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浮気した騎士様は、今日も往生際が悪い

作者: 月宮 かすみ
掲載日:2026/03/14

 浮気が発覚したその瞬間、婚約者の男というものは大きく分けて二種類に分類される。


 ひとつは青ざめて黙る男。

 もうひとつは、息をするように言い訳を始める男だ。


 そして私の婚約者、王国騎士団所属ローデリク・ヴァレンサは、後者だった。



「違う、ユーディット。これは君が考えているようなことじゃない」


 言うと思った。


 私はガーデンテラスの入口で立ち止まり、目の前の光景をもう一度ゆっくり見た。夜会用の白い円卓、月明かり、薔薇の垣根。

 その真ん中で、私の婚約者が、見知らぬ令嬢の腰に手を回していた。


 しかも、その令嬢は私を見ても慌てない。薄桃色の唇を持ち上げて、勝ち誇ったように微笑んでいる。


「考えているようなこと、とは何を指しますの?」


 私が問い返すと、ローデリクは一瞬だけ詰まった。

 その一瞬で十分だった。こいつは今、言葉を選んでいる。誠実な説明のためではない。自分が助かる言い方を探しているのだ。


「彼女は……そう、悩みを抱えていて。私は騎士として、放っておけなかっただけだ」


「腰に手を回して?」


「転びそうだったんだ」


「ずいぶん長時間、転びそうでいらっしゃったのね」


 私が言うと、令嬢がくすりと笑った。


 今笑ったな。


「まあ、随分と棘のあるおっしゃり方。わたくし、シルヴェーヌ・ラディスと申しますの。ローデリク様とは、心を通わせておりますのよ」


「はじめまして。私はユーディット・エルマール。心を通わせている相手の婚約者ですわ」


 シルヴェーヌ嬢の笑みが少しだけ揺れた。しかしすぐに持ち直す。たいした度胸だ。

 いや、度胸というより、勝ったと思っている顔だ。


「婚約者、でしたのね。でも、それが何か?」


 ほう。


「ローデリク様は、あなたよりわたくしを選ばれたのですもの。もう答えは出ておりますでしょう?」


 隣でローデリクが「シルヴィア、いや、シルヴェーヌ、待ってくれ」と焦った声を出した。名前すら危うい。素晴らしい。


「あなたは知らないのでしょうけれど、ローデリク様はわたくしにおっしゃったのです『あなたのことを生涯守らせてくれ』と」


 私は瞬きを一度した。


 それから、静かに言った。


「それ、私も婚約前に言われましたわ」


 風が止まった。


 ローデリクの顔が固まる。シルヴェーヌ嬢の唇がわずかに開く。


「……え?」


「正確には春の舞踏会のあと、中庭の噴水の前でしたわね。片膝をついて、剣にかけて生涯守ると」


「そ、それは……!」


「ちなみに雨の日に私の肩へ上着をかけながら、『君の涙は見たくない』とも言いましたわ」


 シルヴェーヌ嬢が、ぎこちない笑みのままローデリクを見上げた。


「……それも、わたくし言われましたわ」


 でしょうね。


「月が綺麗だ、も言われませんでした?」


「言われましたわ」


「君の笑顔を見るためなら命も惜しくない、は?」


「それもですわ」


「髪飾りは銀細工に青い石でした?」


「……ええ」


 私はゆっくりと頷いた。


「私も同じ物をいただきました」


 シルヴェーヌ嬢の笑顔が、今度こそ音を立てて崩れた。


 対するローデリクは、そこでなお立ち直ろうとした。立派な根性である。できれば任務に使ってほしい。


「違うんだ、二人とも聞いてくれ。言葉の一部が似てしまっただけで、気持ちは本物なんだ」


「一部」


 私は繰り返した。


「ああ、一部だ。俺は誰にでも同じことを言うような男じゃない」


「そうか?」


 低い男の声が割って入った。


 振り返ると、テラスの柱にもたれていた長身の騎士が、眉間に深い皺を寄せて立っていた。黒い礼装、切れ長の目。無愛想で、妙に疲れた顔。

 ローデリクの同僚、グレイヴン・オルディスだ。


 彼は私たちの前まで歩いてくると、ローデリクを見下ろして言った。


「三年前、東部駐屯地の酒場で給仕の娘に『生涯守らせてくれ』と言っていたのを俺は聞いている」


 沈黙。


「二年前、南門の花売り娘には『君の涙は見たくない』だったな」


 さらに沈黙。


「去年の収穫祭では伯爵家の次女に『月が綺麗だ』。その翌週、仕立て屋の娘に『笑顔のためなら命も惜しくない』」


 シルヴェーヌ嬢が一歩下がった。


 私は思わず感心した。ここまでくると、もはや口説き文句ではなく持ちネタである。


「グレイヴン! なぜお前がここに!」


「お前が俺を誘ったからだ。『夜会で大事な話がある』とな。来てみればこれだ」


「余計なことを言うな!」


「余計じゃない。事実だ」


 グレイヴンは一歩も引かない。すばらしい。今夜いちばん仕事をしている騎士かもしれない。


