席に座ると、ふわりと煙草の匂いがした。
私は照れ隠しのように口を開いた。
「それにしてもこの車、少し煙草の匂いがしますね」
吉川はハンドルを握ったまま、わずかに笑った。
「なかなか、やめられなくてな。はははっ」
笑い声は軽いが、どこか自嘲が混じっている。
車は雨の夜道をゆっくりと走り出した。信号の赤が、濡れた路面に長く伸びている。
そのとき、唐突に吉川が言った。
「舞は、なんで警察官になったんだ?」
私は缶コーヒーのプルタブに指をかけたまま、動きを止めた。
「なぜ、ですか?」
「この前な、公園で俺の頬を打っただろ」
心臓が、わずかに跳ねる。
「“いつまでそうするつもりですか”って。あれな……」
ワイパーが一定のリズムで動く。
「あれ、自分自身に言ってるように聞こえた」
私は小さく笑った。
「はははっ、そんな風に聞こえました? 何でもな――」
「話してくれないか?」
吉川は、静かに言った。
私の言葉を遮るように。
視線は前を向いたまま。責めるでもなく、探るでもなく、ただ待っている。
話したくない。
私はそう思った。
吉川は私の沈黙を察したのだろう。ウインカーを出し、道端に車を寄せた。エンジン音だけが、静かに響いている。
雨は小降りになっていた。
フロントガラスを流れる水滴が、街灯の光を細く裂く。
私は両手を膝の上に置いた。指先が少し冷たい。
「……私が高校二年のときです」
喉の奥が乾く。
「父が、通勤途中、痴漢で逮捕されました」
言葉が、車内に落ちた。
吉川は煙草を取り出しかけた手を止め、そっとポケットに戻した。
何も言わない。
その沈黙が、ありがたかった。
雨音だけが、静かに続いていた。
私はその時の事を思い返すように話し始めた。
今日も女性専用車両は、目を疑うほどに混んでいた。
ホームに滑り込んできた電車の窓越しに、ぎゅうぎゅうに押し合う人影が見える。諦め半分で私はため息をつき、隣の普通車両へと足を向けた。仕方ない。都心へ向かうこの時間帯は、どの車両も戦場だ。
ドアが閉まるや否や、背中と背中がぶつかり、腕が押しつぶされる。吊り革に伸ばした指先が、かろうじて輪に引っかかった。身動きは、ほとんど取れない。
この路線は痴漢が多いことで有名だった。
私は幸い、直接の被害に遭ったことはない。けれど、学校では何度も耳にしている。泣きながら保健室に駆け込んだ子。電車に乗れなくなった子。笑ってごまかしていたけれど、手が震えていた子。
慣れたつもりでいても、胸の奥がざらつく。
電車が急ブレーキをかけた。車体がきしみ、身体が前へ押し出される。吊り革を握る手に、ぐっと力を込める。
そのときだった。
ふと、窓際のわずかな隙間が目に入った。
中年の会社員風の男が、女子高生にぴたりと張りついている。逃げ場のない空間で、体を密着させるように。
下のほうで、何かが動いている。
「……痴漢?」
手は見えない。だが、女の子の顔がこわばっている。唇を噛み、視線を伏せている。
胸が、どくりと鳴った。
その男が、不意に周囲を見回した。そして、横を向く。
目が、合った。
「えっ……お父さん?」
一瞬、息が止まった。
違う。父ではない。
他人だ。知らない顔だ。
ほっとしたのか、失望したのか、自分でも分からない感情が胸をよぎる。だが男はまだ、身体を密着させている。
見えない。決定的な証拠が、見えない。
電車が駅に滑り込み、扉が開いた。人の波が一斉に外へ流れ出る。その勢いに身を任せながら、私は必死に彼女のほうへ身体をねじ込んだ。
「大丈夫? 痴漢されたの?」
息を切らして問いかける。
女の子は、ほんのわずかに、頷いた。
振り返る。
男の姿は、もうなかった。
「……クソッ」
吐き捨てるように呟いた声は、人波にかき消された。
今度こそ、捕まえてやる。
