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舞が制服を選んだ日

掲載日:2026/03/22

あれは、京都祭り殺人事件が解決し、北条水道局での最後の確認を終えて署へ戻った日のことだった。

 夕方から降り出した雨は、夜になるころには本降りになっていた。アスファルトを叩く水音が絶え間なく続き、街灯の光が滲んで揺れている。事件が終わった安堵と、どこか空虚な疲労が胸の奥に残っていた。

 署に着いたとき、空は墨を流したように暗かった。

 私はロッカーを閉め、濡れた髪をタオルで軽く拭きながら、そろそろ帰ろうかと考えていた。

 そのときだった。

「送ろうか?」

 背後から、低い声がした。

 振り向くと、吉川先輩が立っていた。

 私は一瞬、言葉を失った。五年以上同じ部署にいるが、そんなことを言われたのは初めてだった。吉川は必要以上に距離を詰める人ではない。むしろ、どこか一線を引く人だ。

「……ありがとうございます」

 戸惑いを隠すように、私は頭を下げた。

 署を出ると、雨はさらに強くなっていた。吉川の車は古びたセダンで、ワイパーが忙しなく左右に揺れている。

 助手席に座ると、ふわりと煙草の匂いがした。

 私は照れ隠しのように口を開いた。

「それにしてもこの車、少し煙草の匂いがしますね」

 吉川はハンドルを握ったまま、わずかに笑った。

「なかなか、やめられなくてな。はははっ」

 笑い声は軽いが、どこか自嘲が混じっている。

 車は雨の夜道をゆっくりと走り出した。信号の赤が、濡れた路面に長く伸びている。

 そのとき、唐突に吉川が言った。

「舞は、なんで警察官になったんだ?」

 私は缶コーヒーのプルタブに指をかけたまま、動きを止めた。

「なぜ、ですか?」

「この前な、公園で俺の頬を打っただろ」

 心臓が、わずかに跳ねる。

「“いつまでそうするつもりですか”って。あれな……」

 ワイパーが一定のリズムで動く。

「あれ、自分自身に言ってるように聞こえた」

 私は小さく笑った。

「はははっ、そんな風に聞こえました? 何でもな――」

「話してくれないか?」

 吉川は、静かに言った。

 私の言葉を遮るように。

 視線は前を向いたまま。責めるでもなく、探るでもなく、ただ待っている。

 話したくない。

 私はそう思った。

 吉川は私の沈黙を察したのだろう。ウインカーを出し、道端に車を寄せた。エンジン音だけが、静かに響いている。

 雨は小降りになっていた。

 フロントガラスを流れる水滴が、街灯の光を細く裂く。

 私は両手を膝の上に置いた。指先が少し冷たい。

「……私が高校二年のときです」

 喉の奥が乾く。

「父が、通勤途中、痴漢で逮捕されました」

 言葉が、車内に落ちた。

 吉川は煙草を取り出しかけた手を止め、そっとポケットに戻した。

 何も言わない。

 その沈黙が、ありがたかった。

 雨音だけが、静かに続いていた。

私はその時の事を思い返すように話し始めた。

今日も女性専用車両は、目を疑うほどに混んでいた。

 ホームに滑り込んできた電車の窓越しに、ぎゅうぎゅうに押し合う人影が見える。諦め半分で私はため息をつき、隣の普通車両へと足を向けた。仕方ない。都心へ向かうこの時間帯は、どの車両も戦場だ。

 ドアが閉まるや否や、背中と背中がぶつかり、腕が押しつぶされる。吊り革に伸ばした指先が、かろうじて輪に引っかかった。身動きは、ほとんど取れない。

 この路線は痴漢が多いことで有名だった。

 私は幸い、直接の被害に遭ったことはない。けれど、学校では何度も耳にしている。泣きながら保健室に駆け込んだ子。電車に乗れなくなった子。笑ってごまかしていたけれど、手が震えていた子。

