4.勝者の見る世界
そして、次はセラフィスの卓。
その名がアナウンスで流れた瞬間、
フロアの空気が、はっきりと変わった。
ざわつきが消えるわけじゃない。
むしろ、熱は残ったままだ。
だが――方向が変わる。
今までの熱狂が、上へ向かう。
誰かを見上げるための、静かな高揚へと。
ホストたちの動きが、わずかに揃う。
足取りが早くなる者はいない。
声を張る者もいない。
ただ、無駄が削ぎ落とされていく。
「…あれって」
リーフの喉から、無意識に声が漏れた。
隣に戻って来て居たユウリは、表情を変えずに答える。
「VIPだよ」
その一言だけで、十分だった。
フロアの奥。
他の卓とは、明確に区切られた通路。
厚い扉。
内側の音は、ほとんど漏れてこない。
面接の時とは雰囲気がまるで違う。
「月に、百万ゼニー以上」
ユウリは、歩きながら淡々と言う。
「使わなきゃ、入れない場所。近くまで着いておいでよ」
百万。
数字として聞けば、まだ実感は湧かない。
だが、ここまで見てきた夜の流れが、
その重さを否応なく理解させてくる。
(……ここは)
さっきまでいたフロアと、地続きのはずなのに、
まるで別の世界の入口みたいだった。
扉の前で、ホストたちが一度、息を整える。
誰も喋らない。
誰も笑わない。
ただ、“役割”に戻る。
その中で、リーフだけが浮いていた。
緊張で、背中にじっとりと汗が滲む。
(俺、ここにいていいのか……?)
その時だった。
カチャリ、と。
重い音を立てて、VIPルームの扉が開く。
中から溢れてきたのは、音楽でも歓声でもない。
空気だった。
密度の違う、圧。
一歩、外へ出てきた男がいる。
セラフィス・ルージュ。
フロアに立っただけで、
その場の“重心”が一気に移動した。
ホストたちが、無意識に一歩、道を空ける。
セラフィスは周囲を見回し、
やがて――リーフで視線を止めた。
一瞬。
本当に、一瞬だけ。
「……あ」
リーフの喉が鳴る。
セラフィスは、軽く顎を上げた。
「リーフ」
指先で、短く示す。
「こっちにおいで」
命令でも、誘いでもない。
“選択”だった。
リーフは、思考より先に足が動いていた。
自分でも驚くほど、自然に。
(……あ)
一歩、踏み出した瞬間、
背中に集まる視線の数が変わったのが分かった。
ホストたちの目。 姫たちの視線。 そして――値踏み。
通路を進むたびに、音が遠ざかっていく。 フロアの熱狂が、背後に置き去りにされていく感覚。
扉の内側は、さらに別だった。
赤でも青でもない。 感情を煽るための色が、存在しない。 ただ、静かで、重い。
「そこ」
セラフィスが、ソファを軽く叩く。
「俺の横。座りな」
一瞬、呼吸を忘れた。
(……横?)
