平時の兵隊さんへ ~「蝉の声」感想文~
塾の前を通るとき、私はいつも顔をしかめてしまう。
塾にも色々あるが、どの塾の入口にも大抵、紙が貼られている。難関公立、私立に何人合格しましたという宣伝だ。偏差値の高い学校の合格者の名前は一番上へ掲げられ、目立たない所には申し訳程度に、さほど有名でもない学校の合格者が貼られている。
私はもう中学生では無いが、この年代が何を教わっているのかを知るために、国語の教科書を幾種類かストックしている。その教科書の中に、浅田次郎著の「蝉の声」という短編が入っていた。中学三年生の男の子の視点で、祖父と散歩をしている時のことが語られる。この祖父は戦争を通って来た年代の老人であった。そして本文の中で、老人は孫にこんなことを教えた。
『陸軍士官学校か海軍兵学校に合格するのが、ほとんどの中学生の目標だった時代の話だ。どこの中学でも、今年は陸士に何人、海兵に何人、という合格者の数を競い合っていた』
この文章を読んだ時に私は、塾に貼り出された合格者の掲示を思い出したのだ。
時代は過ぎ、今の日本には、陸士も海兵も無い。しかし、形を変えただけで、中学生や高校生が置かれている状況は、今も昔も変わらないのではないだろうか。その行きつく先が何かもわからないまま、学生たちは大人の作り出した土俵の上で戦わされている。なぜ戦うのか、何のために戦うのかという疑問は、それを疑問に思って立ち止まることさえ許されないまま、置き去りにされて。
「蝉の声」のこの祖父は、戦争から生きて戻ってきた。そして、わけもわからないままに戦ってきた当時を振り返り、「戦争には勝ちも負けも無い、戦争をした奴はみんな負けだ」と孫に言う。そして、こうも語っている。「中身が無くて腕っぷしばかりが強いというのは、いいことじゃないな」と。
戦時でなくても、学生は戦わせられている。わけもわからぬままに。戦時の「腕っぷし」が、この平時には「テストの点数」に代わっただけだ。だから、「蝉の声」の祖父の言葉は、現代においてはこう捉え直すこともできるのではないか。「中身が無くてテストの点数ばかりが良いというのは、いいことじゃないな」と。
学生たちは塾や学歴社会の尖兵ではない。しかし立ち止まらなければ彼らは知らず知らずに、そうされていくのではないだろうか。戦争の時代と同じ蝉の声を聞きながら、現代の学生は塾に通う。十年後、二十年後、彼らは蝉の声を聞いて、何を思い出すだろう。もし振り返った時、虚しさしか残らなかったとしたら、それは、寂しいことではないだろうか。
「蝉の声」は平和学習の反戦の気風を高めさせるための教材として使われることが多いという。しかしこの作品の祖父は、戦争の時代かどうかに関わらず、人間の、もっと普遍的な部分について、孫に話している。
「中身」とは何だろうか。私たちは何かをする時、その「中身」というものを、立ち止まって考えられているだろうか。そして、「中身」を考えず、わけもわからぬまま、世間の気風だけで進んでいくことへの危うさを意識できているだろうか。
「蝉の声」は、私にそんな警鐘をもたらしてくれた。