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雛山

作者: 黒鎖 和純

 雛山に雪がおりた。岩がにぶく濡れた。とけた雪が桟道に氷をはった。

 おりてゆく先から男がのぼって来て、小さく杖をあげた。空気がゆるやかになった。葉がかたちよく会釈を返し、寒さでささやくように、

「降ってきましたね。」

 歩みを変えず、通りすぎようとしていた男は素肌のように、寒々しかった。

 そまつな麻を着、荒縄をしめただけの厳しさは、もろくなった道の黒さと調和し、雪景色にとけてゆきそうだった。

「崩れそうです。戻った方がいい。」

 近づくにつれ、村人とも思えぬ男は白髭をふって否定した。葉は継ぎたすように、

「それではあぶない。上着を貸しましょう。」

 ――村によってもらえれば。言い終わるさなかにまた髭がゆれた。

「しかし……」と、なお逡巡する葉は、男がかまわぬように微笑んでみせたので、言葉が出てゆかなかった。歩調をゆるめ、立ち止まるかに思われた男は、ふたたび足を速めた。すれちがいに森が香った。遠ざかる背中に、声が追いかけるように、

「雛子!」

 小さな立姿が恥ずるようかえり見て、かぶりをふったように思えた。

 雲海にゆらぐ雪を冠した山だった。凍った路はところどころ落ちていた。春になれば、男手が絶壁に張りついて、木を組んだ。

 このような季節、往来が滅多にない場所の出会いを葉は奇異に思った。男、と葉は最初の印象をもったが、矍鑠たる歩みはむしろ老人に近しいようで、何者であるか検討がつかなかった。それでいながら雛子と呼んだのは違和感を感じたからで、明確に感じた理由ではないが、好奇心がそう呼ばせていた。白髭、白髪、白衣の一種神聖な空気をただよわせ、伝説や想像で人口に膾炙する雛子とはこのような容子であろうと、葉がとっさに思い、口に出したにすぎない。

 そのような簡素で無駄がないたたずまいは、下ってゆく葉の足は止まらせ、頭頂に雪が積もらせたが、とける間もなく地に落ちた。こころもち体を前にかたむけ、足場に気をとられながら歩をすすめると、なにかしらの予感がふくらんでゆき、後戻りが苦にならなかった。

 しかし、さきほど訪れた頂上の墓は、花や食物、武具が遠慮がちに捧げられていて、裕福で無い葉もただ祈っただけであったから、いかにも貧しげな男どうするのか好奇心を刺激された。しかし意外にも路をそれ、嶮岨な山肌の岩を羚羊のように駈けていくので、続く葉も寒中に汗がながれ、前髪からしたたり落ちてきしむ肉に落ちた。倍のびる脚や、地を穿つ杖があるとしか思えない男の健脚に心中悲鳴を上げ、心臓の鼓動が耳にうるさく響いたが、なお追うのを止めなかった。すべる沓に辟易し、空を泳ぐようにどり着いた場所は、宙に飛び出ているような断崖で、何をするにせよ不向きだと思われた。気づいているのかどうか、雪にまみれ膝小僧も白くなった男が、虚空でとぎれた縁で止まるのを、かすれた茶が寂しげな枝に手をかけた葉が見まもっていた。足裏のまわりの地はことごとく、雪と白い花に覆われ、ここが白橋桁であることに気づくと、地中から霊が湧きあがり、そこらを彷徨っていそうであったが、目には見えなかった。瞳に映ったのは濛気にけむる山々であった。いかにも茫漠としていた。しかしながら所によっては禿げた肌をのぞかせ、若干黄をのせた白と力強く男性的な黒が直線で、曖昧さに明確な輪郭を与え、その景色の中に佇む老人に全体がなだれ込むように感じたのは、葉が注視していたせいだった。傍らの低木を慈しむよう眺めているさまは、濃淡がめまぐるしくうつり変わり、まるで人臭さがなかったが、その行為自体は人間そのものだった。

 その舞いがいつ始まったのか葉には分からない。慈悲の視線、その思いが五体に浸透するとまるで体重が軽くなって風に弄ばれる木の葉のごとく、全く前兆がなかったためであった。舞はに五体にいきわたり、始めると、ゆれ動いていた景色が、彼に映りそれは鏡だった。

