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『迷惑な大地』 1917年~1919年       ロシア革命が失敗だったら if歴史解説

ロシア革命が成功しなかった世界をご都合主義で創ってみます。

会話極少量。

本日は06:00との2話。

1917年

ロシア、ペトログラード(現サンクトペテルブルグ)において暴動発生。

 

 大戦争と過酷な寒さによる食糧不足と帝政に対して今まで積もり積もっていた不満が、食糧不足をきっかけに暴発する。

 この2月の暴動はロシア市民革命としてロシア中を席巻し、ついにニコライ2世の退位まで波及する。

 ただし、その後はロシア国内を纏め上げることの出来る政治勢力が無く国内政治は混乱する。政治的混乱はロシアを代表する政治勢力が現れては消えという事態で推移した。レーニンもロシアに戻り地元で暗躍を始める。

 4月以降、東部戦線においてロシア軍はロシア国内の政治的混乱の影響で動くに動けず守勢となり現状維持が精一杯となった。これは東部戦線で中央同盟側戦力を引きつけておくことが出来なくなったという事態でもあった。

 連合国との折衝も誰が主体なのかわからない状態ではうまくいくわけがなく、連合国はロシアを半ば見捨てる。

 そんなロシアの外交事態に、既存勢力はボリシェヴィキが外交事態悪化要因と決めつけ排除に動く。主因はどの勢力も能力不足というのが実情なのだが、明確な敵を作ると楽が出来るのだった。8月以降、ボリシェヴィキ対既存勢力のテロルを含めた闘争が始まる。



 西部戦線では東部戦線停滞を受け一度は守勢に回ったドイツ帝国が動くと思われたが、大きな作戦行動には出なかった。戦力・物資の蓄積と国力の回復に努るためだろうと連合国は考えていた。概ね正解であった。

 西部戦線ではイギリスが攻勢に出るがドイツは東部戦線の停滞で余裕が出来た物資に支えられ作戦が成功したとは言えなかった。

 これは物資の積み上げで、イギリス主導の第3次イーベル会戦を乗り切ることが出来、戦線が動かなかった事から明らかである。

 同時期、中央同盟はロシアに対して単独講和を持ちかけたが、ロシアを代表するような政治勢力の存在が無いことからうまくいかなかった。


 この頃、度重なる要請に日本政府が折れ、ついに日本陸軍がヨーロッパに到着する。先行で4個師団、後から2個師団の6個師団であった。後にも先にもこれ以上の派兵能力は日本に無い。地球の裏側は遠すぎた。たったの6個師団であるが、戦力が尽きかけている連合軍にはありがたかった。そして中央同盟には警戒された。

 合計6個師団では、西部戦線だとすりつぶされて終わる。しかし先行4個師団は西部戦線へ。いきなり変な奴らを入れて統制がとれなくなっても困るから後方予備部隊だった。後に赴任した2個師団は面倒な地域へ回された。バルカン半島方面である。

 しかし後方予備部隊で出番は当面ないはずだったが【カンブレーの戦い】で、すぐに戦線維持のために投入された。戦線の南部に予備兵力として投入され他が押し戻される中、戦線を維持した。ただ、小さな突出部が出来てしまったために損害を防ぐ意味で後退を命じられた。

 この時の勇戦で、日本陸軍がまぐれでロシアに勝てた東洋の陸軍から少しはやる奴くらいに格上げされた。

 日本は、さらに2個師団も追加でヨーロッパに送ることになった。陸軍は行きたくなかったのだが政府が国際的な評価を気にしてのことだった。


 この時、西部戦線に投入された初期4個師団は帰国したときには3個連隊まで減っていた。バルカン半島方面での2個師団で合計損失1個連隊に比べると酷い損耗状態だった。バルカン半島は細かすぎる勢力図に連合軍司令部の命令で右往左往していた日本陸軍だったから大規模な戦闘自体が少なかった。その代わりにほぼ定位置の西部戦線に比べると、やたら移動量が多かったのであるが。


