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バーンニッシュ・ログニス  作者: 屋久堂義尊
第一話バトモンエストゥ
3/7

第二話 セルゲイの少年

 ダラーの宿命は非常に重い。主に、地方豪族の戦いに敗れた側の兵士や民間人が元々の発生だった。それが『レグ神典』で、「ダラーは神の垢から作られた」とされていた。そんな物は全くナンセンスだった。

 しかし、この時代を生きているレグ大陸の人々にとってはそんな歴史的事実はどうでも良かった。ただ、その神話を根拠に人々は自らの首を絞めていた。それで良いかどうかはどうでも良かった。

 考える事を止めてしまえば、人間は進歩を滞らせる。そして、そのまま歴史は作られる事は無く、ただ同じ事を繰り返されるだけの毎日がやってくる。それはもはや「歴史」では無い。人々は進化もしなければ退化もしない、地団駄を踏むだけで月日を浪費していた。

 人間の歴史とは進歩や変化が伴ってこそはっきり述べられる物だ。そういう意味では、このレグ大陸の時は“止まって”いると言えた。全くもって進歩していなかった。

 クローム・スランバは鞭で身体を叩かれていた。ウッと悲鳴を堪えて、クロームは耐えた。鞭のしなる勢いが更に強まる。バチンという音がして、クロームは地面に倒れ伏した。

「クローム、クローム!!」

 カロリーナ・スランバは傷だらけのクロームの背中をかばった。

「お願いです、ぶつならば私にして下さい」

 カロリーナは腰巻一つで耐えるクロームの背中に覆いかぶさった。

「女は売り物だ。邪魔すると魔物の餌にするぞ!!」

「お願いです、私は何をされても構いません。だからこの子は、助けてあげて下さい……!!」

 クロームは薄れ行く意識の中で、微かに母の泣き声を聞いた。


「クローム、もう良いのかい?」

 気が付くとそこは薄暗かった。モイスチャーファーマーの家に使われ始めたのは彼が産声をあげてすぐの事だったそうだ。クロームの父は、クロームと母カロリーナを経済的に援助する為に自ら売られて行ったと言う。父も矢張りダラーだった。

 クロームは痛む身体を押して起き上がった。全身がひりひりする。背中に手を伸ばすと、みみず腫れが浮き出ていた。カロリーナが、濡れた布巾を持って来てくれた。クロームはそれを背中に当てて、痛みが治まるのを待った。

 付近は埃で汚れていた。ダラーの身分が為に、水は雨水しか飲んでは駄目だった。モイスチャーファームで働きながら純粋を飲む事が出来なかった。

 モイスチャーファームとは水の魔力のこもった核を軸に、大きく広げたサイロに水を貯める職業だ。乾季に成ると需要が一気に高まる。その作業は意外とシビアで、少しでも水に不純物が入れば売り物では無くなってしまう。その為に、水の魔力を込めた核とサイロの下に、何重もの濾過器が設置されていた。その管理はダラーであるクローム達の仕事だった。

 クロームが今日犯したミスは、単純だった。濾過機の中に古い物を紛れ込ませたのだ。クロームからすれば、それは普段の彼ならば有りえないミスだった。だが、今日のクロームは少し違っていた。彼は昨晩からの病に苦しんでいた。だからやってしまったミスだった。

 クロームは三畳程の掘立小屋に住んでいた。謂わば奴隷小屋だった。

 真っ暗い闇の中を、ロウソクを片手に母であるカロリーナは濡れ布巾を用意していた。

「領主様に言って、真水を少しでも分けて貰って来ますからね」

 カロリーナはそう言うと、小屋の扉を開けた。

 クロームは咳を何度かすると、家の外へ出た。喉の奥がイガイガする。クロームの鼻から鼻汁が啜り出た。身体が火照っていたが、それが自分の受けた痛みのせいなのか病のせいなのか分からなかった。

