2.踏んではいけない一線
セラフィスに連れられて通されたのは、店の裏手にある従業員控え室だった。
煌びやかなホールとは違い、そこは落ち着いた色調で統一された空間だった。壁は深い色の木目調、床には厚手の絨毯。無駄な装飾はなく、だが決して狭くもない。
ソファや椅子がゆったりと配置され、長時間待機しても疲れにくい造りになっているのが一目で分かる。
――ここは、表に立つ者たちの“溜まり場”だ。
今はまだ営業時間前らしく、室内に人の気配はない。
だが、空気は完全に死んでいなかった。
ここでは何度も夜が始まり、何度も終わってきた。
その名残のような気配が、壁や床に染みついている。
「まずはスーツ着てみようか」
軽い調子で、セラフィスが言った。
「君は今から三ヶ月間、新人扱いになる。新人は無料でスーツの貸し出しがあるんだよ。お得でしょ?」
冗談めかした笑みを浮かべながら、セラフィスは壁際を指さす。
「ありがとうございます……! でも、スーツなんて着たことなくて……」
正直な感想だった。
村では、式典の時ですら、ここまできちんとした服を着ることはない。
畑仕事に向いた服が、日常着だった。
「今のうちに慣れときなよ」
セラフィスは、あっさりと言った。
「下手したら、一生着ることになるかもしれないし」
「……一生?」
その言葉に、リーフは一瞬だけ引っかかりを覚えた。
だが、問い返す前に、セラフィスは控え室の奥にある扉を開ける。
「更衣室はこっち。好きなの選んで」
言われるがまま、リーフは更衣室へ足を踏み入れた。
中に入った瞬間、思わず息を呑む。
そこには、数え切れないほどのスーツや衣装、靴が整然と並んでいた。
人間用だけではない。尾のある種族、翼を持つ種族、体格の大きい者、鱗を持つ者――あらゆる種族に対応できるよう、形状も素材も多種多様だ。
――本気だ。
この店は、ただ流行っているだけではない。
“続ける”ことを前提に、すべてが作られている。
圧倒されながらも、リーフは一着のスーツに目を留めた。
派手すぎず、だが地味でもない。
黒を基調としながら、わずかに深緑が差し込まれたデザイン。
理由はなかった。
ただ、なぜか目が離れなかった。
「へぇ」
背後から、セラフィスの声がする。
「いいじゃん、それ。じゃあ、それ着てみて」
「は、はい」
着替えに手間取りながらも、なんとか袖を通す。
鏡の前に立った瞬間、リーフは自分でも驚いた。
――意外と、悪くない。
細身の体格にスーツが馴染み、長い耳も不思議と浮いて見えない。
半エルフ特有の中性的な顔立ちが、逆に洗練された印象を与えていた。
「うん、いいね」
セラフィスは満足そうに頷いた。
「じゃあ次、講習あるからさ。控え室でちょっと待ってて」
そう言い残し、セラフィスは部屋を出ていった。
一人残されたリーフは、言われた通り控え室の椅子に腰を下ろす。
スーツの感触が、まだ落ち着かない。
布地の重みが、自分の立場を否応なく実感させてくる。
――本当に、ここに居ていいのか。
そんな思考が浮かんだ、その時だった。
「……どうも」
低く、少し湿った声が響く。
顔を上げると、そこには見慣れない人物が立っていた。
黒いスーツに身を包んでいる点はヴェインと同じだ。
だが、その姿はまったく異様だった。
トカゲのような顔立ち。
全身を覆う鱗。
異様に長い尾が床に垂れ、背中からはスーツを突き破るように背鰭が伸びている。
口を開いた瞬間、鋭く尖った歯と、二つに割れた舌がちらりと覗いた。
「僕はバルド・リザール」
淡々とした声。
「リザードマン。内勤兼、新人講習担当です」
事務的な名乗りだった。
「今から、君の新人講習を行いますね」
「は、はい……よろしくお願いします」
リーフが頭を下げると、バルドは無駄な動作なく向かいの椅子に腰を下ろす。
「まずは基本から」
そこから始まった講習は、驚くほど現実的だった。
テーブルマナー。
お客様への言葉遣い。
立ち居振る舞い。
目線の使い方。
どれも当たり前のことだ。