 日本海軍は派遣する護衛部隊が陸軍を護送する事態になった。この時、戦艦金剛と比叡が護送艦隊に編入されヨーロッパに派遣された。

 イギリスからは金剛と比叡の派遣が遅いと陰で言われる。


 ロシア国内では政治的には混乱とテロルが。市民には食糧不足が深刻なまま冬を迎えていた。


 それが1917年だった。




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1918年

襲撃を受け逃げていたレーニンとスターリンの運がモスクワ地下水路で尽きる。



 レーニンとスターリンが地獄に落ちた頃、スヴェルドルフとトロツキーは行動を共にしていなかったために無事だった。この後、ボリシェヴィキ内でレーニン派が「奴らが内部情報を漏らした」と言いだし騒ぎになり、ボリシェヴィキの統制が崩れる。新しい思想集団であり、暴力を肯定する集団でもある。元々レーニンの強烈なリーダーシップと過激な内部統制でまとまっていた集団だ。分裂は早かった。

 ロシア国内政治的にはボリシェヴィキ分裂でより混迷が深まった。



 一方、西部戦線であるが東部戦線の停滞により多少余裕が出来た中央同盟と言うよりもドイツ帝国による一時的な攻勢があったが、かろうじて戦線を維持できた。日本からの追加2個師団もコレに巻き込まれ、先に派遣された4個師団同様散々な目に遭っている。


 その後はアメリカ参戦による連合国側の兵力増大でドイツ帝国は戦線維持も難しくなり、相次いで後退していく。



 ドイツ帝国内で厭戦ムードが高まり、キール軍港で水兵が反乱事件を起こした。

 ドイツ帝国内は混乱し皇帝は亡命。ついに戦争が終わる。

 良かった。クリスマス前に戦争は終わった。


 戦争が終わってもロシアはまだ混乱が続いている。誰もがツァーリを目指し、そして届かない。この点は誰もが天子を目指す中原と似ていた。


 ロシアは混乱したまま年を越す。



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戦争が終わって年越しできた1919年。



 ロシアは混迷の度を深めている。ようやく商業航路が再開されたバルト海航路と黒海航路であるが、港に食料物資が届くも、遠隔地には行き渡らない。港周辺を勢力下に置く集団が確保してしまう。船会社は荷を港まで届けるだけの契約しか請け負っていない。そこから契約先に届けるのは貿易業者の仕事だった。その貿易業者が武装勢力に脅され物資を横取りされてしまう。


 政治的武装勢力が強盗になっていた。良く有ることである。


 連合国は再三にわたりロシア内各勢力に物資が正しい宛先に届くように要請するも半ば無視される。特にボリシェヴィキは勢力が分裂して弱くなったとはいえまだまだ力を持っていて、自分の勢力下のみに横取りした物資を届けようとする。

 その事態に貿易業者のみならず物資の届かないロシア各地から悲鳴が上がり、連合国(国際連盟になりかけ)になんとかしてくれと頼み込んだ。 

 特にロシア奥地からの要請は交渉のために人が出てくるだけでも必死の行為であり、悲壮感が溢れていた。


 問題は連合国もまた大きく疲弊しており、全期間参戦国には余力が無かった。余裕があったのは中途参戦国でも国力の大きいアメリカと日本だけである。


 ロシア国内は1917年夏から三竦さんすくみどころか六竦み八竦みとかの状態で、軍内部も割れ小競り合いが続いている。そんな状態なので国内統治が機能するわけも無く、連合国側はロシア帝国が借り入れた借金をちらつかせながら日米による監視団受け入れを迫り、ほとんどの勢力が受け入れたのが1919年夏。ボリシェヴィキでさえもだ。ロシア掌握後に来るのは借金返済の催促である。少しでも猶予を受けるには連合国の顔色を伺うしかない。