 レグ大陸の雨季は夜もじめじめしていて過ごし辛い。

 クロームは、領主の館の方へと足を運んだ。が、止めた。中から領主と母の声が聞こえたからだ。

「お願いします、クロームに少しでも水を分けて下さい」

「何を抜かす、ダラーふぜいに何故ウチの商品を分けなければ成らないのか!?」

「でも、働き手がいなくなれば領主様もお困りに成るはずでは……?」

「自惚れるな!! 貴様等の代わりなんぞ幾らでもいるわ!!」

 領主のヒステリックな叫び声がクロームの耳にも突き刺さった。嫌な声だ、クロームは頭の中で響くその声を抑えるので精一杯だった。

「どうすれば……どうすればあの子を助けてくれるのですか?」

 カロリーナの嘆願が聞こえ黙る領主の顔をクロームは想像が出来た。きっとあの嫌な目つきで舐めまわすように見ているのだろう。

「……方法は有る」

「え? 本当ですか、領主様?」

「そうだ。お前を売ってやる。その報酬のほんの少しくらいなら出してやっても良い」

 クロームは、それを聞いて黙っているような人間では無かった。一気に館へ入り込むと、彼は領主に何かを語ろうとしているカロリーナを制した。

「母さん、母さんがいなくなったら、僕はどうしたら良いの!?」

「何だ貴様、汚らわしい、屋敷には入るな」

 領主の付き添いのメイド二人が、クロームの両腕をがっちりと掴んだ。

「母さん、行ったら駄目だ。ほら、僕ならばもう大丈夫だよ」

 クロームは必死に訴えた。

 だがそれが、意地悪な領主の心に火を点けてしまった。

「ふむ、売るのも良いな。そろそろもっと若いダラーが欲しかったのだから。よし、カロリーナ、お前を売ろう。その売値の一割くらいはクロームにくれてやって良い。そこは保証しよう。わしは嘘は吐かん、安心せい」

「母さん!!」

「悔しければ、お前が買ってやる事だな。クロームに出来るとは思えんが」

 領主は高笑いをした。クロームは憎々しげにそれを睨んだ。

「何だその眼は? 助けてやると言っているんだ。喜べ、クローム。母に感謝するのだな」

「このクソ領主……!!」

 クロームは拳を握りしめた。

「……分かった、僕が母さんを買うよ。それまで待ってくれ」

「待てぬな。買い手が決まればすぐに売るとも」

 領主の眼は本気だった。それは長い間彼に仕えていたクロームだから分かる事だった。

「ならば、今すぐにでも僕は仕事に戻るよ……!!」

 クロームは、痛む身体に鞭を打つと、水桶を持って、街に出るのだった。

 雨季の今、モイスチャーファーマーは大きな赤字に悩まされるケースが多かった。どこでも最低限雨水という水が手に入るからだ。そんな中で、水を街中で売るのははっきり言って無理が有った。もっとも、そんな事クロームは知っていた。だからと言って黙って母を――カロリーナを売る事は許せなかった。

 それにしても、病を抱えている上、昼間のダメージも有る、水を運ぶだけでも難儀した。人々はそんな彼を無視していた。彼は追いやられるように、路地裏に入り込んだ。

「……なぁ、水をくれよ」

 突然背後から語り掛けられ、クロームは一気に眼を明るくした。

「有難うございます!!」

 クロームが叫び振り向くとそこには少年が立っていた。腰巻一つの格好にぼさぼさの頭が特徴的だった。

 とても、お金を持っているような姿には見えなかった。

「あのね、お金を持っていない奴は相手に出来ないんだよ」

 少年に語りかけると、少年が笑った。

 少年は、一気に駆けだすと、クロームから樽を奪った。

「何!?」

 クロームはその一瞬の出来事にまず驚いた。しかしここで逃してはならない、クロームは少年の後を追った。少年は、自分の身体程も有る樽を抱えると、人ごみの中を縫って走った。やがて路地裏に入ると、少年は袋小路に辿り着いた。クロームも全身に悪寒が走りながらも追いついた。逃がすわけにはいかない。