 杖を剣に見立てての舞は、凹凸がないようになめらかで、型や動作が茫漠にとけて無であり、円い鏡が出来たのであった。そこにあやふやさが映ると、以前、不明瞭ながら囁きに似た光景が集約され、まるで意志があるように感じたので、葉はもっとよく観察しようと、より純度の高い部分を目で捜した。

 そうして男の表情をいたると、思わず身を乗り出した。

 まったくの木偶であった。

 髪や髭、着衣はただそこにあるだけ、という感を受けたが、それでも風にそよぐ柳のように動きがあるのに対して、面には何もなかった。虚であった。造そのものは非常に整っていて、ゆるやかに波打った髪が長く、秀でた額を下るとすっと引かれた白眉と二重瞼、

目尻の細かい皺と睫毛が囲み、虹彩の茶と瞳の黒が調和して、遠望する眼球を澄んでいる、という印象を、鼻梁の清潔さが助け髭が定着させていた。それは、舞が続くにつれて徐々に高まり、ほとんど透明な印象となった。

 鏡のごとく周囲を映し出す男のもっとも鮮明な部分が透明であることに葉は苛立ちを感じた。答えが見つからなかった。しかしそれも、優雅にふるまう杖に雪が降りつもり、体には一片も当たっていないと分かると驚愕に霧散した。これが、剣技だと信じられなかった。前傾した体が思わず一歩踏み出した。何かが毀れた。

 見下ろすと、花が無惨に散っていた。緑から解放され、白の世界に帰ったようだった。童女の泣き顔が思い起こされ、かがみ込んで懐に入れると顎を上げた

 男の姿は消えていた。

 葉は不思議な安堵をいだいて桟道へおりていった。死の匂いを嗅いだ気がして、あのまま舞が続くことにどこか恐れを感じたのだった。――落ちた、とは思わなかった。男は生きながらにして花であるように感じた。

 だがそのような思念も、長々と続く危険で不安定な板敷の路にゆっくり吸われていき、やがて絶えた。

 寒さが急に身にしみ、外套を掻きあわせた。

 

 麓は冬の空気にきいんと冴え、村にたどり着いた感慨を抱くより、冷たいよそよそしさを感じた。望楼の灯りが夕にうかんでいた。門にもたれ、、傾いでいた番が鎗をふって合図すると、

「おおい。」

 葉も応じずるため、声を張ろうと胸をふくらませたが、

「おっちゃあん。」

 響きわたる声に胸をおさえると、驚きが葉をそめ上げ、なつかしさが隅々までいきわたった。あの日とかわらぬ、剥きだしの心が夕映えにうかび、梯子をくだる灯火を強めたようだった。あれこれ問う番の向こうに火がおり立つと、あたたかみが辺りを照らし、そっけなかった村は始めて胸襟をひらいたように感じた。

「旦那、ここいらは初めてで?」

「いや、二度目なんだ。」

「へえ、じゃ安心だ。じき暮れますよ。宿はどうなさいます。」

「まだ決まってないよ。同じ家に厄介になるつもりだ。」

「旦那は奉人でしょう、いい宿に泊まらなきゃ。なんなら紹介しますぜ。」

「いいんだ。それより墓守は元気かい?」

「墓守?」

 火が傍らに来て、ぬくみで手を覆うと、そのまま引いて村へ入って行った。顧みると、番が棒立ちにびっくりしていた。

 村を通りぬける途中、まばらに人がいたが、皆一様に注視するので、葉は気恥ずかしくなり、足取りが何度も鈍ったが、その度にかたく握られる左手があつくて、されるがままになっていると、不思議と謙譲な心がわいて、後はただ素直について行った。

 はずれに来ると手を離し、やっと羞恥がわいたのか、静かに項垂れていたが、

「どうして黙って帰ったの。馬鹿、馬鹿、死んじゃえ、死んじゃえ。」と、激しく面罵された。村中に響くほどの強さだった。しかしそれも、あまりの驚きに葉を素通りして失せた。