心の奥で、何かが強く結ばれた。
私は、都内の小中高大一貫校――クリス女子学園に、高校から編入した。今は高校二年生。あの日までは、大学へそのまま進むつもりでいた。特別な夢もなく、ただ流れに身を任せるように。
けれど。
あの出来事が起きるまでは。
「ただいまー」
玄関のドアを開けると、いつもの匂いがする。夕飯の湯気と、どこか懐かしい柔軟剤の香り。
「お帰り」
母の声が台所から返る。
リビングには父がいた。パソコンに向かい、イヤホンを片耳にかけている。画面には、波形の並んだ音楽編集ソフトが開かれていた。
父は学生時代、バンドを組んでいたらしい。今も休日になると、こうして趣味で曲を作る。少し照れくさそうに、でもどこか誇らしげに。
私は、小さい頃から父の後ろをついて回っていた。買い物も、散歩も、ライブハウスも。
父の背中は、大きくて、頼もしくて、私の世界そのものだった。
ほんの少し、かっこいい。
いや、かなり。
私には、自慢の父だった。
――この日までは。
ある日、家に帰ると母はいなかった。
買い物かな、と軽く思う。携帯のメールにも受信記録はない。ま、そのうち帰ってくるか。
空腹に耐えかねて、冷蔵庫を開けた。そのとき、玄関のドアが開く音がした。
「お帰り」
声をかけたが、返事がない。
リビングから玄関を見ると、母が立っていた。手提げ袋を持ったまま、動かない。
「どうしたの? 母さん」
「ああ、舞、帰ってたのね」
母はゆっくりと靴を脱ぎ、リビングの椅子にどっしりと腰を下ろした。背中が、いつもより小さく見えた。
「どうしたのよ、母さん」
しばらく、沈黙。
母はうつむき、やがて顔を上げた。目の奥に、見慣れない影がある。
「舞。落ち着いて聞いてね」
その前置きだけで、胸がざわついた。
「父さんが……痴漢で捕まったの」
時間が、止まった。
耳鳴りがする。
とっさに、あの電車の中で見た男の顔が浮かんだ。灰色のスーツ。無表情な目。
「嘘……でしょ?」
血の気が、音を立てて引いていく。
「父さんは、やってないって警察にも何度も話したみたい。痴漢を認めなかったから、警察署に連れていかれたの。今、会ってきた」
「お父さん、なんて?」
「絶対やってない。信じてくれって」
母の声が震える。
「父さんがそんなことするわけがないわ」
「そうよ。何かの間違いよ」
私は即座に言い切った。
父さんが、あんな卑劣な男のような人であるはずがない。
「母さん、お父さんはそんなことする人じゃないよ。舞は父さんをずっと見てきたから分かるよ」
「母さんも信じてる。でも……」
「でも何?」
「父さんは弁護士さんに頼むって。でも、勾留されるから会社にも連絡がいく。会社を首になるかもしれないって」
「そんな……無実なのに何で?」
喉がひりつく。
「痴漢を認めたら釈放されるって」
「でも、やってないなら認める必要ないじゃない」
「二人に目撃されてたらしいの。その場で取り押さえられたって」
嘘だ。
父さんはやってない。
絶対やってない。
私は頭の中で繰り返した。
だが――
あの電車で見た男の顔が、どうしても消えなかった。
もし。
もし、あのとき目が合った相手が、本当に父だったら。
私は、どうしていただろう。
信じられただろうか。
それとも――。
胸の奥で、何かが静かに崩れ始めていた。
あの日、私は初めて、自分の制服を鏡の前でじっと見つめた。
この制服で、私は何を選ぶのか。
父を信じる娘でいるのか。
被害者を守る側に立つのか。
その答えは、まだ出ていなかった。
父が痴漢を認めたのは、逮捕から十八日目だった。
弁護士からの電話は、夜だった。
「……ご主人が、供述を変更されました」
母の手から受話器が滑り落ちた。
私は意味が分からなかった。
供述を変更?
