巻き戻っている悪役令嬢と、巻き戻っていることに気づいた王子の話
「エレーナ・フォン・リヴレ! 君との婚約は破棄する!」
魔法学院の卒業パーティの席上で、僕は大声でそう宣言した。
婚約者だった公爵令嬢、エレーナ・フォン・リヴレは、その宣言にも動じることはなかった。
何故、と問うこともなく。
考え直して、とすがるわけでもなく。
その目には一切の動揺も落胆もなかった。
まるでそれが予想通りだったかのように、静かに僕を見つめている。
何故だ、何故動揺しない?
死刑判決にも相当する宣言だぞ?
エレーナの氷のような無表情で僕を見ている。
それに気圧されて、僕はしどろもどろに続けた。
「――ぼ、僕は今まで、本当の愛を知らなかった。第一王子という王国の操り人形として、意志なく君と婚約し、王子という傀儡のまま死んでゆくのだと思っていた――だが今は違う! 一人の男として、この国の未来を背負う人間として、僕は真実の愛に目覚めたのだ! 僕の目を覚まさせてくれたのは、ここにいる彼女だ!」
そうだよな? と僕は肩を抱いたアンリエッタを見た。
アンリエッタは僕の腕の中で、幸せそうに微笑み返した。
黒髪のエレーナとは違う、光り輝くような金髪の少女。
遥か東方の田舎から、稀有な白魔法の才を見込まれ、平民でありながら特例でこの学園に入学した娘。
本来ならば王家に嫁げる可能性など、万にひとつもない身分だろう。
だが、この学園にいた二年で僕は気づいたのだ。
彼女こそがこの国の王妃に相応しいと。
まさに国母、いや、聖母となるべき、溢れる程の優しさと靭さを持った女だと。
そして同時に、僕が護ってやらねばならない儚さと弱さを持った女だと。
だから、エレーナはもういらない。
その思いを胸に、僕は再び宣言した。
「僕はこのアンリエッタ嬢をこの妃とする! この二年間、君がこのアンリエッタ嬢にした無礼で非情なる仕打ちの数々、彼女が勇気を持って僕に打ち明けてくれたぞ。君は今ここで断罪されなければならない悪女だ!」
アンリエッタの身体が強張った。
僕はアンリエッタの肩を抱く力を強める。
エレーナがアンリエッタを殺そうとしている――。
アンリエッタに涙ながらにそう打ち明けられたとき。
僕はまさかと思うよりも、やはりそうだったかと確信した。
アンリエッタが僕と知り合ってから、エレーナはアンリエッタへの嫉妬を隠そうとしなくなった。
僕がどこにいてもエレーナがつきまとった。
アンリエッタが僕と話をしていると、露骨に僕たちを引き剥がそうとした。
エレーナは僕とアンリエッタの視線が合うことすら嫌がった。
その度に、アンリエッタの表情は暗く、悲しそうに塞ぎ込むことが多くなった。
そして決定的な事件が起こったのが三日前。
アンリエッタが学園の階段から転げ落ち、足首を酷く挫いた。
悲鳴を上げる令嬢や令息を掻き分け、僕はアンリエッタを抱き抱えた。
捻った足首を布で固定し、医務室へ連れて行こうとした時。
アンリエッタが小さな声で耳打ちした。
「エレーナ様が、私を殺そうとしています――」
はっと、僕は階段の上を見上げた。
僕らを注視する令息や令嬢たちの向こうに。
エレーナの艷やかな黒髪が小走りに去ってゆくのを、確かに僕は見たのだ。
エレーナがやったのだ――僕は確信した。
エレーナが、彼女を階段から突き落としたのだ。
もはや一刻の猶予もない。
このままでは遠からず、アンリエッタはエレーナに殺されてしまう。
僕はその怒りを胸に、エレーナを見下ろして言った。
「この国の未来に、君という悪女が介在する余地などない、君は――!」
「私は国外追放、ですわよね?」
エレーナが静かに、だが確かにそう言った。
僕は目を見開いた。
アンリエッタも不審そうな表情を浮かべ、戸惑ったように僕を見つめる。
エレーナが視線を床に落とした。
まるで自分の足元に、莫大な虚しさと徒労が渦を巻いているというかのように。
それは酷く――疲れたような視線だった。
「なるほど――殿下のお気持ちは変わらないのですね」
「あ、あぁ……その通りだ! 君は――」
「ならば、もはや私がここにいる理由はありませんわ」
その瞬間、エレーナがドレスの袖から取り出したもの。
固唾を呑んで僕らを見ていた観客が、短く声を上げた。
エレーナの右手に握られたのは、一振りの短剣だった。
僕は咄嗟にアンリエッタを庇い守るように抱き抱えた。
一体何をするつもりだ、何を――!?