 見知らぬ女がそこにいた。

 ところがこぼれる涙もそのままに、葉をとらえて離さない視線があの日と変わらず、むしろ成長し、輝きが深まっているので、魅入られるように絡ませると、追憶が呼び起こされ、頭をなでることも、言い訳することも、なぐさめることも、何をするにも的外れに感じ、困惑にみだれる空虚な心を捜すと、どこか透明で澄んだ場所があり、写しだされた心象と、砕けた花が重なって二人をつなぐ白い橋がかかったから、袂から取りだして渡すと、女は泣き顔と笑みのあいだで胸に額を押しあてて、「馬鹿……」と、小さく呟いた。

「驚いたよ。」

「どうして?」

「だってこんなに……きれいになってさ。」

 女はトンと拳でたたいて、

「小さくちゃあんたを殴れないわ。」

「おっちゃん、って呼ばないんだね。」

「本当じゃ可哀想よ。」

「そうでもないと思っているんだけれど。」

「十分よ。」

「そうかな。」

「そうよ。」

「でも、君のことは覚えていたよ。」

「だから花をもって?」

「うん。これも葬らなきゃいけないね。」


 もう十年も前のことだった。花を葬る少女と出会ったのは。

 躑躅の群生が、山腹を覆っていた。

 禁兵に落第した葉は、故国への道中、自らの傲慢を受け入れない社会に対し、懐疑の念を抱いていたが、悲しみや憤りを持てあまし、ふと雛山に詣でようと思い立つと、僅かな路銀と期待を胸に、山中へ分け入った。

 太古の王が第三王子を封じたと伝わる山には、武聖とうたわれた彼を慕って、勇士が多数訪れたが、今も山中に住まうとされるその姿を見たものは希であった。麓の宿場に落とす金に、墓守の一族が栄え、登山の季節になると、村は物々しいいでたちの男達でごった返してたいそうな賑わいだった。

 しかし、葉は喧噪を忌み金銀や地位を軽蔑するようになっていたから、静かに山歩きし、精神を先鋭にすることで雛子にまみえ、教えをこおうとしたが、一日、二日で衣服は破れ、頭髪はみだれるままになり、一週、二週のちには、木の根をかじり、手足で駈けた。そうした中、日が沈むまで魚を採っている様が川面に写ると、幻滅と焦燥が身をやき、ようやく山を降りる決意を固めたものの、国をでたころの美々しさはとうになく、野人さながらであったから、客引きもまるで相手にせず、自らが望んだように門に一人、佇んでいた。

 立派な身なりの奉人達は、ものなれた旅籠の男達と騒がしく交渉していたが、汚らしい風体が反って目立ったのか、葉に声をかけて来たのは好奇心の強そうな少年だった。

 彼によると、山中をむやみに彷徨う者は時折いるらしく、乞食とみまがう姿だからすぐに分かる、うってつけの寝床があるがどうか、ということだった。しかし里におりたのは、宿で休息するためではなく、他にしようがないからなので渋っていると、唐突に白橋桁には行ったかと問われた。葉のような者は流浪のはてに狂気をはらみ、ついには崖から飛びおりて命をちらすが、そこには天にも地にも行き場のない魂が白い花を咲かせているという。

「でもおじさんは大丈夫だね。銭を惜しんで命を惜しまないわけないもの。」

 そうではないと抗弁するのも馬鹿らしく、笑って承諾すると少年は嬉しげに先にたって歩きながら、雑用をすれば代金はいらないし、何日いたっていい。男手がないのを可哀想に思っていた、と本心を語った。

 案内された家は、すぐそこまで森が迫ってくるような村はずれで、地に伏したように平たく、泥土に汚れどこか陰気であり、戸板から顔をのぞかせた女といえば、肉がおち、髪はほつれ、疲れもあらわなので、よほど生活にこまっているのかと思えばそうではなく、病人がいるらしかった。だから、納屋に泊まってほしいと、すまなそうに頼む女があわれで、宿賃がわりの雑用をむしろ進んでやろうと裏手行くと、小さな背中が丸まっていた。葉の招来を少年がつげても、なごり惜しげに立ちさっても、そこいらに放りだしてあった鋸でさわがしく木を引いても、背中はおろか黒々とした髪一筋さえ身動ぎせず、家人の話をきいたあとのなので、さすがに心配になって覗きこむと、膝にのせた小鳥を縫っているのだった。

