前半部
強い初夏の日差しが、それでも心地よい目覚めを誘い、僕は起床する。カーテンを閉めるのを忘れていた。時計を見ると、いつもどおりの時間。昨晩は早めに寝て、備えていたということもあり、この時間に起きれたのだろう。心にとどめた期待があふれ出そうな感覚の中、僕は出かけるための準備をはじめる。といっても、大して用意するものは無い。どちらかといえば、気持ちのほうこそだった。変にテンション高めだったり、逆にだんまりだったり。どれぐらいがそうなのか分からなかったが、いわゆるちょうどいいくらいを保てるように、自然体でいられるよう。心がけることにした。僕は衣装タンスから、今日の服装を考える。僕はファッションセンスというものがまるで無い。とりあえず目に付いたもので着替える。黒のTシャツにブルーチェックの半そでシャツ。下は黒のGパン。すぐに着替えも済ませ、心身ともに今日を迎える支度のできた僕は、愛用の肩掛けバッグに荷物の準備をはじめる。文庫本、定期入れ、財布、家のカギ、彼女へのプレゼント…。これで忘れ物は無いだろう。充電の終わったスマ歩lをポケットに押し込み、準備は完了した。朝食まではまだある。いつもの休日の朝食でも、文化祭の待ち合わせ時間にも十分間に合う。僕はとりあえず部屋のガラス戸を空け、新鮮な空気を取り込むことにした。ここは住宅が密集して狭く、少し首を斜め上に向けないと空を拝むことはできない。わずかに建物の間から伺える空は、抜けるような青空で、わずかに雲が浮かび、心地よい風が身体の芯に触れるように吹き抜けていく。僕は伸びをし、深呼吸。肺の奥の空気を押し出すように長い深呼吸をした。立ちくらみに似た感覚に襲われたが、それすらも心地よく、ガラス戸のサッシに背中を預け、外を眺める。視界のモヤモヤと脳内を一時支配した貧血にも似た闇が抜けきった頃、空の明るさが一層増したような気がした。
僕は休日にしては早いが、階下の食卓へ向かうことにした。もっとも、食事は無いかもしれないが。リビングの戸を開けると、テレビからはニュースが流れ、空腹をさらに強くする良い香りがしていた。
「おはよう!」
「おはよう。早いわね」
母が目を丸くして言う。両手にはフライパンとフライ返し。目玉焼きのようだ。先ほどの良い香りの一つは目玉焼きのようだったが、もう一つは味噌汁だった。これはもしかすると。
「父さんは?」
「今日も山に行ったわよ。朝四時から」
やっぱり。中学の頃はちょくちょく一緒に山登りだ観光だと、朝早くに起きては連れて行かれた記憶がある。そのくせ、どこにも止まったり、温泉で一風呂浴びて帰るといたことをしないので、物足りないような気もしたが。とはいえ、父の趣味を否定する気は無く、むしろたまには連れて行ってほしいと思うこともあった。
「また昼には帰るわよ。で、幸介は?」
質問は当然だろう。母の予定は分からないが、家事に忙しい母を気楽にできないかと口を開く。
「今日、友達のところの文化祭に行ってくる。昼食は向うで済ませるよ。夕飯は分からないから、また連絡する」
僕はほんの少しのウソを交え、話をした。母は腑に落ちない顔をし、聞き返してきた。
「このあたりで文化祭なんてあったかしら?」
僕はどきりとして、適当にその場を取り繕う。
「えっと、ほら!中学の時の、部活の部長の高校さ、私立で早いんだって。それで、そこいってくる」
後半になぜかカタコトになっていた。母はどこか納得しない顔ではあったが、ふーんと言い、調理に戻った。ほっとした僕は、とりあえず椅子に座り、テレビを見る。次にポットからお湯を出して、緑茶を淹れる。少し熱めで程よい苦味のお茶にひと息をつき、著っ蜀を待つことにした。テレビの占いが流れ始めたが、ここはスルーを決め、テーブルにあった読み終わりの新聞を読むことにした。
「今日一番の運勢は…!」
テレビから音声が聞こえてくる。
(聞こえない聞こえない)
僕は意識を新聞のテレビ欄、さらに一枚めくった記事に意識を集中する。平和なもので、ゆるキャラが集まっただの、とある海岸に、やれ深海生物だ、やれ海獣だとそんな記事が多い。確かに殺人事件や過去の事件の新事実が書かれたりしていて、知りたい気持ちと二度とその様な事件が起こって欲しくないという間にいつも立たされる。
「…それでは、次のコーナーです」
テレビでは、好感度で毎年上位に入る女子アナウンサーが、笑顔でテレビの前の男子を癒している。僕にとっては、先の占いコーナーを終了させてくれただけでも女神と思うべきだった。今日どうなるかは自分次第。それでいいと思う。会う人に会い、そこで会話をして、それがどうなるか。やっぱり自分次第だろう。僕は今日は全て独力でやっていきたかった。
やがて、白飯に味噌汁、目玉焼きに生野菜のサラダが食卓に並ぶ。漬物も白菜、きゅうりに柴漬けと多様だ。僕は柴漬けが好きで、三切れもあれば、お茶碗一杯はなくなってしまうくらいだ。その例に漏れることなく、白米を盛っていた茶碗は空になる。次のスタンダードな豆腐とねぎの味噌汁もあっという間に胃袋に。ここでご飯を自分でよそりなおし、目玉焼きを乗せてすぐ崩し、しょうゆを垂らして、一気にかきこむ。シンプルだが、卵のとろみとしょうゆの香りは、胃袋にもう少し空間を作るようだった。最後になってしまったレタスのサラダは、目玉焼きのついでで、しょうゆをかけて口に運ぶ。早食いなので、10分かかるかどうかの食事だった。
食事が終わると、母はブルーベリージャムの入ったヨーグルトを出してくれた。これまた、一気にかきこみ、終了。「ごちそうさま」と小さく言う。僕は食器を台所まで運び、速記たらいに沈める。母も父と食事を済ませたようで、「お粗末さま」の返答に間を置かず、運んできた食器を洗い始めた。僕はその姿を確認してから、自室に戻った。今日の支度はできている。時刻はまだ八時にもなっていなかった。どう見積もっても、今出発したら九時ちょっと過ぎには到着してしまう。これではサクラバさんと約束の時間やユキノリたちの待ち合わせにも早すぎる。テレビでも見るか、もう一寝入りするか、明日の学校の準備をするか、本でも読むか…。考えればやることはいくらでもあった。
(どうするか…)
僕は万年床と貸した布団の上に寝転がり、天井を見上げる。そして小さく目を閉じて、それぞれの優先順位をつけてみる。時間的にはこっちで、明日のことを考えると…。
僕は電車に揺られている。乗客は少ない。いつもとは違い、家族連れの姿も見られた。今日は快晴。初夏の日差しが車内に降り注ぐ。ここはいつもの車両。そして、いつもの座席シート。視線を上げると、ドアの前に彼女のシルエット。いつものように本を読んでいる。長いまつげと、整った鼻筋、その下の唇、制服からでも分かるスタイルのよさ、そのいずれもがそのシルエットを美しく引き立てる。彼女を見つめていると、それに気付いたようにシルエットが揺らぐ。日差しで顔が良く見えないが、微笑んだ気がした。そして、彼女は本を閉じ、少しずつ近づいてくる。彼女は左掌を僕のほうに伸ばす。延ばした先は頬に…。
僕は目を見開く。ここ…は?…自室の布団の上だった。夢だった。温かく、香りまでも届いてくるかのような、鮮明で心地よい…。夢の続きを願ったが、その希望を打ち破る存在がズボンの右ポケットから振動を放つ。黒の防水型携帯端末を取り出す。誰かからのメッセージだったらしい。
スマートフォンを起動し、新着通知を確認する。メッセージアプリに新着が一件。ユキノリだ。
おはようさん!遅れるなよ!たのしみにしてるからなー。
お気楽なメッセージが届いていた。まったく、コチラに便乗して、調子のいい奴だ。とりあえず返信をする。
おはよう。わかったよ。まだ十分間に合うって。そっちこそ、恥ずかしい格好するなよ
!
僕はメッセージを飛ばす。するとすぐに反応がある。
今どこ?
家だよ。
…間に合う?