 と、少年は、樽を抱え、軽々と袋小路を登って行った。

「待て!!」

 クロームが追いかける。もう全身が汗だくだった。

「意外としつこいんだね、兄ちゃん」

 少年は、村の壁に寄りかかるボロボロのクロームを見てニンマリ笑った――かのように見えた。

「お前……、お前、フラニーだな!?」

「そう、フラニー、それも最下層の最下層だよ」

「フラニー」とは身分階級の一つだった。その身体は穢れ切っており、『レグ神典』によれば、創造主の母である女神の流した月経の血液から生まれたと言われていた。レグ大陸の全ての身分より劣っているとされていた。その穢れは、触れる事は勿論、見る事すら許されないとまでされていた。

「兄ちゃんは、ダラーでしょ? 奴隷生活は大変かい?」

「お前、馬鹿にしているのか? フラニーの分際で。生意気にも程が有るぞ……!!」

「“人間以下”のフラニーに馬鹿にされちゃったら、さすがのダラーでも怒っちゃうよね」

 クロームは怒りに身を任せて、その少年を捕まえようとした。しかし少年は、水の入った樽と共に避けてみせた。

「お前が触ったから、水が穢れたじゃないか」

 クロームは苦々しげに少年を睨んだ。

「だったらもう売り物に成らないだろう? 諦めなよ」

 少年が悪びれる様子も無くきゃきゃと笑った。

「黙ってれば、黙ってれば売り物に成る!!」

「それがレグ大陸に住む全うな“人間”の言うセリフかよ」

 人間以下のフラニーに馬鹿にされて、クロームは更に怒りを爆発させた。しかし、身体がいう事を聞かなかった。

 それでも彼は食らい付いた。ついに、少年の腰巻きを掴んだ。少年が舌打ちをした。

「もう兄ちゃんと遊ぶの飽きちゃったんだけどな」

 少年は、傷だらけのクロームの背中を見ると、少しばつが悪そうな顔をした。だが、それは一瞬の躊躇だった。

 少年が指笛を吹いた。

 森の奥から何かがゆっくり迫って来た。だがクロームは、全身の疲れが抜ける感じがした。

 同時に、遠くから迫りく来る足音が聞こえた。

 彼が最後に見た物は、鎌首をもたげる巨大な影と、少年、そしてその両者の間に入る人影だった。



 クロームは夢を見た。

 どこか真っ暗い世界で彼は浮いていた。気が付くと、背中に激痛が走った。血の塊が、いや、肉片と言うべきか、それがぼどぼどと地面――足元に落ちて行った。水だ!! 水を売らなければ!! 彼は水が入った樽を竿を通して担いだ。背中に再度痛みを感じた。自分の体液で滑りそうに成った。

「クローム……、クローム……」

 呼びかけられてクロームは振り返った。カロリーナが――母が闇に浮いてそこにいた。

「母さん……」

 クロームの眼から、大粒の涙が溢れ出ていた。

「母さん、ごめんよ、僕が頼りないばっかりに……」

 クロームは、力無くその場に座り込んだ。水の入った樽が音を立てて倒れる。

「良いの、クローム。貴方の身体が守れれば。私は行くわ。強く……強く生きるのよ」

「母さん!!」


 バッとクロームは起き上がった。頭が一瞬くらっとした。

 だが不思議な事に、身体中を支配していた痛みは無くなっていた。

「気が付きましたか」

 聞き慣れない声がして、クロームはそちらの方を向いた。ローブに身を包んだ謎の男が座っていた。

「君達が魔物に襲われそうに成った所を助けに入った、つもりだったんですが、どうやら状況はそう単純では無いらしいですね」

 男は淡々と語った。

 ここはどこなのだろうか? クロームは辺りを見回した。

 その機先を制するように男は口を開いた。

「ここはセルゲイの付近に有るフラニーの集落です。あまり動かない方が良い。治癒呪文を使ったが、外傷しか治せていない。今、フラニーの少年に薬草を採りに行って貰っています。それが出来たら、薬を調合しましょう」