 羽はまがり、斑にぬけ、朱にそまった肉塊を繕う姿に近づきがたいものを感じ、まごついている葉に、

「おっちゃんだれ?」

 厳寒の秀峰から吹きおろす風だった。寒々しい響きに、山肌も凍りそうだった。しかし、厳しい肌触りを留めていた葉には、反って親しいものであったから、

「馬鹿野郎さ。」

 取りこし苦労の照れで自嘲すると、言外の意図を感じとったのか、両腕に鳥を抱えこんだまま立ちあがり、葉をしっかと見つめた。欺瞞も虚偽もない、澄みとおった瞳は、誰かのそれと比べるより、未踏の湖水に近しいようだった。しかも、垢じみた頭髪といい、単衣二重と着込んだ綿服といい、あまりにも汚らしい見た目に反し、硝子が何重にもなった無機質さは、人臭くないというよりほとんど石であった。思わず引き込まれて見つめると、限りなく深く沈んでゆくようで、なにかそら恐ろしくもあったが、耐えて視線を絡ませたのは、それが孤独で創られているように感じたからだった。やがて、表面に浮かび上がって来た者はどこか見覚えがあるものの、誰だかわからないままだった。

「おっちゃん、ばかかもしれないけど、いいおっちゃんだ。」

 舌っ足らずの言葉が幼い少女は、そう言うとはにかんだ。八重歯がちらりとのぞいた。

 それから葉のことをあれやこれやと問うていたが、四肢に含羞をおびたままであり、徐々に声が弱まってゆくと、終いには消え入りそうに、死骸を埋めるのを手伝って欲しいと頼んだ。頷いた葉は少女の重ねた手が土にまみれ、爪もひび割れて血がにじんでいることに気がつくと、憐憫がわき起こった。

 木ぎれを使って穴を掘るのを、少女は嬉しげに見つめていたが、やがて自分もやるとばかりに隣で掘り出したものの、非力のせいで容易に大きくならなかった。ならんだ二人の息がつうじ、葉は何度も「もういいかい?」と聞くと、そのたびに「まだだめ。」と、答えるのさまが楽しげなので、つられた口元がほころび、時間がゆっくり流れはじめ、ぽっかりした穴が空いたので、さてもういいかと傍を見ると、少女は自分の穴に鳥を埋め、背中を見せてだっと駈けだし、家の中に入ってしまった。葉は目の前の大穴と戸口とを交互に見比べて、所在なげにしゃがみ込んでいた。

 ところが間もなく戻って来た少女が両手一杯に抱え込んだものを見て、唖然とした。

 小さな鼠や鳥、魚などはもちろん、犬や鶏のように比較的大きなものまで、重そうにどさりと置くと、丁寧な手つきで底に並べ始めた。葉は呆然としていたが、もの言いたげな目つきが顔にあたって我にかえり、驚きが抜けきらないまま、粛々と亡骸を葬っていった。なぜこれほど多数の骸をわざわざ埋めるのか、疑念は少女の余りにも真面目な態度に言い出せなかった。そうしているうち、少女の感傷が移ったのか、自分も追悼の意をあらわそうと思い林縁から花を手折って戻ると、こんもりした塚にそえた。姫一華だった。

「なにしてるの?」

「手向けさ。」

「なんではなをころすの?」と、冷え冷え言ってこちらを見た。またあの瞳だった。今度は視線をさまよわせ、

「殺すって……誰かが死んだ時はこうするもんだよ。」

「はながしんだら、はなをそなえるの?」

「そんなことはしない。」

「じゃおかしいよ。」

「花と人は違う。」

「わたしとおっちゃんくらい?」

 同じ言葉を繰り返そうとして、それでは到底少女が納得しないだろうから返事に迷った。沈黙のままでいると、人界で溺れた記憶が甦り、はたして常識というものがどれほど通用するのかわからなくなった。人より花にちかい女もいたし、怪物とよぶにふさわしい男もいた。なにより葉は、自分自身を人ではなく、せいぜい出来損ないの人形くらいに思っていたから、少女に強く言えなかった。その代わり、ひとり言のように、「石みたいだなあ。」と呟くと、恥じらいを冷たさで覆った少女は、「そんなことない。」と、ぷうっとふくれた。「頑固だ。」「ちがうもん。」と、やっているうち、なにか面倒な気持ちになって、「ごめんな。」とあやまった。すると少女は深刻そうに、

