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3.価値を払うということ

完全に、卓の空気は凍りついていた。

誰が見ても分かる。


リーフは、椅子の背に指先が食い込んでいることに気づいていなかった。

力を抜こうとしても、指が言うことを聞かない。

呼吸はしているはずなのに、胸の奥まで空気が届いてこない。


ヴァイス、ユウリ、リム――三人の顔に、さっきまでの柔らかさは一切ない。

笑顔は消え、冗談もない。

残っているのは、露骨なまでの怒りだった。


ユウリが何か言おうとして口を開いた、その瞬間。


「……いい」


低い声が、それを制した。

ヴァイスだった。


怒鳴らない。

声を荒げない。

それが、余計に怖い。


一歩、前に出る。

ただそれだけの動きなのに、

卓の空気が、目に見えて沈んだ。


圧が違う。

立っているだけで、場を支配している。

さっきまで笑っていたはずのヴァイスの顔から、

感情というものが、すべて削ぎ落とされていた。


目だけが、静かに動いている。

値踏みするように。

獲物を見るように。


「よかったな」


静かな声だった。

だからこそ、逃げ場がない。


「今日が、初日で」


その一言で、

リーフの喉が、ひくりと鳴った。


「一週間くらい経ってたら」


距離が、詰まる。

香水の匂い。

グラスの冷気。

それらがどうでもよくなるほど、近い。


「今ここで、お前を殺してたよ」


冗談じゃない。

脅しでもない。

ただの“事実”を、淡々と口にしている声だった。


「……現に今」


ヴァイスは、視線だけを横に滑らせる。


「ユウリは、殺そうとしてたぞ」


その言葉が落ちた瞬間だった。


ヴァイスを中心に、

青白いオーラが、じわりと滲み出す。


派手でもない。

威圧的でもない。

だが、確かに“そこにある”。

抑え込まれた怒りが、

形を持って、空間に広がっていく。


音楽が遠のく。

周囲の笑い声が、水の底に沈んだみたいに歪む。


「……っ」


背筋を、冷たいものが走った。


そこへ、リムの声が重なる。


「お前みたいなモブがさ」


笑っていない。

感情を隠す気もない。


「よくヴァイス君の前で、そんな言葉吐けたね」


紫の瞳が、まっすぐにリーフを射抜く。


「この店のNo.3だよ?」


その一言で、

リーフの頭が真っ白になった。


――No.3。


ただの肩書きじゃない。

この場所で、積み上げてきた結果の数字。


「す、すみません……!」


反射的に、頭を下げる。

だが、ヴァイスは視線を逸らさない。


「二度と、簡単な世界なんて言うな」


声は低く、抑えられている。


「ここはな」


一拍。


「生半可な覚悟の奴が来る場所じゃねぇ」


言葉一つひとつが、

ゆっくりと、確実に突き刺さる。


「ここで働いてる俺らだけの話じゃない」


ヴァイスの視線が、リムへと向く。


「来てくれてる女の子の前で、そんなこと言うもんじゃねぇ」


責めているのに、

同時に“守っている”のが分かる。


「店が開いてから、まだ一時間も経ってねぇ。

それでも、この卓の値段はもう十万ゼニーを超えてる」


一瞬の沈黙。


「……それを払うのは、リムだ」


その言葉は、

怒りであり、忠告であり、

何より“線引き”だった。


リーフの胸が、ぎゅっと締め付けられる。


そこへ、ユウリが一歩前に出る。


「リーフくん」


声は落ち着いている。

感情を、完全に切り替えている。


「一緒に、抜けよっか」


拒否はできなかった。

リーフは、震える足で立ち上がる。


「ヴァイスさん……リムさん……」


深く、頭を下げる。


「本当に、失言申し訳ございませんでした」


ヴァイスは、一言だけ返した。


「あぁ」


それ以上は、何も言わない。

リムは、視線すら向けなかった。