確認する暇はない。 促されるまま、腰を下ろす。
柔らかいはずのソファが、 やけに硬く感じられた。
視線を正面に向けた、その時だった。
反対側に、座っている“存在”に気づく。
二本の角。 滑らかな曲線を描きながら、天井へと伸びている。 飾りじゃない。 力の延長線みたいな形だった。
魔族の女。
禍々しい、という言葉では足りない。 かといって、露骨な威圧感でもない。
ただ―― “勝っている”。
そこにいるだけで、すでに何かを奪っている。 空気を。 視線を。 主導権を。
微動だにしない。 こちらを見てもいない。 それなのに、視界の端から消えない。
(……やば怖い)
背中に、じっとりと汗が滲む。
その空気を、セラフィスが楽しそうに眺めてから、 小さく笑った。
「ここで見てな」
一拍。
「これが、勝者の見る世界だよ」
セラフィスの言葉と同時に、視界が開ける。
そこに――
ホストたちが、跪いていた。
誰かに命じられたわけじゃない。 示し合わせた様子もない。
それが“正しい形”だと、 全員が知っている動きだった。
背筋を伸ばし、 視線を落とし、 シャンパンの開栓を、静かに待つ。
音が、ない。
さっきまであれほど騒がしかった世界が、 嘘みたいに静まり返っている。
(……すごい)
喉が鳴る。
(……怖い)
心臓が、早鐘を打つ。
――それでも。
目を逸らせなかった。
胸の奥で、 確かに何かが、動き始めていた。
やがて、
十本のオリジナルシャンパンが、VIPルームのテーブルに並べられた。
一本一本が、異様な存在感を放っている。
闇を閉じ込めたような漆黒のボトル。 金糸で縁取られた紋章。 厚みのある首元に刻まれた魔術刻印が、静かに光を反射する。
数が揃った瞬間、 それだけで“完成形”だった。
誰も、触れない。 誰も、急がない。
この卓では、 シャンパンは「飲み物」じゃない。 ――儀式だ。
ホストたちが、自然と並ぶ。 誰かの号令があったわけじゃない。 だが、立ち位置は一切狂わない。
跪く者。 ボトルを支える者。 マイクを待つ者。
全員が、自分の役割を理解している。
リーフは、息を呑んだ。
(……これ)
ただ並べられているだけなのに、 空気が、重い。
一撃百万円。
数字として理解する前に、 身体が先に“異常”を察知している。
セラフィスは、余裕の表情でソファに深く腰掛けたまま、 その光景を見下ろしていた。
まるで―― 自分の城の中庭を眺めているみたいに。
「じゃ」
軽い声。
「始めよっか」
その一言で、
世界が、切り替わった。
一本目の栓に、手がかかる。
乾いた破裂音が鳴り響く。
同時に、
抑え込まれていた空気が、一気に解放される。
二本目。 三本目。
音が鳴るたび、 床が震え、 胸の奥まで衝撃が届く。
十本すべてが開け終えられた瞬間、 それは起きた。
コール。
いや―― “宣言”だ。
「いくぞォオオオ!!」
誰かの声を合図に、 ホストたちの声が、重なり合う。
音量じゃない。 密度だ。
声が、塊になってぶつかってくる。
「一撃!!」 「百万!!」 「セラフィス!!」 「ルージュ!!」
名前が呼ばれるたび、 フロアの空気がひれ伏していく。
これまでのコールとは、明らかに違う。
盛り上げるためじゃない。 楽しませるためでもない。
――知らしめるためだ。
ここが頂点だと。 この卓が、今夜の“王”だと。
声が、壁を震わせる。 照明が、意味もなく明滅する。 音楽が、完全に飲み込まれる。
リーフは、何もできなかった。
ただ、座ったまま、 その圧に晒されていた。
(……すごい)
(……怖い)
(……でも)
視線が、逸れない。
セラフィスは、 その中心で、微動だにしない。
叫ばない。 煽らない。 立ち上がりもしない。
ただ、そこにいる。
それだけで、 すべてが成立している。
コールが、頂点に達し、 やがて、ゆっくりと収束していく。
熱が、残る。 余韻が、支配する。
そのタイミングで、 マイクが、セラフィスの手に渡された。
セラフィスは、軽く笑って言った。
「十本、ありがと」
あまりにも軽い。 さっきまでの地鳴りのような熱狂が、 嘘みたいな一言。
隣のリーフを、ほんの一瞬だけ見て続ける。