えっ?不思議と、ここまで一切時間を確認していなかった。スマホ右上に小さく出ているデジタル数字の時計に視線を移す。
九時五十分
まずい!乗継が噛み合わないと遅れてしまう。どうしてこういう日に遅刻という醜態を晒す訳にはいかなかった。僕は一気に半身を起こし、立ち上がる。肩掛けバッグを下げ、自転車の鍵を机の上からもぎ取るかのようにして右掌に収める。僕はここで思い出す。)彼女のために購入した皮製のキーホルダーの入った小袋。それをバッグに慌てて突っ込む。そして自室を出たら、ドアを閉めるのもおろそかにし、猛ダッシュで階段を下りる。
「いってきます!」
そう告げて玄関から飛び出すと、開き戸の門脇にある自転車を引きずり出し、間qたって猛烈にこいでいく。実はある程度早くこいでいけるなら、自転車のほうが乗換駅には早く到着することができる。駐輪場代がかかるが、この際関係なかった。ポケットで新着通知のバイブレーターが作動したが、無視することにした。
駅前に到着すると、二時間以降百円の駐輪場か公営の一時駐輪場二百円の選択を迫られる。僕は円滑に済ませたかったので、先の無人のである駐輪場を選んだ。指定位置に止め、鍵をかけると、改札へダッシュする。とりあえず、現時点では、時間を稼げている。後は出発時間のみだった」。一階の改札が見えてくる。次の電車は…まだ五分ある!!僕はt冷機を取り出してタッチすると、いつもの二両目に飛び乗った。先ほどの夢のせいもあり、既視感はぬぐえなかった。そして、ドアの前には、彼女と背格好の似た女性が立っていた。違いはスマートフォンを触っていることと年齢が少し上らしいこと、スーツ姿ということだった。髪は彼女よりも短く、目鼻立ちも彼女のほうが整って…。そういう比較は良くないと、僕はここで自制する事にした。車両ドアの彼女は僕の視線も想いも知ることなく、終始態度を変えることは無かった。気分を変えようと僕は、持参した文庫本を取り出した。
電車に揺られ、僕は目的の駅まで近づいていった。そういえば、ユージも来るって行っていたが、この電車には乗っていないのだろうか? そう思って、周囲を見渡すが、それらしい姿は同じ車両には無かった。例の女性はついさっき降車していた。この車両には家族連れが二組、十代後半から二十代前半くらいのカップルと、優先席に白髪の婦人が一人座っていた。そのような状況であるので、僕の乗っている車両はガラガラだった。窓の外の景色は、夏の様相を深めており、通過する水田は美しい緑のじゅうたんのごとくで、風が吹きぬける様は、非常に心地よく感じられる。夏は僕の大好きな季節だ。夏は夏休みや誕生日といった楽しみも多い。今年はどうなるのか本当に楽しみだ。
電車は順調に進み、僕の通う高校の最寄り駅に到着する。ドアが開き、この車両からは家族連れが一組降りていった。おそらく、ここから乗り換えて北へ向かうとたどり着く動物公園に向かうのだろう。僕も幼少時に行った記憶がある。その三人連れの家族を見送ると、続いて一両に四つあるドアから、二~三人ほどの乗客が車両に乗り込む。乗客のほとんどはシートに座り、一部はつり革につかまるなどしていた。この駅は同会社の他路線も乗り入れているため、乗り換えであれば、ハルと一緒になることも考えられた。しかし、ハルもこの車両にはいないようだ。待ち合わせにはジャストのはず。どうせもう一駅、気にせず行こう。ドアが閉まり、次の駅・豊島駅に向かう。
「おそいぞ!幸介!!」
「…ちょうどだから遅れてはいないけどさ」
「じゃあ、今日おごりね!」
ユキノリ、ユージ、ハルが豊島駅改札をくぐってすぐの僕に非難めいた口調で、僕の心を打ち抜く。彼らは僕よりも一本前の電車で到着していたのだ。どころか、ハルは二本前に到着していたようだ。無視を決め込んでいた、スマホのアプリ。実は、電車に乗った直後に、新着メッセージの外洋を確認して、バッグの中にしまいこんでしまったのだ。概要では「OK!まっててね!」というハルのメッセージが表示されているのみで、前後の内容を確認して驚愕した。ユキノリがどこからか文化祭の情報を仕入れたらしく、一本早い電車で到着できれば、春日野高校生徒会名物・闇鍋カレーが先着三十名で無料配布されるのだった。闇鍋と冠してはいるが、むやみやたらに何でも入れているという訳ではなく、偏差値だけのことはあろうかという、意外ながらもカレーにマッチする具材を投入し、絶品のカレーに仕上げているということだ。巷にあふれる、隠し味の数々…ハチミツ、りんご、チョコレート、インスタントコーヒー等々。ユキノリが僕に怒りを向けつつ言うには、さまざまな配合を試した上で、生徒会内で美味しかったもの三つを選出、一日三回の無料配布を行うということだ。ちなみに、その秘伝のレシピは文化祭パンフレットに公開されるということで、準備さえすれば自分でも作れるのだが、ユキノリが言うには、女子高生が丹精込めたからこそ意味があるという、エロオヤジ的な思考…いや、嗜好がもはや一種の信仰として根を張っているようだった。そのため、隠すことなく半分冗談ながらも怒りを発して今に至る。これをなだめるにはどうしたものか。次の配布回は午後三時らしい。彼は待つのか?ともかく、僕の招待券がないと、この三人は文化祭を楽しむどころか、入場すらできないのだ。僕は招待券を肩掛けから取り出して、ひらひらと三人の前に振ってみせる。
「とりあえず、行こう。コレが無いと誰も入れないんだからさ」
「そうだな。カレー以外にもお楽しみはあるはず!」
「とりあえず、どこか文化部の展示が見たいんだよね」
「私、文芸部は絶対行きたい!それに書道部でしょ、茶道部に…うーん、楽しみ!」
ユキノリ、ユージ、ハルはそれぞれの希望を口にする。豊島駅南口の改札からハナミズキの駅前通りに視線を移す。あの通りの先、住宅街の先に春日野女子高校がある。徒歩圏内であるため、駅前には文化祭目当ての老若男女でにぎわっていた。これから向かうのが八割、駅に向かうのが二割といったところだろうか。招待制の文化祭ということであり、駅前には文化祭案内の看板がところどころに設置されており、また小さく招待券を持っていないと入場できない旨が書かれている。先ほど、老若男女と表現したが、基本的には自分たちの親世代やその子ども、つまりは兄弟姉妹とやってきているというような家族連れか、兄弟姉妹と友達といった組み合わせでやってきているようだった。僕たちもまばらに高校へと向かう人の波に従うように歩いていった。
「なあ、ハル」
僕は、これから行く女子高を受験したというハルにたずねる。
「何?」ハルは答える。
「まあ、大した事じゃないんだけどさ。春日野女子高ってどんなとこ?」
確かにたいした質問ではなかった。ただ、無言で歩くというのも味気ないので、話題提供の意味でも聞いてみた。
「私、ここ落っこちたこと、根に持ってるのに。コウちゃんは酷だねぇ」
うっ!またやってしまったか。僕はハルを傷つけることばかりしているではないか。僕は謝るべく、ごめんと口にしようとしたが、ここでユキノリが口を挟む。
「それ、気になる!気になる!俺にも教えてよ!」
僕とハルのやり取りを会えて無視するかのように話に乗っかる。ユージと話していてくれよ。ハルはちょっと困惑したようだったが、受験当時を思い出すようにして答えてくれた。
「ま、いいかぁ。えっとね、春日野女子はね、県東では偏差値はトップクラスかな。でも、部活動が盛んで、さらにいい成績を上げてるって。運動部なら弓道部やソフトボール、文化部なら吹奏楽、文芸部があるかな。あとはね、大学進学率の高さだけでなく、国公立や六大学合格率もかなりのものみたいよ」
ますます、僕には春日野女子とその生徒が遠い世界に感じた。才色兼備ではないか。僕には一つとして所有しているものは無い。その後も高校の話題で盛り上がる三人はともかく、僕は場違いな感覚が抜けることなく、歩き続けていた。
(なぜ、僕だったのか?)
サクラバさんと手紙のやり取りをするようになって、僕は彼女のことを友達以上の存在と認識するようになっていた。でも、僕のような理系でも文系のような中途半端で、異性からも注目されるわけでない存在。なのに、だ。
そうこうしているうちに、正面左側にカシ類の常緑広葉樹やソメイヨシノと見られるサクラが外周に植えられた一角が姿を現した。奥には純白といっていいであろう、四階程度はあろうかという建物が見えてきた。
「ここだよ!春日野女子。うーん、久しぶりだなぁ」
ハルが指をさして言う。敷地の中央と見られる位置に、白い幌の簡易テントが見える。おそらく、そこが校門であり、そこで招待券のチェックをしているようだ。さらに進むと、受付にいる人物下見えてきた。彼女たちは高校の生徒のようで、テント前に並ぶ父兄らの招待券と人数を確認し、人数分のパンフレットを配布している。比較的簡単なチェックのようで、列ができているとは言っても、すぐに校内に入れそうだった。
僕たちは、文化祭入場希望者の最後尾に並んだ。前には三組ほどと思われる父兄や友人のグループが並んでいた。ここで、ユージが小声で僕にたずねてきた。
「受付で生徒との関係みたいなこと聞かれたらどう答えるの?」
僕は一瞬考えたが、すぐに言葉を返す。
「まぁ、弟とかいとこってあたりはどうかなって。もう一つは中学校の後輩ですって。ネットで招待券の配布範囲みたいなの記載されてたから」
僕は入場チェックが甘そうだということで、そう答えた。ユージもわずかに間をおいたが、おそらく今最適である答えを導き出した。
「じゃあ、招待券貸してよ。実際僕はサクラバさんの後輩だし、近所にも住んでる。万一の時には説明できるしさ。まあ、桜庭さんとあったことは無いんだけどね」
ユージは苦笑いをしつつも、他の三人が納得するには十分な言葉を発した。
「おう!それでいこう」
「ユージ、頭いい!お任せするね」
ユキノリとハルが同意し、僕も「全員一致だな、頼むよ」とユージに招待券を渡す。この間に二組が入場し、次の順番を待つばかりだった。目の前の一組もさらりとチェックを済ませ、パンフレットを受け取って、校内へと消えていった。僕たちの番だ。
「お願いします」
ユージが招待券を受付の女の子に手渡す。
「四名ですね?ちなみに、内野生徒とはどんな関係ですか?」
予想しない質問に、僕は冷や汗が流れそうだったが、ユージhじゃ冷静そのものだった。
「中学時代の先輩がここに進学してるんです。で、親同士も仲良くって、良ければってことでしょうたいけんをもらったんです」
(パーフェクト!)
僕は胸の奥でユージに盛大な拍手を送った。受付からは、「分かりました、隣でパンフレットをもらってください」という回答とともに、入場の許可が下りた。そして人数分のパンフレットを受け取った僕たちは敷地内に進入…いや、文化祭に参加することができた。
「ユージの受け答え、すごかったね!カンペキすぎ」とハル。
「そうだよ、幸介が受け答えしてたら、変な風に見られたかもなって」ユキノリが続く。
「うるさいなぁ。でも、冷や汗流れたよ。ありがとな、ユージ」僕もユージに感謝を告げた。
「いいって。実際先輩だしね。それに、今日連れてきてくれたことのお礼ではないけど、これくらいはさせてよ」
この回答も花丸モノだ。ありがとう。これほどありがとうと思ったことは無い。そんな扱いはユージに失礼か。とりあえず無事入場した僕たちは、奥まったところにある生徒用とは別の、広めの教職員及び来客用と思わしき玄関口を目指す。ここが文化祭時の正式な出入り口となった入るようで、大きな手製の看板が、二本の木製の脚を茶色のタイルの上に伸ばし、掲げられていた。僕たちは玄関口の脇の邪魔にならない場所に移動し、これからの予定を確認することにした。それぞれがパンフレットをめくる中、僕が提案する。
「そしたら、ここで一回解散にしようか。集合はまたメッセージ送るようにしてさ」
ここで意外にも、ユキノリが慎重な発言をする。
「あのさ、招待券って返してもらったじゃん。だけど、校内で再チェックとかされないのかな?」
僕はどきりとして、バックに突っ込んだ招待券に意識を飛ばす。くしゃくしゃになっているかもしれない。そんな中、今度はハルが提案をする。
「どうせ、最後にはみんなにメッセージ飛ばすんでしょ?なら、事前にコウちゃんの招待券の画像を撮影してグループ共有しちゃうのはどう?」
同意をしたのはユージ。
「それ、いいんじゃない。一瞬招待券を見たけど、ナンバーとかは書かれていなかったみたいだし。券自体は幸介に持ってもらって、僕たちは画像をもちあるくってことで」
「じゃあ、コウ!画像頼むよ」ユキノリが促す。
僕はスマホを取り出し、招待券を撮影。メッセージアプリを起動し、僕たちのグループに投稿する。三人が手にしているスマホから、振動音や通知の光が一斉に発生する。これで懸念事項は解決した。気を取り直そう。
「それじゃ、招待券の確認の件はこれで。で、大まかな行き先だけど…。僕はサクラバさんのクラスがやってる模擬店に行くよ」
僕はもはや隠さずに言う。続いてユキノリ。
「うーん、コウについていきたいけど、野暮ってもんだよな。それじゃ、俺は運動部を中心に回ろうかな。模擬店や体験系のゲーム見たいのもあるみたいだし」
生徒会の件は口にしなかったが、彼なりの考えがあっての事だろう。続いて、ユージ。
「そうだね、僕は文化部の展示を見てみるよ。気になるのは、科学部かな。化学じゃなくて科学だから、いろんな展示があると思うしね。それと、適当にクラスの模擬店でも回ってみるよ」
最後はハル。
「わたしは、さっきも言ったけど、文芸部と茶道部に行くね。ちょっと長居しちゃうかもしれないけど、その時はごめんね」
全員の大まかな行き先が決まった。パンフレットの案内図を見ると、全員が入り口からはバラバラに動いたほうが良さそうだった。それに、それぞれがそれぞれの時間を楽しむべきだという暗黙の了解のようなものを感じた。僕は三人に感謝しながら、言う。
「四時に生徒会のカレー配布があるから、できたら四人で食べよう。二階の生徒会室前で、配布らしいから、十五分程度前に集合しよう。いいかな」
「オッケー」「いいよ」「了解☆」三人が同意する。それを確認して、僕はもう一度口を開く。
「それじゃ、それぞれ目的の場所に行こう。何かあれば連絡を取り合うってことで!」
僕たちは玄関口から入り、上がり口にいくつも置かれた、黄色のかごから、来客用スリッパに履き替えて、それぞれの目的地へと向かった。
僕の目的としていたのは、校舎二階の三年二組の模擬店だった。飲食系の模擬店は各階にいくつか点在していた。それぞれは簡単な調理で提供できると思われるもので、あるところはマフィンやケーキなどの手作りスイーツに力を入れているクラス。またあるところは名古屋の喫茶店を模した、量が多めで甘いパスタなどのちょっと変わった味を楽しめるクラス。あるいは父兄参加の店舗では、生徒会とかぶるのだが、カレーやもつ煮などの一品でも昼食となりうる食事を提供するところもあるようだ。ちなみに、食堂も稼動中のため、ある程度は客層及び客数は分散が予想される。それにしても…。校舎東端にある階段から、長蛇の列が見える。列の最後尾には、即興で作成したと思われる【最後尾はここです】と書かれた、小さな看板を持った女生徒が立つ。メイド服だった。
僕はパンフレットを確認をする。場所は、校舎二階の東端の階段。すぐの教室はお化け屋敷で、その隣の教室。そこが三年二組の模擬店だった。店名・メイドカフェ 大河。
(大河??)もう少しかわいいネーミング無いのか?)