 慣れたつもりでいても、胸の奥がざらつく。

 電車が急ブレーキをかけた。車体がきしみ、身体が前へ押し出される。吊り革を握る手に、ぐっと力を込める。

 そのときだった。

 ふと、窓際のわずかな隙間が目に入った。

 中年の会社員風の男が、女子高生にぴたりと張りついている。逃げ場のない空間で、体を密着させるように。

 下のほうで、何かが動いている。

「……痴漢?」

 手は見えない。だが、女の子の顔がこわばっている。唇を噛み、視線を伏せている。

 胸が、どくりと鳴った。

 その男が、不意に周囲を見回した。そして、横を向く。

 目が、合った。

「えっ……お父さん?」

 一瞬、息が止まった。

 違う。父ではない。

 他人だ。知らない顔だ。

 ほっとしたのか、失望したのか、自分でも分からない感情が胸をよぎる。だが男はまだ、身体を密着させている。

 見えない。決定的な証拠が、見えない。

 電車が駅に滑り込み、扉が開いた。人の波が一斉に外へ流れ出る。その勢いに身を任せながら、私は必死に彼女のほうへ身体をねじ込んだ。

「大丈夫? 痴漢されたの?」

 息を切らして問いかける。

 女の子は、ほんのわずかに、頷いた。

 振り返る。

 男の姿は、もうなかった。

「……クソッ」

 吐き捨てるように呟いた声は、人波にかき消された。

 今度こそ、捕まえてやる。

 心の奥で、何かが強く結ばれた。

 私は、都内の小中高大一貫校――クリス女子学園に、高校から編入した。今は高校二年生。あの日までは、大学へそのまま進むつもりでいた。特別な夢もなく、ただ流れに身を任せるように。

