最終話
翌朝、芯は初めて寝坊をした。
こんなに深い眠りは、両親が亡くなってから初めてだった。小さい物音でも起きてしまうので、朝までノンストップで眠ったのは、久しぶりだった。よく眠るとこんなに疲れが取れるものなんだと驚きを覚えた。
芯は手を伸ばし、スマホの画面を見た。
「やべ、寝坊した」
身体から布団を大きく剥がし、芯は飛び起きた。
芯がキッチンに駆け込むと、なんとそこには花柄のエプロンをつけて、朝食を作っている雪の姿があった。
これも初めてのことだった。昨日から初めてのことが多い。
雪が照れくさそうに言った。
「ごはんできてるから」
「お前が作ったの?」
テーブルの上には、黒い塊が積まれている。
あれはまさか?
「ちょっと焦げちゃったけど、味はいいんだからね」
そう言う雪の顔は、少し不安げに見えた。
「朝ごはん食べないと頭働かねーんだぞ」
雪が笑いながら言った。
その台詞は俺のだぞと思いながら、芯は卵焼きを口に入れた。
――辛い。
「どう?」
雪が心配そうに聞いてきたので、芯は、「辛すぎる」と、正直に伝えた。そして、お茶をゴクゴクと一気に飲み干した。
雪はムッとした表情を浮かべながら、「辛いわけないよ」と言いながら、卵焼きを口に入れた。
「なにこれ」
雪が顔を顰めた。そして、調味料を確認するように見た。
「……砂糖と塩、間違えたかも」
雪もお茶をゴクゴクと一気に飲んだ。その姿があまりにも可愛らしくて、芯は笑顔になった。
「なによ」
「美味かったよ」
「嘘ばっか。必死でお茶飲んでたじゃん」
「でも、美味かった」
辛くても甘くても、そこに確かな愛情が入っていれば、それは芯にとって美味しいに値するのだ。
「やばい、遅刻する」
雪が、花柄のエプロンを剥がすように脱ぎ捨てた。そして、辛い卵焼きをテーブルの上に残したまま、部屋を出て行こうとした。
ドアの前で、雪が立ち止まり、芯の方にくるっと振り向いた。
「祥子さんって、お兄ちゃんの彼女?」
唐突に聞かれ、芯は金魚のように口をパクパクさせながら、しどろもどろで答えた。
「いや、彼女っていうか、なんていうか、俺にはもったいない人で」
「今度、祥子さん誘って、みんなで花見行こうよ」
動揺している芯を面白そうに見ながら、雪が言った。
「えっ」
「あたしは、卓也誘うからさ」
その言葉だけ言い残し、雪が部屋から出ていった。
「えっ?卓也って誰だ?雪、おい雪」
出ていく雪の背中に、芯は必死で疑問を投げかけたが、すぐに気づいた。
――ああ、こうやって幼き妹は大人になり、自分の手元から旅立っていくのだ。
寂しい気持ちと共に、誇らしい気持ちになった。そのうち、誇らしさだけになることもわかっていた。
芯は、雪が脱ぎ捨てていった花柄のエプロンをつけ、お弁当を作り始めた。
学校に届けにいったら、また怒られるんだろうな。それでも俺は、雪にお弁当を届けに行くだろう。だって雪は、俺の大切な妹だから。
卵を溶き、スプーンいっぱいの砂糖を入れようとして、芯の手が止まった。
そして、スプーンの中の砂糖を半分に減らし、卵焼きを焼き始めた。
甘い卵焼きは、もう焼かない。
おわり