「むやみにころすの、よくない。おやまがおこる。」

「へえ、どうしたらいい?」

「はなをうめる。」

「それから?」

「ふたりでおやまにいのる、そしたらきっとゆるしてくれる。」

「やってみよう。」

「うん。」

 大人の服なのだろう、長い裾を引きずって隣に来ると、膝を折り手を組んで懸命に、「ごめんなさい、ごめんなさい。」と、祈りだした。まさしく一心不乱だった。このように純真な少女を、大人の論理で騙したり、煙にまいたりするのは、後々しこりが残るにしても簡単に思えた。宿が数件あるばかりの田舎と呼ぶにふさわしい村に、長逗留するつもりなぞさらさらないから余計そう感じ、かといって深山に再び分け入って行くのも気が進まない、そのような曖昧な時、子どもらしい横顔に深遠な瞳を宿した少女に、人臭さがないというただそれだけの理由で雛子を重ねていたのだった。ここで頭を垂れ黙祷するはめになったのも、俗世間の塵埃をはらって少しでも雛子やその心に近づきたいという思いのためだったが、そのような心境に辿りついたとしても、結局剣を振るうのは捨てるべき俗世間で認められるためであるから、決して届かぬ夕日に向かって走っているようなものだった。。

 先程のやりとりにしても、少女の真摯な問いに正面から向かい合わず、二十五年の経験で得たものを正直に吐けばいいものを、遠い記憶にいる妹のように扱うことで少女の幼さにつけいり、問い自体にはなんの答えも、あるいはわからないと素直に言うことさえしなかった。汚い大人だった。過去に希求し、今も追い求めているものに対して唾する行為に、葉は自己嫌悪におそわれた。すると組んだ両手に温かい感触が触れた。いつのまにか閉じていた目を開くと、

「もういいよ。」

 少女が心配げな顔を間近に見せていた。その単純さが葉を癒した。触れた指先をかわしてざん切りの頭にぽん、と掌をのせると、

「ありがとう、石。」

「石じゃないもん。」

「ああ、わるいわるい。なんて呼べばいい?」

 少女は少し考えて、

「いえのかべをなおしてくれたら、石でいい。」

「壁だけでいいの?」

 そっぽを向いた横顔がこまっしゃくれていた。ほほが桃色に色づいて華やかだった。

「やねも……。」

「仕事は多そうだなあ。わかった。でもその前に、何か食わしてくれないか?。」

「うん!」

 そう言って石は戸口に向かって走り出した。今度は葉も後に続いた。

 大小の塚を春が通りすぎた。

 

 無数の塚に夏がやって来る。

「長さは?」

「みじかいのがすき。」

「せっかくの髪が台無しになるよ。もっと伸ばしてもいいくらいだ。」

「めがいたいんだもん。」

「簪は?ないのかい?」

「したことない。」

「一本くらいあってもいいだろう。村で売ってる?」

「たまにうりにくるよ。」

「いつ?」

「まつりのとき。」

「ああ、だからか。」

 祭囃子が遠くで賑やかだった。椅子にちょこんと坐った石はしょざいなげに落ち着かなく、その度に叱咤する葉も、始めてのことで悪戦苦闘していた。垢をおとした髪の毛の一本一本はあくまで細く、黒々した束で掴むとつややかに輝いて、自在にかたちを変えた。慎重にいれる鋏に、一筋、また一筋、襟に溜まってゆく。それを払う手はもちろん、爪の先にいたるまで丸洗いしてやるので、清潔だった。しかしほんのり桜色の爪は、長い間ほったらかしのせいか、伸び放題だった。

「こっちも切らないとな……。」

「なに?」

「なんでもない。ほら、動かないで。」

「ちくちくするよ。」

「もう少しの辛抱。」

「これがおわったら、たいこをならいにいくの。」

「あの子と?」

「うん。」

「迷惑かけてないか。」

「してないよ。いいこにしてるよ。」

「夕飯までには帰って来るんだぞ。」

「わかってるよ。まだ?」

「ほら終わった。」

 毛をふるい落としながら立ち上がった石は、感触を確かめるように指で梳いていたが、両手で頭を抑えて、ちら、とこちらを見た。出来上がりに満足して頷くと、あきらかに不満げな顔をして唇を尖らせたので、「可愛いよ。」とお世辞を放つと、髪を二三撫でつけて照れていた。そのうち、こそばゆい空気に堪えかねたのか、「ばっちゃにみせる。」と言って元気よく駆けだした。祖母は母屋で臥していた。

