イベントというよりアクシデント
すると、前方から、馬車の音が聞こえてきた。しかも、我が家の馬車と並んで停まる。
「誰でしょう? 怖いです」
怯えるアン。私は、座ったその場から、隣の馬車を透かし見た。シンプルな窓枠が見えた。同じような大きさの馬車だろう、ということしかわからない。
窓に張り付けば、全体から他の情報を読み取れたかもしれないが、扉に近付く気になれなかった。
「いざとなったら、アンだけでも逃げて、助けを呼んで」
「そんな。お嬢様を置いて、私だけ逃げられません」
「それが、一番助かる可能性が高いんだってば」
この場へ連れてきたジョセフは頼れない。貴族令嬢と侍女が二人揃ったところで、敵を倒す力が発現する訳でもない。アンの言い分は理解できるが、このままでは主従共倒れだ。
コツ、コツ。
馬車の窓が叩かれた。御者席ではなく、扉の方だ。
内側から引っ張って抵抗する間もなく、あっさりと開いた向こうには、互いの扉を壁のようにして繋いだ隣の馬車があった。
中から顔を出したのは、ウィリアム=フリチラリア王太子である。
「この程度の隙間なら、飛び越えられますよね。それとも、私がそちらへ移りましょうか?」
扉で繋がったように見えても、馬車の間に床はない。外出用のドレスと靴で、飛び移れる距離ではなかった。
いつも乗り降りする際に、御者や従者が出すステップもない。
私が飛び移るのは、論外である。そして王太子とはいえ、男を馬車へ引き入れるのも、嫌だった。
「如何なるご用件で、このような場所へ呼び出されたのでしょうか?」
お前が、こんな辺鄙な場所へ連れ出したのが悪い、と念を込めて言った。
「ご令嬢に、無理を言いました。移りますから、奥へ行ってください」
王太子は、言い終わる前に、ジャンプして馬車へ乗り込んできた。
私の込めた念が通じたのだろうか。
彼の着地した衝撃で車体が揺れ、最初から目一杯奥に引っ込んでいた私と、ぶつかりそうになった。
「お怪我はありませんか」
礼儀上言うべきセリフが自動的に口から出た。あいにく、棒読みになってしまった。
「ははっ。セドリック、今のを聞いたか?」
王太子が振り向く。我が家の馬車へ、さらにもう一人の男子が乗り込んでくるところだった。
セドリック=カンパニュラ、王太子の侍従だ。ゲームでは名前の出ないモブ扱いだったが、王太子の側近に選ばれるだけあって、家柄も良く、見た目もまずまずである。
「聞きました。アプリコット男爵令嬢、このような呼び出しに応じてくださり、感謝します。主人に代わり、失礼をお詫びします」
そして、モブは紳士的であった。どうせ結婚するなら、彼の方が良い。どのみち男爵家の私には高望みだが。
「いいえ。実を申しますと、只今、殿下のお姿を目にいたしますまで、不逞の輩に拐かされたかと思い込んでおりました。御者が不手際をいたしまして、こちらこそ失礼しました」
それより、王太子に呼び出されたなんて、聞いていないんだけど。という意味である。王太子は、すぐに私の本音を読み取った。
「とんでもない。貴家の御者は、私の頼みを聞き入れただけです。人目を避けたかったものですから」
(惚けちゃって。御者は、こちらの指示に従っただけだよ。何の用かは、わかっているだろ)
聞こえてくるくる王太子の本音。
「左様にございますか」
(いや。わかんないです)
「先ほど、図書館にて、成人男性室の辺りで、お見かけしましたね」
(十八禁エロコーナーから出てきたところを見たじゃないか)
んんん? 聞き違いだろうか。
自分から、弱みを曝け出すとは、自棄にでもなったか。隣でアンが、目を丸くしている。
私の解釈は、正しいようだ。
「あら、あの厳重な一角は、稀覯本保管庫と思い込んでおりましたわ。殿下には早々とご機嫌麗しく、欣快に存じます」
(あれって、エロコーナーだったのね。激レア本の管理室かと思っていたわよ。王太子、エロに目覚めたってこと。ふっ)
王太子の表情が、ほんの僅かに、崩れた。ちょっと意地悪し過ぎただろうか。
勝利の高揚と、やり過ぎたかとの後悔で、心臓がドキドキする。
「稀覯本の保管場所には、違いありません。ですから、出入りを制限し、内容を知る者も限られ、漏洩の罪を非常に重く定めております。国家の屋台骨を揺るがす事態にならないとは、言い切れません」
(くそっ。そういうことにしておけばよかった。どっちにしても、言いふらすんじゃないぞ。王家の力でお前の家を潰すことなんか、簡単にできるんだからな)
動揺から、王太子が脅しをかけてきた。怖い気持ちもあるが、脅しに屈しても良いことはないのだ。
私の中に、メラメラと対抗心が燃え上がる。
