百年後
久しぶりの森の外は、思いの外晴れていた。森の、木漏れ日が届かない所にいたせいだろうが、日光が目に痛い。黒いからには、光に強く作って欲しいものだが、そうもいかないらしい。変わりといってはなんだが、狐らしく、夜闇で見渡しやすい目は自慢だ。
森の外の集落に用があって来てみたが、様子がすっかり変わっていた。…まぁ、当たり前ではあるか。野干の寿命は、大体人間と同じくらい。百年も経てば、集落の狐は、ガラリと変わるはずだ。
「…極力、人に会わずに済ませたい…」
そう呟く狐は、真っ黒な毛並みをしていた。
――――――――――
「…おや、珍しいお客様だ。黒孤だなんて」
「薬を買いたい。野兎と交換で」
「そりゃいい取引だ。今後とも、是非お願いしたいね」
そう言って薬草を差し出す、髭を蓄えた人間に化けた狐は、野干だろうか?化けるのが得意で無いらしく、可愛らしい耳と尻尾を、忙しなく動かしていた。
一方、黒孤の変化は完璧だった。薬屋の前に立っていたのは、気孤から成長し、阿紫霊となった黒孤だった。見た目は高校生程だろう。黒髪黒目の青年は、人間と比べられても分からない化け具合だった。
「…でも、こんなに沢山薬を買って、どうするんだい?この薬は、すぐ使わねぇと駄目になっちまうよ?」
「ああ。すぐに必要なんだ」
「そりゃ大変だな…。だが、あんたは怪我してる様に見えねぇよ?」
これは面倒くさいと、黒孤は思った。この手の話は長引くと、昔の寺子屋の記憶が呼びかけてくる。
「…もう、いいか?急いでいるんだ」
「ああ、すまねぇな。また来てくれよ!!」
実際急いでいたし、嘘は言っていなかった。また来てくれよ、には、何も返さず、黒孤は人間の姿のまま走り去った。
森に入って、黒髪黒目の青年がいた場所に現れたのは、綺麗な毛艶をした、真っ黒な狐だった。薬を口にくわえた彼は、風のような速さで住処へと走っていく。極力狐にも、狸にも、ましては人間にも会わないために、獣道も通らず、木々の間を縫うようにして走り去る。
彼の住処は、ちいさな洞窟だった。木々に隠れ、そこにあると分かっていなければ中々見つけるのは困難なそこは、まるで秘密基地だ。黒孤がその秘密基地に入ると…。誰かが、横たわっていた。
「薬を持ってきた。動かすぞ」
「…要らない。薬がもったいない」
「そんな重傷で喋れるなら、動かしても問題ないな。あと、薬が苦くて飲みたくないは、要らないじゃない」
「そんなんじゃ無いって…」
横たわっていたのは、真っ赤な狐だった。…が、何処か様子がおかしい。真っ赤は真っ赤なのだが…。…あれは、血の赤色であった。全身を覆うように血液が流れ出し、横たわる狐の元の毛の色が分からないのである。
黒孤は素早く人間に化けると、横たわる狐を少し動かし、薬を口へと運んだ。横たわる狐は少し抵抗したが、力があまり残っていないのだろう。最後にはすんなりと、薬を受け入れた。
「…お前、どうやったらそんな怪我をするんだ?」
「…。同僚と喧嘩した」
「で、こてんぱんにやられたと」
「いいや?同僚には勝った。けど、その上司が怒ってね。法術でやられたんだよ」
「…!?法術って…!お前、相当上位の存在に嫌われたな…」
厄介なものを拾ったかもしれないと、黒孤は思った。…と、いうのも、この真っ赤な狐は、黒孤が住処に運んできたのである。
住んでいるところの前で何かが死にかけているのが嫌なのは、人間だけではない。黒孤もまた、住処の近くで息も絶え絶えだった狐を、見殺しには出来なかった。とはいえ、全身から吹き出るように血を流す狐が復活するとは思っておらず、せめて楽に逝けるようにと、住処へ運んだのである。
「…数刻でくたばると思ってたのに、数日経っても生きてるからな…驚いた。お前、何者だ?」
「…へぇ…。正体を知ってて助けたわけじゃないんだね」
「そんなに有名な奴なのか、お前」
赤い狐はクックックと喉で笑うと、スウスウと寝息を立てて眠ってしまった。黒孤も、そんな赤い狐にため息をついて、横になる。