だが、当たり前だからこそ、徹底されていた。
「――以上が基本です」
淡々と話すバルド。
「ここからは、この店のシステムについて説明します」
リーフは、背筋を伸ばした。
「当店は永久指名制です。初回で送り指名にした場合、そのお客様は永久的に担当になります」
言葉が、頭に流れ込む。
「初回料金は一時間一万ゼニー。入店時、パネルと呼ばれる写真を見て、その中から選んだ五人と優先組が卓につきます」
「優先組……?」
「新人です。入店から三ヶ月間は、優先的に卓につけられます」
説明は続く。
初回指名でも同額であること。
飲み放題の仕組み。
ホスト側に酒を飲ませる場合の追加料金。
他担当のヘルプにつく際の注意点。
「二回目以降の来店については、必要に応じて説明します」
バルドは、そこで一息ついた。
「以上です。何か質問はありますか?」
リーフの頭は、完全に飽和していた。
情報が多すぎる。
理解はしている。
だが、整理が追いつかない。
「は、はい……なんとか……」
「そうですか」
特に気にする様子もなく、バルドは書類をまとめる。
「では、まもなく出勤時刻です。他の方々も来ますので、仲良くしてくださいね」
そう言い残し、バルドは控え室を後にした。
――仲良く。
その言葉が、妙に重く感じられた。
しばらくして、再びセラフィスが姿を現す。
「やぁ、どうだったリーフ」
「……頭が、パンクしそうです」
正直な感想だった。
セラフィスは、楽しそうに笑う。
「はは。最初はみんなそうなるよ」
肩をすくめる。
「分からないことは、逐一誰かに聞けばいい。聞かない方が嫌われるからさ」
「わ、分かりました」
やがて、控え室に人の気配が増えていく。
獣人、魔族、エルフ、見たこともない種族――
それぞれが慣れた様子で準備を始めていた。
そして。
ホールの奥から、音楽が流れ始める。
派手な照明が灯り、静寂だった空間が一瞬で別物に変わる。
夜が、始まる。
リーフは、スーツの袖をぎゅっと握りしめた。
ここから先は、もう“準備”ではない。
――本番だ。
店内が、完全に夜へと切り替わった。
照明が落とされ、代わりに色彩を持った光が踊り出す。
重低音の音楽が床を震わせ、静かだった空気は一瞬で熱を帯びた。
セラフィスは、いつの間にか姿を消していた。
自分の客の元へ向かったのだろう。
残されたリーフは、控え室の端で立ち尽くしていた。
スーツの袖口を、無意識に握り締める。
そんな時。
「初めまして、新人くん」
背後から、柔らかい声がした。
振り返ると、そこに立っていたのは黒いスーツを着こなした魔族の青年だった。
整った顔立ちに、どこか余裕のある笑み。
「僕はエイル・クロウ。
種族はインキュバス。君より三日前に入店した新人ホストだよ」
黒いスーツをきっちりと着こなしてはいる。
サイズも合っているし、皺一つない。
それでも――どこか“借り物”のような違和感があった。
背は高すぎず低すぎず、均整の取れた体格。
整った顔立ちは、柔らかな微笑みを浮かべると人当たりがいい。
だが、その笑顔はどこか慎重で、探るような色を帯びていた。
首元のシャツに、ほんのわずかな緊張が残っている。
ネクタイを指で直す仕草も、無意識に繰り返しているようだった。
――似合っていないわけじゃない。
ただ、まだ“慣れていない”。
インキュバスらしい艶は、確かにある。
視線が合えば、自然と相手を引き込む力も感じる。
それでも、完全に夜の住人になりきれていない。
昼と夜の境目に、まだ片足を残しているような印象だった。
それが逆に、危うさと誠実さを同時に滲ませている。
売れそうだ。
だが、まだ売れていない。
そんな“今”が、はっきりと外見に表れていた。
「だからさ、僕ら同期だね」
軽い口調でそう言う。
「え、そうなんですか!」
リーフは、少しだけ緊張が解けた。
「よろしくお願いします! 新人のリーフです。
種族は……」
一瞬、言葉に詰まる。
ハーフエルフ。
ここではどう受け取られるのか、分からなかった。
「……ハーフエルフです」