僕は、店名のネーミングに不安を抱いたが、一方で二回から延びている、この行列をどのように判断したらよいか?何らかの理由があるのだろう。その間にも、一人、そして一組と行列は延びていく。先の女生徒が良く通る声で「三年二組の模擬店はこちらです!」などと呼びかけている。
その女生徒に視線を移す。彼女は僕よりも少し低く、短髪でボーイッシュな雰囲気だ。それでいて、両の瞳は大きく二重、鼻は低めで、中性的な印象を受ける。肩幅などから、体格は良く、がっしりとしていることが伺える。また、先ほどの声の張りやそれを支える肺活量、日焼けした肌が健康的かつ運動部であろうことを証明している。それでいて、彼女はゴシック・スタイルのメイド服に着られているということは無く、美少女とも美少年とも見える短髪の彼女だったが、年頃の女の子ということを意識させる、可愛らしさをかもし出していた。こしの名札には「折原」と中央に書かれ、文字の周囲には、ウサギや猫の絵。そこにきらきら光るシールや、ぷっくりとふくらみのあるシールなどが無数に貼り付けられていた。また、メイド服には缶バッジやボールチェーンマスコットなどがいくつか取り付けられ、実際のメイドカフェの店員さんを、忠実に再現しようとした努力が見られる。メイドカフェ・大河、侮ってはいけないようだ。
僕は列の最後尾に並び、看板を持つ折原さんに待ち時間をたずねようとした。スマ穂で確認した時刻では待ち合わせの35分前。待ち合わせは午後一時だったので、今は十二時二十五分だった。僕は待ち時間がかなりのものになると想像し、質問しようとした時だった。
「ただいま混雑のため、一組様・三十分で入れ替えをお願いしております。現在の待ち時間は三十分弱を目安としてください」
僕の心を見透かしたかのように、聞きたかったことを周辺の父兄たちに漏れなく伝えていた。
(それなら、時間的には問題ない。このまま並ぼう)
僕は待つのは苦手だなと思いつつも、パンフレットを見ながら、呼ばれるその時を待とうと決めた。
かれこれ十五分は経っただろうか。しかし、メイドカフェ目当ての行列は、当初の半分ほども進んでいない。先ほどの最後尾のアナウンスは、目安でしかなかったということを証明しているかのようだ。僕の目的地は三年二組の模擬店一つなので、時間はいくらでもかけられる。しかし、約束の時間があるわけで、約束の午後一時まで、あと二十分あるかどうかというところだった。僕は待ち合わせに遅れるのが不安で、あえてスマホの時間を見ることはしなかった。パンフレットも穴が開くほど読んでしまった。とりあえず、この長大な行列の様子を見ることにした。行列を構成しているのは、父兄の割合七割程度だろうか、一方で残りの三割はこの学校の生徒だった。制服やジャージ、文化祭用の衣装らしき姿で列の中に納まっている。どうして春日野女子の生徒か分かるかというと…。彼女たちが口にしている名前だった。「サクラバ先輩がね」「で、噂だとこれからサクラバ先輩が…」
いずれも後輩のようで、そして目的は僕と同じだった。後輩女子からも人気があるのか。耳を済ませていると、先ほどの折原という名札をしていた彼女も人気があるのか、話題になっていた。そして、この人間観察の間、わずかに前に進んだ。僕の位置としては、おそらくは半分まで言っているかどうかというところだろう。今は階段の踊り場荷まできている。視線を二回の廊下に送るが、模擬店の店員らしき姿は無い。これだけの行列なので、大忙しなのかもしれない。僕は先ほど穴が開くほどに見つめていたパンフレットを再び開き、その一角をもう一度読み直す。
三年二組 メイドカフェ・大河
女子高なのに、まさかのメイドカフェ!?お嬢様もご主人様もいつでも気軽にお戻りくださいね(ハート)大河の意味は、メイドやシフト表を見てね!!
ますます謎が深まる。どうしてメイドカフェ企画が通ったのか?そして、校内女子による賑わい。大河という店名。いずれも、この行列の先に答えがある。謎の多いサクラバさんに出会い、今日ようやく学校生活を送っている彼女の姿を見ることができるのかもしれない。電車での彼女は謎が多く、交友関係や所属している部活などは想像すらできない。僕は彼女との距離を縮めていることを実感した。それは文化祭の行列だけでなく、これからのサクラバさんとの心の距離も、今までとは比べ物にならないくらい縮むかもしれない。そんな期待を再現するかのように、行列が進む。ついに、僕は階段を上りきり二階に到達した。階段すぐの教室は三年三組で、お化け屋敷だった。よく確認してみると、和風でなかなかリアル追求型のようで、入り口の女性とは専用メイクで、番町皿屋敷のお岩さんを髣髴とさせるほどだ。それゆえか、あまり客入りは良くないらしく、どこと無く退屈そうに、そして羨望の眼差しで行列を眺めていた。ここからは目的の教室の様子はまだ分からない。というのも、お化け屋敷の装飾が、廊下まで大きくはみ出しており、教室前後の入り口が死角となっているからだ。階段側に並ばせたのは、他の模擬店に影響を与えないための措置なのだろうが、入室前にほんの少しのホラー体験をし、癒されてね。…といった効果を意図せずに生んでいるようにも思う。そして、僕の前方には入室待ちがまだ六組ほど見られた。そのうち二組はこの高校の生徒だった。
目的の教室の方向から、女性と二人組がやってくる。耳に入ってきたのは、例のメイドカフェの話のようだ。
「サクラバ先輩、いなかったね。噂だとこれくらいの時間だったのに」
「そうだね~。でも、サカモト先輩とフルタ先輩も素敵だったね。さすが剣道部レギュラーと茶道部部長!って感じ!それにしても、このクラスは本当に美人ぞろいだよね」
(サカモト?フルタ?)
僕はどこかで聞いたような名前と組み合わせだなと、記憶をたどる。気になった僕は、脇を通り過ぎていこうとする、二人の去り際の言葉に再度耳を傾ける。
「ホント、ホント!店名の大河の通りだよ。だって、クラスの大半が日本史の…」
二人は階段を下りていったため、会話のすべてを聞き取ることはできなかった。しかし、ほぼ予想していた通りのようだった。それは後ほどサクラバ産にでも確認すればいいことだ。行列の先頭のほうから優しくおっとりとした声が聞こえる。
「お、お待たせしました!三名様ですね!おかえりなさいませ…」
この口上は、確かにメイドカフェだ。しかしどこかぎこちなくも聞こえる。そして行列が三名分進む。僕は教室のドアを覗き込むように背伸びし、身体を左に傾げた。教室の入り口と周辺が視界に入り、メイドカフェ・大河の看板が見える。高さ二メートルほどの三角柱をピンクのリボンや動物、様々なキャラクターなどを貼り付けた、かわいらしくデコレーションされたものだった。しかし、店名の文字については、メイドカフェとは思えないものであった。それは大胆にも毛筆での豪快に縦書き。普通ならこのようなことはしないだろうが、ここにもワケがありそうだ。
一~二分ほど経ったろうか。教室内より二組ほどの客が退室していった。一組はやはりこの高校の生徒だった。また一歩近づく。すると、入り口に立つ女生徒が見えた。背は僕よりわずかに低いくらいであろうか。しかし、ぎこちなく照れくさそうな彼女の顔のつくりや雰囲気は、まるでサクラバさんがもう一人いるかのような印象だった。ただし、黒く美しい黒髪は腰の辺りまで伸びている。また、前髪も作ってあり、眉にかかるあたりでとまっている。サクラバさん以上に凛とした空気を持っていた。ももまでa
る白のソックスと、これも二の腕までと長い白手袋に隠れた四肢は均整の取れた長さで、メイド服姿はコスプレの枠を出ていた。彼女はまるで、ファッション誌から飛び出してきたかのようだった。先ほどの折笠さん同様、いくつかのアクセサリー類を身に着けていた。
こちらは小さなぬいぐるみが多めで、肩から斜めにかけた化粧ポーチが入るかどうかの小さなバッグに取り付けられていた。名札には「苑田」の文字。僕はシルバーのトレイで太ももを隠しながらもじもじする彼女を見て、先ほど得た確証を改めねばと感じた。
(苑田…さん?日本史でいたかな?)
僕は疑問を感じつつも、その時を待つ。すると、その苑田さんが僕の前方に並ぶ二組に人数と待ち時間、注意事項について話す。そして僕の番が回ってきた。僕は美麗であるその姿を見てドキドキしていたが、そんなことはたいしたことでないと分かる。苑田さんが僕の脇に立つ。立ったが、一層顔を赤らめて視線も合わせずに震えるような声でたずねる。
「あ、えっと、ご主人様はお一人ですね?あの、あと三分…くらいです。こ、こちらはメイドカフェですが、あの、迷惑なご主人様にはおしおき…じゃなくて、退場してもらうので気をつけてくださいませ…」
苑田さんはとにかくぎこちなく僕への説明を終えた。その時、目の前の入り口からメイド服の女生徒が姿を現した。
「優子、何ガチガチになってんの?リラックスリラックス!…あっ!」
姿を見せた女生徒はサクラバさんだった。いつもの肩までの髪を高い位置で結んでおり、いつもとは違うちょっとセクシーな感じがした。僕に気付いた彼女は笑顔で小走りで近づく。周りの視線が僕に集まるようだった。
「吉野君!来てくれてありがとう。嬉しいな。もうすぐシフトチェンジなんだ。会ったよね?折原って子と、優子が会わせたかった子なんだ。じゃ、もう少し待っててね」
そう僕に伝えると、足早に戻っていった。突然のことに僕も苑田さんも立ち尽くす。そして、苑田さんがもう一度聞く。
「君が…吉野幸介君?」
先ほどとは違い、落ち着いた声だった。
「はい。僕のことを知ってるんですか?」
「知ってるも何も、モッチーとは小学校からの仲だから」
(ん?モッチー?)