 ローデリクは額に汗をにじませ、今度は私へ向き直った。


「ユーディット、たしかに軽率だった。だが、君を愛しているのは本当だ」


「では、そちらの令嬢は?」


「放っておけなかったんだ」


「何が?」


「彼女の孤独が!」


 シルヴェーヌ嬢が「は?」という顔をした。


「わたくし、別に孤独ではありませんけれど」


「え?」


「父も母もおりますし、友人もおりますし、求婚も三件来ておりますわ」


 ローデリクが固まる。


 私は腕を組んだ。


「騎士様、守るものが多すぎて、設定管理が追いついておりませんわよ」


「違う、そうじゃない。俺はただ優しさで――」


「優しさで婚約者を裏切るの?」


「裏切ったつもりはない!」


「では何のつもりでしたの」


「……愛が、大きすぎた」


「初めて聞きましたわ。浮気の言い訳としては新説ですわね」


 グレイヴンが横で顔を覆った。シルヴェーヌ嬢は目を細めてローデリクを見ている。さっきまでの勝ち誇り顔は、もう跡形もない


 それでもなお、ローデリクは諦めなかった。


 すごい。

 この男、剣が折れても口だけで戦場に立てるのではないかしら。


「待ってくれ、今のは言葉の綾だ」


「どのあたりがですの?」


「愛が大きすぎた。というのは比喩だ」


「安心しましたわ。実体のある話ではなかったのですね」


「そうじゃない!」


 ローデリクは一歩こちらへ出る。

 私は半歩下がった。反射である。浮気男の勢いは浴びたくない。


「俺はただ、誰かが困っていたら放っておけない性分なんだ」


「それで婚約者以外の令嬢の腰を抱くのですか」


「支える必要があった!」


「長時間?」


「心をだ!」


 私は無言で見つめた。

 ローデリクは自分で言ってから、おかしいと思ったらしい。だがもう遅い。


「……心を?」


 シルヴェーヌ嬢が低い声で繰り返す。


「ええと、つまりだな。精神的な支えというか……」


「ずいぶん密着型の精神支援ですのね」


 私が言うと、グレイヴンが小さく吹き出した。

 今夜初めて見た。この人、笑えるのね。


 ローデリクは咳払いをした。立て直すつもりらしい。


「そもそも、俺は騎士だ。女性を守るのは当然の務めだろう」


「婚約者を泣かせて?」


「泣かせるつもりはなかった」


「では、どうするつもりでしたの」


「うまくやるつもりだった」


 間。


 私は目を閉じた。

 今、殴るのはまだ早い。まだ我慢できる。まだ。


「騎士様」


「なんだ、ユーディット」


「それ、言ってはいけない種類の本音ですわ」


 私が冷ややかに指摘すると、シルヴェーヌ嬢が眉をひそめた。


「うまく、とは?」


 さっきまでの勝ち誇った響きは、もう声のどこにもなかった。


「わたくしにも婚約者にも、それぞれ都合のいいことを言って回るつもりでしたの?」


「違う! そうではなく、誰も傷つかない形に――」


「すでに傷ついておりますわよ」


 ぴしゃりと返したのはシルヴェーヌ嬢だった。


 おや。

 いい調子になってきた。


 ローデリクは一瞬たじろいだが、またすぐ口を開く。


「ちがうんだ。俺は真剣だった。シルヴェーヌ、君にかけた言葉も、その場しのぎじゃない」


「でも使い回しですわよね」


「気持ちは毎回本物だった!」


「毎回?」


 私とシルヴェーヌ嬢の声が揃った。


 ローデリクが固まる。

 今のはかなり良かった。自分で地雷を踏みに行った。


 グレイヴンがぼそりと呟く。


「器用に両足で踏んだな」


「ち、違う! 言い方の問題だ! 俺はその時その時、誠実に向き合っていて――」


「複数名に?」


「誠実に?」


「同時進行で?」


 問いが三方向から飛ぶ。

 ローデリクは完全に追い詰められていた。だが、なおも立ち上がる。しぶとい。


「そもそもだな、ユーディット。君にも落ち度がなかったとは言えない」


 ほう。

 そこでそれを出しますの。


「聞きましょうか」


「君は最近、俺に冷たかった」


「週に二度お茶を共にし、夜会では必ず一曲踊り、体調を気遣う手紙も出しましたが」


「精神的にだ!」


「便利ですわね、その精神」


「君はしっかりしすぎているんだ」


「……はい?」


「完璧すぎて、俺は甘えられなかった」


 私はしばらく沈黙した。


 何を言われたのか整理するのに少し時間が必要だった。

 隣を見ると、シルヴェーヌ嬢も似た顔をしている。よかった。私だけではなかった。


「つまり」


 私は確認するように口を開いた。


「あなたが浮気したのは、私がまともだったからだと?」


「そういうことではない!」


「そう聞こえましたわよ」


「俺だって癒やしがほしい時もある!」


「婚約者に言わず、他所で補充したのですね」