 クロームはゆっくりと立ち上がった。背中の痛みは確かに消えていた。しかし今度は頭痛が酷かった。

「あいよ兄ちゃん。あ……!!」

 手に薬草を持った先程の少年が入って来た。クロームは彼と眼が合った。すぐさまクロームは立ち上がるとその少年に殴り掛かろうとした。だが、叶わなかった。少年はひょいと身をかわし、クロームはよろめき地面に倒れた。

「無理をするから……!!」

 ローブの男が駆け寄り、額に手を当てる。

「矢張り熱が高い。油断は出来ない状態です。薬草を」

 彼はクロームを抱きかかえると、再び横にした。

 薬草を貰うと、ローブの裾から小さな坩堝を取り出した。中に粉末状にした薬草を入れる。

「浄水を」

 男が少年に指示を出すと、少年は先程抱えていた樽からひしゃくで水をすくった。そして坩堝の中へと入れた。

「ταυταβηζε」

 男が坩堝にそっと話しかけた。すると、坩堝の中から光が溢れ出た。

 完成した。男はゆっくりと坩堝の蓋を開け、中の緑色した液体を猪口に入れた。

「これを飲みなさい」

 そう告げると、男はクロームにエメラルドグリーンに光る液体を勧めて来た。

「……フラニーの触れた物を口に入れると、身体が穢れる」

「馬鹿な事を。そのような事を言う余裕は無いでしょう。飲みなさい。それに水は、そこの少年の話ですと、元々君が売っていた水ではないですか。穢れていない事は明確です。飲むのです」

 男に勧められるまま、クロームはそれを口に入れた。不思議と甘い味がした。

「兄ちゃんさ、そんな身体で良く肉体労働したね」

 少年は飄々と語った。

「クソ、お前が、お前さえいなければ……」

「兄ちゃん悪いね、うちにも病人がいて。あ、でもそこのパイドラさんが治してくれたから」

 パイドラと紹介されたローブの男は、軽く会釈した。

「君達が魔物に襲われていたように見えた時はびっくりしました」

 パイドラは語った。

 あの時、クロームが見た影。あれはウイングスネークだったらしい。パイドラの眼には、ウイングスネークが二人の青少年に襲い掛かるように見えたそうだ。しかし……。

「あのウイングスネークは、おいらの仲間だったという訳さ」

「仲間?」

「おいら、エルって言うんだ、よろしくね兄ちゃん達。おいら、魔物と話が出来るんだよね」

「話?」

 エルはさもそれが当たり前なように語った。

「そう、ウイングスネークやレッサードラゴン、コボルトなんかと話が出来るんだ」

 その様子を、竈に木をくべながらパイドラは見ていた。

「ヘビトンボに乗った時は気持ち良かったなぁ。兄ちゃん達も乗って見たくない? おいらが一緒なら出来るよ」

「ふざけるな!!」

 クロームが叫んだ。

「お前達みたいな穢れた下賤な連中の為に、僕の、僕の母さんは売りに出されるんだ!!」

「お母さんが売りに?」

 パイドラがオウム返しに反応する。

「そうだよ、エルとか言ったね、お前達は人間扱いされていないかもしれないけれど、それでもこうして皆一緒に過ごせるんだ。でもダラーは違う。どんどんと不必要になれば消えて行ってしまう。殺されたり、どこかの儀式の生贄にされたり、そうやって離れ離れに成って行くんだ。皆一緒に暮らせないんだ!!」