何のことか理解できなかったが、サクラバさんのことだったようだ。なおも続く。
「君が入室する頃、私たちは配膳だから。その時に改めて。…そうだ、これはモッチーには内緒なんだけど」
僕の前で釘付けとなった苑田さんが、再び不思議なあだ名らしきものを口にするとともに、バッグから小さな手製の封筒らしき紙片を右手で取り出し、僕に受けとるようにと促す。
「この封筒だけど、モッチーには内緒だが持っていてほしい。彼女との間に何かあったら、開いてほしいんだ」
いつの間にか先ほどの照れようなはく、まともな受け答えとなった彼女。そのことも確認したかったが、苑田さんより紙片を受け取り、バッグ内側のポケット内に忍ばせる。
「何か、ですか?よくわからないけど、ありがとうございます」
僕はこの時どんな顔をしていただろうか。訳も分からずに話が進み、サクラバさんの親友らしきクラスメートと会話。さらに内緒の紙片。きっと困ったような顔に笑みが少しといったところだろうか。僕の目の前にいる苑田さんも、どこか寂しさを含んだような笑みだった。この一連のやり取りが一区切りした時、教室内から声がした。
「優子!幸介を通してー」
サクラバさんの声。どうやら、この間に三組分、おそらく六人程度が退出したのだろう。めの二組は入室済みだった。
「ああ、すまない、吉野君。さあ、入ってくれ。私もこれから中に戻る。せっかくだから話でもしよう」
僕は先ほどの寂しさを感じさせない笑顔で、苑田さんが促すままに、僕は入室した。
「ご、ご主人様のお戻りです!」
苑田さんはここにきて元に戻ってしまった。室内から一斉に声がする。
「お帰りなさいませ、ご主人様」
ほぼ予定通りに入室した。案内されたのは、教室後方、窓際の席だった。室内にはメイドさん…ではなく、三年二組の生徒が少なくとも五名。そして、僕が入室した教室後方の入り口から部屋の三分の二ほどが、客用に開放されており、黒板側三分の一ほどはキャスターつきの間仕切りで区分けがされていたこの間仕切りの裏で調理は以前の類の準備をしているようだ。室内の装飾は、見事なもので、その間仕切りには、本日のシフト表が掲示され、折り紙や造花によってデコレーションされていた。壁面については、シンプルな装飾で、先ほどの造花などわずかに取り付けられている程度であったが、先ほど入室してきた、教室背面側にあたるデコレーションの度合い墓なりのものだった。こちら側にも小さめの黒板があるのだが、真ん中に白のチョークで「メイドカフェ・大河」とかかれ、その周囲には赤黄緑青などのチョークでさまざまなキャラクターやセリフが書かれていた。残念ながら、僕の知っているものは無かった。そして本来、バッグなどの私物を入れるであろう棚には、少年誌少女誌青年誌の幅広いジャンルのマンガやライトノベルらしき文庫本、アニメを中心としたDVDなどが収められていた。ポータブルDVDプレーヤーも二台は置いてあるし、閲覧は可能なのだろうが、誰として手を伸ばす者はいなかった。
僕の座った席は二人がけのもので、単純に机を向かい合わせにして、白のレースがついたテーブルクロスをかけているという具合だ。ラミネートされた、A4の手製メニューが一つ置かれていた。そして、注文が決まってから呼んで欲しいという旨が、メニューの下端に書かれていた。肝心のメニューに視線を移す。食事については、調理の手間が少なそうなものが多かった。しかし、これも遊び心からか、クッキーやマドレーヌなどの洋風菓子だけでなく、羊羹やくずきり、ぼたもちなどの和菓子が一部は数量限定で表示されていた。中には、小倉トーストのような不思議なものもあった。これらは一律三百円で、モノによってはメイドさんのサービス料も含まれているだろうと勘繰りたくなるものもあったが…。次いで、ドリンクは二百円。ホット・アイスを選べるコーヒー、紅茶、などのほかに、和風メニューに合わせた、緑茶、抹茶、さらには梅昆布茶まで存在しているようだった。そして、食事と飲み物のセットで四百円となっている。ペアセットなるもの存在し、八百円だが、通常のセット二つにもう一品食事が選べるそうだ。明らかにセットがお得なので、どれを選ぼうかと思案する。その時
「決まった?私のオススメ、いっちゃう?」
顔を上げると、そこにはサクラバさんが僕とメニューとを覗き込むようにしていた。先ほども視認していたが、やはりメイド服姿は良く似合っていた。
「モッチー、特別扱いはだめだろう」
受付をしていた苑田さんだ。二人が並ぶと、サクラバさんとは本当の姉妹のようだった。
「どしたの?あっ!この子がりさの意中の子?へーかわいいじゃん!」
横からもう一人。声に聞き覚えがあり、僕は顔を上げる。先ほど見たような気がし、腰につけた名札に「折原」とかかれているのを見て、列の最後尾にいて、待ち時間等について説明していた女生徒だと思い出す。
「も、もう!少しは隠してよ、楓。でもこれで揃ったね」
サクラバさんはほほを小さく膨らませたが、すぐ笑顔になって僕と視線の高さを合わせる。僕の目の前には、メイド服が良く似合う、一つ年上の女子が三人並んでいた。
「え?揃った、ですか?」
僕は何のことか分からずに困惑する。その僕を、まるで小悪魔のような悪戯っぽい表情でサクラバさんは見つめ、そして彼女は一つのヒントらしき言葉を口にするそれは僕が気になっていたことでもあった。
「このお店が大河なの、わかるよね?さっきまで配膳してた、坂本ちゃんに織田さん、今教室にいるのはね、足利ちゃんに藤原ちゃん。ほらね」
わかるでしょ?と言わんばかりの彼女の口調。僕はそのことか!と、。先ほど考えていて、今の会話で確信できたことを口にする。
「大河って、大河ドラマから取ってますか?つまり、みんな日本史に名を残す著名人と同じ苗字の生徒が多い。僕はそんな推測をしましたが」
それを聞いたサクラバさんが、花が開くように明るい笑顔で応じる。
「さすがだね!幸介、いつも歴史小説とか呼んでたもんね。それじゃ本題ね。私たち三人も分かるかな?この間、幸介が読んでた本がヒントだよ!」
(そこが分からないんだよなぁ、困った)
今の質問は、シフト表をちらりと見た時に、坂本、織田、足利、藤原以外にも伊藤、岡田、新田、伊達などと一度は日本史で聞いたことがあるような名前を確認していた。しかし、この三人は分からなかった。サクラバ リサ、確か二人は苑田 優子に折原 楓…。
僕は最近読んだ本を思い出した。武士道に傾奇者、その前は三国志で、関が原…。その前は坂本竜馬、土方歳三。僕がわかりませんといおうとした時だった。
「もっちー、ゆっくりはできないぞ。私たちは注文聞きと配膳に行くからな」
「幸介君、またあとでね」
苑田さんと折原さんは下がっていき、間仕切りの裏に消えていった。サクラバさんは「うん」と答え、小さく手を振った。一応、サクラバさんが僕の席の担当にと気を利かせてくれたようだ。三人の謎に気付けぬままでいると、サクラバさんが「難しいよね」と注文用のメモとブルーのシャープペンで答えを示してくれた。
「私たちだけ、ちょっと例外。三国志読んでたでしょ?私たちね、近いの。私の桜、苑田はこっちの園で、折原は折を誓にして抜き出して…」
並んだ文字は「桜園誓」。僕はこの三文字をにら見つつ一考。なんとなく見えてきたところで、つい先ほどの三人が並んだ姿を思い出してピンときた。
「三人で桃園の誓い…ですか?というか、近い?少しひねらないとたどり着けないような」
「さすがだね。後輩から言われるの。私が劉備で、優子が関羽、楓が張飛みたいだって。私も三国志読んだことあるから、分からないでもなかったけどね」
そんな和やかな雰囲気で話している時だった。話題にしていた苑田さんが、とかの席の注文を運ぶ途中、もう一度こちらに近づき、小声で「ほら、注文聞かないと!みんなに言われるぞ」と諌めるようにサクラバさんを小突いた。
「あ、うん。ご、ご主人様、ご注文はいかがですか?」
そういわれた僕はあわててメニューを見る。そして、僕は滞在時間が三十分しかないことを思い出した。注文の品が出てくるまで、話はできないかもしれない。そうなれば、グズグズはしていられなかった。僕は即座に決めて注文を伝える。
「お、小倉トーストとアイスコーヒーのセット、お願いします」
早口でまさかの不思議なセットを伝える。注文を聞いた彼女は、小悪魔な笑みで返す。
「かしこまりました、ご主人様。…小倉トーストがね、私一番のオススメなんだよ!待っててね、色々準備するからね」
そういうと、サクラバさんは下がっていった。配膳を終えた苑田さんが近寄り、いわゆるメイドカフェの売りである、トークタイムに突入する。
「いいものを注文したな。名古屋あたりでは普通だそうだが、あまり注文は入ってないんだ。値段の割りに出てくるものが安いからと感じるからかもしれないな」
ど持ったり、噛むことは無く、凛とした黒髪の美しい女関羽・苑田優子は言う。「ちなみの小倉あんは、古田の世話になってる和菓子屋さんの特製だ」などと教えてくれた。そしてシフト表の下部に書かれた Special Thanks の視線を移す。風雅堂、白石珈琲、春日野茶寮などの店名が並んでいた。これらの店舗で食材を中心とした物品の購入や提供を受けているようだ。そのため、この場に出される飲食物は、実はいずれも価格以上のクォリティを備えているらしいということが予想できた。これもお嬢様学校だからこそできる秘策だろうか?店舗側としても、名前を出してもらえることはプラスにもなるだろう。
滞在時間が限られる中、僕を気にしてか、やってきた苑田さんに胸の奥で感謝をした。そして僕はチャンス!とばかりに、質問をしてみることにした。
「あの、苑田さんに質問したいことがあるんです」
「ん?なんだ?言ってみるといい」
僕と会話をすると、どこと無く男前にも感じる口調で返答する」
「えっと、たくさんありますが、いいですか?」
遠慮せずに僕は続けた。
「苑田さん、僕と会話する時はちゃんと話せてますよね。でも、他のお客さんとは何でぎこちないんですか?それと、サクラバさんをもっちーって呼んでたのは理由があるんですか?その、折原さんはリサって名前で呼んでたじゃないですか」
質問を聞いた苑田さんは、照れ笑いといった顔で僕にこう答えてくれた。
「はは。そのことか。実は君の事は、前々から聞いていえるんだ。通学の電車でかわいい子がいるとな。毎日聞かされるから、私もいつも会っているような感じでな。そうそう。私は、リサとは幼馴染でな。双子みたいに育ってきたんだ。帰りも一緒のことが多いんだ。」
饒舌すぎる彼女の言葉はまだ続く。