数日も経てば血は止まりそうだが、赤い狐の血はまだ所々流れていた。法術でやられたと言っていたし、まだまだ止血に時間がかかるのかもしれない。暫くすると、黒孤の寝息も聞こえてきた。
――――――――――
それから、数日が経過した時の事だった。
「黒。この辺りに、川って無い?」
「…有るには有るが…。お前もしかして、黒って俺の事か?」
「黒孤だから黒。妥当でしょ?」
「…。百歩譲って俺が黒なのはいいとして…。川の場所聞いてどうするつもりだ?」
真っ赤な狐は、幾分か止血が始まったようで、以前よりも生き生きとした様子になっていた。…とはいえ、血は完全には止まっておらず、まだ腕や腹からタラタラと血が流れ続けている。よく失血死しないな、というのが、黒孤の意見である。
「勿論、水浴びに行くんだよ」
「却下。死ぬぞ」
「…この体に付いた血を落としたいんだよぉ…」
「まだ体力が回復していないのに、冷たい川に浸かってみろ。お前が失血死しないのはなんとなく分かったが、凍死しないかは知らないからな」
「大丈夫大丈夫!!死なない死なない!!」
そう言って赤い狐は、勢いよく立ち上がり…。…血が足りないせいだろう、勢いよくふらついた。黒孤が支えなければ、倒れていただろう。
「…助けたのに死なれると、寝覚が悪い。大人しくしてろ」
「ヤダヤダヤダ!!水浴び行くぅ!!」
「お前本当、口だけ元気だよな」
これ以上言っても、暖簾に腕押しだと気がついたのだろう。はぁ、と黒孤はため息をつくと、人間の姿になって言った。
「…川は、人間の住処から近い。どうしても行くなら、人間の姿になって行くぞ」
これで諦めるだろう、と、黒孤は思った。赤い狐は、血が足りていない。二足歩行なんて、出来るはずがない。
それに、赤い狐の言う事も一理あった。乾いた血のついたままで過ごすのは、中々に辛いだろう。人間になって歩けたら、なんて無理な条件を聞ける程に回復しているなら、冷たい川に浸かっても、まぁ…死なない…かな?不安しか無いが。
「肩貸して」
「却下。自分で歩け」
さっそく人間の姿になった赤い狐は、頭から血を被った様な姿をしていた。頬についた血は乾き、パラパラと落ちようとしている。着物も赤く血に濡れ、ペタペタと音を立てている。
肩を貸して、という願いを却下されてしまった赤い狐は、暫く迷った様子を見せたが、ゆっくりと壁に捕まり立ち上がった。足元はふらつき、立ち上がっただけというのに肩で息をしている。…そもそも狐は、化けるのにだって体力を使うのだ。貧血の今、化けてトコトコ歩き回るのは得策ではない。…なのにこんなに水浴びに執着があるとは…。黒孤は暫し考えたが、ふぅ、と息を吐くと、掴まれ、と言って肩を差し出した。
「やっさし〜!!ありがとう、黒!!」
「…仕方なく、仕方なく肩は貸す…が、本当に死んでも知らないからな」
「大丈夫大丈夫!本当に死なないから!」
何処か調子に乗った様子でグーサインをだす赤い狐に、黒孤は2度目のため息をついた。
川までの道は、森の中にしては比較的平坦だ。赤い狐を背負いながら歩いてもよかったが、そこまでやる義理は無いため、やめた。次第に黒孤に寄りかかってくる赤い狐を支えながら、ようやっと2人は川へとたどり着いた。
「…本当に、大丈夫か?このまま帰ることも出来るが…」
「…だい、じょうぶ…。一寸疲れたけど、まぁ死にはしないし…」
「…無理だけはするなよ」
そんな会話をしながら、赤い狐は川の浅瀬に浸かった。みるみるうちに、川の水が赤く染まっていく。
川のはるか上流には、人の気配が有るが、この遠さならば大丈夫だろう。黒孤は人影を注意深く見ながら、同時に、赤い狐を見守っていた。
ふぅ、と、一息ついた赤い狐は、上流の、まだ血で染まっていない水をひと掬いすると、コクリと飲み干した。そして…。
そして、黒孤が一瞬目を離した隙に、淵へと飛び込んだ…!!