仰天する僕とアンリエッタを、エレーナは悲しげな微笑みを浮かべて一瞥し――。
エレーナは自分の喉に、迷いなく短剣を突き立てた。
令嬢たちが悲鳴を上げて目を背ける。
会場を警護している衛兵たちでさえ、凍りついて棒立ちになったままだ。
短剣が突き立てられたエレーナの喉から、信じられないような勢いで血飛沫が噴き上がり――エレーナの白い顔はみるみる鮮血に汚れていく。
アンリエッタが僕の胸に顔を埋めて悲鳴を上げる。
あまりの事態に、全身の力が抜けた。
エレーナ、エレーナ! まさか自害するなんて――!
僕はエレーナを見た。
鮮血にまみれた顔のまま、エレーナは悲しそうな目で僕だけを見ている。
その黒い瞳に視線が釘付けになってしまった。
その瞬間、真一文字に引き結ばれたエレーナの口が開き、言葉を紡いだ。
待っていて。
想像を絶するだろう苦痛の中。
彼女は確かにそう言った――。
◆
はっ、と、僕は目を見開いた。
どこだ、ここは――!?
僕は慌てて周囲を確認する。
見慣れた天井の絵。見慣れた調度品、見慣れた窓の外の景色。
どうやら、ここは学園寮の、僕の部屋らしい。
まさか、あまりの光景に失神したのか!?
王子らしからぬことだった。
いくら元婚約者が目の前で自刎したからと言って卒倒するなんて!
寝ている場合ではない、早くエレーナがどうなったのか確かめなければ!
僕は部屋を飛び出した。
ほとんど寝間着のまま、僕は裸足で学園寮の長い廊下を駆ける。
医務室があるのは学園の東側だ。西側にある寮からは一番遠い。
なんてもどかしい――! 僕は走った。
エレーナ、無事でいてくれ!
血相変えて疾走する僕を、学友たちが不思議そうに眺めている。
寮を飛び出し、寮と学院棟と結ぶ渡り廊下を渡ったときだった。
「で、殿下――!?」
聞き覚えのある声だった。
はっ、と、僕は足を止め、声がした方を見た。
「殿下、そんなお姿でどうなさいましたか?」
何故、どうしてだ。
僕は戦慄した。
そこに、エレーナが立っていた。
僕は呆然と呟いた。
「エレーナ――?」
「え、えぇ。そうですが……」
「なんでだ……! どうしてだ!?」
僕はエレーナの肩を抱いて揺さぶった。
エレーナは驚愕の表情で身を竦めさせる。
「なんでこんなところにいるんだ! まだ寝てなきゃダメじゃないか! 昨日あんなことをしたのに! 命に障ったらどうする!?」
「え、えぇ――!?」
「それより、なんであんなバカをした!? 僕は君の命まで取ろうとは考えてなかったんだぞ! それなのに卒業パーティであんなことをして……君は一体何を考えてるんだ!?」
「でっ、殿下! 落ち着いて! 落ち着いてくださいませ!」
エレーナが僕の手を振り払って飛び退った。
僕がはっと我に返ると、エレーナは肩で息をしながら、狂人を見る目つきで僕を見た。
「殿下はさっきから一体何を仰っているんですか?」
「は、はぁ?!」
「怪我、とはなんのことです? 私はどこにも怪我などしていませんわよ?」
「な、何を――! きっ、君は昨日、自分の喉に短剣を突き立てて……!」
「短剣?」
エレーナの眉間に皺が寄る。
その表情に、えっ? と僕の方が驚いた。
「短剣? 卒業パーティ? 怪我?」
「な……!」
「卒業パーティは三日後ですわ。殿下は一体誰の卒業パーティに参加してらしたんですの?」
耳を疑った。
卒業パーティが三日後?
一体何を言ってるんだ?
