それでも今日は日曜日
領収書は持ったか。少しインクの薄れた保証書を財布にねじ込んだ。
日曜日にしては質素な朝食を平らげて、すぐさまお出かけの準備をする。いついかなる時であれ、朝ごはんを絶対に食べることが絶対の信条だ。食パンと卵、とろけるチーズを炙りもせずに口内に詰め込んだのは、やや文化的とは言い難いが、朝ごはんに変わりはない。今日という、新たな一日に向けた活力が体に満ち満ちている。
ポリエステル製のショルダーバッグを肩に引っかけ、両手でトースターを抱えた。たったのひと月でイカれたポンコツは、浮足立ちながら購入を決めたあの日より重みを増している気がする。憎き家電量販店に、落とし前をつけてやろうではないか。
無造作につま先を突っ込んだスニーカーはつま先の生地が破れ、白い靴下が露出していた。両手がふさがっているので肘でドアノブを回し、背中で押すように玄関のドアを開く。前腕が痛んできた。この機械は四キロもあるのだ。トースターを一度玄関先の床に置き、鍵を閉める。おいしくパンを食べるためだけに、こんな重いものを作る人類が私は好きだ。まだまだこれから成長の余地あり。捨てたもんじゃないと思うのに、もったいない。
空を見上げる。耳障りなヘリコプターの向こうには、どうしようもない程に鮮やかな青空が広がっていた。百点満点の快晴。外出に、そしてなにより日曜日にピッタリだ。
トースターを自転車の前かごに載せ、好きなサッカーチームのキーホルダーをポケットから取り出す。このチームの試合ももう見れないと思うとやるせないものがある。ロックが外れ、小気味のいい金属音が、駐輪場についた申し訳程度の屋根に響いた。
目的地まで自転車でおよそ十五分ほど。私はペダルを蹴る。
自転車はいい。一時停止も進入禁止も、ほんとはダメだけど信号も、自転車なら比較的自由だ。陸地が続く限り、どこまでもいける気がする。そんな気がしてるだけだってことも知っているけれど。
タンタンタン、と乾いた音がどこからか響いた。この音に慣れてしまったのは、多分あまり良いことではないのだろう。
どうも私含め人類、というか地球の寿命はあと三日らしい。
世界は面白い程に破滅のただ中にある。でもそれがどうしたというのだろう。
そんなことより今日は日曜日だ。
誰がなんと言おうと、社会的になんの意味もなくたって、日曜日だ。
なんでも、四国くらいの隕石が地球に向けて絶賛接近中らしい。地球がどうとか、微生物ならあるいは、とかは置いといて、現行人類の滅亡は必至とのことだ。四国サイズでダメなんだね、と思った私は、心のどこかで四国をバカにしていたのかもしれない。差別とは往々にして無意識なものだ。私は反省した。
八畳の埃っぽい社宅にて、画面がバキバキに割れたスマホに映る、恐らく世界最後の臨時ニュースを見たのは四日前のことだった。残業上がりですっかり暗くなった夜に、漠然と冬を感じたような、そんな殊勝なことは考えてなかったような。早茹でペンネをきっかり百グラム。ニンニクをちゃんと刻んで作ったペペロンチーノ風を掻き込み、血糖値スパイクに捕まった私は不健康な惰眠に溺れていた。バッテリー死にかけのスマホから、聞いたことのない警報音が聞こえたのは丑三つ時のころ。不機嫌に目覚めた私が目にしたものは幽霊なんて俗物的なものではなく、アポカリプスの開会式。つまるところそのニュースは、人類終了まで、そして私の余命があと一週間であることのお知らせだった。
呆気ない。もう少し頑張れよ、人類。NASAだかJAXAだか知らないけど、人類の叡智の結晶はなんとかしてくれなかったものなのか。思わずエアロスミスを口ずさむ。
兎にも角、私も、口うるさい上司も、今頃モラトリアムを満喫しているはずの弟も、このあいだ肺の手術を受けてた母方のおばあちゃんも、突然みんな、ハッキングでもされたかのように享年が確定した。
