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東向きの部屋には、このところ毎朝のように明るい陽射しが差し込んでいた。末稀は陽射しが頬を指す感覚でいつも目覚めており、すっかり安心して眠り続けていた。
午前十時、外では今日は雨が降り続いている。
妻の声がかからないのを不思議に思いながら目覚めた譲は、隣で蹲った格好で眠る小さな背中を見つけた。
ベッドを出た譲は、キッチンで珈琲メーカーのスイッチをいれる。朝ののんびりとした時間が、久しぶりだと思う。いつも末稀は、たとえ休日であろうと譲より早く起き、譲が目覚めるのを待っていた。昼近い朝食を作ろうと思い立てば、様子がひと月前と違う。末稀が調理しやすいように、色々なものがその置き場を変えていた。
冷蔵庫を覗いてベーコンと卵を取り出す。珈琲の薄い滴が落ちてゆき――薄い珈琲は譲の好みだ――、フライパンの上ではベーコンの焼けるジュっという音がする。そうした音の中で、末稀は目を覚ます。おかしいなとまだ感じていない彼女は、毎日の習慣が重なってキッチンへとまず姿を現した。
「おはよう」
コンロの前に立っていた譲が振り向く。
「おはようございます……、あ、ごめんなさい、もしかして……」
挨拶を返してから、ようやく末稀は気づいたらしい。譲に詫びる。寝坊したこととか、料理をさせていることとか、諸々のことに対して、詫びる。
譲はそんな末稀をかわいいと思い、せめてもの忠告をする。
「何か、着てきたら?」
「――!」
末稀は慌てて寝室に戻っていった。今まで譲には知られていなかった末稀の朝の習慣は、起きたままの姿で珈琲を一杯飲むことだった。
食後の片付けをしながら末稀は、リビングでくつろぐ譲の姿をうかがう――。寒崎譲と末稀――旧姓東条末稀、彼らはほんのひと月前に結婚をした。それまでのお互いを何も知らないのに、彼らは恋愛結婚を偽装した。譲には当時婚約者がいたし、末稀は末娘だから父が手放すはずもなかった。だから彼らは、末稀の兄の力を借りて恋愛結婚を偽装した。
寒崎譲は、寒崎家の次期当主だ。
『寒崎』――衰えたとはいえ能力者家系。能力者と呼ばれる、かつては最大権力を誇ったものたちによる家。能力者は不思議な能力を保持していて、今現在のように能力者が少ない時代には、恐れられ、崇められている。寒崎に生まれた彼は、微量であるが能力をもつ。そして、彼は責任、身分、家と能力者家系の血を背負わねばならない。つまり、彼は能力者の血を絶やしてはいけないのだ。そのため、能力者との結婚が半ば義務づけられている。そして、末稀は……。
玄関のチャイムがなる。このひと月、鳴らしたのは譲しかいない。譲はリビングにいる。
「はい――」
末稀はインターフォンにむかい、とりあえずの返事をかえす。
『兄さまを出して頂戴』
まだ幼さが残る少女の声。
『譲兄さまを出して!』
「――おまちください」
譲はすでに玄関へと向かっていた。
「彩水さんですか?」
「そうだ」
短い返事を返しただけで、譲は玄関の扉をあけた。
「兄さまっ」
少女が飛び込んでくる。 ふわふわの茶髪が、末稀の視界にとびこむ。譲はひととおり少女をかまうと、少々冷たい様子になり引き離した。
「何をしに来たんだい?」
「兄さまに逢いに」
舌足らずな口調。末稀はキッチンへと踵を返した。二人の様子を見ていたくなかったからだ。
湯沸しポットに水を足し、紅茶の缶を取り出す。彩水は紅茶好きだと聞いているから、とびきり美味しい紅茶を淹れて……、そう、昨夜焼いたマドレーヌでも添えよう。
譲が彩水を伴ってリビングへと戻ってくる。彩水はリビングの様子をぐるっと眺めて、不満そうな唇をした。口紅を塗っていないはずの、綺麗なかわいいピンクの唇。
「かわったわ、この部屋」
その唇が告げた――。
――彩水。寒崎彩水、譲の妹。十六歳――譲とは十一違う幼い年齢は、母親が違うから。しかし、譲と父を同じくした彼女は、やはり能力者だった。譲が結婚しなくてはいけなかった相手、婚約者、能力者は、彼女だ。
譲の母親は、譲が幼いうちに死去した。譲の父である寒崎元は、自分が能力者の伴侶を見つけられなかったことを悔やみ、策を講じた。それが、近親での結婚である。彩水が生まれるまでに、元に殺された能力を持たない子供が何人かいることは、寒崎の間では語られない事実である。元はそうやって、譲の結婚相手となるべき能力者彩水を育てた。
彩水は幼いころから信じていた。自分が寒崎の当主・寒崎譲の妻となることを――。