方へ
これは私が実際に体験した話だ。
その夏は星が悪く、街が盆地にあるということも相まって、いつにも増して暑かった。
西のほうへ馬車を半日ほど走らせたところに金持ちの避暑地として有名な山間部の町があるのだが、さすがにこの憎らしい暑さに耐えかねて、無名の物書きである私は貯蓄を切り崩し、人生初の避暑旅行と洒落込むことに決心した。
用心深い――というよりかは怖がりと言ったほうが適切であろうか――タチである私は非日常的なことには予算から何から念を入れて下調べと準備をするのが決まりで、雑誌やら型録を集めてそわそわと家内を歩き回るものだから当然の如く「何か企てているな」と家族にバレるのである。そして決まって「自分も連れてけ」だの「あれを買ってこい」だのと言われるのであるが、行き先を伝えたら母は「あんな高いとこアタシは行かんよ」と、珍しく難しい顔をし、代わりに滅多に同行しない弟が行きたいと言い出した。今回は一人で行くつもりがなかったので断る理由はなかった。
町へと行く手段は安い馬車だが、日差しが無く緩やかに風が吹き込むだけでも移動はそれなりに快適だった。弟は尻が痛いのかしきりに居住まいを正していた。私のほうはというと、つばの短い帽子を深く被った御者の話に耳を傾けており、尻が痛むのは二の次といったところだった。
曰く、
「この道を行く途中にですね、まあ、馬を休ませる必要があるのでいくつか馬宿があるわけですが、その一つの裏にですね、脇道があるんですよ。細くて草も茂ってるし獣道みたいなんですが、よく見るとやっつけの舗装がされていて、森の中につらーっと入っていけるようになってます。その道を進んだ先にはなんと廃村がありまして、ここに入ると二度と出て来れないとか。もともとその村は排外的な、いわゆる因習村ってやつで、近くを通った村人が行方不明になったり帰ってきても五体満足ではなかったりと、被害報告が耐えなくて滅ぼされたなんてのは背びれ尾ひれのついた我々の間で有名な与太ですがね、聞いたところでは昼間に黒いモヤのような人影が道を先行していたので怖くなって引き返してきたとか、森の中で鐘の音がこだましていたとか、至る所で木の枝に動物の死骸がぶら下がっていたとか、そういった話があります。実際、十数年前までは地図にだけその村が載っていて、そこの出身だって言う人にも会ったことがあるんですが、村があった痕跡すら見つからないし、その村に住んでたって言う人たちは誰も村について話してくれないそうです。理由としては土着の信仰のようなものが関わってるみたいで、どちらにせよ何やら暗い噂は絶えませんねえ。ちなみに今のペースだとちょうど件の馬宿で休憩をとることになりますが、踏み入ることはお勧めしません。噂の真偽がどうであれ、獣や賊に出会したらどのみち命が危ないですから」
それからも御者はつらつらと著書のネタになりそうな話を続けてくれたが、私とは対照的に弟は退屈そうに時々ため息をつくのだった。
道中で軽食を摂ったり、小川のせせらぎに耳を傾けたり、昼寝をしたりしているうちに、件の馬宿についたのは昼過ぎだった。暑さを避けて早朝に街を出たので一時間ほど休憩をしてから残り一時間ほどで到着するはずだ。
意外なことに、今まで表情らしい表情を見せなかった弟が旅の疲れを忘れたような軽い足取りで裏にある細道へと踏み入れようとしていた。
「入らんほうがいいって言われてたでしょうよ。それに一時間もすれば出発するよ」
「すぐ戻ってくるから大丈夫っしょ」
「虫に刺されるよ」
「虫除け使ってるー」
弟は私の肩ほども高さのある草を分けて入って見えなくなってしまった。
「ちょっと、もう……」
何もなければいいのだが、心配になったことと、自分が一人になりたくないのとで結局自分も後を追って草むらに踏み込んでしまった。
草はだんだんと高くなり、やがて頭を超えた。足首、ふくらはぎ、肘、首筋、頬、揺れる草葉に撫でられるたびにむず痒くなった。
聞いていた通り、わかりにくいが道はあった。舗装というには扁平な石を埋めてあるだけのお気持ち歩道だ。私ならば頼まれても踏み入りたくない環境でも全く気にしないあたり、とうに十を過ぎたとて弟はまだまだ子供ということなのだろう。
十数分、いや二十分以上は歩いただろうか。道無き道を行くのには体力を使うもので、汗ばんだ肌に草が張り付くようになってきたその頃、前方から聞こえていたしゃわしゃわという音が鳴り止んだ。
「?」
「姉ちゃん……村なんてないよ」
草むらを抜けると、そこには何もなかった。
廃村どころか見渡す限り人工物すら見当たらない。ところどころ水面から頭を出している石を渡れば濡れずに渡れそうな浅い川が流れているだけの本当になんでもない森がそこにはあった。まるで、誰かの原風景を垣間見ているかのようだ。
何も言わずに佇む弟の背中は小さかった。
私は隣に立ち、
「知らないほうが面白い真実って結構あるよ」
