1.夜に選ばれた者
王都は、別の世界だった。
石畳を踏みしめるたび、フィリオス・リーヴェンは自分の足音がやけに大きく聞こえる気がして、思わず肩をすくめた。
その音はすぐに、馬車の車輪が転がる硬い音や、金属が擦れる音にかき消される。
見上げれば、空を遮るほど高くそびえる建物。
行き交う人々は、人間だけではない。
獣人、エルフ、ドワーフ、翼を持つ種族まで――
田舎村では見たこともない存在が、当たり前の顔で肩を並べている。
聞き取れない言語の笑い声が、耳を打つ。
誰もが忙しなく、目的を持って歩いていた。
――場違いだ。
喉が鳴る。
肩に掛けた鞄は、何度も繕った跡が残っている。
この街では、すぐに分かる。
自分が、よそ者だということが。
それでも足を止めなかった。
立ち止まった瞬間に、ここまで来た理由ごと崩れてしまいそうだったからだ。
やがて、ひときわ目を引く建物が視界に入る。
夜の城――そう形容するほかない外観だった。白と金を基調とした巨大な建築は、王都の中でも異質な存在感を放ち、入口には燦然と輝く看板が掲げられている。
CLUB ELYSIUM
王都No.1ホストクラブ。
噂でしか聞いたことのない場所が、今、目の前にあった。
「……っ」
思わず唾を飲み込む。
帰りたい、という感情が一瞬だけ胸をよぎる。だが、それを振り払うように、フィリオスは扉に手をかけた。
重厚な扉が、音もなく開く。
その瞬間、外の世界が切り離された。
王都の喧騒は、背後で途切れる。
代わりに鼻をくすぐるのは、微かに甘い香り。
酒と香水、それに――夜の匂い。
中は、想像を遥かに超えていた。
城だった。
豪奢な装飾、天井から垂れ下がるシャンデリア、
磨き上げられた床。
恐ろしい数の卓が整然と並び、
それぞれが一つの舞台のように設えられている。
だが、誰もいない。
笑い声も、音楽もない。
あるのは、静けさと、見えない圧だけだった。
磨かれた床に、自分の影が映る。
場違いな影だと、はっきり分かる。
――踏み込んでいい場所なのか。
そう迷った瞬間だった。
「お客様……では無さそうだな」
低く、よく通る声。
振り返った先に立っていたのは、一人の獣人だった。黒いスーツに身を包み、鋭い金色の瞳を持つ狼人。佇んでいるだけで、周囲の空気が張り詰める。
圧倒的なオーラ。
「なんだ、お前は?」
「め、面接できました! フィリオス・リーヴェンです!」
勢いで名乗ると、狼人は鼻で笑った。
その視線が、頭から足先まで、舐め回すようにフィリオスを測る。価値を量るような目だった。
「……ふん」
興味を失ったように踵を返す。
「こっちに来い」
「あ、は、はい!」
逆らうという選択肢は、最初からなかった。
案内されるまま、店の奥へと進む。進めば進むほど、空間は広がり、装飾はさらに豪奢になっていく。
これが、王都No.1――現実を突きつけるような光景だった。
やがて、一つの扉の前で足が止まる。
狼人が扉を開いた。
「入れ」
「は、はい」
一歩踏み入れた瞬間、フィリオスは息を呑んだ。
空気が違う。
先ほどまでの店内ですら静寂に満ちていたはずなのに、
この部屋は、さらに一段深い場所にあった。
音が、完全に沈んでいる。
宝石のように光を反射する装飾。
壁に施された精緻な彫刻。
足元の絨毯は柔らかく、踏みしめても音を立てなかった。
――触れてはいけない。
直感的に、そう思った。
ここは、寛ぐための部屋ではない。
選ばれた者だけが、座ることを許される場所だ。
「座れ。ここはVIPルームだ」
低い声が、空気を切る。
「汚すことは許さん」
それは忠告ではなく、事実の通達だった。
「わ、分かりました……」
恐る恐るソファに腰を下ろす。
柔らかいはずの座面が、なぜか落ち着かなかった。
身体が沈む感覚が、逆に逃げ場を奪ってくる。
この部屋は――
人を甘やかすために作られていない。
対面に狼人も座った。
「それでは面接を始める」
狼人は、淡々と言葉を続けた。
「俺はフェンリル・ヴェイン。
CLUB ELYSIUM 内勤統括、
並びに人事責任者を任されている」
名乗りは簡潔だった。
だが、その肩書きだけで十分だった。
――この男が、選ぶ側だ。