卒業パーティは昨日じゃないか――。
「え、エレーナ……ぼ、僕は」
僕は――と何度も繰り返し、あたふたと慌てる僕を見て、エレーナが確信的に言った。
「殿下は寝ぼけてらっしゃったのですね?」
「え――」
「確かに最近、少しお疲れの様子でしたから。悪夢に魘されるのも無理はありませんわね」
「い、いやエレーナ聞いてくれ。僕は確かに――」
お戯れはもう十分、というように、エレーナはくすくすと笑った。
あ――と、その表情にわけもなく胸を衝かれたように感じた。
生きている。彼女は生きている。
何故か何の疑いもなく、唐突に僕はそう悟った。
「さぁ殿下、殿下は今、寝間着姿で、しかも汗で髪がドロドロのまま。皆様に見られていますわよ」
「あ、こ、これは、だって君が!」
「さぁさぁ、部屋で身支度を整えていらっしゃって。朝の講義が始まりますわよ」
エレーナは両手で僕の背中を押し、回れ右をさせた。
いや、あの、ちょ……! と、なんとか話を続けようとしたが、エレーナはもう僕の話を寝ぼけたものと信じ込んでいるようだった。
呆然としている目の前で、エレーナは朝食を食べに食堂へ向かっていった。
一体何が起こったんだ、何が――。
僕は吐き気さえ覚えながら、よたよたと自分の部屋に帰る一歩を踏み出した。
◆
時間が巻き戻った。
結論から言えば、否、僕の感覚を信じるなら、そういうことになる。
卒業パーティは8月31日。
そして学園中の日付は――8月28日になっていた。
しばらく、何もかも信じられなかった。
だが、毎日付けている日記の日付ですら、8月28日に戻っている。
夢見心地の中で鏡を見ながら、僕は悶々と考えていた。
夢でも見たのか? と僕は鏡の中の自分に問いかける。
鏡の中の僕はいつもと変わらない、見慣れた僕の顔だった。
ふと――確かめる方法を思いついた。
そうだ、卒業パーティの三日前、僕はこの洗面台の抽斗から、長く無くしていた指輪を発見したのだ。
12歳でエレーナと婚約したとき、彼女の実家であるリヴレ公爵家から贈られた、大層高価なものだ。
そして、それは婚約破棄と同時にエレーナに突き返すために、あのときの僕が上着のポケットに忍ばせていたものだった。
「この抽斗に指輪があれば、僕の時間は巻き戻っていることになる――」
抽斗の取手に手を掛けて、僕はそうひとりごちた。
一気に抽斗を開ける。
指輪が、そこにあった。
「あった……」
これで確定だった。
僕の時間が巻き戻っている。
僕はその指輪を右手に取り、呆然と眺めた。
実は、僕はエレーナとの婚約破棄を数日前まで迷っていたのだった。
本当にエレーナとの婚約を解消していいのだろうか。
王国の名前に傷をつけることになる。
エレーナ自身もきっと傷つくだろう。
そして何より、王家のリヴレ公爵家の威信を著しく毀損することになる。
だが、僕はこの指輪を無くしていたことを知った時。
無くしていたのに気づかなかった自分を知った時。
もう僕の気持ちの中にエレーナがいないということに気づいたんだ。
だが――今は違った。
僕は指輪を握り締めた。
エレーナは――三日後に首に短剣を突き立てて死ぬ。
どうにかそれを回避できないだろうか。
僕は鏡の中の自分に問いかけた。
◆
「きゃ――!」
短い悲鳴の後に、バタバタと物凄い音が続いた。
周囲にいた令嬢や令息たちが声を上げ、はっと息を呑んで階段の下を見た。
「大変だ! 人が落ちたぞ!」
やっぱり起こったか――。
僕は信じられない思いで、階段の下で足首を押さえてうずくまるアンリエッタを見た。
卒業パーティの三日前の午後1時頃、それは起こった。
アンリエッタはエレーナに突き落とされ、学園の大階段から転落するのだ。
人目を避けて張り込んでいて正解だった。
そして、僕の時間が巻き戻っていることに、ますますの確信が持てた。
さっ、と視線を走らせて、人混みにエレーナを探した。
いた! エレーナは激しく動揺したような表情で、人混みの後ろの方からアンリエッタを見ている。
なんで気がつかなかったんだ!
僕はアンリエッタの言うことを鵜呑みにしていた自分を呪った。
エレーナがいるのは人混みの一番後ろだ。
どう考えてもアンリエッタをつき落とせる位置にはいない。
冤罪だったのか――僕の脳裏に浮かんだのはその一言だった。
では何故、アンリエッタは僕にあんな事を言ったんだ?
僕の視線にも気づかず、エレーナは血相変えてどこかへと走り去ってゆく。
僕は階下のアンリエッタを眺める。
駆け寄って助けるべきか?