「リサも本を読んでいるだろう?それで君に親近感が湧いたそうだ。そして少し前に三国志を読んでいた。それが嬉しかったみたいだぞ。ちなみに、このクラスは二年から全員一緒のクラスなんだ。いつからか、日本史上の人物と共通する名前がクラスにそろっていると言われ、私たち三人も近いよね、桃園の誓いに。ということになったんだ」
なおも言葉の連射が続きそうだったので、申し訳ないと思いつつも、僕は言葉を挟むことにした。
「苑田さん、色々ありがとうございます。サクラバさんのこと、知らないこと多すぎて。それで、もっちーの件なんですが…」
僕は感謝しつつ、まだ返答の無かった、もっちーという呼び方についての話題にもどすことにした「そうだったな」と苑田さんも当初の話題に戻る。これまでで一番の笑顔になっている。
「幼馴染ということは話したね?私たちが小学校二年の頃だったかな?給食で桜餅が出たんだ。その時にクラスのある男子が桜餅の葉っぱって、サクラバのことだよな?みたいな話になってな。当時おとなしかった彼女は、真っ赤になってたな。その男子が好きということもあって。嬉しさと恥ずかしさでいっぱいだったようだ」
積極的に感じていたサクラバさん…桜葉りさの過去を興味津々に聞いていた。回想は続く。
「その時に、もっちーなんてあだ名が出てきてな。それで、学校帰りに聞いたんだ。嫌じゃないのかって。彼女はな、嬉しかったって答えたんだ。落ち着いて考えてみたら、好きな子からもらったあだ名なんだし、大切にするよって。以来、みんながもっちーと呼ぶようになってな。その頃かな?彼女は今のような積極的な性格になってきたんだ」
好きな人から何かをもらうということ。それは僕も理解ができた。そして、手紙のやり取りを重ねるほどに、桜葉さんを好きになる。そして、少しずつ自分の中の何かも変わるような感覚。僕は、かつて桜葉さんが経験したことを、同じように経験しているのだと思った。
苑田さんが「でな、私は弓道部。もっちーは陸上、楓はソフトボール…」となおも続けていた時に、連射の名手の後方から声がかかる。
「優子、一人に時間かかりすぎ。他のお客さんのところに行かなきゃ。ほら」
折原さんだ。周囲を見なと促す彼女。あちこちから僕たち二人に視線が送られていた。場合によっては恋人なのではと疑われてしまったかもしれない。同じ思考に至ったか、苑田さんは真っ赤になっていた。
「か、楓!あ、う。す、すまない、吉野君。わ、私は他に行くぞ。また時間があればな」
そういい残し、そそくさと間仕切りの裏へ下がっていった。僕と折笠さんは顔を見合わせ、微笑みあう。
「ごめんねー。優子ってさ、極端なんだよね。人見知りが激しいくせに、仲良くなると入らないことまでしゃべっちゃう。私は無言で弓を引く姿のほうが魅力的なんだけどさ。ま、許してあげてよ」
そう明るく言う彼女は、僕の隣の配膳に来ていたようで、それを終えて、マシンガントークを続ける苑田さんに声をかけた。ということらしかった。
「…優子から聞いたよね?なんだか、私たち三人が三国志の英雄に似てるとかって。私ね、その、張飛だっけ?一回調べたのよ。そしたら、最期がひどくてビックリ。部下に殺されちゃうんだってね。確かに私がソフト部で練習してると、今日は厳しいかなって感じる時があるけどね」
女張飛・折笠さんは苦笑いをしていう。厳しいとは言えども、僕にはそのようには感じなかった。口元からちらりと見せる八重歯が、彼女に愛嬌を与えているだけではないだろう。人柄がなんとなく気さくな感じで、分け隔てなく人と接するタイプではないかと想像した。「私、キャッチャーだからね」と付け加えた。僕の想像は当たっていたようだ。
「全体を見渡さなきゃいけないのよ。チームワークが大事だから、特定の何人だけ仲良くするとかはできないのよ。それで、さっきも優子に声をかけたって訳!吉野君~、あんな美人さんと話してた君への視線はすごかったぞ。りさも優子も後輩から慕われてるし、人気がすごいからなぁ」
少しうらやましそうに言う折原さんに、僕はちょっと悪戯を仕掛けることにした。
「でも、折原さんも三人そろって桃園の誓い的な三人の一人ですから。人気はあるんじゃないですか?」
健康的に日焼けした短髪のメイドさんはこ、困ったような表情で言う。
「あのね、先輩をからかうもんじゃないよ。自分から、私は人気者です!なんて言わないでしょ?まぁ、部活では信頼あるほうだと思うけどさ」
僕は、シフトごとに人気投票でもやればいいのにと感じた。今いる五人もそれぞれ美人だし、票の獲得数合計で順位を出したら…。それでも、あえてやらないということは、何らかの理由があってのことかもしれない。それは僕の胸の中でやることにしよう。一番は決まっているけど。
「ほら、吉野君。りさが来た来た!」
折笠さんが指を差す先に、一度引っ込んだ桜葉さんがシルバートレイに、僕が注文したセットをのせてやってきた。笑顔の彼女を認識したところで、気付いたことがあった。頭にネコミミが取り付けられていたことだ。彼女のかわいらしさを引き出すのには充分で、ぼくはどきりとした。
「お待たせしました。小倉トーストとアイスコーヒーです!」
半切りで、厚めのトーストに粒あんが塗られているというより、軽めに盛られている感じだった。アイスコーヒーは細長い透明のグラスに、ロックアイがいくつか。使いきりのシロップとコーヒーフレッシュが一つずつ。そして、トレイにはもう一つ、白いチューブ上のものがのせられていた。すると、桜葉さんがちょっと恥ずかしそうに僕に伝える。
「ご主人様…。トーストにホイップをかけてもよろしいですか?」
突然の質問におどろいたが、僕は「は、はい」と応じる。すると、桜葉さんは顔を真っ赤にして続ける。
「これからご主人様の食事が美味しくなるようにしますね。えっと、私が美味しくなーれと言いながらホイップを絞りますので、ご主人様も一緒にお願いしますね」
そう言ってホイップをらせん状に絞るしぐさをした。僕はそのセリフとポーズが恥ずかしいなと照れていると、教室のメイドさんに扮した女生徒五人が、僕のテーブル向かって集まりだし、それぞれがネコミミを取り出しては身に付けている。僕は視界を五人のメイド服によりさえぎられた。
「これで何人目?」足利のネームプレートのメイドがつぶやく。
「ま、またやるのか」照れる苑田さん。
「三人目みたい」これは桜葉さん。
「あなたたちの友達でしょ?」奥からやってきたのは藤原さん。
「そろったね、やるよ!」折原さんが全員をまとめる。
『せーの!!』
『おいしくなーれー!』
五人の掛け声と急な展開に圧倒された僕は、一緒に掛け声などできずにいた。桜葉さんの両手の内にあるホイップから、トーストの皿に純白の高峰が形作られていく。そして、五人がもう一度『せーの』と声を揃える。
『ご主人様、お召し上がりください!』
五人はそれぞれの表情をしていた。照れたり、口元を押さえてぼそり、なりきって満面の笑み、食べなさいよと言わんばかりのツンツン、半笑い…。こんなことがありえるのかと思った時だった。桜葉さんから一言、今回の企画について説明があった。
「今回の企画、私が立案したの。そこの漫画やDVDやアクセサリー・小物も、穂トン不度は私のなんだ」
残り四人のメイドさんは一礼や手を振るなどして、それぞれ配膳やお客さんとの会話などに散っていった。なんとなく、周囲からにらまれるような視線を感じてもいた。
「でね、一つだけサプライズメニューを作ろうってことにしたんだ。小倉トーストって、駅の反対側の、最近できたお店でもやってるしね。良かった。私ね、やってみたかったんだ!こういうの。注文ありがと」
おそらく、僕が見た中では一番ではないかという彼女の笑顔だった。今日のいつもとは異なる特別な姿は、僕は胸の鼓を高めるには充分で、さらには口元を緩めさせ、その笑顔を独り占めしたい衝動に駆られた。どこにも行かないでほしい。僕はその感情をなんとか押しとどめた。
「驚いちゃいました。でも、すごいですよね。もしかしてこれって、誰かが実際にお店のを見て、ここでマネをしたってことなんですか?」
「そうなの。もちろん私が行ってきたよ。あと優子も。優子はお嬢様なんて言われて照れてたわ。この企画ね、お店のメイドさんにもね、話をしたの。そしたら、色々見せてくれたり、オムライスにケチャップかけるのを別物でやってみたらって言われたの」
桜葉さんの意外さに直面して、少し驚きはしたが、本物に近づけようという努力はかなりのもので、その熱意がクラスを動かしたのではないかとも思った。
「うちの文化祭ね、文化祭が早いこともあって、三年生最期の大会準備にも影響出ちゃうんだよね。だから、何人かは部活のほうに付きっ切りの子もいるよ。反対意見もあったし、それを含めてもみんなに感謝しなきゃ。手伝ってくれたおかげで今こんなに大盛況なんだからね。」
桜葉さんは今回の裏話をしてくれた。さっき、苑田さんが所属の部活を教えてくれたが、陸上部のほうはいいのだろうか?そして、陸上の練習があるからあの時間の電車に乗っていたのだろうかと、思いを馳せた。
「ゆっくりしていってね。また、手紙ちょうだい!次は幸介の感想を聞きたいからね」
そういい残し、桜葉さんは他のテーブルに声をかけに行った。僕は未だに室内に漂う、教室のメイドすべてを独り占めにしたことによる、なんともいえない空気を感じたまま、極上と思われる、小倉トーストを口に含むのだった。
小倉トーストをほとんど平らげ、今は不透明な茶褐色となった、コーヒーのストローに口をつけて飲む。苦味が和らぎ、飲みやすくなったそれは、高級豆を使用していることもるが、心地よい香りはこの教室とは別の安らぎを与えてくれる。通常の数倍美味しくなった小倉トーストは、秒殺ともいえるスピードで胃袋に吸い込まれていった。十分ほどの食事。しかし、僕の空腹を満たすにはちょうど良かった。感覚的にではあったが、まだこの教室には十分弱滞在できる。と言うのも、僕の前に入っていった数組は未だ退出をしていない。それを目安にすれば、どの程度滞在も可能か知ることができる。コーヒーをほとんど飲み終えた僕に気付き、桜葉さんが声をかけてきた。
「幸介様、おかわりはいかがでしょうか?」
「!?」
僕はぼんやりストローをくわえていたのだが、耳元でささやかれて驚くと同時に、その心溶かす言の葉を生み出す唇から離れてしまったことの後悔、その二つの複雑な感情に僕は包まれた。それを半ば理解したように、桜葉さんはトレイを差し出す。
「えへへ。びっくりした?今ね、ちょこっと幸介と話していいって。みんなが許してくれたんだ。今日は来てくれて本当にありがとう。」
本当に嬉しそうな顔をする桜葉さん。僕こそ、彼女の通う学校やそこでの友人、そして意外な趣味も知ることができた。そういえば…僕は今日聞いたことといつものことを符合させるべく、質問をした。