 けれど。

 あの出来事が起きるまでは。

「ただいまー」

 玄関のドアを開けると、いつもの匂いがする。夕飯の湯気と、どこか懐かしい柔軟剤の香り。

「お帰り」

 母の声が台所から返る。

 リビングには父がいた。パソコンに向かい、イヤホンを片耳にかけている。画面には、波形の並んだ音楽編集ソフトが開かれていた。

 父は学生時代、バンドを組んでいたらしい。今も休日になると、こうして趣味で曲を作る。少し照れくさそうに、でもどこか誇らしげに。

 私は、小さい頃から父の後ろをついて回っていた。買い物も、散歩も、ライブハウスも。

 父の背中は、大きくて、頼もしくて、私の世界そのものだった。

 ほんの少し、かっこいい。

 いや、かなり。

 私には、自慢の父だった。

 ――この日までは。

ある日、家に帰ると母はいなかった。

 買い物かな、と軽く思う。携帯のメールにも受信記録はない。ま、そのうち帰ってくるか。

 空腹に耐えかねて、冷蔵庫を開けた。そのとき、玄関のドアが開く音がした。

「お帰り」

 声をかけたが、返事がない。

 リビングから玄関を見ると、母が立っていた。手提げ袋を持ったまま、動かない。

「どうしたの? 母さん」

「ああ、舞、帰ってたのね」

 母はゆっくりと靴を脱ぎ、リビングの椅子にどっしりと腰を下ろした。背中が、いつもより小さく見えた。

「どうしたのよ、母さん」

 しばらく、沈黙。

 母はうつむき、やがて顔を上げた。目の奥に、見慣れない影がある。

「舞。落ち着いて聞いてね」

 その前置きだけで、胸がざわついた。

「父さんが……痴漢で捕まったの」

 時間が、止まった。

 耳鳴りがする。

 とっさに、あの電車の中で見た男の顔が浮かんだ。灰色のスーツ。無表情な目。

「嘘……でしょ?」

 血の気が、音を立てて引いていく。

「父さんは、やってないって警察にも何度も話したみたい。痴漢を認めなかったから、警察署に連れていかれたの。今、会ってきた」

「お父さん、なんて?」

「絶対やってない。信じてくれって」

 母の声が震える。

「父さんがそんなことするわけがないわ」

「そうよ。何かの間違いよ」

 私は即座に言い切った。

 父さんが、あんな卑劣な男のような人であるはずがない。

「母さん、お父さんはそんなことする人じゃないよ。舞は父さんをずっと見てきたから分かるよ」

「母さんも信じてる。でも……」

「でも何?」

「父さんは弁護士さんに頼むって。でも、勾留されるから会社にも連絡がいく。会社を首になるかもしれないって」

「そんな……無実なのに何で?」

 喉がひりつく。

「痴漢を認めたら釈放されるって」

「でも、やってないなら認める必要ないじゃない」

「二人に目撃されてたらしいの。その場で取り押さえられたって」

 嘘だ。

 父さんはやってない。

 絶対やってない。

 私は頭の中で繰り返した。

 だが――

 あの電車で見た男の顔が、どうしても消えなかった。

 もし。

 もし、あのとき目が合った相手が、本当に父だったら。

 私は、どうしていただろう。

 信じられただろうか。

 それとも――。

 胸の奥で、何かが静かに崩れ始めていた。

 あの日、私は初めて、自分の制服を鏡の前でじっと見つめた。

 この制服で、私は何を選ぶのか。

 父を信じる娘でいるのか。

 被害者を守る側に立つのか。

 その答えは、まだ出ていなかった。

父が痴漢を認めたのは、逮捕から十八日目だった。

 弁護士からの電話は、夜だった。

「……ご主人が、供述を変更されました」

 母の手から受話器が滑り落ちた。

 私は意味が分からなかった。

 供述を変更?

 何を?

 弁護士の言葉は淡々としていた。

「否認を続けると、起訴の可能性が高い。裁判になれば長期化する。ご家族への負担も大きい。そう判断されたようです」

「違う……」

 私は首を振った。

「お父さんはやってない」

 母は泣きながら言った。

「もう限界だったのよ……会社からも連絡が来て……依願退職なら穏便にするって……」

 父は守ろうとしたのだ。

 家族を。

 私を。

 だから、やっていない罪を認めた。

 釈放された父は、別人のようだった。

 頬はこけ、目は落ちくぼみ、背中が小さくなっていた。

 近所の視線は冷たかった。

 無数の無言電話の着信履歴。

 学校では、ひそひそ声が聞こえた。

「舞のお父さんってさ……」

 私は廊下をまっすぐ歩いた。

 信じると決めていた。

 父は無実だと。

 でも――

 あの日の電車の光景が、何度も頭をよぎった。

 灰色のスーツの男。

 目が合った瞬間。

 もし、あれが父だったら?