卓を離れた瞬間、音が戻ってきた。

笑い声。

グラスの触れ合う音。

音楽。

さっきまで無音だった世界が、

何事もなかったように、動き出す。


――それが、余計に怖かった。



控え室の扉が閉まった瞬間、リーフは膝に手をついた。

足が、笑うほど震えている。

さっきまで立っていられたのが不思議なくらいだった。


そんな中、ユウリが先に口を開いた。


「あれは、ダメだね」


優しい声ではなかった。

だが、突き放す声でもない。


「は、はい……」


「ヴァイスさんが止めなかったら、本当に殺してたよ」


淡々と、事実だけを告げる。


「あとで、ちゃんとリムちゃんにも謝ろう」


一拍。


「二人で、ね」


「……ありがとうございます」


リーフは、深く頭を下げた。


「本当に、すみませんでした」


こうして、リーフのホスト人生最初の仕事は、

見事なまでの大失敗で幕を開けた。


だが――


無情にも夜は、まだ終わらない。



やがて、店内にアナウンスが響き渡る。


「本日もエリュシオンへご来店、誠にありがとうございます!」


その瞬間、

フロアの空気が、はっきりと変わった。

さっきまで笑っていた女の子たちが、

一斉にグラスを置き、卓に置かれたメニュー表に視線を落とす。

ホストたちの声色が、わずかに低くなる。


「中間オーダーのお時間となりました!」


ざわり、と。

床を這うような熱気が、場内を巡った。


「……中間オーダー?」


リーフが呟くと、ユウリが小さく笑う。


「あぁ、まだ知らないか」


歩きながら、周囲を一瞥する。


「この時間からは、空気が変わるよ」


照明が落ちる。


次の瞬間、赤を基調としたライトがフロアを染め上げた。

甘さは消えた。

代わりに、闘争心を煽る色だけが残る。

重低音が腹の底に落ちてくる。

音楽が、心拍数を無理やり引き上げてくる。


「営業時間は二十時から翌一時。その途中、二十二時に一回」


ユウリはワクワクを抑えきれない声で続ける。


「高額オーダーを集めて、途中経過を出す」


「日間ランキング…ですか?」


「そ。ここからは、数字がすべて」


アナウンスが鳴る。


「八番テーブル! アシュレイ・ヴァイス主任のお姫様より!」


一瞬の、溜め。


「オリジナルシャンパン、五本いただきましたー!」


その瞬間、

フロアが弾けた。


「ありがとうございます!!」


ホストたちの声が、壁を震わせる。


「……オリジナル、シャンパン?」


「一本十万ゼニー」


ユウリは淡々と告げる。


「エリュシオン特注。飾りも味も、全部“別格”だよ」


リーフは、目の前を通るボトルに視線を奪われた。

ただの酒瓶じゃない。


深い漆黒のガラスは、フロアの赤い照明を受けても光を跳ね返さず、

まるで闇そのものを閉じ込めたかのような質感をしている。


ボトルの胴には、金糸で縁取られたエリュシオンの紋章。

装飾は派手なはずなのに、いやらしさは一切ない。

「高いから飾っている」のではなく、「格があるから存在している」――

そんな圧があった。


首元には、厚みのある金属製のプレート。

細かな魔術刻印が彫り込まれており、光を受けるたびに淡く輝く。

飾りではない。

“この酒は本物だ”と、無言で主張している。


ボトルを包む氷桶も、ただの金属ではなかった。

磨き上げられた銀色の器に、ぎっしりと詰められた透明な氷。

その隙間から立ち上る白い霧が、

まるで神聖な儀式の前触れのように揺れている。


ホストが持ち上げた瞬間、

ずしりとした重みが伝わってくるのが、離れた場所からでも分かった。


――軽いはずがない。


中に詰まっているのはタダの酒じゃない。

金だ。

価値だ。

この夜の順位そのものだ。


氷が触れ合うたび、

カラン……と澄んだ音が鳴る。

その一音一音が、

リーフの胸の奥を、確実に叩いてきた。


(……これが、十万ゼニー)


