1話
夕暮れ時、川沿いの桜並木を抜けて、最後の曲がり角――そこが俺の家だ。いつものように自転車を漕ぎながら、頭の中は明日のテスト範囲でいっぱいだった。
担任の山田は「これは中間の予行演習だからな」とか言ってたけど、予行って時期でも量でもない。ため息をつきつつもペダルを踏む足には力が入った。
そんな時、視界の端を白いものが横切った。ハトか何かかと思った瞬間、鋭いクラクションが鼓膜をえぐる。「うそ」と声が出るより早く、世界がスローモーションになった。左前方から迫る大型トラック。運転席の男の顔は見えない。ブレーキ音すら聞こえない。道路脇に逃げ場はない。反射的にハンドルを切る。タイヤが砂利を噛んだ感触。次の瞬間、衝撃――いや、音も痛みもなかった。ただふわりと身体が浮き、景色が遠ざかり、真っ暗になった。
……俺は死んだんだ、と理解したのは、体感では一秒後。けれど現実時間ではどれほど経っていたのだろう。目を開けると、真っ白な空間に立っていた。地面も空もない。立っているのか浮いているのかさえ曖昧だ。
不意に背後で拍手のような音がした。振り向くと、そこにいたのは小柄な老人――というより、老人のように見える“存在”だった。髪も髭もなく、性別も年齢も判別できない顔。服装はゆったりした白い布。神々しいとか恐ろしいとかいう以前に、なんだか教師に似た威厳があった。彼(便宜上そう呼ぶ)は穏やかな声で言った。
「君は選ばれた。異世界へ行く資格を得たのだ」
唐突すぎて笑う余裕すらない。異世界? ラノベ? 夢? 私が口を開く前に、老人は続けた。
「向こうでの名はクルト。魔法があり、剣があり、国家間の争いもある世界だ」
待って、と言おうとしたが声が出ない。老人はまるで説明を終えた教師のように満足げに頷き、指を鳴らした。足元に光の輪が広がる。強制送還ムービーみたいに視界が歪み、重力がねじれる感覚とともに、俺の意識は再び闇へ沈んだ。
■
耳の奥で鼓動のような振動を感じ、次いで暖かいほのかに生臭い匂い――そんな錯覚が頭をよぎった。だが実際に鼻腔をくすぐったのは消毒液の臭いと、機械の低い稼働音だった。
ここはどこだ? まぶたを持ち上げると、蛍光灯の眩しさが瞳孔を刺した。天井には見慣れない円形のセンサーがいくつも並んでいる。白衣の人影が忙しなく行き交い、誰かが
「血圧安定」「体温三十六・五」と叫んでいた。どうやら病院らしい。
しかし視点がおかしい。腕を見下ろす。小さな五本の指。ぷくぷくとした甲。四肢が、というか身体が小さすぎる。――まさか赤ん坊!?
「オギャア!?」
突如、自分の喉からそんな悲鳴が漏れた。驚いてさらに泣き声をあげてしまう。すると看護師らしき女性が駆け寄り、抱き上げた。柔らかい匂いと人肌の温もり。反射的に首がすわらないことが分かり、背筋が凍る。本当に乳児になっている!
診察室に移されると、老齢の医師が俺の目を覗き込んだ。
「瞳孔反応良好。健康優良児ですね」
隣で若い医師がカルテに書き込む。「出生体重三千二百グラム、母子ともに問題なし」という単語が聞こえる。母子――俺には母親がいるのか。いや居るか、普通いる。出なければ俺は何なのか?そこから考え直さなければならない。
カーテンが開き、痩せ型の女性がベッドから身を起こした。栗色のショートヘア、エメラルドグリーンの瞳。額に汗を浮かべながら微笑み、俺を見つめる。言葉は分からないが、表情だけで愛情が伝わってきた。
医師が何か話しかけると、母さんは小さく頷き、そして――口を開いた。
「クルト……あなたはクルトよ」
意味が分かった。あの老人の言葉通り、俺は“クルト”として第二の人生を始めたのだ。
その夜、初めて眠りにつく直前、俺は覚悟を決めた。もう戻れないなら、この世界で生き延びてやる。魔法も剣も知らないが、泣き声一つで周囲を騒がせて看護師を動かせる無敵の赤子ステージから始めようじゃないか。そう思ったら急に瞼が重くなり、意識はゆっくり溶けていった。
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