飛行機のおなか
飛行機は、ずいぶん小さなものだと思っていた。
空の端っこに、小さく筋を書く、小さな小さな欠片。
広い青い空のど真ん中に、堂々と白い線を引く、小さな小さな欠片。
あんなに小さな欠片なのに、大きな空に真っ直ぐに線を引く、飛行機。
私の興味は、もっぱら青い空の色と白い飛行機雲のコントラストであった。
青い空に白線を引く、飛行機という存在をスルーし、クレヨンを握った。
空を仰いでは、雲の間に見える直線を見つけて、心を踊らせた。
自由気ままに空を見上げていた時代は過ぎ、やがて私は大人になってゆく。
日常に追われつつも、時折空を見上げた。
青い空を見て、狭苦しい世界を忘れた。
白い雲を見て、身動きの取れない世界を忘れた。
伸びて行く白い筋を見て、抜け出せない世界を忘れた。
……いつも、遠くに伸びていた、飛行機雲。
生まれ育った土地を離れ、一人で生きていくことになった。
私が住むことになった町は、少し都会だった。
大きなビルが所々に並ぶ、夜も明るい、街。
荷物を送り、車に乗って新居へと向かう、道すがら。
グ、グゥォオオオオぁああアアアアアアア!!!!
赤信号で止まっていたら、聞いたこともない爆音が、突如、私に襲いかかった。
何事かと身構えるも、周りの車は、微動だにしない。
何事かと身構えたまま、信号を見つめる事しか、出来ない。
グ、グゥォオオオオぁああアアアアアアア!!!!
・・・・・・?
グ、グゥォオオオオぁああアアアアアアア!!!!
・・・・・・!!!
頭上を、大きな、塊が!!!
信号が青に変わり、前の車が動き出した。
私も後に続きつつ、目線を、頭上から前方へと向ける。
大きな、白い塊が、前方方向へと流れていく。
塊の最後尾が頭上を流れた時。
私は、ようやく頭上を通り抜けたものが飛行機であったことに気が付いた。
見送ってみれば、左右に広がる大きな翼……飛行機にしか、見えなかった。
初めて見る、飛行機のおなかに、私はひと目で囚われてしまった。
青い空に映える、真っ白な機体。
青い空を覆い隠した、大きな存在。
青い空の下を行く、堂々とした姿。
……私が住む街には、空港があったのだ。
田舎町で育った私には、空港というものになじみがなかった。
飛行機に乗る機会のないまま大人になった。
飛行機に乗りたいと思わない大人になってしまった。
初めて、飛行機というものに興味を持った瞬間だった。
空港は、自分のアパートから車で30分ほどの距離の場所にあることが判明した。
誰一人知り合いのいないこの町で、休みが来るたびに飛行機のおなかを見に行った。
自転車で45分、歩いて行っても一時間の距離が、ちょうどいい気分転換になったのだ。
空港の横には少し大きな公園があり、離着陸する飛行機を心行くまで堪能することができた。
グ、グゥォオオオオぁああアアアアアアア!!!!
大きく鳴り響く飛行機の轟音。
キ、キィイイイイイイイイイイイイイイン!!!!
……ああ、ずいぶん、ずいぶんうるさい。
……けれど私は、嫌いではないのだ。
この騒音は、不愉快な声をかき消してくれる。
この爆音は、耳障りな囁きをかき消してくれる。
この大音響は、忌々しい記憶をかき消してくれる。
公園のベンチで空を仰ぐ私の上を、飛行機のおなかが通り過ぎていった。
私の周りで燻っている重たい空気をかっさらいながら、飛行機のおなかが通り過ぎていった。
飛行機の通り過ぎた後の、空気の爽やかさは格別だった。
……今だって、格別、なのよねえ。
飛行機のおなかの助けもあって、私はずいぶん、前を向くことができるようになり。
家族を持ち、自分の居場所を手に入れ、今、ここにいる。
空の青さは、昔と変わらず、とても魅力的だ。
雲の白さは、昔と変わらず、とても愉快だ。
飛行機雲は、やけに派手に空を飾っている。
幼いころ見た、か細い飛行機雲も時折見かける。
この場所には、いろんな飛行機雲が現れるのだ。
グ、グゥォオオオオぁああアアアアアアア!!!!
ああ、私の上を、飛行機のおなかが、通り過ぎていく。
白くて大きな、飛行機の、おなか。
……私にとって、飛行機のおなかは、見上げるものなのよね。
……私にとって、飛行機のおなかは、見送るものなのよね。
……私にとって、飛行機のおなかは、見るものであって。
「ねー、旅行楽しみだね!!」
「初めて飛行機乗るよね!!!」
「……ねえ、私だけ、電車で行っても、良い??」
飛行機のおなかに、収納されることは、望んでないっていうか―――!!!
「まだそんなこと言ってる!!!チケット取っちゃったんだからあきらめて乗らなきゃだめだよ!!!」
「たかだか二時間のフライトなんだからさあ、そんなに怖がらなくても!!」
「だってさ、鉄、鉄が宙に浮いてるんだよ?!無理、ムリムリ、やっぱ無理ぃイイイイイいい!!」
キ、キィイイイイイイイイイイイイイイン!!!!
ああ、間もなく飛行機が飛び立とうとしている。
飛行機のおなかがまた頭上をかっ飛んで行くと思われるが。
私の、恐怖心を吹っ飛ばしては、くれそうに、……ない!!!
見れば見るほどに恐ろしさが増す……ひ、飛行機ェ……!!!
「そもそもおかしいんだって、重いもんが浮くとか人間は地面の上を移動してなんぼ……」
グ、グゥォオオオオぁああアアアアアアア!!!!
私の情けない言い訳は、豪快な飛行機の大音響に、かき消されたので、あった。