値段を知ってから見るボトルは、

もはや現実感がなかった。

ただ豪華なだけじゃない。


「ここに来る覚悟があるか」


そう問いかけてくるような存在感。

リーフは、知らず息を飲んでいた。


「……五本ってことは……」


「五十万」


数字を聞いた瞬間、頭が追いつかなくなる。


だが、終わらない。


「続きまして! VIPテーブル!」


場内の視線が、一斉に向く。


「セラフィス・ルージュ代表取締役のお姫様より!」


一拍。


「オリジナルシャンパン……まとめて十本、いただきましたー!!」


世界が、揺れた。

歓声。

拍手。

叫び声。


「……百、万……?」


「代表だからね、あの人はホントに別格だよ」


ユウリですら、苦笑する。


「ここからが、コール」


ホストたちが、一斉に動き出す。


「リーフくんは、ここで見てて」


ユウリはそう言って、ヴァイスの卓へ向かう。

すでに、卓の周囲はホストで埋め尽くされていた。


中央に置かれた五本のシャンパン。

ボトルの存在感だけで、場が支配される。


アナウンスを合図に、

ヴァイスが一本目の栓に手をかける。


乾いた破裂音。

香りが、一気に広がる。


二本目。

三本目。

音が鳴るたび、歓声が重なり、

場の熱が跳ね上がる。


五本すべてを開け終えたとき、

マイクが、ヴァイスの手に渡った。


その瞬間、

フロアの空気が、はっきりと変わる。


ざわめきが、期待に変わり、

期待が、確信へと変わっていく。


――来るぞ。


誰もが、それを分かっていた。

ヴァイスはマイクを軽く叩き、

一度、息を吸う。


「あー……」


その短い声だけで、

周囲の音が、自然と引いていった。


無理に静かにさせたわけじゃない。

“静かになる理由がある男”だった。


「シャンパン五本、ありがとうお姫」


余裕のある声。

怒りも、焦りも、そこにはない。


一拍置き、

口角だけを、わずかに上げる。


「……セラフィスに負けたから、今はこれ以上なんも言わねぇ」


どっと、笑いが起きる。

だがそれは、空気を和ませるための笑いじゃない。

勝者の余裕を見せつけられた側の笑いだった。


「ラストオーダー」


ヴァイスは、ゆっくりとマイクを持ち直す。


「覚えとけよ」


その一言に、


「よいしょ!!」

「うおお!!」

「抱いてくれ兄貴ー!!」


一斉に声が重なる。

ホストたちが、我先にと卓の周りへ集まる。


誰かが手を叩き、

誰かが床を踏み鳴らし、

熱が、渦を巻く。

だがヴァイスは、煽らない。

手も振らない。

ただ、その中心に“立っている”。


――それだけで、成立している。


その横で。

リムは、ソファに深く腰を預けたまま、

腕を組んでその光景を眺めていた。


紫の瞳は、鋭いままだ。


(……ほんと、ムカつく)


口元は、笑っていない。


(新人に説教した直後に、これ?)


そう思っているはずなのに――

視線は、ヴァイスから離れない。


彼女は自分の金が、この男を輝かせていることを

誰よりも理解していた。


「……夜って」


マイクが、リムに渡る。


低い声。


「簡単な世界らしいんですけど」


一瞬、フロアが静まる。


「私には、難しいから」


間。


「これくらいしか、できねぇっす」


次の瞬間、

爆発するような歓声。

怒り混じりの皮肉。

爆笑と歓声が、フロアを揺らす。


だが――


当事者のリーフだけは、笑えなかった。


(……めちゃくちゃ、怒ってる)


胸の奥に、冷たいものが突き刺さる。


さっきの説教。

あの紫の瞳。

視線すら向けてもらえなかったこと。


それら全部が、

今の一言に詰め込まれているのが分かった。


冗談じゃない。

軽口でもない。

ましてや、ノリのいい返しなんかじゃない。


――これは、まだ続いている。


自分が言った「簡単な世界」という言葉が、

形を変えて、もう一度殴り返されている。

しかも。


このフロア全体を巻き込んで。


胃の奥が、きりりと痛む。

笑い声が、

歓声が、

名前を呼ぶ声が、


すべてが――


自分の無知を、嘲笑っているように聞こえた。

リムは、まだ怒っている。


(簡単な世界じゃ、ない)


