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喧嘩

 翌朝、俺の小さな家の前には、なぜか三人分の足跡が残っていた。


 玄関先の土に刻まれた靴跡は、きっちり等間隔で並んでいる。おそらくレイナだ。窓の下には、落ち着きなく行ったり来たりしたような跡がある。これはリリスだろう。そして、扉の前には小さな白い花が一輪置かれていた。間違いなくユアだ。


 俺はそれを見下ろし、深く息を吐いた。


 昨日、彼女たちは「泊まる」と言い出したが、俺は必死に止めた。レイナには王国騎士団の宿舎があり、リリスには魔導銃兵用の兵舎がある。ユアには聖堂の奥に聖女専用の居室が用意されている。三人とも、きちんと帰る場所があるのだ。


 それに対して、俺の家は父が用意してくれた小さな一軒家で、一人暮らしにはちょうどいいが、女性三人を泊める余裕などない。いや、部屋数の問題だけではなく、世間体も俺の心臓ももたない。


 だから帰らせた。


 帰らせたはずだった。


「……見張ってたな、これ」


 独り言をこぼしたところで、返事はない。


 家の中は静かだった。台所には昨夜の残りのパンとスープ。机の上には作りかけの戦術図。窓辺には父から届いた薬草茶の包み。誰にも邪魔されない、俺だけの生活の匂いがある。


 その静けさは嫌いではなかった。


 前世の部屋にこもっていた頃と違って、この孤独には逃避ではなく休息の色がある。俺はここで眠り、飯を食い、作戦を考え、たまに自分の非力さに落ち込み、それでも翌朝には軍務局へ向かう。


 そうやって、どうにか司令官の形を保っている。


 昼前、王城から呼び出しが来た。


 嫌な予感はしたが、無視するわけにもいかない。俺は外套を羽織り、通信石を鞄に入れ、杖代わりの細い木剣を手に取った。護身用ではない。長く歩くと足がふらつくから、支えにしているだけだ。


 王城の会議室には、案の定、見たくない顔が並んでいた。


「おお、エイジ殿。病み上がりに呼び立ててすまないな」


 そう言った伯爵の口元は、まるで謝っていなかった。


 部屋にはレイナたちはいない。いるのは貴族数名と軍務官だけだ。彼らの視線は、値踏みするように俺の細い腕や青白い顔を撫でていく。


「いえ。ご用件を」


「次の魔獣掃討についてだ。君には後方で記録係をしてもらう」


 記録係。


 つまり、指揮権を外すということだ。


 俺は表情を動かさないようにした。内心では、胃のあたりが冷たくなっている。王都北門の戦果で、俺の指揮能力は一応認められたはずだった。だが、それを面白く思わない人間は多い。


 貴族社会では、弱い者が成果を出すと、称賛ではなく疑念を買う。


「理由を伺っても?」


「理由も何も、エイジ殿は身体が弱い。前線指揮など負担が大きかろう。聖女部隊は本来、もっと格式ある将が率いるべきだ」


 格式、という言葉で全て理解した。


 彼らが欲しいのは勝利ではない。勝利した部隊を率いたという肩書きだ。レイナたちの功績を、自分たちの家門に飾りたいのだ。


「聖女部隊は、独立遊撃任務に特化しています。通常部隊の指揮系統に組み込めば、機動力が死にます」


「口だけは立つな」


 別の貴族が笑った。


「剣も持てぬ者が、戦場を語るか。盤面遊びと実戦は違うのだよ、エイジ殿」


 胸の奥が鈍く痛んだ。


 言われ慣れた言葉だ。前世からずっと、何かをしようとするたびに、お前には無理だと笑われてきた。転生してもそれは変わらない。世界が違っても、弱い人間を見る目はどこか似ている。