私はわざとらしく、顎に手を当てて考える。自分が賢くなったつもりになれるおまじないだ。
さて、どうしたものか。
スマホではアナウンサーが、見てるこっちが可哀そうになるほど悲壮な顔をしている。なんの意味があるのか知らないがヘルメットを被って、それでも自分の役割を果たそうと、青い唇を動かしている。
「えー、お伝えしています通り、七日後に地球に衝突すると予想されている隕石は、直径約百五十キロメートルほどと見られており、東京ドーム四十万個ほどの……」
衝突の冬よりも、四国がビッグ・エッグに埋め尽くされるほうがよっぽどディストピアだ。そんな想像をしながら私が考えていたのは家族との別れでも死への絶望でもない。
昨日壊れたトースターのことだった。
自動ドアを手動で開けるのはなんだか不思議な気分だ。人間が入ってはいけない、魔界の門をこじ開けている気分になるのはなぜだろう。止まったエスカレーターを歩くときと同質の、居心地の悪さを感じる。ミリミリミリ、と形容しがたい音とともに、荒廃した店内が顔を覗かせた。パソコンの箱や割られたガラスの破片が、入口のすぐ内側に散乱している。足元の四キログラムを持ち上げ、私は入店を果たした。シンとした電気屋は、照明が消えている一方で、割れた窓から差し込むお日様のおかげで存外明るい。白い光に照らされている、目に悪い配色のポスターには「創業祭実施中!! 月末まで!!」と創英角ポップ体が踊っている。トースターの重みが増したように感じた。今となっては信じられないことに、私はこのポスターに釣られて入店したのだ。とことんセンスの欠如した店で買い物をした自分が恨めしい。
「すみません」
思ったより大きく発せられた自分の声だけが、ドラム式の洗濯槽の中で反響したように響いた。冷蔵庫には一年保証、会員特典で三年保証のポップが虚しく貼られている。私は会員だ。結果として会費をドブに捨てたことになったがこの際仕方ない。さて、お客様サービスセンターはどこだ。さっさと対応してもらって、私は素晴らしき日曜日を堪能せねばならない。
「お客様、こちらです」
不意に店内に凛とした声が響いた。この類の声は何度か聴いたことがある。中学の古典教師がそうだった。体育教師の、獣のような声ではないベクトルの怖さ。ある種の畏れを感じさせる音色だ。筋肉が驚いて震える。声のした方向を見やる。荒らされた痕跡の残るパソコンコーナーの向かいに、『カスタマーサービス』の立て札がこれまた創英角ポップ体で鎮座していた。頭が痛い。そろそろ前腕もキツいというのに。だがその奥に直立している初老の男性の背筋は、小学校の標語ポスターのようにまっすぐだった。口の端を切りながらも不快感のない営業スマイル。欠けた眼鏡の奥に光る眼光。煤けたエプロンの胸元に、それでも堂々と構える白いネームプレートには、「店長」のニ文字が神々しいほどに輝いていた。
「こんにちは。先月こちらを購入したのですが、電源が付かなくなってしまって」
トースターを立て札の横に置きながら、私は会話を切り出した。解放された筋肉が伸びていく感覚が心地よい。穏やかな口調を心掛けつつ、私も姿勢を正す。この世界において会話が可能な人間は既に珍しい。こちらも敬意を払わねば。
「確認いたします。保証書と領収書はお持ちですか?」
「はい」
一枚の紙きれと、トリセツ裏面の保証書を差し出す。恭しく受け取った店長の両手には包帯が巻かれていた。
「少々お待ちください」
にこやかに微笑んだ店長は、赤黒く染まった包帯でトースターを抱え、裏へ消えていった。
ポツンと、荒廃した電気屋に取り残された私は完全に手持ち無沙汰だ。なんとなく周りを見渡す。
ここも襲撃があったのだろうか。既に近所のスーパーには食料品の痕跡はなく、少しばかりのペーパークリップやら画鋲やらが残った。要するに平素からスーパーではあまり買わないものだ。観察してみると、パソコンとゲームハードの棚は空っぽだ。何のゲームをするのだろう。やっぱりグランド・セフト・オートだろうか。それともあえてシムシティ? こういう時、人間のセンスが問われる。私はセンスのいい人間でありたい。