いや――その必要はない。
三日前のその時でも、アンリエッタは捻挫しかしなかったのだから。
「――みんな、アンリエッタを頼む!」
僕が言うと、貴族の令息たちがはっとしたような顔で、慌ててアンリエッタの周囲に駆け寄りだした。
僕は人混みに逆らいながら、現場を立ち去ったエレーナを追った。
◆
「エレーナ!」
ぎょっ、と、エレーナが立ち止まり、後ろを振り返る。
「で、殿下――」
「どこへ行く?」
エレーナが立ち去った先は学園の裏庭だった。
周りを見ても誰もいない。邪魔されずに話ができそうだ。
エレーナは一旦何かを言いかけたのに、結局顔を背けてしまう。
どうせ自分が何を言っても信じないだろう――そんな諦めと絶望とを予想させる素振りに、僕は言った。
「君がアンリエッタを突き落としたわけじゃない。なのに――何故逃げるんだ」
その言葉に、エレーナがはっとした顔で言った。
「……どうしてそれを?」
「何?」
「で、殿下……殿下は、アンリエッタ嬢を突き落としたのが私ではないと、どうして知っているんですの?」
言葉を失った。
彼女は何を言っている?
まるで自分が三日後に犯人扱いをされることを知っているかのような口ぶりだ。
「何を――言ってるんだよ。君はあの時雑踏の一番後ろにいた。物理的にアンリエッタを突き飛ばすなんて不可能だ、そうだろう?」
そう言うと、エレーナの顔がますます驚愕の表情を浮かべる。
「え、エレーナ、君は何者だ? 何故全てを知っている?」
僕は怪物と出会ったかのように後ずさった。
「き、君は――君は昨日、卒業パーティの席で僕に婚約破棄され、短剣を喉に突き立てて死んだ! 今朝も言ったが、あれは嘘じゃないし夢でもない、僕はそれを見たんだ! それを見たのに――今日、君はこうして生きてる。何故だ? 君はなにか知ってるんじゃないのか?」
そう言うと、エレーナが下に視線を落とした。
その表情は――僕が婚約破棄をすると告げたときと同じ。
莫大な虚しさと徒労感を見つめるような表情だった。
はぁ、とエレーナは重く長くため息をついた。
「殿下、まさか殿下も、この現象に見舞われる日が来るなるなんて――考えもしませんでしたわ」
エレーナは僕の目を見て、真っ直ぐに言った。
「殿下、私――いや、私たちの時間は巻き戻っています」
◆
それからエレーナは長々と説明した。
エレーナの時間が巻き戻っていること。
卒業パーティの日を中心に、何度も何度も巻き戻ったこと。
そして必ず、最後にエレーナは婚約を破棄され――。
そしてその直後に――必ず僕が死ぬこと。
「ぼ、僕が――死ぬ?」
あまりの一言に、僕はわなわなと唇を震えさせた。
冗談だろう? と言おうとして、僕はその言葉を呑み込んだ。
エレーナの黒い目は、今まで見たこともないほどに悲しそうだった。
「嘘や冗談なら、私だってこうして何度も巻き戻ったりしませんわ」
「え――?」
「時間は、私が死ぬことで巻き戻ります。転落死でも首吊でも、毒を呷ってもいい。私が死ねば――私の時間は卒業式の日の二年前、この学園の入学式の日にまで巻き戻るんですの」
二年――僕は絶句した。
そんな長いスパンで、彼女は何度も同じ時間を繰り返していたのか。
「な、なんで僕に全てを打ち明けなかったんだ? 僕は君の婚約者だ、誠心誠意説明してくれれば、僕は君のことを信じたのに!」
ふっ、と、嘲るようにエレーナが笑った。
そしてエレーナは、ほんの少し僕を責めるような目で見た。
「殿下、殿下は巻き戻る前に、私に婚約破棄を言い渡しましたわね?」
「う、そ、それは――!」
「何回巻き戻っても、何回説明しても、同じことでしたわ。殿下はやがて私の言うことをお疑いになり、卒業パーティの席で、とんでもない嘘つきだと私を断罪する――そして殿下のお心は完全にアンリエッタ嬢のものになり、遠からず殿下は死ぬ。少しの差異はあれ、その結末はただの一回も変わったことがありませんでした」
やっと言いたいことが言えた、というように、とエレーナは全身が萎むようなため息をついた。
僕は申し訳なさと罪悪感で消えてしまいたくなった。
「そうか……すまない。僕はとんでもない大馬鹿者だ。婚約者である君を裏切り、挙げ句に国外追放にしようとするなんて……そのせいで何度も巻き戻ることになった君も、さぞ辛かっただろう?」
そう言った途端だった。
エレーナが急に黙った。
膝を抱え、俯いて、急にぷるぷると震え出した。
「ん? どうしたエレーナ――」
「うう……! うわあああああああああああん!!」
エレーナが急に大声で喚いた。
うわ、と驚く僕の右頬に、エレーナのビンタが炸裂した。
あ痛て! と王子らしからぬ声を出す間に、エレーナは僕に馬乗りになり、何度も何度も叩いてくる。
「バカ! バカ! バカバカバカバカ! 殿下のバカちん! 唐変木! 阿呆間抜け! 玉なしの能なしっ!!」