「あの、いつも朝早いじゃないですか。苑田さんから聞いたんですが、桜葉さんが陸上部だって聞いて、朝練かなって思ったんです。まさか運動部とは思わなかったです」
「幸介には分からなかったんだね。まあ、部活のシューズとかは大体バッグに忍ばせてたしね。そうだよ。朝練あるからね」
その答えを聞き、僕はあの早めの時間に彼女が乗車している理由を知った。文武両道や才色兼備という言葉が彼女には相応しいだろう。実際、彼女にはかなわない。僕なんて手のひらで転がされているのかもしれない。そうだ…。
「で、幸介は何であの時間の電車なの?」
僕の顔を覗き込む彼女。結んだ長い髪が揺れる。そう、こうやって僕が質問されることを突いてくる。
「あ、えっと、僕は特に理由が無いんです。僕は入ってるってだけのパソコン部ですし。あ!あの時間、静かで本が読みやすいんですよ。そうなんです」
やましい理由があるのではなく、単にたいした理由がないということで、僕はかえって焦ってしまった。その様子を見た彼女は、こんなことを言った。
「幸介、私はね、いつも電車で私みたいに本を読んでる人がいるって知って嬉しかったの。学校も年齢も近そうだしね。周りを見たことある?みんなスマートフォンをにらんでいるか、寝てるか。何だか寂しいなって」
桜葉さんの本心に触れた僕は、その先に続く彼女の核心部分を引き出すべく、沈黙を保ちつつもうんうんと小さく反応することにした、。
「私ね、不安だったけど、幸介に声をかけようと思ったの。なんとなく仲良くなれそうな気がしてさ。ホントはね、幸介の視線を感じてたのよ」
「そ、そうなんですか?」
僕は沈黙を保つことができずに声を発した。
「フフ、分かっちゃうよ。大体同じ場所で顔を上げるじゃない。女の勘ってすごいんだからね」
彼女の笑みに、僕も照れ笑いを返す。「話戻すね]彼女はそういうと、本心の続きを手繰り寄せ、再び紡ぐ。
「私ね、幸介の視線にも気付いたからこそ、声をかけても大丈夫かなって。私、痴漢まがいのおじさんにも出遭ったんだけど、それとは違うって分かったよ」
途中、そんな奴が!と怒りを感じたのだったが、僕は言葉を挟むことはやめた。
「色々考えて、手紙にしてみようって事にしたの。それを幸介に渡せて、返事をもらえて本当に嬉しかったよ」
そう告白する彼女は、言葉の割には沈んだようにうつむき気味になっていった。僕は、退出時間が近いことを悲しんでの表情だと受け止め、彼女同様に気持ちを伝えることにした。
「桜葉さん、僕は桜葉さんみたいなきれいな人とは縁が無いと思ってました。でも、文化祭にまで呼んでくれたこと、本当に嬉しかったです。それに、苑田さんや折原さんにも会えて、いつも以上にたくさん、桜葉さんのことを知ることができました。…あの、良ければ秋なんですが、文化祭に来てもらえませんか?今日みたいにちゃんと話せるかは分かりませんけど、同じようにお礼がしたいですから」
僕は言ってしまってから、お礼っておかしいかな?そう思ったが、彼女と手紙好感を続ける約束として、デートはありえない。そうなると、今回同様に文化祭に来てもらって、クラスの模擬店でも、校内を案内するのでもいい。僕の過ごす日常を感じてもらい、ユキノリやユージと会ってもらう。ハルは…。そんな配慮の無いところも一部あるが、彼女と親密に話すためには、どんな場所で誰とどのように毎日を過ごしているのかを見せてしまうのが一番だと考えた。いいところも悪いところもあるだろう。でも漏らさず知っておいてもらいたいというのが本音だ。その結果がどうなるかは分からない。誠意とはこのようなあたりだと思う。
僕は胸の内をさらけ出した。わずかに会話の間があく。彼女は未だうつむき加減のままだったが、視線を合わせてくれ、こう返答する。
「幸介、ありがとう。私、幸介のとこの文化祭行くからね。絶対ね」
そして、一言。
「私、幸介のそういうところ、好きだよ」
僕は今日聞いた中でも一番心と頬を熱くする言葉が今この耳に届き、消えていった。声こそ大きくは無かったが、周囲の女性とを含むご主人様やお嬢様とここでは呼ばれるお、客さんの視線をなんとなく感じていた。僕はもちろんだったが、桜葉さんも頬を赤らめ、エプロンの前、両手で押さえたトレイにはわずかに力を込めているようだ。
しばしの沈黙。このまま時が止まってしまい、吉野幸介と桜葉りさだけの世界担ってしまえばいいとすら思った。彼女の言葉が僕の考えるような深い意味を持っていないかもしれない。それでも、僕の好意を彼女に伝える必要はあると感じた。そうだ、伝えればこれからのやりとりも、今までよりお互いの深いところを文字にし、理解し合えるかもしれない。僕はそのことを期待し、声にかけようとした。それをわずかの差で桜葉さんが遮った。
「幸介、そろそろ時間なの。ごめんね。でもね、お見送りは優子と楓もつけるから。楽しい時間はあっという間だね」
いつもの笑顔に戻った桜葉さんが、ここでの時間の終わりを僕に告げる。人気店ゆえの時間制限は仕方ない。それでも、この時間の他のご主人様よりずっと充実した時間を過ごせたのだろうと思う。
僕は退出する準備を進めた。と言っても、肩掛けを床から拾い上げる程度だ。そして席を立つ。右前方には桜葉さんがいる。一言「お会計はこちらでございます」と、教室正面の横引きのドア前まで案内される。そこで僕は藤原のネームプレートをつけたメイドさんに支払いをする。彼女はいわゆるツンデレキャラらしい。
「早く払ってよ、五百円!」
このような展開になれていない僕は、苦笑いと言った顔で財布から一番多き降下を取り出して手渡す。ツインテールとか言う髪形の妹系なメイドが頬を膨らませていう。
「あなたにしては上出来じゃない。よく五百円持ってたわね!」
ちょっとツンデレキャラがずれているようだ。
「べ、別にまた来てほしいなんて思ってないんだからね!…でも、早く帰ってきてね」
デレ部分を見せられ、ドキッとするが、右横の冷たい微笑を感じ取った僕は、そちらのほうを向く。苑田さんと折原さんも後方に控えていた。
「桜葉さん、ありがとうございました。また会えるのを楽しみにしてます」
「幸介、またね。本当にありがとう」
互いにありがとうという言葉を口にする。そこで僕は忘れていたキーホルダーのことを思い出す。
「あの、桜葉さん。これ。気に入るか分かりませんけど」
僕は肩掛けから取り出したラッピングされた包みを彼女に手渡す。
「いいの?ありがとう!帰ったらあけてみるね!」
彼女は少し驚いたようだが、素敵な笑みを返し喜んでくれた。そして、みんなにこう促す。
「じゃあ、私の友達のお見送りするから。みんなお願い!」
桜葉さんの声に、四人は作り物とは感じられない笑顔で、目の前にいる四人は先ほどの小倉トーストの時と同様に、視線を合わせてはうなずきあう。
『せーの』
『行ってらっしゃいませ、ご主人様!』
再び他のご主人様とお嬢様の視線が僕に集まる。苑田さんがわずかに照れたせいで、声が揃っていなかったが、そこは知らなかった子トン8位しておくことにした。
「みなさん、ありがとうございました」
僕はおそらく今日一番の笑顔で感謝の言葉を告げる。そして、
ドアの取っ手に手をかけ、日常世界に戻っていくのだった。
…
「りさ…」
苑田優子がうつむく桜葉りさの肩に手をかける。
「りさはがんばったよ。あんなに喜んでたじゃん」
折原楓が続いて言葉をかける。
「ごめんね、みんな。本当にありがとう。もう大丈夫だから」
か細い声で返答する。右手の包みを少し強く握った、りさの瞳から一筋の光るものが流れていった。
三年二組の模擬店から退出した僕は、その後校舎内をあても無くさまよい、苑田さんの弓道部やハルが行ったであろう文芸部などを覗き込んだりしたが、目的を果たした僕は心も胃袋も満たされ、満足そのものだった。それゆえか、いまいち他の展示や模擬店に行って見ようという気にはならなかった。
そうこうするうち、集合時間直前となり、二階の生徒会室へ。そこでユキノリ、ユージ、ハルと合流をし、カレーを食することができた。そこでそれぞれがどこを回り、どうだったかということを話したりした。みんなそれぞれに楽しめたようで、半ば強引に三人便乗してがついてきたものの、楽しめたならいいかと僕は楽観的に考えたのだった。
秘伝の美味しすぎるカレーを完食し、レシピも入手して帰途についたのだった。
帰りの話題に、僕の県はもちろん出たわけで、退出後に実はハルが来店して、僕と同じくセットメニューを注文したということだった。しかしその頃には、僕のいた時とは異なる生徒が出ていたらしかった。こういう大胆なことをするハルにひやりとしたが、僕の好きな人がいるとなれば、見てみたいという気持ちにもなるのだろう。遭遇したなら、何がどうなったのだろうか。
僕たちは駅にたどり着くと、タイミングよくやってきた上り電車に乗る。ユキノリとはここで別れた。そして、僕たちがいつも利用する駅へと電車は向かった。といっても、一駅分。あっという間に到着し、それぞれの帰途についた。僕とユージは同じ方向で、そのまま電車に乗り続けた。
ユージとは文化祭の話を中心に、他愛の無い内容の会話をした。そういえば、以前ユージと帰ったときに、桜葉さんの話を聞いたが、噂だったのだと確信していたので、このときは思い出すことは無かった。
電車はいつも通りに進み、いつもの乗換駅へ。ユージは僕の降りる駅より先の駅なので、僕の駅まで一駅乗って別れた。ユージの乗った電車を見送り、僕は改札を出る。心なしか、ホームや改札は混雑していた。若い女性が多い。そう思って、最寄の施設案内を見る。今日は男性アイドルグループのコンサートがあったようだ。おそらく、昨日も講演をしていたのだろう。毎回ながら、この混雑は苦手だ。人が集まることは街にとっては活性化になるのだろうが、飲食店をはじめとする店舗に足を運ぼうという気にはならなくなる。僕はまっすぐ帰宅することに決めた。まだ日が沈むまでには時間があったので、帰宅したら桜葉さん宛ての手紙を書こうと決めた。今日過ごした時間への感謝とそれから…
桜葉さん
今日はありがとうございました。
今日って書いているのは、帰宅後すぐにこの手紙を書きはじめたからです。
文化祭、本当に楽しかったですよ!実は、別行動で友達も連れてきていました。みんな、楽しかったって言ってましたよ。中には茶道部で桜葉さんの友達にお茶を点ててもらったそうです。クラスの宣伝をしてたって話ですよ。ギャップが面白いねって言ってました。
桜庭さんに会って、一度お願いしようと思ってことがあるんです。
今度、一緒に遊びに行きませんか?僕は桜葉さんのことを知りたいと思いました。
都内の動物園とかはどうですか?上野を考えてるんですが、あそこなら博物館もあるし、買い物もできますし。
とりあえず、大会や期末試験終わりか夏休みはどうですか?