「新人にこの景色も見せれたし、満足かな」
そして、フロアへ向けて。
「ヴァイス」
名前を呼ぶだけで、 空気が、張り詰める。
「ラストオーダー、かかってこい」
その瞬間、 再び、歓声が爆発した。
だが―― そのすべてが、
セラフィスの掌の上だった。
やがて、
次にマイクが、姫へと渡された。
二本の角を持つ魔族の女――
その動き一つで、場の温度が変わる。
彼女は立ち上がらない。 声を張ることもない。
ただ、指先でマイクを受け取り、 ゆっくりと口元へ運んだ。
その仕草だけで、 周囲のホストたちが、無意識に息を潜める。
「……あー」
柔らかい声。 甘いのに、背筋が冷える。
「ラストオーダーは」
一拍。
「別の女に、頼んでね」
次の瞬間――
爆笑に包まれるホスト達。
だが、それは“気の抜けた笑い”じゃない。
場を支配している者に、 許された笑いだった。
「ちょぉーい!」
セラフィスが即座に突っ込みを入れる。
軽い。 あまりにも軽い。
だが、その軽さが、 この卓の“余裕”を際立たせていた。
VIPルームに、笑いが広がる。 けれど、その中心は常に一つ。
セラフィスだ。
マイクが、姫から戻される。
笑いがまだ残る中、
セラフィスの前には、すでに一つのグラスが置かれていた。
誰が用意したのかは、分からない。 だが――
最初から、そこにあるのが当然みたいな佇まいだった。
透明度の高い水晶。 縁には繊細な金細工。 杯の底には、淡く光る魔術紋様。
注がれているシャンパンは、静かだ。 泡立ちは抑えられ、光を含んだ液体が、 ゆっくりと呼吸するように揺れている。
――これは、演出用の酒じゃない。
――“王が飲むための器”だ。
セラフィスは、 しばらくそれを眺めてから、
ようやく、手を伸ばした。
慌てない。 煽られもしない。
グラスを持ち上げるだけで、 周囲の音が、自然と引いていく。
誰も声を出さない。 誰も動かない。
「……じゃ、いただきます」
小さく、息を吸う。
そして――
一気に、飲み干した。
喉が鳴る。 だが、音すら上品だ。
グラスを置く音が、 静かに、テーブルに響く。
その瞬間。
「よいしょォオオオ!!」
一斉に、声が爆発した。
さっきまでの狂騒とは違う。 これは“締め”の声だ。
祝福。 服従。 そして、確定。
「セラフィス!!」
「代表!!」
「王だァ!!」
声が重なり、 照明が揺れ、 音楽が一段階、強く鳴る。
だが、セラフィスは笑わない。
満足した顔もしない。 勝ち誇る表情も見せない。
ただ、グラスの縁を指でなぞり、 静かに、そこに座っている。
――それだけで、終わる。
コールは、自然と収束していった。
誰かが止めたわけじゃない。 誰かが指示したわけでもない。
「もう十分だ」
空気が、そう判断しただけだった。
VIPルームには、 熱と余韻だけが残る。
誰もが分かっている。
今夜の中間オーダーは、 完全に――
この卓の勝ちだ。
リーフは、息をするのを忘れていた。
ヴァイスの豪胆さとは、まるで違う。 力で押し切るのでもない。 命を削るわけでもない。
(……これが……本物の“上”)
セラフィスは、 何も言わずに、こちらを見た。
一瞬だけ、目が合う。
その視線に、 感情はない。
評価もない。 期待もない。
ただ――
「これが頂点だ」と言っている。
その一瞬で、 リーフの胸の奥が、焼けるように熱くなった。
◆
中間オーダーが終わり、店はまた通常の夜に戻った。
控え室へ戻ったリーフは、ソファに座り込み、しばらく動けなかった。
頭の中で、さっきの光景が何度も繰り返される。
跪くホストたち。
見下ろすセラフィス。
あの熱。あの声。あの世界。
(……もう一度見たい)
そんな欲が、自分の中に生まれているのが分かった。
だが同時に――
(先にやることがある)
リーフは立ち上がった。
隣に居たユウリが目を細める。
「……行く?」
「はい。謝りたいです」
ユウリは軽く頷いた。
「じゃ、行こっか」
◆
ヴァイスの卓近く。
まだ、さっきの余韻が空気に残っている。
リーフは、一歩手前で立ち止まった。
近づきすぎれば、邪魔になる。
離れすぎれば、逃げになる。
その“境目”で、深く頭を下げる。
「……さっきは、本当にすみませんでした」