ここで少し気の利いた言葉が出ないから売れないのだと自戒した。
「お客さん!出発しますよ!面白いものなんて無かったでしょう!」
そう叫ぶ声が聞こえた。御者に気を遣わせてしまったらしかった。
「戻るよ」
「……うん」
弟を先に行かせ、後ろ髪を引かれるような気がしてなんとなく改めて川を見渡してみると、文明を忘れてしまったようにやはり本当に何もない。小動物の一匹でも見えたらいいのに。リスとか。
「感覚の鋭い野生動物は人より先に人に気づくって言うよなぁ」
不意にそんなことが口を突いて出た。自分で言っておいてなんだが、一度そう考えると妙に野生動物に一方的に見られているような気がして落ち着かなくなってしまい、そそくさと弟を追った。
「あ、刺された」
馬車に揺られながら弟が呟いた。
見れば腕の肘に近いあたりがぷっくりと腫れており、見た目に違わず痒いようで、爪を立ててポリポリと掻いていた。
「あぁ、掻かないで掻かないで」
たしか荷物の中に痒み止めがあったはずなのだが、どこにしまったんだったか、なかなか見つからなかった。
「痒み止めですか。よかったら使ってください。安物ですがね、効きますよこいつは」
声の聞こえた御者台の方から伸びてきた手には古びた装いの瓶が握られていた。
「あ、親切にありがとうございます……」
痒み止め……なのであろうが、店で見かけたことのないものだし、言っては悪いがここまで汚れた容器だと品質に問題がありそうで使用には勇気が要る。この小瓶を見る弟の目にも怪訝そうな色が見えた。
「……痒いのおさまった」
「うん……そっか」
それ以上は口を噤んだ。
しかしやはり痒いようで、患部を避けるようにしつつその周囲をしきりに掻いていた。
さすがに痒み止めを塗らないと落ち着かないだろうと、荷物を整理しつつ改めて塗り薬を探すことにした。
御者が道中もあれやこれやと旅のお供に披露してくれる小話に相槌を打ち、ついに薬は見つからないまま日が傾き始めてしまった。
一と半刻ぶりに馬車から降りた弟は大きく上体を反らし山の空気を肺いっぱいに取り込んで、凝り固まった全身を解放した。
弟と二人で玉の汗を流してそれなりに量のある積荷を下ろし、従業員の手も借りて山の斜面に聳える宿に辿り着いた頃には空が朱く染まっていた。
「なんかつまんなかったなあ、御者の人」
「そう?」
そのくせにはウキウキで裏道に入って行ったように見えたが。
「姉ちゃんの独り言は減んないし。うわすっご。見て、姉ちゃん」
呼ばれるままに寄ると、弟の見ている窓からは町とその奥の私たちが抜けてきた森が一望できた。時運に恵まれたか、朱と紺青が空を二つに割っていた。その下で営まれる人々の暮らし、大きな祭りでも催しているかのような活気と色めきは、この町の日常らしい。実家なら半年は暮らせそうなほどの金を払っただけのことはあると言える。
「じゃ、姉ちゃん、俺下で遊んでくる」
「お金あんの?」
「俺本屋で働いてるし、母さんに小遣い貰った」
「あっそ」
私は小遣いなんて貰ったことないが。
「ああ、そうだ痒み止め……」
買っておけと言い終わる前に扉は閉まってしまった。まあ、腫れが気になったら自己判断で賈うだろう。それよりも、返し忘れた痒み止めをどうしようか。乗り場の従業員にでも預けておけばいずれ返却しておいてくれるだろうか。疲れたなあ。今から行くのは面倒だなあ。
頭を休ませるように腰掛けてぼんやりと窓の外を眺めていたら川が目に入って、上流からうねうねと辿っていくと、裏道があった馬宿はあのへんだ。あの何もない川辺。自分たちが歩いていたのは向かって右のほうだから左側が対岸か。対岸のほうは町から歩いても行けそうなほどこの町から意外と近いようだ。木々の傘で覆われて見えにくいが町から道が繋がってもいた。
馬車の速度はせいぜい人の歩きの二倍とあるかないからしいし、街道が川を避けて曲がりくねっているから方向感覚があやふやになるだけで、半日の旅というのも実は直線距離では大したことないのが実感できた。
町からあの対岸へ続く道はどこに繋がっているのだろうか。夕の光を浴びる森を仮想の自分が歩いていく。とつとつとつと、やがて傘の無い拓けた土地に辿り着いた。耕地でも、屋根が見えるわけでもない、何の目的で開拓したのか不思議な土地だった。後で、そこは墓地だったと知った。
友人と「短編創作ホラーを持ち寄って楽しもう」ということになり書きました。本格的なホラー描写を避け、テンポの良さと意味がわかるとジワジワ怖いを意識しています。
今作にはいくつかのターニングポイントがあり、運よく回避できていたから姉弟は無事に済んでいます。旅行という非日常の中に登場する選択の数々、どの道へ行こうか、何を食べようか、など、その中には実は致命的な選択肢が含まれていて、私たちは運よくそれらを回避できていただけかもしれないと考えると、今までの人生で経験してきた少し特別な出来事がジワジワ怖くなってこないでしょうか。