何を?
弁護士の言葉は淡々としていた。
「否認を続けると、起訴の可能性が高い。裁判になれば長期化する。ご家族への負担も大きい。そう判断されたようです」
「違う……」
私は首を振った。
「お父さんはやってない」
母は泣きながら言った。
「もう限界だったのよ……会社からも連絡が来て……依願退職なら穏便にするって……」
父は守ろうとしたのだ。
家族を。
私を。
だから、やっていない罪を認めた。
釈放された父は、別人のようだった。
頬はこけ、目は落ちくぼみ、背中が小さくなっていた。
近所の視線は冷たかった。
無数の無言電話の着信履歴。
学校では、ひそひそ声が聞こえた。
「舞のお父さんってさ……」
私は廊下をまっすぐ歩いた。
信じると決めていた。
父は無実だと。
でも――
あの日の電車の光景が、何度も頭をよぎった。
灰色のスーツの男。
目が合った瞬間。
もし、あれが父だったら?
その疑念は、消えていなかった。
ある夜。
リビングに、重たい沈黙が流れていた。
父はテレビを見ているふりをしていた。
音は出ていない。
私は、どうしても聞かずにはいられなかった。
「……お父さん」
父が、ゆっくりと顔を上げた。
「ほんとに、やってないんだよね?」
一瞬、空気が凍った。
父の目が揺れた。
その揺れを、私は“迷い”だと思ってしまった。
違ったのに。
あれは――傷だったのに。
父は小さく笑った。
「……舞は、信じてくれるよな。」
私は言ってしまった。
「だって……認めたんでしょ?」
「やってないなら、なぜ認めたの?」
父は黙った。
沈黙が、何より雄弁だった。
私は耐えられなかった。
「お父さん、痴漢してたのね。最低」
言葉は、刃物より鋭かった。
言った瞬間、取り消したくなった。
でも、もう戻らない。
父の顔から、光が消えた。
その夜、父は出ていった。
飲めない酒を飲み、車道で倒れているところを、深夜の車にはねられた。
即死だった。
葬儀は静かだった。
会社の人は誰も来なかった。
私は、父の遺影を見つめ続けた。
あの日の目。
あれは迷いではなかった。
傷だった。
信じてもらえない痛み。
一番信じてほしい娘に、疑われた痛み。
私は、父を殺した。
あの一言で。
それから半年後。
ニュースが流れた。
『痴漢冤罪を利用した示談金詐欺グループ逮捕』
女子高生と大学生二人。
余罪多数。
過去の被害者リストの中に、父の名前があった。
再捜査。
証言の矛盾。
LINE履歴。
金銭のやり取り。
父は――
無実だった。
私は、床に崩れ落ちた。
「ごめん……」
何度も言った。
でも、もう届かない。
あの一言は、戻らない。
父は完全な被害者だった。
それなのに。
私は疑った。
私は突き放した。
私は傷つけた。
警察官の制服を着た朝。
鏡の前で、自分を見つめた。
守れなかった。
真実を。
父を。
私は決めた。
同じことを、繰り返させない。
証拠を見極める人間になる。
思い込みで誰かを断罪しない。
弱い立場の人を守る。
そして、
最後まで、信じ抜ける警察官になる。
父が信じてほしかったように。
吉川先輩は、私の話をただ、じっと聞いていた。
ハンドルに置いた手は動かない。ワイパーの規則的な音だけが、車内に淡く響いている。
私は続けた。
「父の痴漢冤罪が明らかになった数日後、警察の人が二人して家に来ました。母が一人で応対しました」
当時の玄関の光景が、ふっと脳裏に浮かぶ。
濡れた革靴。黒いコート。硬い声。
「謝罪ではなく、捜査経緯の説明と、捜査手順には問題なかったという話だったそうです」