「補充という言い方はやめてくれ!」


 グレイヴンがもう一度顔を覆った。

 この人、今日だけで寿命が縮んでいそうだ。


 ローデリクは必死の形相で続けた。


「とにかく! 俺は君を捨てるつもりなんてなかった!」


「まあ」


 私はゆっくり首を傾げた。


「捨てるつもりがなければ、裏切ってもよろしいの?」


「そういう意味じゃない!」


「では、どういう意味ですの?」


「両立できると……」


 彼は途中で口をつぐんだ。

 遅い。遅すぎる。


 シルヴェーヌ嬢が扇を閉じた。


「今、両立とおっしゃいました?」


「いや、それは言葉の綾で――」


「今日は綾が多い夜ですわね」


 私が言うと、彼は額を押さえた。

 苦しそうだが、正直こちらの方がもっと苦しい。聞かされている側だから。


 それでもローデリクは最後の知恵を絞るように顔を上げた。


「……わかった。正直に言おう」


「やっとですの?」


「俺は、試していたんだ」


 私は眉を上げた。

 シルヴェーヌ嬢は真顔になった。

 グレイヴンは遠い目をした。


「何をですの?」


「ユーディット、お前がどれだけ俺を愛しているかを」


 沈黙。


 夜風が吹いた。

 薔薇が揺れた。

 馬鹿だわ、この男。


「つまり」


 私は静かに言った。


「浮気を見せつけて、愛情確認?」


「見せつけるつもりはなかったが、結果として――」


「最低ですわね」


 即答したのはシルヴェーヌ嬢だった。


「わたくしは何ですの。その試験に使うための小道具でしたの?」


「いや、君にも情はあった!」


「情」


 シルヴェーヌ嬢の声が冷えた。


「ローデリク様。わたくし、これまで何人もの殿方に口説かれてきましたけれど、ここまで一気に価値を下げた方は初めてですわ」


 ローデリクが口を開く。

 閉じる。

 また開く。


 そして懲りもせず、なおも言った。


「だが、最終的に選ぶのはユーディットだ」


「選ばれたくありませんわ」


「即答!?」


「当たり前でしょう」


「俺は君との未来を――」


「浮気相手同伴で語らないでいただけます?」


 ローデリクは言葉に詰まった。

 その横で、シルヴェーヌ嬢がふっと息を吐く。


「ユーディット様」


「何かしら」


「少しだけ、気が合いそうですわね」


「ええ。非常に不本意な形ではありますけれど」


 私たちは視線を交わし、それから同時にローデリクを見た。


 もう勝負はついている。

 それなのにこの男は、まだ口を開こうとしていた。


 往生際が悪いにもほどがある。


 それでもローデリクは、まだ終わっていないという顔で背筋を伸ばした。

 何を根拠にそこまで立て直せるのか、いっそ一周回って感心する。


「……まだ、話は終わっていない」


「私はもう終わっておりますわ」


「俺は終わっていない!」


「当事者が片方だけ続行を希望しても、浮気の審議は延長されませんのよ」


 私が言うと、ローデリクは苦しげに眉を寄せた。

 苦しげなのはこちらも同じだが、原因の九割は彼である。


「ユーディット、少し落ち着いて考えてくれ。ここで婚約破棄などと言い出したら、君のご家族にも迷惑がかかる」


 私は目を細めた。


「今、私の家を盾になさいました?」


「盾ではない! 現実的な話をしているんだ!」


「現実的な話をするなら、浮気したのはあなたですわよね」


「だが公になれば君も傷つく!」


「もう傷ついておりますわ」


「だからこそ、内々に収めるべきだと――」


「素敵ですわね。あなたは浮気をして、その後始末まで私に気を遣わせるおつもり?」


 ローデリクが詰まる。

 いい傾向だ。もっと詰まってほしい。


 しかし彼は、それでもなお立ち直った。


「……わかった。言い方が悪かった。だが俺は、君を守ろうとしているんだ」


「誰から?」


「噂からだ!」


「噂の発生源が何かご存じで?」


「俺だと言いたいんだろうが、そう単純な話じゃない!」


「十分単純ですわ」


 シルヴェーヌ嬢が冷ややかに扇を揺らした。


「ローデリク様。あなた、いま婚約者様に向かって『浮気はしたが公表するな』とおっしゃっておりますの?」


「誤解を招く言い方はやめてくれ!」


「誤解ではありませんわね」


 私が言い切ると、ローデリクは今度はシルヴェーヌ嬢へ向き直った。


「シルヴェーヌ、君もだ。少し冷静になってくれ。君だって、ここで騒ぎになれば困るだろう」


「まったく困りませんわ」


「困るだろう! 令嬢として評判が――」


「浮気男に利用された被害者として同情は集まりましても、わたくしの評判まで落ちることはありませんわ。むしろ、口説き文句を使い回しているあなたのような殿方こそ、地に落ちるだけではなくて?」