 だが、今は俯けない。


「でしたら、模擬戦で決めましょう」


 会議室が静まり返った。


「聖女部隊は使いません。こちらは地図と駒だけで結構です。そちらは現行の掃討計画をそのまま盤上に置いてください。被害予測と討伐効率で比較します」


「生意気な」


「生意気で済むなら安いです。現場で兵が死ぬよりは」


 貴族の顔が赤くなった。


 その時、扉の外から杖の音が響いた。


「ならば、私が立会人になろう」


 父だった。


 侍従に支えられ、血の気の薄い顔で会議室に入ってくる。病は確実に父を蝕んでいる。立っているだけでも苦しいはずだ。それでも、その眼差しは昔の名将のままだった。


「父上、なぜここに」


「息子が盤上で喧嘩を売ると聞いてな。見物せずにはいられん」


 父はわずかに笑い、それから貴族たちへ視線を向けた。


「諸卿。まさか、病人の息子相手に盤上で逃げるとは言うまいな」


 逃げ道を塞がれた貴族たちは、渋々うなずいた。


 模擬戦はすぐに始まった。


 盤上に置かれた敵は、王都東の森に巣食う魔獣群。相手の計画は、騎士隊を三方向から進軍させ、中央に魔導銃兵を置く典型的な包囲殲滅だった。教本通りで、美しい。だが、美しすぎる。


「三刻目で中央が崩れます」


「なぜだ」


「東の森は魔力濃度が高い。魔導銃の弾道が曲がります。中央火力が落ちれば、魔獣は一番薄い南翼へ逃げる。そこには村があります」


 俺は駒を動かした。


 森の湿地、旧街道、壊れた橋、風向き。全部を重ねる。魔獣は賢くない。だが、生き物は痛みを避ける。逃げ道を与えれば、必ずそこへ流れる。


「南翼を厚くするのではなく、あえて空けます。ただし村へ続く道に聖水の煙幕を張る。魔獣は嫌って北へ逸れる。そこを狭路で撃つ」


「机上の空論だ」


「実戦で試しますか。失敗すれば俺の責任です」


 喉が乾いた。


 責任、という言葉は怖い。俺は非力で、臆病で、本当は誰かの命を背負える器じゃない。それでも、ここで黙れば、もっと多くの兵が死ぬ。


 沈黙を破ったのは父だった。


「私の名で保証する。この案で進めよ」


 貴族たちは苦い顔をしたが、父の言葉を無視できる者はいなかった。


 会議が終わり、廊下に出ると、父は壁に手をついて咳き込んだ。俺は慌てて肩を貸す。父の体は驚くほど軽かった。


「無理をしないでください」


「それはお前も同じだ、エイジ」


 父の声はかすれていた。


「お前は弱い。だが、弱さを理由に退けば、お前を必要とする者たちが迷う。特に、あの三人はな」


 俺は返事ができなかった。


 レイナ、リリス、ユア。彼女たちは強い。けれど、その強さは俺の指示に結びついている。俺が揺らげば、彼女たちの感情も危うく揺れる。


 城門を出たところで、その三人が待っていた。


 レイナは騎士団宿舎から来たのか、鎧姿のまま。リリスは兵舎帰りらしく、銃帯を雑に巻いている。ユアは聖堂の白いヴェールをかぶり、手には祈祷書を抱えていた。


「司令官」


 三人の声が重なる。


 俺は思わず足を止めた。


「どうしてここに」


「胸騒ぎがしました」


「貴族にいじめられてないか見に来た」


「司令官の心が曇る気配がしましたので」


 最後のはもう怖い。


 父は三人を見て、静かに目を細めた。


「息子を頼む」


 その言葉に、レイナが膝をついた。


「必ずお守りします」


 リリスは拳を握り、ユアは深く頭を下げた。


 父は満足げにうなずき、侍従に支えられて去っていく。その背中は小さく、だけど俺にとってはまだ大きかった。


 残された俺に、レイナがそっと外套を掛けた。


「顔色が悪いです。今日は帰って休んでください」


「俺の家まで送るだけだぞ。泊まるのは禁止」


 リリスが露骨に不満そうな顔をした。


「ちぇっ。あたしの兵舎より司令官の家のほうが落ち着くのに」


「俺は落ち着かない」


「では、私は聖堂で司令官の無事を祈ります。朝まで」


「寝てくれ」


「私は宿舎に戻ります。ただし、窓の外に異常があれば即座に駆けつけます」


「異常がなくても来そうだな」


 三人は否定しなかった。


 夕暮れの道を、俺たちはゆっくり歩く。彼女たちにはそれぞれ帰る場所がある。俺には一人で暮らす小さな家がある。


 けれど、歩幅を合わせてくれる足音が三つあるだけで、帰り道は少しだけ怖くなくなった。


 明日にはまた、盤上で誰かの悪意と命を相手にする。


 それでも今だけは、司令官としてではなく、ただ弱い一人の人間として、沈む夕日を見ていた。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

このお話が少しでも面白いと感じていただけたら、ぜひ「♡いいね」や「ブックマーク」をしていただけると嬉しいです。

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