分かっている。

もう、嫌というほど。


だがその“分かった”は、

さっきまでの理解とは、まるで重さが違った。


言葉一つで、

空気が凍り、

金が動き、

感情が爆発する。


その中心に、自分は立っていない。

ただ、踏み込んではいけない場所に

無知なまま足を突っ込んだだけだ。


(……くそ)


拳を、ぎゅっと握る。


逃げたくなる。

消えたくなる。


それでも――


目は、ヴァイスから離れなかった。


マイクがコール担当のホストに戻されると同時に、

フロアの空気が一段、熱を帯びた。


まるで合図を待っていたかのように、

周囲のホストたちが一斉に卓へ集まってくる。


足音。

衣擦れの音。

グラスが触れ合う乾いた響き。

誰もが笑っている。

だが、その笑顔は余裕から来るものではない。


――獲物を前にした、昂揚だ。


「よいしょ! よいしょ!」


誰かが声を上げると、それに続くように声が重なる。

手拍子が鳴り、床が震え、熱気が渦を巻く。


ヴァイスの卓を中心に、

フロアそのものが回り始めたようだった。


そんな中。

リムは、ソファに深く腰掛けたまま、

その光景を静かに眺めていた。


脚を組み、グラスを傾ける。

紫の瞳には、焦りも興奮もない。

あるのは――余裕。


(……ほんと、派手)


小さく息を吐き、口元だけで笑う。


この熱狂が、

すべて自分に向けられていることを、彼女は知っている。


だからこそ、騒がない。

中心で踊る必要がない者だけが持つ、

“見る側”の余裕だった。


その視線の先。

ヴァイスは、ゆっくりと立ち上がった。


誰かに促されたわけでもない。

自然に、そこに立つ。

黒いロングジャケットが揺れ、

照明の光を受けて夜紋様が淡く浮かび上がる。


彼が手に取ったのは、

さきほどリーフの目を奪った、あのオリジナルシャンパン。


闇のようなボトル。

金の紋章。

ずしりとした重み。


ヴァイスは、それを迷いなく持ち上げた。


「……よし」


短く呟く。


次の瞬間――


ボトルを傾け、

口元へ。

グラスは、ない。

ためらいも、演出もない。


豪華なボトルから、

直接、酒を流し込んだ。


喉が鳴る。

白い泡が溢れ、顎を伝い、首元を濡らす。

だが、拭わない。

それすら計算された動作だった。


「うぉおお!!」


フロアが、割れた。

歓声。

叫び。

名前を呼ぶ声。


「ヴァイス!!」

「のめのめ!!」

「いけいけ!!」


誰かが手を叩き、

誰かが床を踏み鳴らす。

まるで、祭りだ。


だがヴァイスは、笑わない。

余裕のない笑顔ではない。

煽るための笑顔でもない。


ただ――


“当たり前のことをしている顔”だった。


もう一度、ボトルを傾ける。

二度目の直飲み。

今度は、少しだけ口角が上がった。


それを見て、リムが小さく鼻で笑う。


「……バカみたい」


呆れたような言葉。

だが、その瞳は確かに楽しげだった。


(でも、だから売れる)


ヴァイスがボトルを下ろすと、

ホストたちのコールが一斉に加速する。


「よいしょ! よいしょ! よいしょ!」


音楽が重なり、

照明が激しく瞬き、

空気が揺れる。


リーフは、その場から動けなかった。

ただ、立ち尽くしていた。


――これが、No.3。


言葉で聞くよりも、

数字で知るよりも、

この光景のほうが、何倍も重い。


命を削るように酒を飲み、

それを“余裕”で成立させる男。


その背中を、

リーフは焼き付けるようにその光景を見つめていた。


まだまだ夜は終わらない。




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