 見事である。


 ローデリクは一瞬、本当に呼吸を忘れたような顔をした。

 しかしそれでもまだ諦めない。すごい。もはや才能だ。


「……いや、待て。そもそもだ。これは浮気ではない」


 私は思わず聞き返した。


「はい?」


「心が動いたわけではないからだ!」


 グレイヴンが天を仰いだ。

 今、この場の全員が同じ気持ちだと思う。


「肉体的な接触と甘い言葉の交換と贈り物の授受があっても、心が動いていなければ浮気ではない、と?」


 私が確認すると、ローデリクは勢いづいたように頷いた。


「そうだ!」


「ではあなたは、何も感じていない相手に『生涯守らせてくれ』と言っていたのですか」


「それは……その場の雰囲気というか……」


「最低ですわね」


 私とシルヴェーヌ嬢の声がまた揃った。


 ローデリクの肩が揺れた。

 ようやく効いてきたかと思ったが、違った。まだ立て直す気だ。


「違う! 違うんだ! 俺はただ、求められると断れないんだ!」


 私はしばらく黙った。

 あまりに予想の斜め上から来るので、少し整理が必要だった。


「……つまり?」


「頼られると放っておけない! 好意を向けられると、応えなければならない気がしてしまうんだ!」


「それを世間では節操がないと言いますのよ」


「違う、優しさだ!」


「優しさの被害が広範囲すぎますわ」


 グレイヴンが低く言う。


「お前の場合は優しさじゃない。ただの節操なしだ」


「黙れグレイヴン! お前にはわからないんだ!」


「わかりたくもない」


 完璧な返答だった。


 ローデリクは両手で頭を抱えた。

 ようやく観念するのかと思った、その時だった。


 彼は顔を上げ、なぜか少しだけ神妙な声音になった。


「……本当のことを言う」


「先ほども聞いた気がしますけれど」


「今度こそ本当だ」


 嫌な予感しかしない。


「俺は、君を試していたんじゃない」


「ほう」


「自分を試していたんだ」


 間。


 シルヴェーヌ嬢が扇を止めた。

 グレイヴンが無言で一歩離れた。

 賢明である。爆発の気配を察したのだろう。


「何を、ですの」


 私ができるだけ平坦に問うと、ローデリクはやけに真面目な顔で言った。


「俺が本当に愛しているのは誰なのか」


「結果は?」


「君だ、ユーディット!」


「その検証方法にシルヴェーヌ嬢を巻き込んだのですか」


「必要な過程だった!」


「必要ではありませんわ!」


 とうとうシルヴェーヌ嬢が声を荒げた。


「わたくし、あなたの恋愛実験の試験紙ではありませんのよ!」


「実験とは言っていない!」


「言っているのと同じですわ!」


 ローデリクはたじろいだ。だが、またすぐ私に向き直る。


「ユーディット、聞いてくれ。回り道はした。だが、そのおかげでわかったんだ。君の大切さが」


「浮気しないと分からない程度の大切さでしたの?」


「そういう意味ではない!」


「では、どういう意味ですの?」


「失いかけて初めて気づいたというか……」


「今まさに失っておりますわね」


 私は即座に返した。


「だから取り戻したいんだ!」


「浮気した側が?」


「愛しているからだ!」


「そのわりに、さっきから言うことが全部その場しのぎですわね。シルヴィア、いえ、シルヴェーヌ嬢のお名前まで取り違えて」


 ローデリクの口が閉じた。

 その通りである。


 だが、なおも食らいつく。


「……緊張していただけだ」


「浮気現場で?」


「追い詰められていた!」


「追い詰めたのはご自分でしょう」


「人は間違うこともある!」


「同じ台詞で複数人を口説くのは、もはや間違いではなく様式ですわ」


 シルヴェーヌ嬢が横でこくりと頷いた。

 妙な連帯感が生まれている。


 ローデリクは息を荒くしながら、最後の最後の一手を繰り出した。


「……わかった。ならば騎士として誓う」


 嫌な予感がさらに増した。


 彼は胸に手を当て、やけに格好をつけた声で言う。


「今この場で、シルヴェーヌとの関係は終わらせる。二度と会わない。口も利かない。贈り物も返してもらう。だからユーディット、もう一度だけ――」


「嫌ですわ」


 私は被せるように言った。


「早いな!?」


「ここまで聞かされて、まだ間に合うと思っていらっしゃるの?」


「間に合わせる努力をしているんだ!」


「努力の方向がすべて遅いのですわよ」


 ローデリクはその場で固まった。

 それでもまだ、目だけは死んでいない。厄介である。


 彼はゆっくりと、最後の未練を絞り出すように言った。


「……俺は、君以外と結婚する気はない」


「私はあなた以外と結婚する気になりましたわ」


 静まり返ったテラスに、その一言が綺麗に落ちた。


 シルヴェーヌ嬢が小さく息を呑む。

 グレイヴンは腕を組み、わずかに口元を上げた。


 そしてローデリクは、ようやく追い詰められた獣のような表情を見せた。


