1.相剋の階段
青年は階段を下りていた。時にしてもう数週間と数時間。一昔前流行った服は煤け、見るもみすぼらしい姿になってしまった。
上る度に耳を劈くうめき声と悲鳴にあんまりにも憔悴してしまって、青年はもう階段を上る事を諦めていた。
下っていると、じきに貴族服の男と出会った。丸々太り、カイゼル髭が立派な男である。男は青年を見るなり、立ち止まって言った。
「お前は階段を下るのか。」
青年は、はあと溜息を男に吹きかけて告げた。
「ええ、呻き声があんまりうるさくて。」
「俺はそれが聴きたくて上っているのだ。お前もじきにそうなる。信じられないなら、この階段を下り続けろ。」
「最初から、そうするつもりです。」
男と別れ、しばらく下りていると、壁には次第に花が生えてきた。赤々と熟した大層な階段樹海だ。
青年のコートは伸び、花粉を浴びて煌々と光る。髭は歩く度に視界にちらと写った。うめき声は喜びの歌に変わった。
やがて、青年の肺から空気が消えた。植物が体内の酸素を吸っているとさえ錯覚し始めた。歌は一層大きくなり、階段を下る青年を賛美する。
最後の段に足を置いた。置いて、いよいよ息が絶えた青年は座り込む。こちらの方が、遥かに楽だった筈だ_と、己の不運に軽忽しながら。
青年と別れ、しばらく上っていると、壁には次第に苔が生えてきた。青々と生い茂った海底階段だ。
男の貴族服は破け、煤けて暗闇と混じり合う。髭は歩く度に抜け落ちた。喜びの歌はうめき声と悲鳴に変わった。
やがて、男の肺は空気で覆い尽くされた。てっぺんから流れる酸素を確信した。うめき声と悲鳴は一層大きくなり、階段を上る男を嘆く。
最後の段に足を置いた。置いて、酸素を満杯に吸った男は階段を上る。こちらの方が、遥かに辛かった筈だ__と、己の幸運に舌打ちしながら。
外は天気雨が降っていた。雨は髭で汚れた顔を、黒ずんだ服を洗い流す。街は雨粒を以て煌めき、絢爛な装飾よりも美しかった。
青年の先にはコンクリートで作られた廊下が広がっていた。一切の汚れも、空気も、うめき声も、悲鳴も許さぬ、賛美の歌だけが響く素晴らしき廊下である。だけれども、青年の足は動かなかった。歩いたら、どうにも死んでしまいそうだった。
青年は上を見る。光が惨憺と輝き、酸素の流れを照らす。あそこに近付けば、うまい空気が吸える。
耳を刺すうめき声こそ、あそこに近付く唯一の近道なのだ。
青年は声を求めて、再び階段を上り始めた。