「お前は何をしに、ここに来た?」
その問いを合図に、フィリオスの脳裏に――故郷の村の光景が、鮮明に蘇った。
◆
故郷の村は、いつからか「耐える場所」になっていた。
フィリオスの記憶にある限り、村は決して豊かではなかったが、笑い声が消えることはなかった。畑は痩せていても、収穫のたびに皆で集まり、少ない作物を分け合っていた。
だが、ある年を境に、それが崩れた。
交易路が変わり、行商人が寄らなくなった。魔物の出没が増え、畑を守るために男手が取られるようになった。重なるように税が引き上げられ、村の倉庫は目に見えて空になっていった。
大人たちは言った。
「今は耐える時期だ」
「嵐が過ぎるのを待つしかない」
その言葉は優しく、そして残酷だった。
待っていれば、良くなる。
そう信じるしかなかったからだ。
フィリオスは、会議の端に座っていた。輪の中には入れても、意見を求められることはない。
半エルフ。
エルフでも、人間でもない存在。
誰も差別はしなかった。むしろ、優しかった。
だからこそ、フィリオスは分かっていた。
自分は「残る側」ではない。
力仕事は人間の若者が担い、交渉や判断は年長者が行う。エルフの知恵は尊重され、人間の行動力は頼られる。
そのどちらにも、フィリオスの席はなかった。
「お前は若いから」
「無理しなくていい」
「そのうち、道が見つかる」
その言葉が、胸を締めつけた。
――その“道”は、村の中にはない。
気づいたのは、ある夜だった。
倉庫の奥で、大人たちが金の話をしていた。
声は低く、苛立ちを孕んでいた。
「これ以上は払えない」
「だが、払わなければ村が消される」
金袋が卓に置かれる音。
その瞬間、空気が変わった。
普段は穏やかな人が声を荒げ、互いを睨み合う。
誰もが正しく、誰もが追い詰められていた。
フィリオスは、その場に立ち尽くしていた。
金があるだけで、人はこんな顔になるのか。
金がなければ、人はここまで追い込まれるのか。
結局、その夜、村の一人が出ていった。
金を稼ぐために。
戻ってきたのは、ずっと後だった。
笑顔を失った顔で。
その時、フィリオスは思ってしまった。
――こんなものがなければ。
金なんて、なければいい。
だが同時に、分かってもいた。
金がなければ、村は救われない。
矛盾だらけの現実が、胸の奥で絡まり続けていた。
だから、噂を聞いた時、心が動いた。
王都で、ホストクラブが流行っている。
一晩で、金が数百万単位で動く世界。
最初は、笑い話だと思った。
だが、その言葉が頭から離れなかった。
話すことなら、できるかもしれない。
力も、知恵もない自分でも。
村を救えるのなら。
誰かが壊れる前に、戻せるのなら。
それが逃げだとしても、構わなかった。
誰も行けないのなら。
誰も選ばれないのなら。
――自分が行くしかない。
そう決めた日のことを、フィリオスははっきりと覚えている。
村の外れで、振り返った時の景色。
変わらない家々と、変われない自分。
勇気なんかじゃなかった。
正義でもなかった。
ただ、ここに居続けることが、
耐えられなくなっただけだ。
それでも――
村を救いたいという気持ちだけは、嘘じゃない。
フィリオス・リーヴェンは、そう信じていた。
◆
回想が途切れ、フィリオスは顔を上げた。
喉が、からからだった。
それでも、言葉を飲み込むことはしなかった。
「僕は……!」
拳を、強く握りしめる。
「僕は、村を救うために、ここに来ました!」
声は震えていた。
だが、逃げなかった。
一瞬。
ヴェインの表情が、わずかに揺れた。
だが、それは感情ではない。
思考に切り替わっただけだ。
「……そうか」
短く、冷たい声。
「で、お前は何ができる?」
その問いは、優しくなかった。
確認でもなければ、期待でもない。
「この店に、どんなメリットをもたらす?」
フィリオスは、一瞬だけ視線を落とした。
だが、すぐに持ち上げる。
「……正直、未経験です。
ホストのことも、何も分かりません」
否定される覚悟は、できていた。
「ですが、村を救うためなら……
何だってします!」
「金は好きか?」
間髪入れずに、刃が飛んできた。
フィリオスは、考えなかった。