 だがそれでも、まだ完全には諦めていなかった。


 次の瞬間、ローデリクはがくりと膝をついた。


 ついさっきまで騎士らしく胸を張っていた男が、石畳の上に両膝を落とす。礼装の膝が汚れるのも構わず、そのままぐっと身を乗り出した。


「ユーディット……頼む」


 声が低い。かすれている。

 ここにきて初めて、少しだけ必死さが滲んだ。


 だが遅い。あまりにも遅い。


「もう一度だけ、機会をくれ」


 私は黙って見下ろした。


 ローデリクは震える息を吐き、さらに言葉を重ねる。


「今回のことは……本当に悪かった。軽率だった。馬鹿だった。君を傷つけた。全部、俺が悪い」


「ええ」


「だから、どうか……見捨てないでくれ」


 その場に静寂が落ちた。


 シルヴェーヌ嬢の表情がすっと消えた。

 グレイヴンは腕を組んだまま、微動だにしない。


 私はしばらく考えるように黙ってから、静かに口を開いた。


「騎士様」


「……なんだ」


「今のは謝罪ではなく、命乞いですわ」


 ローデリクの肩がびくりと揺れた。


「ち、違う……!」


「違いません。あなたが惜しんでいるのは、失った信頼ではなく、自分が捨てられることですもの」


「そんなことはない! 俺は本気で――」


「本気で何ですの?」


 問い返すと、ローデリクは詰まった。

 それでも、必死に言葉を絞り出す。


「……本気で、君を愛している」


「浮気した後で、土下座して、なおその台詞ですの」


「今度こそ本当だ!」


「その『今度こそ』が何度目か、数えて差し上げましょうか」


 ローデリクの唇が引きつる。


 しかし彼は、そこで終わらなかった。


 終わればまだ少しはましだったのに、この男は本当に最後まで余計なことを言う。


 彼は両手を石畳につき、ついに額まで床へこすりつけた。


 綺麗な土下座だった。

 腹立たしいことに、姿勢だけは妙に整っている。


「頼む……婚約破棄だけはやめてくれ」


 私は片眉を上げた。


「そこですのね」


「君がいないと困るんだ!」


「愛ではなく?」


「いや、愛している! 愛しているが、それだけじゃない!」


「正直ですこと」


「君は家柄も申し分ないし、聡明で、社交もできる。父上も母上も君を気に入っている。こんな良縁、もう二度と――」


 そこでローデリクは、はっと口をつぐんだ。


 遅い。

 全部遅い。


 私はにっこりと微笑んだ。


「続けてくださいませ」


「い、いや……今のは違う」


「何が違うんですの?」


「条件で見ているわけじゃない! ただ、その、君がいかに素晴らしい女性かを――」


「婚約者として便利だと再確認しておられたように聞こえましたわ」


 横でシルヴェーヌ嬢が、扇で口元を隠した。

 たぶん笑いを堪えている。気持ちは分かる。


 ローデリクは青ざめたまま顔を上げた。


「違う! 違うんだユーディット! 俺は、君を失いたくないんだ!」


「失うようなことをしたのは、どなたでしたかしら」


「俺だ!」


「ええ」


「だから謝っている!」


「謝れば戻ると思って?」


「戻ってほしい!」


「それは願望ですわね」


「願望でも何でもいい! 頼む、やり直させてくれ!」


 とうとう半ば叫ぶような声になった。


 その必死さは本物だろう。

 だが、その必死さは私を傷つけたことへの悔いからではない。自分が捨てられる現実に耐えられないだけだ。


 それが分かるから、余計に腹立たしい。


「騎士様」


 私はゆっくりと言った。


「一つ、確認してもよろしいかしら」


「な、何だ」


「もし今、立場が逆でしたら。私が別の殿方に同じことをして、同じ台詞を吐いて、それでも最後に土下座をしたら。あなたは許しますの?」


 ローデリクは口を開き、閉じた。


 実に分かりやすかった。


「……それは」


「それは?」


「……嫌だ」


「でしょうね」


 私は淡々と頷いた。


「つまり、自分がされて嫌なことを、私にはしておいて、自分だけは許されたいのですわね」


「そ、それでも、男には魔が差すことも――」


 シルヴェーヌ嬢が、扇を動かす手を止めた。


 グレイヴンが顔をしかめた。


 私は笑顔のまま言った。


「今、何と?」


「いや……その……違う、言い方が悪かった」


「本当に今日はそればかりですわね」


「違うんだ、俺はただ、ほんの一時――」


「一時でも駄目ですわ」


「だが、君は寛大な女性だろう!?」


「ええ。ですから、今までは黙って聞いて差し上げました」


 ローデリクの顔がこわばる。


 私は一歩、彼へ近づいた。


「けれど、それと許すかどうかは別の話ですの」


「ユーディット……」


「あなたは、謝っているようでいて、ずっと自分の都合ばかりを並べておりますわ。家のこと、評判のこと、良縁のこと、自分が困ること。そこに、私の痛みは一度でもちゃんと入っていました?」