「あっ!? えっ、エレーナ?! 急に……あ痛て! 急に何を怒って……いっ、痛い! 痛ててて! ちょ、なにを!? 痛いってエレーナ!」
「本当にバカ! バッカ! バカバカバカちん! 私が! たかが国外追放になるのが怖いぐらいで! 何度も何度も! 巻き戻っていたと! 殿下は本当にそう思いますのッ!」
「え……?」
その言葉に、僕は馬乗りになったエレーナの顔を見た。
エレーナは――泣いていた。
歯を食いしばり。
真っ赤になった鼻から鼻水を垂らして。
涎まみれで。
悔しくて悔しくて仕方ないという表情で。
じくじくと泣いていた。
「私は……! 殿下が生きていてさえくれれば、それでよかった! 私が国外追放になっても、私が死んでも、それで殿下が幸せになってくれればそれでよかったのに……! それなのにあなたは最後に必ず死んでしまう! 人の気も知らないで、何回何回やり直しても、最後には貴方は死んでしまうのよ……!」
エレーナは激しくしゃくりあげながら、僕の胸板をどんどんと叩いた。
「それが婚約者の私にとってどんなに辛かったかわかる!? あなたは昔から鈍感すぎるのよ! 私がどんなに巻き戻ってやり直しても、あなたは必ず私を置いて勝手に死ぬんだから! 私は国外追放なんかどうでもよかった! 私は貴方が死ぬことだけが嫌だった……! それが、嫌で、辛くて、悲しくて、私は、何度も何度も死んで、やり直して……!!」
その先は声にならなかった。
後はただ、エレーナは僕の胸に額を押し付けて泣きわめいた。
僕は何も言えなかった。
そうだ、昨日――いや、あの時彼女が自分の喉元に短剣を突き立てた理由。
エレーナは、エレーナは僕のことを想って、あんなことを――。
「エレーナ、すまない。い、いや、ごめ……ごめん、ごめん、ごめんよエレーナ……!」
申し訳なさと胸の痛みで死にそうだった。
僕は泣きじゃくるエレーナの両肩を抱いた。
「エレーナ、ごめん。僕は君の気も知らないで、何度も何度も君を断罪し傷つけた。その繰り返しからやっと抜け出せたのに、今また君を傷つけてしまった――ごめんエレーナ。僕は君の婚約者である資格なんかない。僕は……とんでもなく愚かな、くそったれ男だ」
その言葉に、エレーナが僕から顔を離した。
僕はエレーナを体の上から退け、隣に座らせた。
「話ができるかい?」
エレーナはしゃくり上げながら、こくりと頷いた。
「エレーナ、僕が君にしたことは許されることじゃない。けれど、聞いて欲しい。僕は今、やっとやっと目が覚めた――だから、もう一度やり直してくれないか」
え? と、エレーナが真っ赤な目で僕を見た。
「僕は……三日後に死ぬかも知れない。でも、今度は僕も一緒だ。僕も一緒にやり直す。だから僕と一緒に、卒業パーティをやり直してくれないか」
◆
「ここにお集まりの皆様! 一時お耳を拝借し、この王太子、コンラッド・ラントイェーガーの言うことを聞いて欲しい!」
始まった。
アンリエッタはほくそ笑んだ。
会場は突如響いた声に、ざわざわとしている。
コンラッド王子はアンリエッタをまっすぐに見る。
「アンリエッタ・リュカ、そしてエレーナ・フォン・リヴレ、僕のところに来て欲しい」
アンリエッタはあくまで何も知らない風を装って王子に歩み寄った。
エレーナはというと、これから起こることも知らず、自信に満ちた表情で歩み寄ってくる。
この二年間、本当に苦労した。
平民である自分がこの魔法学園に入学するのは楽勝だった。
学園側に贈った少しの『気持ち』が功を奏し、アンリエッタはまんまと特例での学園入学を認められた。
入学してからは、媚態の一言に尽きた。
王子の心を婚約者から引き剥がし、自分のものにするための策略。
ただひたむきで優しく、献身的で、自己犠牲的な少女の演技――。
それは彼女の本性からは最も遠い性分であるが故に、殊更に上手くいった。
王子はアンリエッタを気に入り、反対にエレーナから遠ざかっていった。
エレーナは曲がりなりにも自分の本性を察していたらしい。
まさか正体を見破られたということは有り得ないだろうが、あの手この手で自分を王子から遠ざけようとしてきた。
だが生憎、底抜けに間抜けな王子はその事に気づかない。
却ってエレーナを煙たがり、遠ざける始末だった。
そして、三日前のダメ押し――。
あの時、エレーナが自分に詰め寄ってきたのには驚いたが、却って面白いショーに仕上がった。
アンリエッタは自分から階段から身を躍らせ、大人数が見ている眼の前で足をくじいてみせた。
それを見ていた王子は血相変え、慌てて去ってゆくエレーナを追いかけていた。
既に気持ちが離れている婚約者に詰られ、罵られ――エレーナは、さぞ傷ついたことだろう。
僕は、エレーナとの婚約を破棄する。そして君を妃として迎え入れたい――。
三日前、真剣な表情で王子にそう告げられたときは、思わず吹き出してしまいそうになった。
