第1話 木漏れ日の森
数ある作品の中からこのページにお越しいただきありがとうございます。初投稿作品「長耳娘と相棒と」です。お楽しみ頂けたら幸いです。
『……篠……起きろ。……起きろ、篠……』
だれかに呼ばれた気がした。
顔を上げようとしたけど、クラクラして思うように動かせない。
目の前に靄がかかったみたいだ。
再びどこからともなく声が響いた。
『……すまない。これが精いっぱいだ。悪く思うなよ……』
その声に聞き覚えはなかったけれど、なぜかよく知っている声のようにも思えた。やがて、意識の混濁からぬけ出ると、視界がはっきりとした。クルマの中だ。
「つっ!!……ぁいたたたた」
運転者席に突っ伏していたみたいだ。バックミラーを傾けて覗くと、頬のところが少し切れていた。血がにじんでいるのが見える。口の中にも血の味が拡がっている。ハンドルに頭でもぶつけたのかもしれない。
なんだか、頭がひどくぼんやりしている。
名前は……おれの名前は……
あっ、そうだ、犬塚篠だ。
よかった、思い出せた。女みたいな響きだけど、もちろん男。
念のため、生い立ちも振り返ってみる。
中規模の地方都市に生まれ育ったおれはを地元の高校を卒業し……
そのまま地元の小さな工務店に就職した。
この仕事を始めてからもう六年たつか……。
いまでは中堅として、それなりに期待もされているんだっけ。
それから、今朝は……
職場に立ち寄り、愛用の軽トラックに道具と資材を一杯に積み込んだ。
そのあとは……ああ、そうだ、山あいの現場に向かおうと幹線道路を走っていたはずだ。
ここまではわりとすぐに思い出だせた。
でも、そこから先はなぜか霞がかかったよう。
――たしか、おれは近道をしようとして……、住宅街に入って……、それから……ええと……だめだ、思い出せない……。
まだフラフラするけど、とりあえずクルマから降りて、一周してみることにした。
地面にはブレーキの痕が残っていたけど、特にぶつかったような形跡は見当たらない。念のため、エンジンも調べたけれど、特に異常はないようだ。壊れていたらたぶん泣いていた。
「よかったな、相棒!」
おれは、ずっと一緒に仕事をしてきた相棒――真っ黒な軽トラック――をポンポンと軽く叩いた。
この軽トラは父から譲られたものだ。走行距離二十万キロを超えた骨董品だけど、よく整備しているので問題ない。いろいろ改造もしてあって、おれはこのクルマをカッコいいと思っている。
まあ、それはいいとして、ひとまずホッとしたら、いまさらだけど周囲の異変に気がついた。
――ここは……どこだ?
覚えている限り、おれはさっきまで住宅街を走っていたはずだ。だが、いまは見覚えのない森の中。どうやってここまでに来たのか分からない。林道らしきものもないし、それを通った覚えもないのだ。
こういった不可解な出来事を解釈する方法はいくつもない。
限りなく現実的な夢を見ているか……、頭がとても残念なことになったか……。
そうでなければ例のあれだ。
――まあ、結論を出すのはもう少し先でいいか。とにかく落ち着かないとな。
おれは歩きでその辺を探索してみることにした。右胸のポケットからスマホを取り出し、方位磁針を表示させてみた。あっちが北でこっちが南だ。時間帯と太陽の位置からみても合っている。
――えーと、とりあえず、東の方に見えるあの小高い丘に行ってみようか。
「ザクザクザク」と落ち葉と枯れ枝を踏みしめる音が心地よかった。ふかふかに積もった落ち葉には、適度に日が差す。木漏れ日がつくる影がズボンに映え、明暗の変化が楽しい。
辺りにはカシとかシイの類の照葉樹らしきものが多かった。自分のよく知っている樹木もあれば、見慣れないものもあった。木々はそれほど密集していないけど、軽トラでこの森を抜けるのはちょっと手こずりそうだ。
朝のまだ冷たい風がほほをなでると、血の固まりきらない傷口にしみた。穏やかな気持ちのいい森だ。休日に散策するならもってこいのところだ。
――でも……地元にこんな森あったかな?