「入っている! もちろんだ!」


「では、なぜ最初に出てくるのが自分の不利益なのです?」


 ローデリクは答えられなかった。


 答えられない。

 答えようがない。


 それでも彼はなお、床に手をついたまま、かすれた声で言った。


「……頼む。愛しているんだ」


「その言葉は、もう安すぎますわ」


 静かに、きっぱりと切り捨てる。


 ローデリクの顔から、ようやく血の気が引いた。

 今度こそ、本当にまずいと分かったのだろう。


 だが、遅い。


「ユーディット、お願いだ……お願いだから……」


 彼は土下座の姿勢のまま、なおも懇願した。


「一度だけでいい。いや、半分でもいい。形式だけでもいい。婚約だけは続けてくれ。あとで必ず信頼を取り戻す。証明してみせる。騎士として誓う。剣にかけて――」


「もう剣が泣きますわよ」


 私が言うと、横でグレイヴンが小さく「その通りだ」と呟いた。


 ローデリクは顔を上げた。目の端が赤い。

 泣き落としまで入れる気らしい。


 往生際が悪いにもほどがある。


 私はしばらく黙って彼を見下ろした。

 薔薇の香りが夜気に混じる。遠くから楽団の音がかすかに聞こえた。こんな馬鹿げた修羅場の最中だというのに、夜会はきっと何事もなく続いているのだろう。


 そして私は、ふと思った。


 ここで殴って終わらせるのは簡単だ。

 けれど、この男はたぶん、殴られた痛みすら「愛ゆえの制裁」とか何とか、勝手に都合よく解釈する。


 ならば――もっと面倒で、もっと逃げ出したくなるものを突きつけてやればいい。


「……証明なさい」


 私が言うと、ローデリクははっと顔を上げた。


「ユーディット?」


「本当に私を愛しているというのなら、証明してみせなさい」


「そ、それなら何でもする!」


「軽々しく何でもと言わないでいただけます? 今のあなたの何でもは信用なりませんの」


「……それでも、する。君が望むなら」


 声は震えていたが、逃げなかった。

 私はそれを見てから、わざと冷たく言った。


「では、まず一つ目」


 ローデリクが息を呑む。


「今まであなたが口説いた相手、甘い言葉をかけた相手、贈り物をした相手、名前を覚えている限りすべてに、明日中に謝罪なさい」


「……っ」


「手紙では駄目ですわ。自分の足で回って、自分の口で謝るのです。私に使った言葉を他人に使ったこと、その場しのぎの気持ちで振り回したこと、全部」


 シルヴェーヌ嬢が静かに扇を下ろした。

 グレイヴンは腕を組んだまま、黙ってローデリクを見ている。


「できませんの?」


「……できる」


 ローデリクは低く答えた。


「二つ目」


 私は続ける。


「そのあと、王都北方の《白霧の断崖》へ行きなさい」


 ローデリクの顔色が変わった。


 シルヴェーヌ嬢が小さく目を見開く。

 グレイヴンだけが、すぐに意味を理解したようだった。


「まさか」と、彼が初めて口を挟む。


「ええ、そのまさかですわ」


 白霧の断崖には、冬の終わりから春先にかけてだけ、絶壁の途中に一輪の花が姿を見せる。名は《星落としの白花》。

 王都の貴婦人たちが好んで話題にする、美しい伝説の花だ。けれど、そこへ至る道は少しも優雅ではない。

 足場は脆く、霧は深い。毎年何人もの若者が挑んでは、転落したり、大怪我を負ったりするような場所だ。少なくともここ十数年、その花を手にして無事に戻った者はいない。


「それを、私の前に持ってきなさい」


 ローデリクはしばらく黙った。

 顔から血の気が引いていく。ようやく、これが口先で片づく話ではないと分かったらしい。


「……あの花は、危険だ」


「知っていますわ」


「騎士団でも、単独行動は止められている」


「なら諦めればよろしいのでは?」


「ユーディット」


「何ですの」


「本気か」


 私は笑った。


「本気ですわよ。あなたは何でもするとおっしゃったでしょう」


 少しの沈黙のあと、ローデリクはゆっくりと背筋を伸ばした。まだ膝は床についたままだったが、その目だけが、ようやく言い訳をやめた人間の目になっていた。


「……わかった」


 声は低く、掠れていた。


「君が望むなら、やる」


「死んだら許しませんわよ」


「死なない」


「根拠は?」


「戻ってくるからだ」


 私は何も答えなかった。

 答える必要もなかった。



 ***



 翌日、ローデリクは本当に王都中を回った。


 最初は噂だと思った。

 けれど昼には、伯爵家の次女のもとへ。夕方には南門の花売り娘のもとへ。翌朝には仕立て屋へ。その次には、酒場の給仕まで。


 口説き文句の使い回しだけでなく、贈り物まで重複していたことが次々と発覚し、王都の一角ではちょっとした見世物になっていたらしい。


「ローデリク様、今日三回目の謝罪ですって」