返事待ってます。
吉野幸介
帰宅後、手紙を書き終えた僕は、ごろりと床へ寝そべり、横になる。今日のことを思い出し、そしてこれからのことを考える。そういえば、彼女は受験生。先日ふらりと立寄ったあのお店にでも行ってみよう。そして、僕なりに彼女の応援をしてみよう。
そんな想像をしていた僕だったが、翌日からの世界はまったく違ったものとなっていた。
翌日、僕はいつものように、いつもの電車に乗り込んだ。発車ベルがホームに響き渡り、直後に自動ドアが閉まる。いつもの時間、いつもの席。視線をいつもの自動ドア前に送る…。彼女・桜葉りさは姿を見せていなかった。そうか、今日は代休だろうと僕は考えた。僕は文庫本を集中して読めると、バッグから文庫本を取り出して、読む。梅雨が間近となり、電車内もなんとなくじめっとしてきている。車窓からの景色は曇り。天気予報では、夕方に小雨がぱらつくかもしれないということだった。この時期を乗り越えれば、僕の待ちわびる季節。湿度の高さよりも、気温の高さが、僕の気持ちや植物の緑をはじめ、生き物の生命力など、様々なもの高めてくれる。僕にはそう思える季節だった。
僕は今日桜葉さんに会えなかったことから、明日への期待をしていた。それに明日は』手紙を渡す日。高mる気持ちを抑えることはできない。早く明日になってほしいと、まだ三分の一も終わっていない今日が早くも過ぎ去ってほしいと願ったのだった。
月曜日は何事も無く過ぎてゆき、火曜日の朝を迎えた。電車に乗る。ベルが鳴り響き、発車する。彼女は…またしてもいなかった。またしても僕は楽観的に、部活の大会準備でさらに早い電車に乗ったのだろうと考えた。その考えが当たったのか、翌日も木曜日も金曜日も彼女の姿は無かった。そうして二週間彼女と会わない電車を過ごしたのだった。
彼女に会えない間、僕は電車の時間帯こそ変えなかったが、最前列の車両に移動してみたり、または、発車後に最前車両から最後尾の車両まで行ってみたりと、彼女を探す努力をしてみた。乗車時間というわずかな時間と六両編成と言う限られた空間。彼女がいるかいないかはすぐに分かる。お手上げだった。それでも季節、時間は遠慮なく、そして残酷に進んでいった。
期末テストが終わり、一段落した日曜日。僕たち高校生は、もはや授業のことなど興味はなく、梅雨明け間近の空を眺めては、夏休みへの思いを馳せる。ただ、僕の心は時折顔をのぞかせる太陽のように晴れやかではなかった。桜葉さんに会えなくなって、集中力や学業にもマイナスの影響がでていたようだ。実際、試験での解答は満足のいくものではなかった。
僕は文化祭のことを思い出しながら、自室で仰向けに寝転んでいた。午前中とはいえ、湿気と熱気が勘じられ、ガラス戸を網戸にしていた。今にして思えば、あの時が最高潮だったのかもしれない。僕の心には、彼女を失ってしまったのではないかという虚無感が去来し、僕にはこれからのことを考えることはできなかった。ただ、学生としての義務とも言うべき、試験には全て出席して一応の解答をできたこと。それだけでも今の僕には十分なことであり、ある意味での限界でもあった。
僕はあの時のことを思い出そうと、身体を起こし、文化祭のパンフレットを探す。机の本棚に差し入れた、小さく薄い小冊子。僕はその冊子に手を伸ばし、人差し指で引っ掛けて引き出す。表紙を見るだけで、あのときのことが思い出されるようだった。
引き抜いたパンフレット。あの暖かな思い出をよみがえらせ、同時に僕の胸に針で刺されたような痛みが走るような感覚。触れたいようで触れたくない。僕は何度も桜葉さんを忘れようとも考えてはやめていた。忘れることはできない。だからパンフレットを取り出した。
ふと、パンフレットの間から何かがはみ出しているのを確認した。僕はそれを引き抜いてみる。手製の封筒だった。そういえば…。桜葉りさの友人・苑田優子が、文化祭のときに手渡してくれたものだった。確か、何かあったら開けてくれと。僕は封をされた封筒の一辺にはさみを入れ、中の便箋を取り出す。書かれている内容はごく単純なものだった。
吉野君
この手紙を読んでくれてるということは、私なりに協力できる時が来たのかもしれない。
私の携帯のアドレスなんだが…
返事はすぐ出せないかもしれないが、大目に見てほしい。
苑田優子
彼女の凛とした表情が思い出されるような、美しく整った文字。僕はスマートフォンを机の上から拾い上げ、書かれたアドレスをアドレス帳に登録後、メッセージの作成を開始する。
件名:吉野幸介です
こんにちは、ご無沙汰しています。今更ですが、苑田さんの手紙に気付いてメールしてみました。
手渡してくれた時に、苑田さんが桜葉さんと何かあったら開けてくれって話を思い出したんです。実は、最近桜葉さんに会えないんです。何かあったのか気になってます。良ければ教えてくれませんか?
初めて出すメールにしては長すぎる気もしたが、何度もやり取りするよりも手早く済むのではと僕は考えた。それは苑田さんが桜葉さんの事情を知っている場合に限られるのだが。メールを送信し、官僚の表示を見ると同時に、数秒画面を見つめた。誤送信はしていないようで、送信エラーを知らせるメールは受信しなかったので、アドレスの打ち間違いなどもなく送信できたようだ。僕は安堵し、再び横になる。そしてスマホを頭の脇に置く。続いて先ほど取り出したパンフレットを開いてみる。僕が文化祭のあの日見た景色や世界が、鮮やかな色彩で蘇ってくる。時間が過ぎ去り、今では夢だったのかとすら思うくらいのあの輝くような時間。僕は思い出に触れて傷つきもし、癒されもする。それでもただ前向きに考えていたかった。
パンフレットの流し読みをしてしばらく建った頃。僕のスマホが震え、小さく点滅するするランプの光とともに、耳元に振動音が伝わる。僕は右手を伸ばし、振動を発した手のひら大の端末を手中にする。そして、僕は電源ボタンを押し、お知らせを見る。やはり、メール受信のお知らせだった。僕はメールを開封する。
件名:こんにちは
苑田です。もう二週間経ってしまったんだね。
もっちーのこと、すまなかった。内緒にしていてほしいと彼女に言われてたんだ。
実は、彼女は親の仕事の事情で引っ越したんだ。お父さんが小児科医なんだが、恩師に誘われた結果だそうだ。私も診てもらったことがあるが、いい先生なんだ。
吉野君、一応彼女からの手紙を預かっている。今度、電車の時間を合わせて乗るから、読んでほしい。早いほうがいいな。明日、彼女から聞いた時間と場所で。
それでは。
桜葉りさの幼馴染の苑田優子から届いたメールの内容は、驚愕のものだった。同時に、ユージがいつか帰りの電車で話していた内容と一致する。僕は怒りにも似た衝動をユージにぶつけようとも考えたが、誰が悪いというものではない。僕は気持ちを落ち着けようとする。だが、これまでに何も知らず過ぎ去った時間や僕自身、いや彼女の気持ちを考えると、怒りよりも後悔と絶望感に包まれるようだった。
(今の僕には何もできないのか…)
僕は脱力し、自室の壁にもたれる。焦点が合わぬ目で、つま先の辺りを眺めていた。思考は停止しかけ、少しずつ視界がゆがむようだった。そして、僕の右頬を伝って流れてゆく。
兆候やそういった気配はなかった。もっとも理解していたのなら、今このような気持ちではいないはずだった。僕は彼女がどういった気持ちで僕との交流を望み、そしてこのような結末について伝えてくれなかったのかを知りたかった。もしもイタズラなら、とても許されるものではない。それでも、彼女の笑顔を思い出すと、悪意は感じられなかった。それとも僕が盲目になっているだけなのか…。僕はもう一度、苑田さんにメールをすることを考えたのだが、彼女も受験生であり、弓道部のほうも大会などで忙しいかもしれない。さっきのメールで、彼女から明日、手紙を渡すという知らせがあった。それなら、焦る必要はないのかもしれない。それでも、今日一日をどう過ごそうかと考えてしまう。気晴らしに外出するという方法もある。しかし、なかなかその気にもなれずにいた。一眠りしてから考えるのも悪くないだろう。僕はパンフレットを無造作に置くと、瞳を閉じ、少しだけ休息をとることにした。
眠りから覚め、僕はスマホの時計を見る。寝ていたのは二十分程だったようだ。なんとなく余裕ができたと言うべきか、気晴らしになったようだ。僕は横になったまま、これからどうするかを考える。今日できること、明日できること…。
(そうだ!)
僕はスマホを再び手にすると、かつて検索した小児科を調べる。サクラバ小児医院。所在地は南区…。僕はダメ元で、直接手紙を書いてみることにした。直接…ここでは本来の意味の通り、切手を貼って、ポストに投函するということ。以前、中学の友達が引っ越した時に、年賀状の宛て先が引越し前にもかかわらず、無事届いていたことがあった。転居届けを郵便局に出しておけば、転送して新住所に届く。僕はそれに期待し、桜葉さん宛ての手紙を出すことに決めた。何もしていなければ、すべて消え去ってしまう。消える前のかけらでも何でも、一握りでも、掴んで起きたかった。僕は起き上がり、机の引き出しから、レターセットを取り出し、封筒のおもて面に、彼女の父親が経営する医院の所在地を書き込む。以前、地図アプリを起動してみた際、彼女の実家と医院が同敷地内にあるらしいということが分かっていた。それなら、転送届を出しているかもしれない。まだ、チャンスはある。約束を破ったと言われればそれまで。それでも、今僕が一歩踏み出せば、少しは現状を変えられるかもしれない。おもて面の宛て先と、差出人の住所氏名を書き終え、僕は便箋に何を書こうかと思案する。
こんにちは、桜葉さんに会えなくなって、しばらく経ちますね。突然だったので驚いています。
本当はこうやって手紙を出すことは最初に約束したことを破ることになりますよね。
でも、僕にはこれ以外に方法もありませんし。桜葉さんだって、連絡の取りようがないんじゃないかなって思ってます。
怒られたり、嫌われてもいいです。ただ、僕はもう一度だけでも、あの時みたいに手紙のやり取りができたらと願っています。この手紙が届くといいなと思います。
そして、僕のこの想いを君へ。
僕はいつの間にか、桜葉さんのことが好きになっていたみたいです。
好きです。こんなのずるいってことは分かってます。読んでもらえれば、気持ちを知ってもらえれば、それでいいんです。
突然の手紙、本当にごめんなさい。へんじ、もらえたら嬉しいです。
吉野 幸介
僕は自分の想いを一文字一文字に込め、気持ちの赴くままに文章を形付けていった。長々と、女々しい文章にするよりも、これくらいの長さで良かったんだろうと、自分なりに納得することにした。
僕はその短文を封筒に収め、封をする。おもて面にはいつだったか、年賀状のお年玉で当選した時の切手があった。それを貼り付け、あとは投函するのみだった。手紙を書く、その一連の作業が終わると、僕は大きくため息をつく。文章に気持ちをぶつけたことで、少し心が落ち着いたようだ。僕は椅子にもたれかかり、天井を仰ぎ見る。そして目を閉じる。僕は大きく息を吸い込むと、再びため息をつく。意を決した僕は、椅子から背を離し、立ち上がる。左手には手紙、右手には自転車のカギ。駅前のポストに手紙を投函しようと家を飛び出した。
自転車で行くほどでもない距離の最寄り駅。二時間まで無料の駐輪場に駐輪し、エスカレーターの先を目指す。上りきった先には、改札前のちょっとした広場があり、改札の反対側の横長に設置された木製ベンチの一角にポストがある。今日はイベントは無いようで、、比較的人は少なめだった。ポストはエスカレーターのすぐ近くで、あっという間に目的は達成された。時間をもてあますことになった僕は、モール内の書店を目指した。ここからはモールの一番奥まで行くことになるのだが、奥行きは直線で百メートル程度であり、相変わらずの手軽さだった。