 交渉の末、アメリカと日本が各種物資の行き先監視任務を請け負うことになる。

 監視だけならいいが、確実に武装勢力との交戦が予想された。

 この時、アメリカはまだ正義という言葉の道具を振り回し、その言葉に酔いしれていた。日本は大陸の奥深さを知っており面倒としか考えていない。

 まだ日本陸軍はヨーロッパ派遣部隊の一部、バルカン方面部隊が残っておりその中からロシア語の達者な将校と監視任務実行部隊を抽出。残って監視任務に就かされる事になる。

 残置部隊となった者はたまらない。



 日米の監視団による警戒で物資が9割近く届くようになり市民はほっとした。横取りしていた陣営は歯ぎしりをしているが違法行為であり、市民は誰も味方をしてくれない。それどころか日米監視団を歓迎しさえもする。

 少しすると、横取りしていた陣営と横流ししてあぶく銭をかすめ取っていた連中が手を組み、なんとか日米監視団の裏をかこうとする。

 日米監視団は現地統治機関に取り締まりを強化するよう申し入れるが、その現地統治機関の職員が裏社会や政治集団と手を組んで横流しをしていたりするので始末が悪い。

 日米監視団は始めの頃、警告や逮捕ですませていたが盗賊行為がエスカレートするにつれて監視団も強硬姿勢をとるようになっていく。

 発砲である。港湾地帯に時折銃声が響くようになってきた。



 最初に強盗団と大規模な交戦が起こったのは黒海沿岸の港湾都市オデッサだった。港湾倉庫に押し入ってきた強盗団と警邏中の日本陸軍が衝突。強盗団と言っても兵隊上がりも多く戦時中に流れた武器・弾薬により武装は強力だった。日本陸軍は強盗団を壊滅させたものの、死傷者8名という損害を出してしまう。

 次はサンクトペテルブルグだった。米軍監視団である。同じような展開だったが盗賊団の正体はボリシェヴィキが主力だった。ここにアメリカ軍は共産主義は(クソ)と文書にこそ載せないが現場は思うようになる。


 ロシア地域の安定は大戦争終結後の速やかに片付けるべき問題になっている。元は大国だった国が不安定要因になっており、周辺国家からは速やかに安定してほしいと切に願われている。現状混乱しているオスマン帝国でさえもだ。 

 ここで国際連盟によりロシア分割案が発生した。元々は征服・併合で大きくなった国である。征服・併合されて今も独立運動がある地域を元の国に戻そうと考えた。混乱は収まるのではないかという理由で。

 勿論、自分たちのことは都合良く除いている。


 

ポーランドは、ドイツ帝国とロシア帝国に分割されていたが、統一国家として再生。

ベラルーシは、ベラルーシ共和国として独立。政治的にボリシェヴィキ排除がされている。

バルト3国とフィンランドは、独立を回復した。

ウクライナも独立を回復した。

グルジアも独立を国際連盟に申請し認められる。

アルメニアも独立を国際連盟に申請し認められる。

アゼルバイジャンも独立を国際連盟に申請し認められる。

カザフスタンは国際連盟から独立を勧められ独立を果たした。

ウズベキスタンも国際連盟から独立を勧められ独立を果たした。

トルクメニスタンも国際連盟から独立を勧められ独立を果たした。


 問題はスタン3国とアゼルバイジャン住民の大部分がムスリムであり、イスラム圏の独立国家が拡大してしまうことだった。これについてイスラム圏に多数の植民地を持つイギリスは対策に頭を悩ませることになる。1923年のことだった。


 同時期、オスマン帝国に大規模な政変が起きた。帝政が廃止され皇帝が海外亡命をすることとなった。

 オスマン帝国も分割し小さくされることになる。国名はトルコとなった。



 戦後処理においてドイツは概ね恭順を示している。スカパ・フローで一部の士官が自沈すべしと騒いだが、恥をさらすなと仲間から制圧された。

 日本海軍も戦艦2隻を手に入れている。他にも巡洋艦2隻と駆逐艦3隻が手に入った。

 日本としてドイツの技術は欲しかった。自由に入手できる機会があるのだ。逃しはしない。戦後処理においてドイツ国内の産業資産を人、物、問わず入手することに奔走した。


最後の3行が後に響くはず。

革命軍に捕らわれたチェコ軍団という事件が無いので、日米ともシベリア進駐はありません。

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