ここまで大掛かりな仕掛けだったのに、こうも簡単に事が運ぶとは。
そしてこの愚かな王子は、あろうことかそれを卒業パーティの席上でやるという。
面子を潰されたエレーナがどういう行動を取るか――考えるまでもないのに。
「ふたりともありがとう。――さて、アンリエッタ。君に言いたいことがある」
王子は私の肩を抱いた。
ここで笑ってはいけない。
あくまで突然の指名に戸惑ったような表情で王子を見つめてやる。
王子が、アンリエッタの目を覗き込んでくる。
なんて真剣な表情――アンリエッタは嗤いをこらえるのに必死だった。
つくづく間抜けなものだ。真実の愛とやらに狂った男の顔というものは。
と、そのとき。
ひた、と顎の下に添えられた冷たい感触に、アンリエッタは目を見開いた。
「殿下――?」
咄嗟に視線だけを動かして下を見る。
自分の喉首に添えられていたのは――一振りの短剣だった。
「アンリエッタ・リュカ――いいや、《毒蛇のヴァネッサ》。予定を変更して、君を断罪させてもらうぞ」
アンリエッタ――否、ヴァネッサは目を見開いた。
咄嗟に身を翻そうとするが、無駄だった。
王子の手が信じられないほどに強い力で腕を掴み、逆手に捻じり上げる。
まるでこうなることを予想していたかのような、実に手慣れた動作だった。
呆気にとられている聴衆の前で、コンラッド王子がエレーナに目配せする。
エレーナは一枚の紙を取り出し、聴衆に示した。
「アンリエッタ・リュカ。彼女が東方の村より、特例でこの学園に入学した唯一の平民の少女であるということについて、知っている方も多いかと思われます。ですが、リヴレ公爵家の半年に渡る調査の結果――彼女が自身の出身地であると示した村に、アンリエッタ・リュカなる人物が存在していた形跡は――全く存在しませんでした」
ヴァネッサは瞠目した。
聴衆たちが顔を見合わせ、戸惑ったようにヴァネッサを眺めた。
「彼女の真の名前はヴァネッサ。彼女は東方の平民であるどころか、この国の人間ですらなかった。彼女の出身地は――隣国の王都の貧民窟です」
や、やめろ。
私のこの二年を。
気が狂いそうな重圧に耐えて耐えて耐え抜いたこの二年を。
すべて無にするつもりか――!
歯を食いしばりながら睨みつけるヴァネッサを、エレーナも負けじと冷たく睨み返す。
「隣国の王室に調査を依頼させてもらいましたわ――調査の結果、あなたが何者かからの依頼を受けてこの国にやってきたことがわかりました。あなたがこの学園に入学した真の理由、それは――ここにおわします、コンラッド・ラントイェーガー第一王子の暗殺が目的ですわね?」
聴衆が驚きの声を上げた。
ヴァネッサはエレーナに噛み付くように怒鳴った。
「うっ、嘘よ! そんなことあるはずがない! 私はアンリエッタ・リュカ! 白魔法を学びに来ただけの――平民よ!」
「そう、それが暗殺者たちがあなたに目をつけた理由だった」
まさか、そこまで調べたのか――。
ヴァネッサは絶句した。
「あなたは貧民窟では有名な少女でした。平民以下の賤民でありながら、あなたには稀有な白魔法の才能があった。白魔法は人の生命力となって傷を癒やし、魔を打ち破る聖なる力を持った魔法――無論、その本人が邪悪そのものであれば、それは結局、危険な力でしかありませんが」
エレーナは容赦なく、ヴァネッサの過去を開陳し続ける。
「あなたは珍しい力を持った孤児として拾われ、暗殺者として養育された――暗殺術から体術、毒薬の知識、標的を落とすための媚態や言葉遣い、そして白魔法の才能まで――あなたはありとあらゆる技能を教え込まれた。あどけない顔と美貌で相手を籠絡し、そして残忍に殺める――《毒蛇》といえば、周辺国の地下世界では知らぬものがいない、名うての暗殺者だそうですわ」
エレーナは更に、ドレスの裾からある一枚の手紙を取り出した。
ぎょっ――と、ヴァネッサは目を見開いた。
「そ、それは……!?」
「覚えがあるんですわね」
鋭い指摘だった。
しまった――とヴァネッサは口を閉じた。
エレーナは静かに手紙を読み上げた。
「『コンラッド王子は私を裏切った。私はもはやこの世に生きていても仕方がない。私の愛しいコンラッド王子。彼をあの卑しい田舎娘にくれてやることはできない。私はあの人をこの手で殺し、あの世で永遠に添い遂げたく思います――8月31日、エレーナ・フォン・リヴレ』」
会場がどよめいた。
エレーナはヴァネッサを睨み、鼻先で手紙をひらひらと振ってみせた。
「よくもまぁ、手の込んだことを……。あなたの雇い主が何を企んでいたのか、この手紙を読んで理由はだいたい察しがつきますわ。王室と、王国有数の大貴族であるリヴレ家を敵対させるための、これは悪魔の手紙……」
エレーナはヴァネッサの足元に手紙を放った。
何故だ。何故この手紙が見つかる?