 最後、クロームは泣いていた。握り締められた拳が、ぶるぶると震えた。どうしようもない怒りだった。

「水を売らないと、母さんは売られてしまうんだよ。いつ売られるかも分からないんだ」

 クロームは悔しそうだった。本当に悔しそうだった。

 クロームの声に嗚咽が混じった。

「売るべき水も無い。僕はどうすれば良いのか……」

 彼の背中が悲しみに包まれていた。



「助けてあげようか?」

 クロームが顔を上げた。目の前にエルが立っていた。

 エルはもう一度言った。

「助けて、あげようか?」

 エルの眼を見たクロームは、その中に焔を見た。だがかぶりを振った。

「無理だよ、どうしようもないよ僕達だけじゃ」

 エルはしかし、それを笑った。

「出来るよ。おいらの能力を使えば。それに魔法使いが仲間にいるし」

 パイドラはかぶりを振った。

「私にはお金の類は無いです。買ってあげたいけれど、どうしようもないのです」

「ジンツーリキを使えば良いじゃない」

 エルが希望的観測を述べた。

「私の力は、他人を傷付ける物では無い。だから戦力として期待出来ないですよ」

 パイドラは手を振った。

「じゃあ、おいらが行くよ。おいらの力を見ていてくれよ。絶対上手くやってやるから」

 パイドラの眼に真剣な光が見えた。

「“おいらの力”? 何を言っているんだ?」

「まぁ見ていてくれって。パイドラの兄ちゃんも、来るかい?」

「見物させて頂きましょう」

 パイドラは立ち上がった。そして、まだふらつくクロームを抱きかかえた。


 翌日早朝。

 セルゲイの城壁の裏門が開いた。クロームはバイドラと共に草むらの茂みに隠れていた。大名行列のように人々がそぞろ出ていた。その中心に三人の女ダラーが挟まれていた。

「あ、母さん!!」

 飛び出そうとしたクロームをパイドラは手で制した。

「今出れば、ぱぁに成ってしまいます」

 パイドラ達に作戦は無かった。ただエルからここでこうして待つようにとだけ教えられた。「何が起こっても動くな」との事だった。

 行列が、道の真ん中にやって来た頃、地面がこんもりと盛り上がった。それに気が付かず、一向はそれを踏み潰した。その瞬間、一気に地面がめくれ上がり細長い身体が出現し、先頭の馬車を叩き伏せた。サンドワームが地上に姿を現したのだ。