 葉はその子供らしい振る舞いに微笑みを禁じ得ず、ある種の感慨をもった。

 出会った時の陰が、年相応に扱われることで、薄皮が一枚一枚はがれてゆくように表情が明るくなり、剥き出しになった心はまるで灯火だった。光が葉の焦燥を照らすと、おだやかな世界の存在をしらせた。

――ただの子供だ。

 捻れた思考はそう囁いていた。しかしどこにも身の置き場がないと感じていたあの頃にくらべ、のどかで平穏な暮らしを知れば知るほど、生きぬく気力が戻り、感謝の念から少女にやさしさをそそぐと、応えるように強まるのは、やはりやさしさだった。その関係は葉にとって、あるいは少女にとって必要なものだったから、立ち去りがたい気持ちになり、ずるずると出発を延ばしているのだった。

 椅子や鋏を寝床にしている納屋にしまい込むと、家の裏手の森に入っていった。鬱蒼とした空間はかぶさるようであったが圧迫感はなく、静謐の中に木々がしゃんと屹立しているさまは、何かの道標のようであった。藪をかき分けると、釈や黒臼子が花咲かせ、一面の緑が目に染みこんで淀んだ澱が洗い流される思いだった。しばらく逍遥し、食膳の足しにするため野草を採ろうと身をかがめた時だった。

「おっちゃん。」

 振り向いて声の主を探したが、容易に見つからなかった。

「どこだ?」

「ここ。」

 ふいに現れたように、石がそこにいた。

「なにかあったのか。」

 木々の重なりとかわらぬ存在感に、異常を感じた葉は小走りに駆けよって肩をつかんだ。

「しぬんだ。」

「えっ?」

「ばっちゃがしぬんだ。」

「……そうか。」

 手を広げた葉のふところに、すうっと石がおさまった。

「さんねん、がんばったよ。いたい、いたいってないて。」

 泣いているのだと思った。しかし震えた睫毛は濡れていなかった。

「なおる。なおるからっていったよ。でもうそだ。」

「どうして?」

「ほんとはしってた。みなとおなじにおいがしたから。」

 葉は石の背中を撫でてやろうとして躊躇した。妹のようなこの少女は、実際の家族ではなかった。なんとなく訪れたこの村で一番親しい存在にすぎなかった。節目を迎えているこの時、愛情を表してしまえばこれからも彼女は自分を頼ることになる。だがいずれいなくなる自分とそのような関係になるのは不幸であった。それに億劫でもあった。

 祖母が臥せっていることは知ってはいた。夜、時折ながく尾をひくように苦痛の叫びが上がった。生との別れを告げているのだった。長い闘病のはての最後の心残りが孫だったのだろう、居候の挨拶にいった際、枯れた風情をもち、虫の息が苦しげな老婆は少女を気遣ってくれと頼んだ。三人ばかりの家族の内、母は旅籠で下働きをしており、祖母は病床にいる。石にかまう人間はいなかった。

「おっちゃんはいつかいっちゃう。しってる、しってるよ。けど、けど、いまはここにいて。そいで、そいで、ふたりでおまつりにいこう。」

――簪がほしい

 少女のささやかな願いを叶えてやりたかった。しかし自分にはその権利も義務もなく、ただその場の感情で約束することは出来なかった。葉に出来たのは石を稽古に送り出すことだけだった。