ヴァネッサは混乱した。
あの手紙はちゃんとエレーナの部屋の机の抽斗に入れたはずだ。
婚約は破棄する、と告げられた時点で偽造した、エレーナに全ての罪を被せるための遺書。
現時点で奴らは存在すら知らないはずの手紙だ。それが何故ここにあるのだ――?!
うううう、と獣のような呻き声を上げるヴァネッサを、エレーナが鋭い声で断罪した。
「あなたの尻尾を掴んだことで、暗殺者の一党の足取りを掴むことが出来ました。あなたをこの国に送り込んだ一党も、そうするよう依頼した者も、今日から始まった隣国の掃討作戦によって芋づる式に捕縛され壊滅した。あなたにはもう帰る場所はない、約束されていた莫大な報酬を与えてくれる存在も消えた。おとなしく観念なさい!」
「クソっ、クソっ! クソがクソがクソがぁ! それであたしに勝ったつもりか、この売女め!!」
ヴァネッサはエレーナに毒づいた。
思わず近づこうとすると、コンラッド王子が握った刃が喉に食い込み、鮮血が滴った。
「あたしはお前らみたいな血筋だけのゴミどもとは違う! 地べた這いずって、ドブの中潜って、それでようやく地獄とは違う人生を掴んだんだ! お前ら貴族がなんであたしを断罪する権利がある?! 生ゴミの味も、足蹴にされる痛みも、なんにも知らないボケ野郎どもが、あたしに偉そうに説教ブッこく権利があんのかよ、あぁ!?」
「それは違うな、ヴァネッサ」
すぐ背後に顔を寄せたコンラッド王子が、呪うように囁いた。
「彼女は――エレーナは、君が暗殺者として生きてきた時間よりも遥かに長い間、苦労してくれたよ。君に愚かにも籠絡されていた僕を庇い守り、救おうとしてくれた――彼女は高潔な女性だ。悪魔である君と違ってね」
ギギギギ……とヴァネッサは砕けるほどに奥歯を噛み締めた。
認めない、認めない、認めない認めない認めない――!
この《毒蛇》が仕損じたことも。
二年に渡る計画をひっくり返された今も。
愚かだと信じ切っていた王子に自分の人生すべてを否定されたことも。
絶対に、絶対に絶対に絶対に、認められない――!
「ううう――うううああああああああああああァァァァァッ!!」
首から血が吹き出るのも構わず、ヴァネッサは動いた。
体を大きく沈め――右肘で王子の腹を強かに突いた。
王子の体勢が揺らいだ。
ヴァネッサは王子の手首を掴む。
そして手首ごと腕を捻って、短剣を王子の腹に突き立てた。
「殿下――!」
エレーナが悲鳴を上げる。
ヴァネッサは――震えた。
確かに急所を突いたはずなのに。
違う、この感覚は――。
「衛兵! この女を取り押さえろ!」
王子のその声に、一斉に衛兵たちが飛び出し、瞬く間にヴァネッサは拘束される。
「どうして――」
王子を見ながら、ヴァネッサはただ一言だけ、訊いた。
王子はヴァネッサを見下ろした。
「生憎、こういうことになるのは四回目なんでね――」
ヴァネッサには意味不明な一言と共に、王子はベストのボタンを外した。
王子のベストの下には、鎖鎧がしっかりと着込まれていた。
嘘だ、嘘だ嘘だ嘘だ。
衛兵たちに引きずられながら、ヴァネッサは何度も何度も繰り返した。
なんで私の行動が読まれている?
