フェンタニル/アメリカの夜、中国の朝
夜は深く、ネオンは真実を隠すためにだけ輝く。
アメリカの夜は、いくつもの青い光の下で静かに息をしている。救急車のサイレン、ファストフードの閉店作業、そして小さな片隅で誰かが静かに落ちていく音。喉を締めつけるのはただの薬ではない。失業、孤独、医療の狭間、薬が潤滑油となって回る社会の歯車。歴史は皮肉だ。痛みを和らげるために生まれた鎮痛剤が、国に痛みとして還ってくる。
一方で朝が来る。だがその朝は、鏡のように冷たい。中国の朝は工場の煙と効率の匂いで満ち、倉庫のドアが早朝とともに開く。そこには「化学」という中立の顔をした商売がある。公式には規制と取り締まりが語られるが、世界の需要が影を作れば、影の流通路が黙って育つ。経済と政治の狭間で、責任は薄められ、やがて粉と錠剤となって海を渡る。
この二つの時間は別々に語られるが、ひとつの流れでつながっている。夜の需要と朝の供給が出会った地点で、見えない市場が音を立てる。誰かが利益を数え、誰かが統計を上げ、誰かが葬式を出す。声高な非難は続く。だが非難だけでは死者は戻らないし、真の解決は遠い。
批判は両手を必要とする。アメリカはまず、自分の夜に向き合わねばならない。刑罰だけが答えなら、夜は永遠に暗いままだ。治療、社会保障、予防、教育——人間を中心に据えた設計が先だ。金と政治が優先するシステムは、いつだって人間を使い捨てにする言い訳を編む。
中国に向けられる指摘もまた事実を含む。もし原料が流れ、取り締まりが形骸化するなら、国際社会は沈黙できない。だが「すべての責任は向こうにある」と指差すだけで済ませるのは簡単すぎる。グローバルな需要がある限り、供給はなんらかの形で応える。責任の応酬は政治のショーであり、被害者の墓標にはならない。
夜と朝の間に小さな抵抗は可能だ。コミュニティのクリニック、救命薬の配備、国境を越えた法執行の協力、企業の透明性――それらは官僚の書類よりも確実に血を止める。だが効果を生むのは、政治的演説よりも、毎日の小さな決断だ。医者が針を選び、親が子に話し、工場の購買担当がサプライヤーを問う。声は地味で、手間もかかる。しかし夜が少しでも薄れて朝がやわらかくなるなら、それは無駄ではない。
結局、フェンタニルという一語は、国境を越えた共犯関係の証だ。需要と供給、沈黙と無関心、政策と利害。どちらか一方を糾弾するだけでは文字通り半分の答えしかない。真実は冷たく、しかし公平ではない。だからこそ、夜の側も朝の側も、自分の影を照らすための光を持たねばならない。光が小さくても、数が増えれば夜は割れる。
静かに、しかし確かに——それが唯一現実的な反撃だ。政治の舞台で指をさすより先に、街の小さな治療室で誰かの手を握ること。朝の倉庫でどの化学を買うのか、問いを立てること。国と国の対立は続くが、命は待ってくれないのだ。




