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アドレナリンが湧くのを感じる。
「ふ、ふふ…これがランナーズハイならぬワーカーズハイのゾーン!!」
初めこそ小さな虫も大きな虫も、目の前をちらりと横切るだけれ恐怖を感じていたが、遭難して数日も経てばそれに抱く感情はもはや不快感のみである。否ガサガサとなる草木に身を震わせていたのももはや懐かしい。
虫も、未知の生命体も、草木すらもとにかく怖かった。
食べられる、殺される。なんて直接的な命の危機はもちろんのこと、なんらかの感染やアレルギー症状なども怖い。職業柄、なまじそういった知識を仕入れているばかりに、そういった面ではちょっとした潔癖を持っていたのかもしれない。けれどいちいち恐怖していては無駄に体力を使うと思い知った。元々がそれなりにタフなのだ。
看護師は一に体力、二に体力、三、四に気合い、五に忍耐である。職業歴十年弱ともなれば気付けば中堅、様々な面倒を押し付けられ……もとい頼りにされるお年頃なのである。体力と気合い、忍耐で日々様々な試練を乗り越えてきたのだ。いつまでも入院と退院の繰り返し。一つの終わりを喜ぶ間も無く新たな始まりが迫ってくる。納期を終えた、ひと段落だと喜ぶ友人を羨みながら、終わりの見えない繰り返しと共に生きてきたのだ。この遭難だっていつの日かただの繰り返しだと割り切ることが出来るはず、だと信じたい。そのためにはとにかく体力を維持させることが最優先である。
そのためにはまず食である。
「口から物が食べられるうちは元気だし、食べものがあれば元気になれる…!」
とはいえ見知らぬ土地の、見知らぬ食べものと水。
美智香はそれなりに恵まれた家庭に生まれ、現代日本で生きてきた。その上例え不真面目であろうと看護師の端くれである。ましてサバイバル的なことを言うならばど素人もいいところである。
未知の感染や寄生虫のことを考えると川の生水もその辺になっている果物も、正直にいうと口にするのは怖い。けれど例え理性が怖がろうが、生きていればお腹が減る。美智香は可能性を恐れて、今を乗り越えられないのが耐えられなかった。簡単にいえば飢えてたまるか、腹が減っては戦もできんのだ!である。
火を起こす技術などない、獣と戦う術などない。そもそも手荷物はサバイバル仕様ではない。それもそのはずだ、重く怠い体で背負っていたのは仕事のためだけに特化したリュックサックである。背負っていただけでも偉いと褒めてもらいたいモノである。
話を戻そう。要するに現代日本でぼんやりと生きてきた看護師にサバイバル生活など無茶なのである。ここまでくるともう看護師という職など関係がない。現代日本に住まう平均的な人間、くらいまで範囲を広めて無茶振りだと突っ込んで良いと思う。美智香は半べそかきつつただひたすらに足を動かす。
初めこそそれなりに整えられていた髪も無造作にしばられ、邪魔な前髪はピンで止められている。完全に気を抜いた休日の寝起きヘアだ。誰とも会いたくない気持ちと誰か助けてほしい、という気持ちが相反する。嘘だ。夜勤明けで散々晒したことのあるひどい顔状態である。今更そんなもの気にしない。誰か助けてほしいという気持ちが十割でしかない。なんなら十割中二十割くらいは本気で誰か助けてほしい。真っ白だったスラックスは泥となにかのシミで見る影もない。救いといえばスクラブがネイビーだったおかげで汚れが目立たないことだろうか。あとは半袖でも寒くないこの気候が救いである。乙女としてはありとあらゆる汚れが隠されることに感謝したい。
りんごに似た果実を手に持てるだけもぎりとりリュックに詰め込む。とうに飲みきった空のペットボトルに川の生水を注ぎ、今日も今日とて川沿いを登る。今日こそは文明的な何かと出会いたい、その一心だけで足を動かし続けた。