間が、落ちる。
だが、その沈黙を破ったのは、エイルの声だった。
「え! やっぱりエルフなんだ!」
ぱっと表情を明るくして言う。
「めちゃくちゃかっこいいと思ったんだよね。
雰囲気あるし」
「え……」
拍子抜けするほど、あっさりだった。
「もっと否定されるかと……」
思わず本音が漏れる。
エイルは肩をすくめた。
「否定? なんで?」
軽く笑う。
「この世界、売れたら正義だからさ。
種族なんて関係ないよ」
一拍置いて、付け足す。
「まぁ、僕ら新人だから売上ないけどね」
そう言って笑うエイルを見て、リーフは思った。
――あ、この人は、優しい。
それと同時に、どこか現実を割り切っている人だとも。
その時だった。
「や! 新人くん!」
声をかけてきた獣人は、狐と人間の中間のような姿をしていた。
柔らかな金茶色の髪は無造作に流され、同じ色の狐耳が頭の上でぴくりと動く。
表情は常に明るく、笑うと細められる目が人懐っこい印象を与えていた。
身にまとっているのは、スーツというより浴衣を思わせる軽装。
動きやすさを重視したデザインで、きっちりとした正装ではないが、不思議とだらしなさはない。
むしろ――
「この店で、これが許されている」という事実が、彼の立ち位置を物語っていた。
胸元は少し開けられ、首元にはさりげない装飾品。
派手ではないが、目に留まる。 主張しすぎず、それでいて埋もれない。
腰のあたりで揺れるふさふさの尻尾は、感情に合わせて自然と動いており、
楽しそうな時は大きく、場が緊張するとぴたりと静まる。
――空気を読む尻尾だ。
全体として、圧はない。 だが、近くにいると不思議と安心する。
それは彼が、
「前に出る役」ではなく
「場を壊さない役」を選び続けてきた証だった。
「僕はユウリ・カレン」
にこにこと笑いながら、親しげに言った。
「ヴェインさんからね、君と一緒にヘルプ入れって言われてさ」
「え、あ、はい……!」
「大丈夫大丈夫」
ユウリは、気負いのない声で続ける。
「最初は着いてくるだけでいいよ」
そう言って、自然な動作でリーフの手を取った。
「行こっか」
控え室の扉が開いた、その瞬間だった。
――音が、ぶつかってきた。
重低音が空気を震わせ、耳の奥ではなく、胸の内側に直接響く。
同時に、眩いほどの光が視界を埋め尽くした。
赤、紫、金。
色とりどりの照明が交差し、天井から降り注ぐように瞬いている。
さっきまでの静かな空間が嘘だったかのように、
そこは完全に別の世界だった。
甘い酒の匂い。
香水と魔力が混じった、むせ返るような空気。
グラスが触れ合う乾いた音と、誰かの笑い声。
「……っ」
リーフは、思わず息を呑んだ。
足を一歩踏み出しただけで、
自分が“観る側”から“立つ側”に引きずり込まれたのが分かる。
逃げ道は、もう後ろにはない。
「すごいでしょ」
隣で、ユウリが軽く笑う。
「これがエリュシオンの夜だよ」
リーフは返事もできず、ただ周囲を見回した。
卓ごとに違う物語が流れている。
甘い言葉を囁く者、酒を煽る者、静かに微笑む者。
誰もが、役を演じている。
――いや。
演じているふりをして、
本当はここで生き残ろうとしている。
「知ってると思うけどさ」
ユウリは歩きながら続ける。
「うちは王都でいちばん流行ってる店。
大手グループ、ELYON GROUPの中でも、店売りNo.1店舗のエリュシオン」
照明の海を進むたび、
リーフの鼓動は早くなっていく。
「従業員もお客さんも、種族問わず受け入れる。
懐がデカいってのも、売りの一つなんだよね」
その横顔は、確かな自信に満ちていた。
「ここで働けてるの、正直誇りだよ」
やがて、店内中央の一卓へと辿り着く。
そこには、エルフの青年と、その隣に座るサキュバスの少女がいた。
「どーも、ヴァイスさん!」
ユウリが、慣れた様子で声をかける。
「新人の子連れてきました! ご一緒していいですか?」
エルフの青年――ヴァイスは、ちらりとリーフを見る。
「……君、俺と同じエルフじゃない?」