 打ち合わせ通りならば、このサンドワームは味方だった。しかしパイドラは思わず戦闘態勢に移行していた。

 サンドワームは迫り来る戦士達を次々と横に跳ね飛ばし、奴隷達の元へ向かった。奴隷は悲鳴を上げて、その場に倒れ込んだ。

「母さん」

 クロームは一気に馬車行列の中に突進して行った。

「母さん、眼を開けて」

 クロームは母を抱きかかえると、持っていた小刀で鎖を切った。他のダラー達の鎖も切り離してやった。

 パイドラが全力で駆け寄って来た。

「特に外傷は認められない。取り敢えず安全な所へ」

 馬車をひっくり返し、大暴れしたサンドワームは行列を乱すと満足そうに再び地面に潜った。

 行列は木端微塵だった。領主はとっくのとうに逃げ出し、今は残された兵と自由を取り戻したダラーしかいなかった。

「あれで良かったんですよね?」

 確認するようにパイドラが話しかけてきた。

「そんなの分かりませんよ」

 カロリーナは気を失っているだけだった。パイドラが呪文を唱えると、眼が覚めた。

「……ここは?」

「大丈夫、洗い浚い話しても構わないです。もう貴方は安全です」

 パイドラが優しく微笑むと、カロリーナは頬の肉を落としていた。

「母さん!!」

 パイドラを跳ね除けクロームがカロリーナの元へ抱き付いた。

「母さん、母さん、ごめんよ、遅くなって」

「へへ、上手く行ったみたいだな」

 どこから戻って来たのかエルが泥だらけで帰って来た。

「サンドワームが見付からなくて苦労したぜ」

「雨季の間はサンドワームは冬眠するからな」

 クロームが答えた。このラッキーな部分をどこかで清算しなければならないなと思った。

「良し、取り敢えず逃げましょう。そこのセルゲイの町の中へ入って行きましょう」

 パイドラは門を指差した。

「おいらはフラニーだから、合法的には入れないんだ」

 エルが少し不服そうに言ってのけた。

「裏口から入ればばれませんよ」

「昨日も入って来たじゃん」

 パイドラは先頭に立つと、街の方へと歩いていった。



 パイドラはセルゲイの町の中に人々の目に付きにくい所を見付けた。そこは、ちょっとした食糧庫の裏だった。

「こんな事をして大丈夫なのかしら?」

 カロリーナは不安げに辺りを見回した。

 ダラーがログナー――神が自らの涙より作りだしたとされる身分――やオラクル――神の髪の毛から生まれたとされる身分――に逆らう事は、死罪を意味していた。それをカロリーナやクローム達はやってしまった。

 この事が、国王にでも知られたら、今まで逃げて来た事の意味が無くなる。

 それに、このエルと言う少年がこの事件に関わっているとなると更に事態は悪化する。勿論、“人間以下”とされているフラニーのエルには正当な裁判すら行われずに、殺されてしまうだろう。そんな事は有ってはならないとカロリーナは感じていた。

「走って疲れたでしょう。水でも飲みますか?」

 パイドラがエルとクロームに話しかけていた。彼は懐から薄汚れた器を取り出した。端が欠けているのが見えた。パイドラはそれをクロームに渡した。

「ほら、エル、手で水を受け止めて」

「分かったよ、クローム兄ちゃん」

 パイドラはヒョウタンの蓋を開けると真水を器に、手に、それぞれ与えた。

「母さんも飲む?」

 クロームが器をカロリーナの方に回した。

「私は良いわ、クローム一人でお飲み」

 クロームは少しばかり戸惑った表情を見せた。

「母さん、怒っているの?」

 凛としたカロリーナの様子を見て、クロームは少々緊張気味に話しかけた。

「そんな事無いわクローム。ただね、これからの事を考えていただけ」

「これからの事?」

「そう、お金の事よ。食べ物も土地も、私達には無いのよ」

 カロリーナの眼には遣る瀬無い悲しみが含まれていた。彼女はこの先の事で頭がいっぱいだった。

「もしかしたら、私達は別々の所に仕える事に成るかもしれないのよ」

 それを聞いてクロームの顔が青ざめた。

「そんな、母さんと別れて奉公するなんて」

「可能性として有りえますね」

 それまで沈黙を守っていたパイドラが口を開いた。

「母さんをこれ以上働かせたく無い」

「しかし、これは『レグ神典』に記された宿命なのです。ダラーは働き続けなければならない。奴隷として、自らの身を売って、奉公して、それから……」

「そんな話は聞いたく無いんだ!!」

 気が付けばクロームはパイドラのローブの襟元を掴んでいた。

「クローム、お止め」

 カロリーナが諭す。

 それを聞いて、クロームは手を放した。しかし、彼の怒りが収まったわけでは無かった。

「パイドラとか言いましたよね? せめて母さんだけでも助けて貰えないのですか?」

 パイドラは悲しそうに首を振った。

「『レグ神典』に書かれている事は世間の絶対なのです。法律も規則も道徳も全て『レグ神典』に書かれた事から由来しています。だから、ダラーは働かなければならない。私の力じゃ、どうにもならないのですよ」

「そんな……!!」

 その悲痛な訴えは、却下された。

 辺りに聞こえるのは街中を歩く人間の足音と喋り声だけだった。

「だったらさ」

 口を開いたのはエルだった。

「だったらウチの村においでよ。自給自足は大変かもしれないけれど慣れれば悪く無いと思うな」

 パイドラは思わず苦笑した。そんな馬鹿な事が許されるはずは無いと思ったのだ。フラニーの扱いは、ダラーよりも更に下。そんな身分に誰が喜んでなろうか?