「お客様、大変お待たせいたしました」
戻ってきた店長の腕にトースターは無く、痛々しい色の包帯が組まれているだけだ。彼は先ほどまでの笑みの代わりに、なんとも言えない悲しそうな顔をしている。
「大変申し訳ございません。初期不良かと思われます。保証期間内ですのでご対応いたします。ただ……」
「ただ?」
「こういった場合、本来は交換対応になるのですが、現在在庫を切らしておりまして」
「なるほど。代用品を頂いたりはできませんか? 他製品でも構いません」
「申し訳ございません。ただ、他製品との交換は規則上不可能でございまして……」
無理もない。そんな気もしていた。なぜなら私が買ったとき、このトースターの取っ手には「現品限り!!」の煽り文句が、創英角ポップ体で舞っていたからだ。地球の滅亡よりも、あの日の判断力が恐ろしい。
「わかりました」
私は素直に返した。ここでゴネて時間を浪費するのは愚かの極みだ。なんせ私には日曜日が待っているのだ。いついかなるときであろうと、私の日曜日に無駄な時間が介在する余地はない。
「では、メーカー修理をお願いいたします。受取はいつになっても構いません」
店長の目が大きく見開かれた。彼が私に見せる、初めての情動の発露だった。
やがて彼は笑った。これまでのアルカイックスマイル的なものではなく、思わすほころんだような笑みであるように私は感じた。少なくとも、そうであってほしいと、私は思う。
「かしこまりました」
受取票に名前と電話番号を書く、みたいなシチュエーションで字が汚いと無性に悔しい気分になる。小学生の頃から字が汚かった。なんども悔しい思いをしてきて、それでも直してこなかったということは、それでも構わないという意思表示のはずなのに、毎回こんな気持ちになるのが不思議だ。
「それでは、こちらがお預かり票になります。ご来店の際にお持ちください」
明朝体の印刷かと見紛うような店長の字で、受付番号「1」、そして受取予定日の欄にニ週間後の日付が記入された独特の質感の紙を受け取る。やはりあと三日で書道を練習すべきか。人生の最後に新能力を獲得したっていいだろう。薄い紙を丁寧にニつ折りにし、千円札の手前側にしまい込む。
「万が一、修理に遅れが発生したときはお電話いたします」
「わかりました。ではよろしくお願いいたします」
私はショルダーバッグに全てをしまい、階段へ向けて足を進めた。
店長はカウンターからこちら側へ移動し、深々と、こちらが申し訳なくなるほどに深々と頭を下げた。
「ありがとうございました」
真っすぐの背筋を床と水平にしたまま、微動だにしない彼に背を向け、私は出入口を目指す。自動ドアの横には、入るときにも目の端に映った高級パソコンの箱に付いた赤い染みが、今度ははっきりと見えた。それを抱える青年の胸部では、グジュっとした穴が三つ、服を湿らせている。未だに広がり続けているような、温度を感じる赤黒い水溜りを見ているうちに、私の心には安堵が灯った。店長はきっとその時まで、ここで勤めを果たすのだろう。ニ週間後にトースターを私に届けるため、ありとあらゆる手段を尽くしてくれる。そんな信頼感がある。
荒れた店内に私の足音だけが響く。ギザギザに縁どられた日光が、私のスニーカーを照らす。ミリミリと自動ドアをこじ開け、陽光煌めく店外に一歩踏み出したとき。
「また、お越しくださいませ」
思わず、口角が上がってしまった私の顔は、彼には見えていないはずだ。
私は図書館で本を返却し、めぼしい本を借り、行きつけのカフェでニ時間ほどまどろみ、帰って夕食の仕込みをしなくてはならない。どこまでできるのやらわからないが、とにかくやらなければならないのだ。
なぜなら、今日は日曜日なのだから。