母はあとから、そう言った。
震える声で。
「『そんなことを言いに来たのですか。うちの家庭をめちゃくちゃにしておいて!』って、怒鳴ったそうです」
車内に、わずかな沈黙が落ちる。
「そして翌日、もう一人の刑事が来ました。深く、頭を下げたそうです」
その姿を、私は見ていない。
けれど、母の口ぶりで分かった。
私は小さく息を吸った。
「その話を聞いたとき、警察官になろうと決めまたんです。」
声は、不思議と震えなかった。
しばらくして、吉川先輩がぽつりと呟いた。
「それ……今の柊部長だよ」
「えっ?」
思わず顔を上げる。
「その話、多分、部長から聞いたことがある。冤罪になった人に高校生の娘がいたって。自分にも同じくらいの娘がいたから、気になってな」
ワイパーが水を弾く。
「そのとき、君のお母さんから言われたそうだ」
吉川は、淡々と続けた。
「『娘はお父さん子でね。どこへ行くのもついていってたんです。それだけに、お父さんを信じきれず酷いことを言ったと後悔してました。私のせいで、私が殺したんだ』って」
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
私は何も言えなかった。
ただ、目に溜まった涙が、滲んだ街灯の光を揺らしていた。
吉川先輩は、それ以上は聞かなかった。
エンジン音だけが、静かに夜を刻んでいた。
私の話を聞いて、そのあと、吉川先輩は沙織さんの命日に墓参りに行ったそうだった。
私は、そのことを後から知った。
そしてその数日後、署の休憩室で、唐突に言われた。
「この事件の前に沙織の母親のところに行ってくれてたそうだな」
私は静かに答えた。
「……はい」
吉川は、苦笑いを浮かべた。
「参ったなあ。今回は僕の負けだ」
負け、という言葉が、どこか柔らかい。
「沙織のお母さんから聞いた。自分が貧血がひどいのを知ってて止められなかったって。あんなに嬉しそうな沙織を見たことがなかったって」
少し間を置く。
「純一さんを本当に愛していたんだな、と。だからこそ、嫉妬みたいな感情が事故を俺のせいにしてしまったって」
私は、胸の奥でそっと息を吐いた。
「舞さんに打ち明けたことで、少し楽になったって言ってた」
それを聞いたとき、私は本当に良かったと思った。
誰かの重荷が、ほんの少しでも軽くなったのなら。
「ありがとう」
吉川は、照れくさそうに言った。
その言葉は、軽くない。
でも、重すぎもしない。
翌週、吉川先輩は休みを取った。
沙織さんの両親と、私とで、ドライブに出かけることになった。
運転席に吉川先輩。
助手席には沙織さんのお父さん。
後部座席には、いつの間にかすっかり打ち解けた沙織さんのお母さんと私。
車は海沿いの道を走っていた。
窓から差し込む光が、柔らかい。
特別な話はしなかった。
道を間違えれば笑い、コンビニのコーヒーが熱いと騒ぎ、ラジオの懐メロに父親が小さく鼻歌を重ねる。
沙織の名前は、誰も口にしなかった。
でも、不自然な沈黙もなかった。
沙織さんのお母さんは、以前よりも少しだけ明るくなっていた。
それが分かる。
吉川はバックミラー越しに、ほんの一瞬、私を見た。
私は小さく頷いた。
ふと、窓の外を見る。
流れていく景色。
陽に照らされた海面が、静かにきらめいている。
傷は消えない。
消えなくていい。
それでも、人は同じ車に乗れる。
並んで、同じ方向へ走っていける。
私は思った。
――これが、警察官の制服を選んだ日が報われた日だったのかな。
小さく、誰かが笑った。
その音は、穏やかな風に溶けていった。
完