「っ馬鹿!!なにやってんだ!!」
沈み、頭も見えなくなった赤い狐に向かって、黒孤は叫んだ。ぷくぷくと淵の水がたち、血の赤が水に広がっていく。黒孤は急いで、赤い狐が沈んだ場所へと泳ごうとした。…が、しかし、そこへ向かう流れは中々に速い。赤い狐の何処にそんな力があったのか、不思議に思える程だ。
黒孤は、あまり泳いだ事が無いため、人間の姿では泳ぎにくくて仕方が無い。しかし、目の前で助けた狐に死なれても、寝覚が悪くて仕方が無い。必死に足掻くように泳ぐが、一向に届く気配が無かった。…ああ、水浴びになんて連れて来なければ良かった。なんて考えたが、後の祭り。やっとの事で足の届く所へ戻ると、まだ赤々としている水を眺めながら、本日何度目か分からないため息をついた。
…が、驚いたのはここからだった。
なんと、赤い狐は水面に上がってきたのだ。真っ赤だった髪を、真っ白に変えて…!!
血が落ちた事で、本来の毛色が戻ったのだろう。…に、しても、見事な白色であった。赤い目に映える、純白の髪。血で分からなかったが、彼も、中々に高位の狐なのだろう。乾いた血に塗れていた頬は人形のように白く、腕は程よく筋肉が付いている事が分かる。そして、妖艶な顔を血で染まった水で濡らし、黒孤へ微笑んだ。
その後赤改白狐は、悠々と泳ぎ、浅瀬へと帰ってきた。
「ありがとう、黒。おかげでさっぱりしたよ」
「…お前、白狐だったんだな」
「うん。…あれ、言って無かったっけ?」
「俺に散々黒って言っておいて…。俺が黒なら、お前はさしずめ白ってとこか」
浅瀬へ泳ぎついた白狐の手を引き、立ち上がらせながら、黒孤は、白狐にぼやいた。そのぼやきに少し目を見開きながら、白狐は微笑んだ。見た目は丁度二十歳程のアルビノの人間そっくりなのに、それでは説明出来ぬほどの妖艶さを感じるのは、流石狐といった所だろう。
2人は暫く、着物の袖を絞ったりしていたが、狐に戻って走った方が早く乾くと思ったらしい。2人して狐の姿になると、勢いよく走り出した。
その様子を、はるか上流の人間達は、指を差しながら驚いていたとか。
――――――――――
「…そういえばお前あれ、どうやったんだ?」
「あれって?」
「急に体力が回復しただろ、あれだよ」
住処へと走りながら、黒孤は白狐へたずねた。川に着くまでは息も絶え絶えだった狐が、急に急流を泳いで行けるようになったのだ。気にならないはずが無かった。
「ああ、あれは法術の1つだよ。習得には時間がかかるけれど、出来るようになれば、水や草木から精力を吸い取れるんだ」
「そんな法術があるのか…。やっぱお前、何者なんだ?」
「黒は、人間に化ける以外の法術、何か知らないの?」
質問を質問で返された。しかも関係無い質問で…。
黒孤――黒は暫く悩んだが、無いな、と断言した。
「俺の親は仙狐だったが、俺を幼い時に捨てたからな。関わりがほぼ無かったし、化け方以外教わっていない」
「へぇ、親に捨てられたんだぁ…。僕と同じだね」
それじゃあ黒は、親以外からは法術習った事無いわけだ、と、白狐――白が笑った。黒は一瞬、白も親に捨てられた、という言葉に目を見開いたが、すぐに元に戻り、白の言葉に、ああ、と頷いた。
「んじゃあ、黒に法術を教えてあげるよ。たすけてくれたお礼に、ね」
「お前、本当に高位の狐なんだな…」
「君を仙狐に出来るくらいには、法術を知っているよ」
黒は、目を見開いて、暫く固まった。仙狐に出来るくらい、と、白は言った。つまり白は、仙狐か、それ以上の存在という事になる。…そして、そんな存在に重傷を負わせる存在も気になった。
「明日からでよければ、簡単なものから教えるよ」
「ああ、助かる」
しかし黒は、仙狐になりたかった。怪我を負わせた犯人を聞くのは、仙狐になった後でもいいか、と、後回しにしてしまったのである。
こうして、珍しい黒孤と、もっと珍しい白い狐との共同生活と、修行の日々が始まったようである。