考えれば、濁ると分かっていたからだ。
「嫌いです。あんなものがあるから、村のみんなは苦労する。
奪い合いが起きて、壊れて……そんなもの、好きになれません」
沈黙が、部屋を満たす。
ヴェインは、小さく息を吐いた。
その仕草は、失望ではない。
結論を出しただけだ。
「……そうか」
立ち上がる。
「不採用だ、村に帰れ。ここは、慈善事業じゃない」
「っ……! な、なんで!」
声が、裏返った。
「ここは金を稼ぎに来る場所だ」
ヴェインの声は、淡々としていた。
「金が嫌いな奴が、
居場所を得られると思うな」
一つ一つの言葉が、正しかった。
「お前の村の問題は金が原因かもしれん。
だが――救うのも、金だ」
「……っ」
フィリオスは、口を開いた。
だが、音は出なかった。
何を言えばいいのか、分からない。
否定できない。
間違っているとも言えない。
正しさが、
逃げ場を塞いでいた。
終わった。
そうフィリオスが思った瞬間。
ヴェインが踵を返し、扉に手をかける。その背中は、もうこちらを見ていない。判断は下された。覆ることはない。
――村に、帰る。
その言葉が、頭の中で鈍く響いた。
その時だった。
空気が、軋んだ。
香水とも酒とも違う、甘く、どこか鉄の匂いを含んだ気配が、部屋に滲み出す。
フィリオスの喉が、ひくりと鳴った。
ヴェインの指先が、扉に触れるより早く――
扉が、内側から開いた。
ヴェインの動きが、一瞬だけ止まる。
まず見えたのは、白い手だった。
血の気を感じさせない指が、ゆっくりと扉を押し広げる。
次に、艶やかな靴先。
床を踏んだはずなのに、音はほとんどしなかった。
胸が、詰まる。
理由は分からない。
ただ、本能が告げていた。
――違う。
この人は、ここにいる誰とも。
姿を現したのは、一人の魔族だった。
一目で“高価”と分かる服に身を包み、白い肌に覗く尖った牙。
吸血鬼――そう理解するより早く、その存在感が部屋を支配した。
圧ではない。
威圧でもない。
ただ、空間が従っている。
男は、フィリオスを見るなり、口元をわずかに緩めた。
「やぁ」
場違いなほど、軽い声だった。
「ハーフエルフの少年」
一拍。
「俺はセラフィス・ルージュ。
……君、なかなか面白そうじゃないか」
そう言うと、男――セラフィスは、ヴェインの横を素通りした。
断りも、遠慮もない。
それが当然であるかのように。
そして、フィリオスの前に腰を下ろす。
この部屋の主が、入れ替わった。
「は、初めまして……」
声が、かすれる。
「うん。で――結論から言おうか」
セラフィスは、楽しそうに言った。
「採用だよ」
「……え?」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
遅れて、ヴェインが声を上げる。
「彼は条件を満たしていません。金を嫌う人間を――」
「黙れ、ヴェイン」
低くもなく、強くもない声。
だが、その一言で、ヴェインは口を閉じた。
耳を伏せ、半歩下がる。
「ここは俺の店だ」
セラフィスは、視線も向けずに続ける。
「判断するのは、僕だよ」
そして、改めてフィリオスを見る。
「名前は?」
「ふ、フィリオス・リーヴェンです!」
「長いな」
即答だった。
「今日からこの店では――リーフ。それでいいね?」
「は、はい!」
「よし」
満足そうに、セラフィスは頷いた。
「……でも、本当に大丈夫なんですか?」
気づけば、そう口にしていた。
その問いに、セラフィスは一瞬だけ、困ったような顔をする。
「あぁ……そっか」
小さく、笑った。
「改めて名乗ろう」
ゆっくりと立ち上がり、背を向ける。
「僕はCLUB ELYSIUM代表取締役。
そして――この店のNo.1ホストだ」
「……っ!」
「大物とか思わなくていい」
振り返らずに、続ける。
「君を選んだのは、売れそうだからじゃない」
一拍。
「店が、面白くなりそうだからだよ」
扉へ向かいながら、最後に言った。
「さぁ、ついておいで。
君が立つ場所を、見せてあげる」
その背中を、フィリオス――リーフは、呆然と見つめていた。
こうして――
田舎村の半エルフ少年は、
王都No.1ホストクラブに迎え入れられた。
“異物”として。