「さすがに笑うしかないですわ」

「でも顔は本気だったわよ」


 そんな声が、嫌でも耳に入ってきた。


 私は聞かないふりをした。

 聞いてしまったら、心が揺れる気がしたからだ。


 さらにその二日後、彼は北へ向かった。


 白霧の断崖は、甘く見ていい場所ではない。

 春先は雪解けで地盤が緩む。岩肌は濡れ、朝は霧で視界が塞がる。落ちれば下は谷だ。


 一度目は、失敗した。


 足場を崩し、手を裂き、肩を痛めて戻ってきた。花は取れなかった。

 騎士団の詰所に担ぎ込まれたと聞いても、私は見舞いに行かなかった。


 二度目も、失敗した。


 今度は崖上から落ちてきた石で額を切った。縫うほどではなかったが、相当派手に血を流したらしい。

 それでも彼は三日後にはまた向かった。


 三度目は、白霧が濃すぎて途中で引き返した。


 四度目は、帰り道で足を滑らせ、肋を一本やった。


 普通なら、そこで終わる。

 普通の男なら、「命までは懸けられない」と言ってやめる。むしろ、それが正常だ。


 けれどローデリクは、やめなかった。


 騎士団の同僚に止められても、医師に怒鳴られても、グレイヴンに「次で死ぬぞ」と言われても、それでもまた断崖へ向かった。


 そのたびに、私は腹が立った。


 何なの、この男。

 どうして最初からそれを私に向けないの。

 どうして、こうなるまで本気を出さないの。


 そして五度目の朝。

 私は窓辺でお茶を飲んでいるふりをして、北の空を見ていた。


 別に待っていたわけではない。

 ただ、今日は天気が良かっただけだ。そういうことにしておいた。


 昼を過ぎても知らせは来なかった。

 夕方にも来なかった。

 日が落ち始めたころ、私はとうとうカップを置いた。


 胸のあたりが、妙に落ち着かなかった。


 その時だった。


 屋敷の前庭が騒がしくなった。


 私は立ち上がり、ほとんど駆けるように廊下を進んだ。スカートの裾が足に絡む。玄関扉が開く。冷えた夕方の風が頬に当たる。


 そこにいたのは、泥と血で汚れたローデリクだった。


 礼装ではない。騎士団の外套も裂けている。左腕には包帯。頬にも擦り傷。手袋をしていない右手は、岩に削られたのか赤く腫れていた。


 なのに、その手には。


 白い花が一輪、握られていた。


 雪みたいに白い花弁の中央に、かすかに銀色が差している。夕日を受けて、ほんの少しだけ光って見えた。


「……取ってきた」


 声が掠れていた。


 私は何も言えなかった。


 ローデリクは息を整えるように少し肩を上下させ、それから私の前まで来て、いつものきざな仕草ではなく、ただ静かにその花を差し出した。


「落ちかけた。二回」


 要らない報告である。

 でも、目を逸らせなかった。


「一回目は、手が届いたのに折れた。二回目は、掴んだ岩が崩れた。三回目でやっと根から取れた」


「……そう」


「戻れないかと思った」


 私は思わず息を止めた。

 けれど彼は笑わない。格好もつけない。いつもの甘い声も使わない。


「でも戻った。君に、これを渡すまでは」


 それだけ言って、花を差し出したまま黙った。


 私はしばらくその花を見た。

 白くて、小さくて、やけに綺麗だった。


「なぜ、この花なのか。聞かないのね」


 先に言ったのは私だった。


 ローデリクが少しだけ目を上げる。


「……君が望んだからだ」


「理由は?」


「理由がなくても、君が望んだなら取るつもりだった」


 私は苦笑した。

 そう。そこなのだ。この男は昔から、たまに肝心なところだけ真っ直ぐすぎる。


 私は花を受け取った。


 冷たかった。彼の手も、花も。


「昔、母が病気だった頃」


 私がぽつりと話し始めると、ローデリクは黙って聞いた。


「寝台のそばに、絵本がありましたの。そこにこの花が描かれていたの。白霧の断崖に咲く花。お母様は一度だけ『本物を見てみたかったわ』って笑っておっしゃった」


 ローデリクの顔が、わずかに変わる。


「……知らなかった」


「誰にも言っておりませんもの」


 私は花弁にそっと指を触れた。


「母が亡くなったあと、私はずっと、この花が嫌いでしたわ。手に入らないもの、届かないものの象徴みたいで」


 玄関先の空気が静かになる。

 使用人たちも、いつの間にか音を立てずに離れていた。


「それにね、私はずっと腹が立っていたのです」


「……俺に?」


「ええ」


 私ははっきり頷いた。


「あなたは綺麗なことばかり言うから。守るとか、愛しているとか、笑顔がどうとか。そういう言葉は、口が上手い人ならいくらでも言えるでしょう」


 ローデリクは目を伏せた。否定しない。


「でも、私はずっと聞きたかったの。私だけに向けた本気があるのか。面倒でも、格好悪くても、泥だらけでも、命を削ってでも、私のために手を伸ばす気があるのか」