 その疑念は、消えていなかった。

 ある夜。

 リビングに、重たい沈黙が流れていた。

 父はテレビを見ているふりをしていた。

 音は出ていない。

 私は、どうしても聞かずにはいられなかった。

「……お父さん」

 父が、ゆっくりと顔を上げた。

「ほんとに、やってないんだよね?」

 一瞬、空気が凍った。

 父の目が揺れた。

 その揺れを、私は“迷い”だと思ってしまった。

 違ったのに。

 あれは――傷だったのに。

 父は小さく笑った。

「……舞は、信じてくれるよな。」

 私は言ってしまった。

「だって……認めたんでしょ?」

 「やってないなら、なぜ認めたの?」

父は黙った。

 沈黙が、何より雄弁だった。

 私は耐えられなかった。

「お父さん、痴漢してたのね。最低」

 言葉は、刃物より鋭かった。

 言った瞬間、取り消したくなった。

 でも、もう戻らない。

 父の顔から、光が消えた。

 その夜、父は出ていった。

 飲めない酒を飲み、車道で倒れているところを、深夜の車にはねられた。

 即死だった。

 葬儀は静かだった。

 会社の人は誰も来なかった。

 私は、父の遺影を見つめ続けた。

 あの日の目。

 あれは迷いではなかった。

 傷だった。

 信じてもらえない痛み。

 一番信じてほしい娘に、疑われた痛み。

 私は、父を殺した。

 あの一言で。

 それから半年後。

 ニュースが流れた。

『痴漢冤罪を利用した示談金詐欺グループ逮捕』

 女子高生と大学生二人。

 余罪多数。

 過去の被害者リストの中に、父の名前があった。

 再捜査。

 証言の矛盾。

 LINE履歴。

 金銭のやり取り。

 父は――

 無実だった。

 私は、床に崩れ落ちた。

「ごめん……」

 何度も言った。

 でも、もう届かない。

 あの一言は、戻らない。

 父は完全な被害者だった。

 それなのに。

 私は疑った。

 私は突き放した。

 私は傷つけた。

 警察官の制服を着た朝。

 鏡の前で、自分を見つめた。

 守れなかった。

 真実を。

 父を。

 私は決めた。

 同じことを、繰り返させない。

 証拠を見極める人間になる。

 思い込みで誰かを断罪しない。

 弱い立場の人を守る。

 そして、

 最後まで、信じ抜ける警察官になる。

 父が信じてほしかったように。

吉川先輩は、私の話をただ、じっと聞いていた。

 ハンドルに置いた手は動かない。ワイパーの規則的な音だけが、車内に淡く響いている。

 私は続けた。

「父の痴漢冤罪が明らかになった数日後、警察の人が二人して家に来ました。母が一人で応対しました」

 当時の玄関の光景が、ふっと脳裏に浮かぶ。

 濡れた革靴。黒いコート。硬い声。

「謝罪ではなく、捜査経緯の説明と、捜査手順には問題なかったという話だったそうです」

 母はあとから、そう言った。

 震える声で。

「『そんなことを言いに来たのですか。うちの家庭をめちゃくちゃにしておいて!』って、怒鳴ったそうです」

 車内に、わずかな沈黙が落ちる。

「そして翌日、もう一人の刑事が来ました。深く、頭を下げたそうです」

 その姿を、私は見ていない。

 けれど、母の口ぶりで分かった。

 私は小さく息を吸った。

「その話を聞いたとき、警察官になろうと決めまたんです。」

 声は、不思議と震えなかった。

 しばらくして、吉川先輩がぽつりと呟いた。

「それ……今の柊部長だよ」

「えっ?」

 思わず顔を上げる。

「その話、多分、部長から聞いたことがある。冤罪になった人に高校生の娘がいたって。自分にも同じくらいの娘がいたから、気になってな」

 ワイパーが水を弾く。

「そのとき、君のお母さんから言われたそうだ」

 吉川は、淡々と続けた。

「『娘はお父さん子でね。どこへ行くのもついていってたんです。それだけに、お父さんを信じきれず酷いことを言ったと後悔してました。私のせいで、私が殺したんだ』って」

 胸の奥が、きゅっと締めつけられる。

 私は何も言えなかった。

 ただ、目に溜まった涙が、滲んだ街灯の光を揺らしていた。

 吉川先輩は、それ以上は聞かなかった。

 エンジン音だけが、静かに夜を刻んでいた。

 私の話を聞いて、そのあと、吉川先輩は沙織さんの命日に墓参りに行ったそうだった。

私は、そのことを後から知った。

 そしてその数日後、署の休憩室で、唐突に言われた。

「この事件の前に沙織の母親のところに行ってくれてたそうだな」

 私は静かに答えた。

「……はい」

 吉川は、苦笑いを浮かべた。

「参ったなあ。今回は僕の負けだ」

 負け、という言葉が、どこか柔らかい。

「沙織のお母さんから聞いた。自分が貧血がひどいのを知ってて止められなかったって。あんなに嬉しそうな沙織を見たことがなかったって」

 少し間を置く。

「純一さんを本当に愛していたんだな、と。だからこそ、嫉妬みたいな感情が事故を俺のせいにしてしまったって」

 私は、胸の奥でそっと息を吐いた。

「舞さんに打ち明けたことで、少し楽になったって言ってた」

 それを聞いたとき、私は本当に良かったと思った。

 誰かの重荷が、ほんの少しでも軽くなったのなら。

「ありがとう」

 吉川は、照れくさそうに言った。

 その言葉は、軽くない。

 でも、重すぎもしない。

 翌週、吉川先輩は休みを取った。

 沙織さんの両親と、私とで、ドライブに出かけることになった。

 運転席に吉川先輩。

 助手席には沙織さんのお父さん。

 後部座席には、いつの間にかすっかり打ち解けた沙織さんのお母さんと私。

 車は海沿いの道を走っていた。

 窓から差し込む光が、柔らかい。

 特別な話はしなかった。

 道を間違えれば笑い、コンビニのコーヒーが熱いと騒ぎ、ラジオの懐メロに父親が小さく鼻歌を重ねる。

 沙織の名前は、誰も口にしなかった。

 でも、不自然な沈黙もなかった。

 沙織さんのお母さんは、以前よりも少しだけ明るくなっていた。

 それが分かる。

 吉川はバックミラー越しに、ほんの一瞬、私を見た。

 私は小さく頷いた。

 ふと、窓の外を見る。

 流れていく景色。

 陽に照らされた海面が、静かにきらめいている。

 傷は消えない。

 消えなくていい。

 それでも、人は同じ車に乗れる。

 並んで、同じ方向へ走っていける。

 私は思った。

 ――これが、警察官の制服を選んだ日が報われた日だったのかな。

 小さく、誰かが笑った。

 その音は、穏やかな風に溶けていった。






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