近づいてきて、自然に手を差し出す。
「夜精霊のアシュレイ・ヴァイスだ。」
立ち上がったヴァイスは、周囲の喧騒を一段落としたような存在感を放っていた。
派手さはない。
だが、身にまとった衣装は一目で“高い”と分かる。
ノクターナルエルフ特有の細身でしなやかな体躯に、漆黒を基調としたロングジャケット。
光を吸い込むような生地には、角度を変えた時だけ浮かび上がる夜紋様が織り込まれている。
装飾は最小限。
それでも、立ち姿ひとつで“売れているホスト”だと理解できた。
整った顔立ちは、どこか冷たさを帯びている。
彫りの深い目元、薄く整えられた唇、無駄のない輪郭。
ノクターナルエルフ特有の、淡く光を反射する銀紫の瞳が、静かにこちらを見据えていた。
笑っているはずなのに、隙がない。
余裕があるからこそ、崩さない。 崩す必要がないからこそ、売れている。
――そんな男だった。
「リ、リーフです! ハーフエルフですけど……」
握手を交わす。
ヴァイスは、わずかに微笑んだ。
「そうなんだね。よろしく」
そして、隣の少女を示す。
「こっちはリムちゃん。サキュバスだよ」
リムと呼ばれたサキュバスの少女は、ぱっと見ただけなら可愛らしい部類に入る。
淡い桃色の髪は肩口でふんわりと揺れ、柔らかそうな角が小さく額から覗いていた。
大きな瞳は潤んだ紫色で、見つめられるだけで自然と意識を引き寄せられる。
衣装は露出を抑えたワンピース調。 それでも、身体のラインだけははっきりと分かるように仕立てられており、
無自覚に動くたび、視線を奪う。
笑うと、愛嬌のあるえくぼが浮かぶ。 声は少し高く、甘い。
――可愛い。
だが、それだけでは終わらない。
彼女の周囲には、甘ったるい香りが薄く漂っていた。 香水ではない。 感情に反応して滲み出る、サキュバス特有の気配。
近くにいるだけで、胸の奥がじんわりと熱を帯びる。
可愛らしさと妖艶さが、無理なく共存している。
「よろしくね」
リムは、柔らかく微笑んだ。
――あれ?
リーフは、内心で首を傾げた。
(意外と……みんな優しい?)
「リーフくん、酒は飲めるの?」
ヴァイスが尋ねる。
「そこそこは!」
気合いを込めて答えると、ヴァイスは満足そうに頷いた。
「じゃあ、乾杯」
高く掲げられたグラス。
「かんぱーい」
酒が、喉を焼く。
卓での会話は、驚くほど他愛のないものだった。
リムの仕事の愚痴。
ユウリの軽い笑い話。
ヴァイスの、容赦ない飲ませ。
笑いが起き、グラスが空く。
その空気に、リーフは完全に飲まれていた。
――なんだ。
思っていたより、怖くない。
そんな油断が、口を滑らせた。
「いや……でも、よかったです」
自然と、言葉が出る。
「意外と、簡単にやっていけそうです!」
――その瞬間だった。
空気が、凍った。
音楽は流れている。
照明も変わらない。
だが、この卓だけが、別世界になった。
ユウリの笑みが、消えている。
ほんの一瞬前まで、場を回すために貼り付けられていたはずの表情が、跡形もなく消失していた。
狐の耳は動かず、尻尾も揺れない。
ただ視線だけが、静かにリーフへ向けられる。
ヴァイスは、刺すような視線でリーフを見つめていた。
睨んでいるわけではない。
感情をぶつける気配もない。
それでも、その目は――
“売れている側”の人間が、
一度踏み外した相手を見る時の目だった。
さっきまでの柔らかさは、どこにもない。
リムは、ゆっくりとグラスを置いた。
音は立たなかった。
だが、その瞬間、甘い気配が一変する。
胸を撫でていたはずの熱が、ぞくりと冷たいものへ変わる。
笑顔は消え、紫の瞳が静かに細められた。
可愛い――そんな評価が、
一瞬で無意味になるほどの圧だった。
――怒っている。
誰の目にも明らかだった。
リーフの背中を、冷たい汗が伝う。
(あ……)
言ってしまった。
取り返しのつかない言葉を。
(……死んだ)
誰も、何も言わない。
ただ、その沈黙だけが、すべてを語っていた。
しかし残酷にも夜は、まだ始まったばかりだった。