 しかし、パイドラの思いは簡単に打ち砕かれた。

「それ、良いんじゃないか?」

 クロームが引っかかったのだ。意外な反応に、パイドラは驚きを隠せなかった。

「でもねクローム兄ちゃん。フラニーは“人間以下”なんだよ? 本当にそれでも良いの?」

 クロームは一瞬考えたが、一人頷いた。

「母さんが守られるならばそれで良い」

 クロームはそう言うと、カロリーナに優しく語り掛けた。

「もう奴隷はこ懲り懲りだよ。二人で静かに暮らそう。ね、母さん」

「クローム……」

「さあ、善は急げだよ。おいらの村に戻ろう」

 そう言うと、エルは意気揚々と村の出口へ向かった。



「何これ……?」

 エルの村に戻って来たクローム、カロリーナ、パイドルの一行だったが、そこで見た物は衝撃の事実だった。エルの住んでいたフラニーの村は、真っ黒焦げに成っていた。辺りには、軍馬の足跡が沢山残されていた。火はまだ燻っていて、村の人達がそこら中に倒れ伏していた。そのほとんどが、身体に矢を刺していた。それは確実に人間の手による物だった。

「“狩り”に遭ったんでしょう」

 パイドラが顔をしかめて言葉を紡いだ。

「エル……」

 エルは一気にダッシュすると彼の家に駆けこんだ。

 入り口にはもう骸骨に成っていた黒い塊が二つ転がっていた。逃げ出そうと家を飛び出た所を射抜かれただろう。

「そんな、そんな……!!」

 パイドラとクロームが追い付いて来た。カロリーナは村の入り口に待っていた。

「こんな状態じゃ、私の呪文も役に立たない……」

「エル、僕は……」

 クロームは悲しかった。エルはフラニーで“人間以下”だけれども、だからと言ってこんな事をするのは酷すぎる。村中見回したが、生き残りは誰もいなかった。囲みこんで一人も残さず――いや、一匹と言った方が良いのか――誰も彼も皆殺しだった。

 エルは裏から崩れた住居に入り込み、樽に残っていた水をひしゃくで二つの黒焦げた死体にかけた。ジュッと言う音と共に湯気が舞った。死体は水の重みに耐えきれず、崩れ落ちた。そして、エルは黒焦げた骨を一摘みして口に含んだ。

 その様子をクロームは苦々しく見ていた。ダラーとして生まれた自分は本当に不幸で自分の運命を呪い続けて来た。だが、それは思い込みだった。自分だけが、ダラーだけが不幸なのだと考えて来た。そんな事は無かった。ダラーは確かに奴隷だが、それでも、勿論商業的な価値がそこに影響しているのだと思うが、だけれどもそれなりの扱いは受けていた。こんな理由も無く殺されるなんて事は有りえなかった。せいぜい鞭で叩かれるか、焼印を押されるか、拷問とは言われるかもしれないが、殺される事は無かった。病にかかって死ぬ者はいたが。

「エル、行こうか……?」

 クロームはエルの家だった物に入り、エルの肩を叩いた。

 しかしエルは、キッと彼を見上げた。

「……復讐してやる!!」

 エルは涙を湛えた眼を真っ赤に光らせていた。

「復讐ってどうやって?」

「おいらの力を使えば、こんな事をした犯人ぐらい突き止めてやる!!」

 エルは、立ち上がると、森の方へ駆けて行った。

「エル、待て!!」

 クロームが急いで後を追った。

 パイドルはその二人を見て独り言ちた。

「バジュラ仙人様、これが混沌と言う物で有りましょうか?」

 彼は、そう述べると、カロリーナの方へ向かった。


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