「確かに、支えが緩んでは、どのような家も建ちませんわね。私、勉学の必要から図書館へ行きましたけれども、その余のことは目にも留まらず、関心もございませんわ」
(そのちっぽけな男爵家に寄付をお願いしたのは、どこのどなたかしら。いちいちあんたの行動なんか吹聴しないわよ。興味ないもんね)
「何?」
王太子が顔色を変えた。私はわざとらしく、口を押さえてみせた。
すかさず、セドリックが間に入った。
ピィーッ。試合終了のホイッスルが鳴る。私の頭の中だけで。
「殿下。アプリコット嬢は、殿下のご要望に沿われるご意向です。ご心配は不要かと思われます」
「カンパニュラ様の仰る通りですわ」
そして私は口を閉じた。用は済んだのだから、とっとと帰って欲しい。これ以上喋ると、本気で罰せられそうな気がした。
これだから、自分の馬車に他人を引き入れたくなかったのだ。こちらが相手の陣地に乗り込んでいたなら、さっさと引き上げることもできたのに。
馬車の中に、変な沈黙が流れた。王太子が帰らないせいである。
「殿下。そろそろ帰城しないと、お時間が」
セドリックが促した。優秀な側近だ。
王太子は、我に返ったようで、急にいつもの笑顔を取り戻した。私には、胡散臭く感じられたけれど。
「アプリコット嬢の配慮に感謝します。では、次は王宮で会いましょう」
もしかして、婚約者候補の交流会で、仕返しされるのだろうか。
ちょっとした爆弾を置き土産に、王太子は自分の馬車へと戻った。セドリックが、後を追い、馬車から降りたところで、振り向いた。
「お時間をいただき、ありがとうございました。重ねて心苦しいのですが、我々が立ち去った後、しばし間を置いて出立を願います。御者にも、そのように伝えてよろしいでしょうか?」
「承知しました」
王太子と男爵令嬢が公園で相引きなどと、噂を立てられては、こちらも困る。
セドリックが扉を閉めると、アンが、ふうっと大きく息をついた。
「ああ、驚きました。強盗や誘拐などではなくて、本当に良かったです。それにしても、ウィリアム王太子は、あんなに美しいお姿をしていらして、しかも偉ぶらなくて、素晴らしいお方ですね。物語に出てくる理想の王子様のようです」
「アン。もしかして、緊張しすぎて気絶していたんじゃないの?」
私は、王太子の乗った馬車が動き出すのを確認して、口を開いた。
侍女の見方は、あまりにも表面的だった。王太子は、王家の権力を、バリバリ行使していたではないか。
一体、あの会話のどこを切り取ったら、そのような解釈になるのだろう。
「とんでもないことです。馬車へ同乗なさるほどの仲でしたら、奥様が婚約の準備を熱心になさるのも、道理でしたわ。私が、浅はかでした」
アンの思考が、おかしな方向へ流れた。
王太子の腹黒を見抜けないばかりか、お付き侍女まで、母の味方をし始めた。これは、シナリオ矯正なのか、母の力なのか。
「うう」
思わず呻く。攻略キャラとの恋愛フラグ折り作戦に、新たな困難が加わった。侍女みたいなモブキャラまで自由に動かせないのなら、私が打てる手など、ほとんどない。
いっそのこと、母に乗っかって、逆ハーレムを狙った方が、誰とも結婚せずに済むかもしれない。
結婚したい相手がいる訳じゃなし。身分差玉の輿で窮屈な結婚生活を送るより、一人で暮らした方が、幸せではなかろうか。
でも、逆ハーは、あちこちの男に媚びまくるということだ。前世中高女子校育ち、受験勉強に勤しんだ私には、ハードルが高い。恋愛フラグ折りまくりの方が、性に合う。
だいたい、攻略キャラを目の前にしても、惚れる気がしない。特に、王太子は。
神官ルートのクリストファーはシスコンぽいし、騎士ルートのパーシヴァルは婚約済みである。
ヒロイン特権で靡かせることができるとしても、敢えて悪役令嬢の恨みを買いに行くのは、気が進まない。
あれこれ考えるうちに、馬車が動き始めた。先ほどセドリックに指示された通り、ジョセフが時間を見計らったのだ。
御者は、元来た道を戻ることにしたらしく、馬車の向きを変えようとしている。馬たちは、馬車に繋がれている分、動きが鈍い。ジョセフ一人で、大丈夫だろうか。
手伝いたいけれど、男爵令嬢がドレスで馬の周りをうろつく方が、邪魔である。
道は広く、人通りもない。
ゆっくり、やってもらおう。
「ジョセフ。私たち、降りた方がいい?」
窓を開けて、聞いてみた。
「いいえ。乗っていてください!」
奮闘中のジョセフが、声を張り上げた。その顔が、明後日の方角を向く。私も、覗いてみた。
並木道の下に作られた生垣から、バラバラと人が出てくるところだった。
ざっと、四、五人。
嫌な予感がした。