 石は振り返り振り返り千鳥足で村に歩いていった。途中何かを踏んだように体勢を崩した。思わず手を伸ばしたが、何事もなかったかのように背中が遠くなった。

 葉がそこまで行ってみると、わずかな死があった。

 地虫がつぶれていた。

 夜中になった。めずらしく静かだった。

 藁をかぶって横になっていた葉は、戸をたたく唐突な音で起き上がった。肩をおとして入って来た石は、何かに耐えるように俯いていたが、助けを呼ぶように葉の名を呟いた。

 祖母がいよいよ最後を迎えること、彼女が葉を呼んでほしいと言っていること、訥々とそれだけ話し、戸板にぶつかりながら出て行った。

 闇夜に伏した母屋に入ると、外と変わらぬ暗さの中、囲炉裏の熾火だけが小さく煌々と輝いていた。奥まった場所に寝具があり、置物のように病人が寝ていた。傍らには両手を膝に乗せた石が正座していて、こちらをちらと見やった。何か荒んだ倦怠のようなものが充満していた。葉は寝具の端に座した。

 粘性の空気が肌を這い、毛穴に侵入して狂わしい衝動を呼び起こすようで、落ち着かなかった。異常な静寂だった。石はすでに全身犯されたように全く身動きしなかった。しかし、枯木か鳥の骨を思わせる老女が毛布から腕をのばすと、安心させるように手を握りしめた。

「ばっちゃがたのみ、あるって。」

 こちらを全く見なかった。

「くるしい、くるしいんだって、だから……」と響きが消えていった。

「もういきたいんだって。」

 そうして葉を射る黒々した瞳は、もはや吸いこまれそうな硝子ではなく、にぶく光る幼い眼だった。いじめられたように、途方に暮れたように弱々しい、ただの子供の眼だった。葉は刹那の情を押さえる間もなく、背中からかぶさるように抱きしめていた。貧弱な肢体が消えて無くなるように縮こまった。

「助けて下さい。助けて。」

 老女がぜいぜいと呼吸し、咽を蠢かせて懇願した。誰に言うわけでもない、虚空に言葉を送りだしているのだった。眼もよく見えないようだった。苦痛の波が襲いかかると全身が力み、筋張った腕から生えた手が寝具の隙間から出てきて、両手で石のそれを白くなるほど掴んだ。我をわすれて爪をたてるので血が流れた。

「母さんは?母親はどうした?」

「そとでおやまにいのってる。」

 思いがけない自分のかすれ声にぎょっとした葉は、石の返答にますます喉が干上がっていくのを感じた。

「ばっちゃんはずっとがまんしてた。なおらないのしってたけど、がまんしてた。わたしがひとりに、なっちゃうから、しんぱいして……。でも、もうおしまいにしたいって。しんじゃいたいっていうの。」

「奉人さま、お願いします。」

 石が震えているのだと思った。祖母の今際の際に動揺しているのだと。しかし震えているのは自分の体だった。

「おっちゃん、どうしたらいい?どうしたらいいの?」

 炭がはぜる音が耳につき、鼓動が早まった。汗が首筋を流れるのを感じた。今までに経験したことのない大きな感情が心中から湧いて来た。同時に周囲のぼんやりとした暗闇が巨大な手のように体をつつみ、握り潰そうとぎりぎり締め上げる。内も外もそれで一杯だった。逃げ場はなかった。

「いたい、いたい、助けて!」

 堪えきれなくなった老女はついに悲鳴を上げた。石が腕の中から抜けだして土間にたった。葉の落ち着かない視線は辺りを彷徨った。床に薄く埃が積もっていた。死臭がした。耳に届くのは苦痛のうめき声ばかりだった。

 石が小さな壺を持って戻って来た。

「なんだそれは?」

「しゃくのねっこ。」

 余りの貧しさに葉は驚いた。この期におよんでそんなものを与えていたのではどうしようもなかった。自分が行動しなければこの女は泣き叫びながら死んでいくだろう。葉ははっきり理解した。

 だから老女に止めを刺すことを考えた。今まで奉人として、いや武人として訓練をつみ、禁兵になろうとまでした自分だった。病人ひとりあの世に送ることぐらい雑作もないはずだった。

 その時ひときわ高く声が上がり、思わず老女の面を見ると、頭蓋の形がうき出るほど肉が落ち、皺が縦横無尽にはしり垂れ下がった皮膚が象牙色でいかにも醜かった。それなのに、それなのに薄く開かれた眼は愛おしむようにやさしげなのだ。無私の愛があった。ここにいるのは罪人でも悪人でもなく、つましい生涯を終えようとしている善良な心なのだ。殺すことなど思いもよらなかった。指一本動かなかった。

 どす黒い空気に悲鳴だけが木魂し続けた。

 そうしてどれほど時間がたったろう。闇が動く気配とともに石が目の前に坐った。

「おっちゃん、それかして。」

「なんだ?」

「そのかたな、かして。」

「何を言ってる?馬鹿げたことはよせ。」

「ばっちゃをしずかにおくりたいの。」

 幼い顔が決意に引き締まり、力んだ四肢は頑なだった。人の意志であった。それが葉を射た。

――ああ駄目だ、やめてくれ!