まるで奴らだけ何度も何度も今日を繰り返したかのように――この毒蛇が手も足も出ないなんて。
私は――この仕事をやり遂げる。
一生遊んで暮らせるだけの莫大な恩賞は目の前だった。
ようやく、ようやくあの貧民窟のドブの中から抜け出せると思ったのに。
それなのに――どうしてこうなるんだ。
「嘘だ……あたし、やっと運命を変えたのに――」
呆然と呟きながら引きずられていくヴァネッサを一瞥して、エレーナが言った。
「違うわ。運命は今、変わるのよ」
◆
「しかし、まさかこの指輪が時間を巻き戻していたなんて……」
学院の裏庭で、エレーナは不思議そうに薬指の指輪を見つめている。
本当だ、と僕も肯定した。
この指輪は、大昔にとある名工が作ったものだったらしい。
持ち主が事故で死んだ場合、時間を巻き戻すという魔法が込められた指輪。
リヴレ公爵家に代々伝えられていた家宝だったという。
この世に二つしかない、そんな貴重なものを僕に渡すなんて――。
これを渡されたことを忘れていたかつての僕を。
あの人殺しの計略にまんまと嵌った僕を。
今の僕は、殺してやりたいぐらいだった。
あの後、僕らは何回やり直したのだろう。
最初の一回目は毒殺され。
二回目は刺殺され。
三回目にようやく、僕は僕を殺す犯人が、アンリエッタ――否、ヴァネッサであることを確認した。
巻き戻るたび、エレーナは二年間、僕を待ち続けてくれた。
再び僕が指輪を見つけるその日まで。
そして卒業式パーティの三日前、僕はようやく指輪を見つけて巻き戻る。
犯人はアンリエッタだ、そう伝えるためだけに――エレーナは都合、六年間も僕を待ったことになる。
「でもよかった。私もようやく9月1日を迎えることが出来た」
ホッとしたようにエレーナが言う。
彼女が巻き戻ったのは、僕が巻き戻りに気づいた後の四回だけではない。
もっともっと、気が遠くなるほどやり直したはずだ。
なのに、彼女はそのことについて、僕に恨み言を口にすることはない。
一体いくらの時間を、彼女は――。
それが辛くて、愛しくて、僕はそっとエレーナの手を握った。
「エレーナ、僕は……」
「いい、何も仰らないでください」
エレーナは僕の心を見透かしたように、僕の肩に顔を寄せた。
「私は殿下とこうしていられるだけで幸せですの。過去のことを振り返るのはもう十分。私はこれから王都に戻り、ゆっくり人生を楽しみたいと思いますわ」
「いや――それじゃあ僕の気持ちが十分じゃない」
え――? とエレーナが不思議そうに言う。
僕はエレーナの左手を取り、その前に跪いた。
「うぇ――!? で、殿下――!」
「エレーナ、愛しい僕の婚約者よ」
真っ赤っかになったエレーナの顔を、僕はまっすぐ見た。
「真実の愛なんて、もうとっくに僕の中にあった。だが僕はその事を忘れ、君を傷つけた、何度も何度も――。改めて僕に、一生かけてその償いをするチャンスをくれないか」
はわわわ! とエレーナは右手で顔を覆う。
その顔は驚きと羞恥でパニックになっている。
僕が学園に来てからは見たことのない表情だった。
この表情を二度と曇らせたくはない。
二度と――彼女に不幸で無為な時間を過ごしてほしくなかった。
僕はすう、と息を吸い、そして言った。
「貴族令嬢エレーナ・フォン・リヴレ、もしよければ、僕と結――」
その途端だった。
「殿下、エレーナお嬢様! 王都行きの馬車が出ますぜ! どこに行かれましたか! おーい!」
――野太いだみ声が、僕の言いたいことを遮った。
馬車の御者が、裏庭の隅にいる自分たちを探していた。
御者は困り果てたようにきょろきょろすると、学園の奥の方へ歩いていってしまった。
しばらく、僕とエレーナはお互いに見つめ合ってしまった。
最初にエレーナが吹き出した。
僕も遅れて吹き出した。
あはははは、と、僕らは意味もなく笑い合った。
「――殿下、やり直してくださいますね?」
エレーナが眦の涙を拭いながら、僕に向かって左手を差し出した。
僕はその手を取りながら、はっきりと言った。
「あぁ、何度でもやり直すさ」
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