トイレの個室で
会社員の松村は、出張で地方都市の古いビジネスホテルに宿泊した。
安価なだけあって設備は年季が入っており、廊下には薄暗い照明が点るだけだ。
チェックインを済ませた松村は、部屋に入る前にロビー近くのトイレを使うことにした。
そのトイレは二つの個室が並ぶだけの造りで、手洗い場も小さい。
松村が入ると、隣の個室から紙を引く音がした。
気配はあるのに、靴音は聞こえない。
用を足しながら、なんとなく耳を澄ますと、紙の音が止まり、代わりに低い声が聞こえた。
「……ねぇ」
松村は反射的に息を止めた。
隣からの声は、壁越しなのにやけに近く響く。
「……そっち、ひとり?」
無視しようとしたが、足元に何かが落ちてきた。
それはトイレットペーパーの芯で、内側に小さな文字がびっしりと書かれていた。
「返事をしたら、開く」
鳥肌が立ち、松村は芯を蹴り返すように遠ざけた。
しかし次の瞬間、隣の個室の仕切り板の下から、白く細長い指がすっと伸びてきた。
関節が異様に多く、くねくねと動いている。
その指先が床を這い、自分の靴先に触れた瞬間、冷たい感触が全身を走った。
思わずドアを開けて飛び出したが、隣の個室は空だった。
床も便器も乾いており、人がいた形跡はない。
だが天井の隅から、ぽたり、と水滴が落ちた。
見上げると、通気口の奥で、青白い顔が逆さまにこちらを覗いていた。
松村は背を向け、廊下に飛び出し、部屋に駆け込んだ。
ドアを閉めて鍵をかけ、深呼吸する。
だが、すぐに気づく。
さっき入った部屋のトイレのドアが、少しだけ開いている。
その隙間から、同じ低い声が囁いた。
「……今度は、こっちに入って」