 喉が少しだけ熱くなった。

 こんなこと、誰にも言ったことがなかった。言うつもりもなかった。


「だから、無理難題を吹っ掛けましたの。どうせ途中でやめると思って」


 私は笑った。

 少しだけ、悔しい笑いだった。


「なのにあなた、五回も行ったのね」


「六回だ」


「……六回?」


「最後の一回は、花を取って帰るまで含めて一回だ」


 私は思わず顔を上げた。

 そんな訂正、今しなくていいでしょうに。


 でも、その馬鹿さに、胸の奥が少しだけ緩んだ。


「本当に、往生際が悪いのね」


「君のことになると、たぶんずっとそうだ」


 その返事だけは、前みたいに軽くなかった。


 私は花を胸の前で抱えた。


「ローデリク」


「……何だ」


「まだ全部を許したわけではありませんわよ」


「ああ」


「今後二度と、誰にでも同じ言葉を使わないこと」


「使わない」


「甘い台詞でごまかさないこと」


「ごまかさない」


「女の名前を言い間違えたら、今度こそ本当に殴ります」


「気をつける」


「それから――」


 私は一度息を吸った。


 誰にも言っていない、本当の気持ちを口にするのは、思っていたよりずっと恥ずかしい。


 けれど、ここまで泥だらけで来られて、私だけ黙っているのは卑怯だ。


「私は、あなたが好きでしたわ」


 ローデリクの目が見開かれる。


「ずっと前から。だから余計に、腹が立ったの。あなたの軽い言葉が、全部嘘みたいに聞こえてしまって」


 彼は何も言わない。

 ただ、息をするのも忘れたような顔で私を見ている。


「だから、口先ではなくて、行動で見せてほしかった。私のために、あなたがどこまで来るのか」


 私は花を抱えたまま、少しだけ顔を背けた。


「……見せられてしまった以上、これ以上突っぱねるのも癪ですわ」


 沈黙のあと、ローデリクがごく小さな声で言った。


「ユーディット」


「何ですの」


「今度は、使い回しじゃない言葉で言っていいか」


「内容次第ですわね」


 彼は一歩だけ近づいた。

 土下座までして縋っていた男とは思えないほど、静かな動きだった。


「君がいないと、困る」


「それは前にも伺いましたわ」


「君がいないと、嬉しくない」


「……続けて」


「君が笑うと、安心する。怒ると怖い。殴られそうになるともっと怖い。でも、それでも君のそばにいたい。格好悪くても、情けなくても、嘘をつかずに」


 私は黙って聞いた。


「守る、でもない。生涯を誓う、でもない。今の俺が言える本当は――君の隣にいたい。ずっと」


 それはたしかに、使い回しの台詞ではなかった。

 綺麗でもないし、洗練もされていない。正直で、少しみっともなくて、でもちゃんと彼の言葉だった。


 私はようやく、息を吐いた。


「……仮採用くらいにはして差し上げますわ」


「仮?」


「本採用はこれからの態度次第です」


「厳しいな」


「当然でしょう」


 そう返したところで、ローデリクの体がぐらりと揺れた。


「ちょっと」


「いや、大丈夫だ」


「全然大丈夫そうに見えませんけれど!?」


 言ったそばから、彼は前に倒れかけた。私は慌てて一歩踏み出し、反射的にその腕を支える。重い。怪我人なのだから当たり前だ。


 すると彼は、私に支えられたまま、ひどく安心したような顔で笑った。


「……戻ってこられてよかった」


「後で医師を呼びます。説教もします」


「それでもいい」


「もちろん、しばらくは絶対安静です」


「ああ」


「その間、手紙も検閲します」


「厳しいな」


「当たり前ですわ」


 玄関先の冷えた空気の中で、私は呆れながらも彼の体を支えた。

 白霧の断崖の花は、私の腕の中で静かに揺れている。


 たぶん、簡単には終わらない。

 信頼を戻すのにも時間はかかる。腹の立つことも、これからまだたくさんあるだろう。


 でも少なくとも今日は。


 口先だけだった男が、傷だらけの手で、本当に私のところまで戻ってきた。


 それだけは、認めてあげてもいい。


「ローデリク」


「何だ」


「次に浮気したら」


「しない」


「最後まで聞きなさい」


「……分かった」


「次は白霧の断崖では済ませませんわよ」


 彼は青ざめ、それから小さく笑った。


「肝に銘じる」


「よろしい」


 私はそう言って、彼の肩を支えたまま屋敷の中へ歩き出した。


 その背中に、沈みかけた夕日がやわらかく差していた。


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― 新着の感想 ―
まさかの元サヤ。でもこれでまた次浮気したら剣が泣きすぎて錆びそう。
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