 虹彩の茶が葉を瞳に導く。真円の黒に囚われた己は恐怖に怖じ気づき、歪んでいた。すぐに眼をそらせても、眼球の裏にいつまでも残り続けた。石が腰に手を伸ばし、長物を抜こうと四苦八苦しているのを手伝おうともせず、されるがままになっていた。今まで考え、しようとしていたことはすべて忘れ、ただ脳裏に焼きついた怯える自分を眺めていた。こそこそと何か隠れるものを捜し、びくつきながら卑屈な眼でこちらを見る自分を……。そいつは目の前の光景から必死に逃げようとしていた。身を守るものが何もないとわかると、葉の中に飛びこんだ。

「ありがとう……。」

 老女が末期の息を吐いた。葉の奥歯がかちかちとなった。

ぼうっとした暗さの中に血刀をさげた石が浮かんだ。気押されたように身を引いていた葉は身震いがおさまるにつれ、得体のしれない苛立ちを感じた。衝動を抑えず、言葉を飾らぬまま吐きだした。

「何て、何てことを……。」

「うん。」

「そこいらの菜っ葉もあれだけ大事にしてたじゃないか。それなのに何で人を殺せるんだ!」

「ばっちゃ、もうつらいだけだ。くるしいばっかりだ。」

「こんなやり方じゃなくてもいいじゃないか。いくらでも方法はある。なんなら俺が……。」

「はやくらくにしてあげたかったの。はやく。」

 涙が頬を伝う。

「でもね、でもね、ほんとうはちがうの。みていられなかったの。こわくて、こわくて、どうしようもなかった。ばっちゃがくるしむの、みていたくなかったの。じぶんのためにころしたの。」

 刀が床に転がった。

「あたし、にんげんになっちゃったよ。」

 そう言って石は掌で涙を拭いながらしゃくり上げた。葉は呆然とした。この少女を始めて見たような気がした。熾火が崩れた。

 葉は夜明け前に山をおりた。


「思いだす度、厭になるよ。なさけなくてね。今もあやしいものだけれど、あの頃はもっと酷かった。なぐられてもしかたないよ。」

 体をあずけたまま、力強く振り上げた拳はいったん宙で静止すると、惑うように揺れ動いてそのまま胸に押し当てられた。心臓の鼓動を感じるように広がられた掌の指がきゅっとすぼまったのは女の感傷だった。痛みに見下ろすと、柔らかく繊細な毛が黒々と流れ、襟からのぞくきめ細やかな白い肌を隠していた。透明な産毛が生えていた。ほんのり紅がさして色づいてゆく様を羞恥のためだと思い、我ながらつつしみのなさに苦笑しながら身を離そうとすると、

「変わらないわ。」と、淋しげに言い、反って頬ずりするように頭をよせた。

 固く引き締まっているのに、ゆるくのびやかな肢体、そこから香気がたちのぼると伽羅と体臭が相まって鼻腔をやさしく刺激した。肩の筋肉が弛緩し、両腕は抱きしめようと背中にのびたが、途中で思いとどまり空を激しく掴んだ。

「どうして抱かないの?」

「甲斐性がないから。」

「昔は抱っこしてくれたわ。」

「子供の頃はな、今は駄目だ。」

「どうして?」

「色気づいたよ。」

「あら、そんなことないわ。」

「俺が、さ。」

 女は仰け反るように身をはなして、葉の顔をじっと眺めたが、そのうち笑みがこぼれた。「変な人。」

「よく言われるよ。」と葉は鼻筋をかいた。

「こんな所で話していたら、皆に聞こえるわ。家に入って。」

 いまさら気にしても仕方ないだろうに……遠巻きに様子を窺っていた群影が割れるのを一瞥し、女の後を追った。


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