僕はこの書店には、立ち読みを含めて非常にお世話になっていた。いつもは歴史小説や歴史・文化の棚の周辺だが、今回はだいぶ違った。僕はどこにそういったジャンルの本があるか分からず、検索端末へ。向かった。キーワードを入力し、商品位置を確認。さらに、詳細図を印刷し、その地図の星の位置に向かって進む。到着したのは、人生・生活の棚。こんなことで分かるとは思えなかったが、恋愛経験のない僕には、少しでも異性の気持ちを知りたいという想いがあった。書棚は三段。最上段は、目線より少し高い位置だが、「手を伸ばせば充分本を取り出せる高さだった。その真ん中の棚に、恋愛について扱った本はあった。男女それぞれの立場や、デートの本、さらにはカップルで行く場所シリーズなど、さまざまな本が詰まっていた。僕はそのうちの一つを引き抜く。それは恋愛指南書と思われる本で、新書本サイズだった。ペラペラとページをめくる。目に留まったのは、異性へのプレゼントの方法についてのページ。僕は恒例の立ち読みを開始する。
書かれていることを要約すると「プレゼントは金額の大小ではなく、気持ちが大事。むしろ、安価なものでも気にしてくれているということが重要。また、渡すものはお菓子や小さい花束のような、消費してなくなるようなものが良い)というようなことだった。僕は一つ考えていたことがあり、帰宅後実行してみようという気持ちになる。ただし、消耗する品には当てはまらない…しかも、手紙を出してしまった後。僕はしまったなと考えたが、その本を元に戻し、僕は少しの不安と後悔を胸に一旦帰途についたのだった。
帰宅した僕は、母から昼食の準備ができていることを告げられ、一階の食卓へと向かう。今日の昼食は焼きそばと自家製パン、それにほうれん草とベーコンのスープだった。休日になると、時々母がパンを焼いており、今日もいつの間にか焼いていたようだった。また、テーブルの上にはバターやジャムなどが数点用意されていた。僕は一枚目のパンを焼きそばパンにし、それをスープで胃袋に流し込んだ。二枚目は卓上のイチゴジャムを塗って口に含む。僕はそれで満足し、食器を片付けて自室へと戻る。
特に予定の無い僕は、床に寝転んで昼寝をすることにした。
満腹感が睡魔を呼び、珍しく僕は、そのまま深い眠りについてしまい、起きたのは夕食目前の午後六時。休日はあちこち動き回りたい性分だったが、今日はもうおとなしくしようと決め、おとなしく夕食、風呂と済ませて、月曜日の時間割確認と支度をし、またもや眠りについたのだった。それも昼間の爆睡が無かったかのように。
翌日、僕は苑田さんに会うために、いつもどおりの時間に家を出た。最寄り駅から乗車し、次の駅で乗り換える。いつもどおりの通学。何一つとして変わらない日常だった。ただ、桜葉さんがいないことだけを除いて。連絡通路を通り、階段を下りて改札を抜ける。私鉄の人影もまだ少ないホームを僕は歩いていく。いつもの時間、二両目二つめのドア…。僕は会話をするような知人が一人も現れはしないのだろうかと感じてしまった。このところずっとそうだったからだ。それでも僕は待つことにした。いつもの席。その隣にバッグを置く。無意味なことかもしれないが。
…と、車内に乗り込んできた影が僕の目の前に止まる。
「おはよう。またせたかな?」
僕は顔を上げると、そこには苑田優子さんがいた。彼女は当然ながら制服姿で、あの長く美しい黒髪を一本に束ねていた。この美麗な姿も桜葉さん同様、周囲から注目を集めそうなほどだった。彼女は僕の前に立ってかがむようにしていたため、速やかに座席に置いたバッグをよけ、ここへと彼女を座らせる。
「ありがとう。早速だけど、手紙を出そうか」
「はい」
僕は早く知りたかった。どうしてこうなってしまったのか。それが手紙の中で語られるのだろうか。
苑田優子のバッグから取り出された、無地の白い封筒。サイズはいつも彼女が手渡ししてくれるものと同じだった。シールで封がされていた。
「吉野君、これが彼女から預かった手紙なんだ。その、彼女のこと黙っていて申し訳なかった。ただ、私はもっちーの気持ちも君の気持ちもなんとなく理解できたから、口止めされていたとはいえ、何もいえなくなってしまった。本当にすまない」
伏せ目がちに謝罪の言葉を僕に伝えつつ、封筒を僕に手渡す。苑田さんの気持ちを思うと、むしろ感謝すべきかもしれない。この手紙を手にすることができたのは、苑田さんと面識があったからだろう。
僕は受け取った封筒の封を切った。周囲の目など知りたくも無く。
優子へ
私が引っ越すって聞いてどう思った?幼稚園からずっと一緒だったのにね。寂しいね。
あのね優子。伝えたと思うけど、この手紙は幸介に見せてもいいし、優子のところにおいててもいいよ。
じゃあね、優子だけに見せるつもりで本音を書くね。
私、毎朝見る幸介の姿が大好きだったの。文庫本のページをめくるたびに、いろんな表情をするの。最初は変だなって思ったけど、ある時ね、三国志の私も読んだ小説を読んでて…。すごくいい顔をしてたんだ。私、嬉しくなって。今は電車なんかでもあまり本を読む人って少ないと思うの。だからね。
でも、前から引越しは決まっていたし、幸介と仲良くなるのか胸に気持ちを押さえ込むのか悩んだよ、苦しかったよ。でも、どうにか伝えなきゃって気持ちのほうが強かったの。
私ね、手紙にしたのは、メールとかアプリでは伝わらない何かを伝えたかったの。でも、難しいね。やっぱり幸介を好きになっていくし、本当はもっと話したかったし、伝えたかった。でも、幸介にはアドレスとか連絡先は教えないでね。今までしたことが無駄になっちゃいそうだから。
長くなっちゃったね。最後に、幸介にはキーホルダーありがとう、さようならって。
ごめんね。
ゆっくりと手紙を読み終えた僕は、両の目からあふれつつあるものの存在を理解していたが、一度右袖でぬぐい、大きく息をついた。手紙は苑田さん宛てとも、僕に宛てたものと、どちらにも考えることができたが、あえて苑田さんという親友の名を出して、本音を僕に伝えたかったのだろう。内容が当事者同士や本当に信頼できる人物でなければ語れないものということからも想像できる。途中、紙面がよれていたり、文字がかすれていたのを僕は見逃さなかった。きっと、彼女の心だろう。
「大丈夫か?」
横で心配そうな表情で苑田さんが僕の顔をのぞき見る。
「だ、大丈夫ですよ。苑田さん、ありがとうございました」
まだ落ち着かない気持ちのままだったが、僕はこれ以上心配をかけられないと、ウソを通すことにした。車内アナウンスが聞こえる。電車は知らぬ間に僕の降車駅に近づいているようだった。
「あ、僕もう降りないと!苑田さん、これで失礼します」
「そうか、私でよければいつでも連絡してほしい。それじゃあ」
それぞれ別々の高校に向かうべく、別れの言葉を交わし、降車する。そして僕は電車を見送った。それからの一日は僕の記憶には残らないほどにぼんやりと、揺れる心のままに過ごしてしまった。
数日後、僕の送った手紙の返信が北海道から届いた。それは短く、ある意味残酷な内容だった。
幸介、ごめんね。もてあそんだかもね。私って最低。だから、もう会わないよ。会えないよ。サヨナラ。ごめんなさい。
二人分の涙に濡れた便箋を読み終え、僕は胸の奥に夢の日々をしまっておくことに決めた。
ゼミが終わった金曜夜。街にはなんとなく浮かれたと言うべきか、週末の安らぎの前夜祭でもしようかというような雰囲気であふれていた。桜の花が少し散りはじめようかという頃でもあり、歓迎会に祝福といった、心地よい空気だった。
農学部に進学した僕は、勉学一筋といった具合で、三年になった今は研究テーマも研究室も、民俗学や社会科学の分野を専攻し、大学院に進むことを早々に決めていた。ゼミについての内容を研究室で教授と議論を交わし、ある程度の答えが見えた頃に解散・帰途についたのだった。大学生活は刺激が多く、他学部にも友人が少しできていた。恋人については相変わらず縁は無かった。
日々の乗り換えに使う、この新宿という街はいつも人であふれ、僕にはちょっと居心地が悪かった。人ごみを書き分けと言う場面も少なくない。そして今日もまた人の波に流され、かき分けという場面だった。どうにか乗り換えの連絡改札口まで到着し、ひと息をついた。乗り換えは一番奥のホームだ。相変わらず遠いな、僕はこればかりは納得できずにいた。
連絡改札口を通過し、次のホームに向かおうという時だった。こちらに向かってくる人の波、僕のすぐ脇をリクルートスーツに身を包んだ、美しい黒髪の女性が通り過ぎていった。視界には一瞬入っただけであったが、すれ違った時に感じた気がする彼女の髪の香りが四年前の記憶を呼び戻す。
(桜葉…さん?)
振り返った時にはもう遅く、彼女の姿は人ごみに消えていた。もっとも、人の波に抗うこともできず、一瞬振り返っただけだったが。
ホームにたどり着いた僕は、年に何度か連絡を取り合っている、苑田さんにメッセージを送ってみた。あの時以降、桜葉さんについてはお互い触れなかった。しかし幼馴染という彼女たちのつながりは、そう簡単には切れていないと想像もできた。
下り列車に乗った僕のもとに、苑田優子から返信が来る。「隠しても仕方ないからな、っ少し待ってほしい」というメッセージ。そして僕がその返信を迷っていた頃、苑田さんから招待の知らせが来る。僕はそこに入室する。メンバーは三人。参加者名は優子、こうすけ、もち。ぼくは「こんばんは」とメッセージを入れる。すぐに苑田さんから返信。「幸介君、こんばんは。ほら、もっちー!」という内容。間違いなく桜葉さんだった。僕は、すぐにありがとうございます!と返信し、もちさんのアイコンをタップし、彼女を友達登録する。そして、失礼だ廊下という危惧に抗い、桜葉りさにメッセージを送る。
こんばんは。桜葉さんですよね。さっき新宿ですれ違った気がして。いきなりごめんなさい。
すぐに既読がつき、返信のメッセージ。
久しぶりだね。わたし、さっき新宿にいたんだ。私も知ってる雰囲気の人がいるなって思ったよ。また、会えたんだね。
私ね、親に無理言って、親戚のところに下宿して○×大学の医学部に入れたんだ。
門限厳しくって困るの。
さっきの人はやっぱり…。僕は高校二年の夏に戻っていた。
やっぱり!あの、桜葉さん。今度上上野あたりにでも行きませんか?花見でもできたらなって。あ、花見じゃなくてもいいですし!
もう(笑)デートはしないってあの時伝えたでしょ?
少し間をおいてから、もう一度メッセージが届く。
いいよ。しっかり埋めよう。これまでの時間と気持ち。高校のときのこと思い出してきたよ。ごめんね、って、やめよう。デート、楽しみにしてるよ!!
満員電車にも関わらず、僕は高まる気持ちが表情に出ていただろう。それを押し殺すことも無く、メッセージに思いを込める。
桜葉さん、大好きです。
終
あとがき
2014年10月より書き始めた物語でしたが、ようやく完結しました。いチィに地一ページ程度だったり、数行でやめてしまう日もたくさんありました。物語を作ると言うことは、とても大変なことですね。
今回、)すごく無計画で書き進めてしまい、ろくに校正もしてなかったりします。ごめんなさい。
反省点も非常に多いです。無計画に脳内の記憶だけで構築していったので、基本になるノートを次回以降作ることにします。勢いだけではダメですね。
今後ですが、この作品をまず)きっかけをくれた二人に読んでもらい、その後しバラj句してから公開を予定しています。小説家になろうというサイトを利用します。今後も作品ができるたびにアップを考えています。また、しばらくしたら次の作品にもてをつけたいと思います。
最後になりましたが、このような稚拙な物語と文章を気長に読んでいただけたこと、感謝しています。次はもう少しレベルアップしてお目にかかれたらと思います。
2015年2月2日
笠原 祐人