……おれは、辺りの風景をスマホで適当に写真を撮りながら歩いた。気休めかもしれないけど、遭難しないように地形を把握しておきたかった。それに、仕事柄、日当たり、傾斜の具合、資材を搬出入するための経路のことなど、ついつい、地形に関することが気になってしまうのだ。
一時間ばかり歩くと、小高い丘の少し開けた頂にたどり着いた。そこからは辺りが見渡せた。
北側を見れば、ところどころ白い岩がむき出しになった山脈が連なっている。その山脈の手前にはいくつもの丘陵があった。
いま立っている丘陵の東側と西側にもそれぞれ丘陵があり、その間には南に向けてなだらかに下っていく草原が広がっていた。
この丘陵の裾野からは、一筋の川が流れていて、大きな湖に繋がっている。そのさらに向こうにも幾筋もの川と大小の湖が見えた。
おれは、左胸のポケットから単眼鏡を取り出した。大した性能ではないけど、現場で作業の進捗を見るとき意外と便利なのだ。
観てみると、大きな湖のほとりに人家らしきものが見えた。五十戸ほどの家屋を含む農村だ。えらく古風な感じがする。これは……
地元の近くにはこんな風景が広がる場所はない。
電波状態が圏外となったままなので、うすうす予感はあったのだ。
――ああ、やっぱり……。
ここは故郷とは異なる場所、おまけにずいぶん古い時代のようだ。
これまでの二十四年を大した波乱もなく平凡に生きてきたけど、いきなりこんなことになるなんて……。街中をクルマで走っていたと思ったら、どこか知らない森の中にいた。自分でもわけが分からない。
けれども、開き直って周りを眺めれば、ここは――綺麗なところだ……。そう、いつだったか旅番組で紹介されていたイングランドの湖水地方に似てなくもない。お金を貯めたら見に行きたいと思っていたので、ちょっと得した気分になった。
が、突然、静かな森に似つかわしくない獣の唸り声が遠くで響く。
一拍おいて、自分がとても軽率で馬鹿だったことに思い至った。危険な獣がいるのかもしれないのに、何も持たずにこんなところまで来てしまったからだ。この状況はちょっとまずかった。すぐ相棒のところまで戻らなければならない。
――こういったツメが甘いところ、職場でもよく注意されたっけな。
職場の頑固職人のご指導を思い出し、苦笑いを浮かべる。あわてて元来た道を辿ろうとすると……
「止まりなさい!」
突然の人の声で体が固まってしまった。ゆっくりと振り向いてみると、弓を構えた娘が低木の繁みから現れた。
えらく古風な恰好のその娘は、矢をつがえてこちらを狙っている。頭巾から覗く鳶色の目がジイッとこちらを見つめている。
「怪しいヤツ! どこから来たの!? 正直に答えなさい!!」
「えぇと……」
いいよどんでいると、狩人らしいその娘は、弓をさらに引き絞った。
なんとなくだが、自分の乗ってきた軽トラの存在は隠した方がよいように思えた。できるだけ刺激しないように丁寧に答える。
「ちょ、ちょっと待って……。あ、あの、あっちから?いや、こっちからかな? ……ただ迷い込んだだけで……、別に怪しいものではないですよ……」
「そう? 北側は深い森。南側はどこまで続くか分からない草原よ。どちらにしてもそんな軽装で歩き通すのは無理ね!」
勝気そうな目に見つめられる……見つめられる……。これはちょっと照れる。日本人らしく愛想笑いを浮かべてみた。
「この矢尻にはカブトギクから抜き出した毒が塗ってあるわよ」
「…………」
だめだった。友好的な関係は築けそうもない。
「もう一度聞くわよ。あなたは何者!? ここで何をしようとしているの!?」
「……えぇと……おれはただのとおりすがりです……」
狩人の娘の表情がさらに険しくなった。
「ご、ご用件がなければ、これで失礼します。では、ごきげんよう、さような―――」
おいとましようとしたところ、娘の手から「ビュッ」と矢が放たれた。
「ぎゃあ! つっ、痛!」