プロローグ
迫り来る魔獣の群れは、黒い津波に似ていた。
王都北門の外、焦土と化した平原を埋め尽くす影。牙、爪、角、腐った翼。どれも一体で村を潰せる災厄級だ。それが数千。冗談みたいな絶望だった。
そして、その絶望を前にしている俺は、剣も持てなければ銃の反動にも耐えられない。魔法だって通信魔法を維持するのが精一杯。リリスやユアはもちろん、補給兵の少女より腕力がない。
なのに、俺は司令官と呼ばれている。
「ユア! 右へ跳べ! 三秒後に地面が割れる!」
「分かりました、司令官!」
聖女ユアの白い外套が、砕けた大地の上を滑る。直後、彼女がいた場所から黒い棘が噴き上がった。避け損ねれば串刺しだった。俺の喉がひゅっと鳴る。指示を出したくせに、一番震えているのは俺だった。
「リリス、魔獣の先頭じゃない。奥の二列目、左から四体目を撃て。群れを繋いでる魔石持ちだ」
「了解、司令官! そういう細かいの、ほんと気持ち悪いくらい当たるんだから!」
リリスが双銃を構え、魔力弾を連射する。蒼い弾丸が風を裂き、巨獣の群れの隙間を縫って、奥に潜んでいた黒い山羊頭の魔獣を撃ち抜いた。
次の瞬間、魔獣の隊列が乱れた。
俺は安堵する暇もなく、机上に広げた魔導盤を睨む。赤い光点が敵。青い光点が味方。赤は多すぎて盤面を侵食し、青は三つしかない。
ユア。リリス。そして、二人のリーダーであるレイナ。
銀灰色の髪を後ろで束ねた、氷みたいに冷たい目をした女騎士。銃剣と魔導長銃を使う遊撃隊長で、王国軍でも五本の指に入る実力者らしい。俺なんか、たぶん彼女の小指一本で床に転がされる。
「司令官。次の指示を」
通信越しのレイナの声は、戦場のど真ん中でも乱れない。クールで、淡々としていて、怖いくらい頼もしい。
「北西の丘に誘導してくれ。そこに古い水脈がある。ユアの聖魔法で地盤を緩めて、リリスが魔力弾を撃ち込めば、足場ごと崩せる」
「承知しました。さすがです、司令官」
その声だけ、少し甘かった。
俺は思わず耳を疑う。いや、今のは戦術への評価だ。たぶん。そう思おうとしたのに、レイナは続けた。
「あなたの指示は、私の命より重い。どうか最後まで、私を使ってください」
「い、命を軽くするな! 全員生きて戻るのが命令だ!」
「……はい。そういうところも、お慕いしています」
戦場で何を言っているんだ、この人は。
だが、頬を熱くしている余裕はない。魔導盤の赤が一気に広がる。統率を失ったはずの魔獣が、別方向から再編し始めていた。奥にもう一体、指揮個体がいる。
俺は息を呑む。指が震える。怖い。逃げたい。俺は元々、部屋から出るのも怖かった人間だ。前世では誰かに命令するどころか、コンビニの店員に声をかけることすら苦手だった。
それでも、今は俺の判断が三人を生かす。
「リリス、弾は残ってるか」
「ほぼ空! でも司令官が撃てって言うなら撃つ!」
「ユア、祈りは?」
「大規模浄化は一度だけです。ですが、司令官のためなら――」
「俺のためじゃなくて、生き残るために使ってくれ!」
二人の返事に、胸の奥が痛くなる。重い。信頼が重い。好意もたぶん重い。けれど、その重さに潰されている場合じゃない。
俺は盤面の赤い流れを見た。魔獣は本能で動いているようで、実際には恐怖を避けて進む。炎を嫌い、聖域を避け、血の匂いに集まる。なら、道を作ればいい。
「レイナ、俺を囮にする」
通信の向こうが、凍った。
「却下します」
「聞いてくれ。北門の上に俺が立つ。通信魔法の魔力波を最大にすれば、指揮個体は俺を司令塔だと認識するはずだ。魔獣を門前に引きつける。その瞬間、ユアが浄化、リリスが水脈を撃つ。レイナは俺の回収」
「却下します。司令官が傷つく作戦は、作戦ではありません」
「俺は非戦闘員だ。だから前に出ない。でも、盤上の駒として必要なら使う。司令官って、そういう役目だろ」
しばらく沈黙があった。
やがてレイナが、低く息を吐いた。
「……あなたは本当に、残酷な人です。私があなたを失えば壊れると、分かっていて命じるのですね」
「壊れるな。命令だ」
「はい。ならば必ず、お守りします」
俺は北門の胸壁に立った。足が震える。眼下では魔獣の群れが唸り、腐った熱気が壁の上まで這い上がってくる。正直、漏らさないだけ褒めてほしい。
通信魔法の出力を上げると、頭蓋の内側を針で刺されたような痛みが走った。魔獣たちの視線が、一斉に俺へ向く。
死ぬほど怖い。
でも、見えた。
「今だ! ユア!」
「聖光よ、道を閉ざして!」
白銀の光が平原を包む。魔獣の脚が鈍り、腐肉が焼ける匂いが風に混ざった。
「リリス、撃て!」
「ぶち抜けぇぇぇ!」
最後の魔力弾が丘陵の底を貫いた。眠っていた水脈が爆ぜ、泥と水と岩盤が魔獣の群れを呑み込んでいく。黒い津波は、今度こそ本物の濁流に押し流された。
膝から力が抜ける。落ちる、と思った瞬間、冷たい腕が俺の腰を抱いた。
「捕まえました、司令官」
レイナだった。返り血ひとつ浴びていない顔で、けれど目だけはひどく熱い。
「無事、か?」
「はい。リリスもユアも生存。作戦は成功です」
その報告を聞いた瞬間、俺はへなへなと座り込んだ。情けない。英雄どころか、ただの腰抜けだ。
それなのにレイナは膝をつき、俺の震える手を両手で包んだ。
「あなたは剣を振るえない。銃も撃てない。魔獣一体、素手では倒せない」
「改めて言われると傷つくな……」
「ですが、私たちはあなたなしでは勝てません。だからどうか、これからも私たちの司令官でいてください」
リリスとユアも駆け寄ってくる。二人とも泥だらけで、傷だらけで、それでも笑っていた。
「司令官、次はもうちょっと安全な作戦にしてよね!」
「司令官が無事で、本当によかったです」
三人の視線が、俺だけに向いている。
俺の名前を――エイジの名を、彼女たちは知らない。知っているのは、司令官という役割だけだ。
けれど今は、それでよかった。
俺は震える指を握り込み、まだ煙る戦場を見下ろした。
「全員、帰還する。これは命令だ」
三人は同時に頷いた。
その表情があまりにも優しくて、俺は少しだけ、この世界で生きていける気がした。
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