声が、わずかに震えた。
それでも、逃げなかった。
顔を上げる勇気はない。
だが、背中は丸めない。
自分なりの覚悟だった。
ユウリが、半歩横に立つ。
「僕もいいかな」
軽い口調だが、視線は真剣だった。
「新人連れてったの、僕だし。リムちゃん、ごめんね」
リムは、答えない。
グラスを指先で回し、氷が小さく鳴る。
その音が、やけに大きく聞こえた。
「簡単な世界ならさ」
低い声。
感情を抑えた、冷たい響き。
「私、こんなとこ来てないんだけど」
視線は、まだリーフを向いていない。
それが、拒絶だと分かる。
胸の奥が、きりりと痛んだ。
「……でも」
一拍。
リムは、ようやく顔を上げる。
紫の瞳が、まっすぐに刺さる。
「新人が失敗するのは、まぁ普通だし」
言葉は、突き放している。
だが――完全には切っていない。
「次は、ないから」
短い。
だが、はっきりとした線引き。
「……はい」
リーフは、即答した。
そのやり取りを、ヴァイスは黙って見ていた。
腕を組み、表情を変えずに。
やがて、小さく息を吐く。
「謝れたなら、それでいい」
声は低い。
叱責でも、慰めでもない。
「……ただな」
視線が、リーフを捉える。
「簡単って言葉は、二度と口に出すな」
淡々と。
だが、逃げ場はない。
「ここじゃ、ああいう言葉はな」
一拍。
「自分だけじゃなく、客も、仲間も、全部巻き込んで死ぬ」
脅しじゃない。
事実だ。
「……はい。絶対に言いません」
ヴァイスは、ほんの一瞬だけ目を細めた。
それが、許しだった。
ユウリが、ぽんとリーフの肩を叩く。
「生き残れたね」
冗談みたいな言葉。
でも、その重みは、今なら分かる。
その時だった。
リムが、ふっと小さく息を吐く。
グラスを置く音が、控えめに鳴る。
「……で?」
不機嫌そうな声。
けれど、さっきまでの刺々しさはない。
リーフが、思わず身構える。
「謝るだけ?」
一瞬、言葉に詰まった。
「……え?」
リムは、視線を逸らしたまま言う。
「それで終わりなら、帰っていいけど」
間。
ほんの一瞬。
それから、面倒くさそうに手を振る。
「飲んでけよ」
短い一言。
だが、それは――
拒絶じゃなかった。
「……え、いいんですか」
思わず零れた声に、
リムは、ちらりとだけ視線を向ける。
「次やったら、マジでNG出すけど」
素っ気ない。
でも、口元はほんの少しだけ緩んでいる。
「……今夜は、許す」
その言葉に、胸の奥がじん、と熱くなった。
「ありがとうございます!」
深く頭を下げると、
リムはもう興味を失ったみたいに、グラスを傾けた。
「ほら」
小さく、顎で示す。
「立ってないで、座れ」
その一言で、
リーフはようやく――
この卓に“戻された”のだと理解した。
その様子を、リムの隣で見ていたヴァイスが、
ふっと肩を揺らして笑った。
「……良かったな、リーフ」
低く、けれどどこか楽しそうな声。
「入店初日でよ…うちの気難しい代表に、気に入られるなんてよ」
ぐっと、親指を立てる。
「見込みあるぜ、お前」
その瞬間だった。
「はぁ!?」
甲高い声が、思いきり割り込んでくる。
リムが、勢いよくヴァイスの方へ振り返る。
耳まで真っ赤だ。
「ちょ、ちょっと待て!!誰が気難しい代表だよ!!」
ヴァイスは、悪びれもせず肩をすくめる。
「え? 違うか?
普段、新人にこんなことしねぇだろ」
「それは……っ!」
言い返そうとして、言葉に詰まる。
「……それとこれとは、話が別だろ!!」
ぷいっと顔を背けて、グラスを掴む。
「勘違いすんなよ!モブ!たまたま!!今日だけだから!!」
早口。
完全に動揺している。
ヴァイスは、それを見てニヤリと笑った。
「はいはい、その“たまたま”が、一番怖ぇんだよな」
「うるさい!!」
ぴしゃっと言い切って、
リムは一気にグラスを煽った。
リーフは、どう反応していいか分からず、
ただ目を瞬かせる。
(……え、俺……今……)
ユウリが、背後から小さく耳打ちする。
「……相当だよ、それ」
その一言で、
ようやく状況を理解した。
この夜、この卓で――
自分はもう、“ただの新人”じゃない。
そう思った瞬間、
胸の奥が、少しだけ誇らしく熱くなった。




