王太子の回想
マルティナ=アプリコットと初めて会ったのは、アザレア公爵の居城だった。
母が私を産んですぐに身罷ってしまい、後継者が途絶えるのを恐れた貴族たちの勧めによって、父は喪が明けると再婚した。
ヘレニウム公爵家から嫁いだ、ジェンマである。
父との間に、なかなか子供を授からなかったことから、父と王妃が寝室を共にしていない、とか、他の令嬢を側室に迎えてはどうか、とか、好き勝手な話をされていた。
それが関係するのかどうか、乳母がアイアン王国へ戻された時、亡母に付き従った侍女や侍従も退職させられ、私の周囲から消えた。
代わりに入ったのは、ヘレニウム公爵家やアイリス侯爵家にゆかりのある者たちであった。
長じて、私に教師をつける段になり、彼らの間で揉めることとなった。勢力争いである。
なかなか決まりそうにないことから、しばしば私は、アザレア公爵家へ預けられるような形で過ごした。
アザレア公爵家は、元を辿れば王家の親戚であるが、その後代々の当主は王家と積極的に結びつきを強めようとはせず、現在ほぼ他人である。
代々、権力から距離を置く姿勢を保った結果、何か中央で問題が起きた時、避難所のような役割を果たすようになっていた。
公爵とその父親である前公爵は、共に学問に造詣が深い。私はアザレア領に滞在する間、彼らから指導を受けた。
そこへ出入りしていたのが、アプリコット伯爵である。当時は男爵であった。
彼は、新しい商品の開発をするため、前公爵からアドバイスを受けていたのだ。
彼の持ち込むアイデアは斬新だった。アプリコット家は、それらの商品で一段と業績を伸ばし、多額の利益を上げた。
ところで、アプリコット卿が商品化したアイデアは、彼の妻がもたらしたものであった。
エブリン=アプリコットには、前世の記憶があった。それも、こことは別の世界に生きた記憶だ。
その世界では、技術の発達により、平民が、魔法を使ったような生活を満喫していた。
彼女が記憶を打ち明けたのは、夫が最初ではなかったかもしれない。
エブリンの父親は、奇妙なたわ言を口走る娘の処分と、家の借金の清算が同時に叶うことを、喜んでいた節がある。
アプリコット卿は、新妻の話に耳を傾け、そこに商機を見出したのだ。ただ、そのままでは商売にならない。そこで、発明好きのアザレア前公爵の元へ通ったのである。
エブリンは、まだ幼いマルティナにも、前世の記憶を語っていた。
マルティナがアザレア城へ連れ出されたのは、アプリコット卿が、母親から娘に与える悪影響を心配したからだろう。
「うわあ。王子様が出てきた」
ピンクブロンドの髪に芝生をくっつけたまま、彼女は私に駆け寄ってきた。
アザレア城の周囲は、芝生に囲まれている。私は勉強の合間に散策をしていた。
彼女はそこで、前転を繰り返していたのである。
「でも、ここはアザレア城そっくりね」
呆気に取られて動けない私に向かって、彼女はにっこりと微笑んだ。
この上なく可愛らしかった。
「ここは、フリチラリア王国公爵家のアザレア城ですよ」
何となく、正確に教えた方が良いような気がして、私は国の名前から告げた。マルティナは、さらに笑顔になった。
「ご親切に、ありがとう。私は、アプリコット男爵の娘、マルティナと申します」
「僕は、ビル」
咄嗟に、乳母が使った呼び名を名乗った。同じ年頃の子と親しく話すのは、初めてのことだった。
マルティナは、全く物おじしなかった。
どんどん話しかけてきて、自分の話もあけすけに打ち明けた。
それによって、私はマルティナの境遇と奇行の原因を知ったのだ。
「お母様がね、ぐるぐるって目が回ったと思ったら、この世界に生まれ変わっていたのですって。生まれる前の世界は、皆が魔法使いみたいに自由だったの。私も、ぐるぐる回ったら、そっちの世界へ行けるかな、と思ったのだけれど‥‥」
つまり、マルティナは、母親が暮らしていた前世の世界へ行こうとして、前転を繰り返していたのだった。
段々聞いてみて、彼女の理屈とその母親の状況を把握した私は、忠告してやった。
「君の母上は、前の世界で亡くなったから、こちらへ生まれ変わったんだ。君が今死んでも、行きたい世界へ行けるとは限らないんじゃないか?」
「そうなんだ」
彼女は、まだ死というものがわかっていないようだった。私も母を亡くしていなかったら、理解の程度はそんなものだったと思う。
「ところで、前の世界というのは、どんな魔法が使われていたの?」
話題を変えるために、私は前世の話を振った。
「魔法じゃないのよ。お父様は、この世界でも作れるんじゃないかって、公爵様に相談なさっているの」
「へええ。例えば?」
「それは、秘密って言っていたわ。私が何でも喋っちゃうと困るんだって。でもね、お父様が絶対作れない物なら、話してもいいわよね。例えば、人がたくさん乗れる鉄の鳥とか。ちゃんと、空を飛ぶのよ」
その話も、人に明かしてはダメだと思う。
しかし、私は止めなかった。彼女の話は、本で読む物語よりも、よほど面白かった。
私たちは、すっかり友達同士のように話していた。さりげなく見守る護衛や侍従も、子供同士の事として、マルティナが私に敬語を使わないことを見逃した。
「僕、そろそろ戻らないといけないんだった」
アザレア公爵の姿を見つけて、私は立ち上がった。彼は私が散歩からなかなか戻らないため、心配して迎えに来たのだった。
「まあ。残念だわ。また会ったら、お話ししようね」
「うん。そうしよう」
ここで王太子と知られたら、これまで培った友情のような雰囲気が壊れてしまう気がした。私は急いで立ち去った。
間もなく、私の教育問題が決着し、アザレア城へ行く機会はなくなった。
私にとって、マルティナの話は、おとぎ話だった。しかし、そのうちの一つがアプリコット卿の手によって実現したことから、私は認識を改めたのだった。
時は流れ、婚約者を決めるパーティが開かれた。
フリチラリア王国貴族の籍を持つ、適齢期と思しき全ての令嬢を招待した。当然、そこにはマルティナ=アプリコットも含まれる。
私は再会を楽しみにしていた。
ところが、再会したマルティナは、アザレア城で会った事を、全く覚えていない様子であった。
私がビルと名乗ったせいで、別人と思われているのかもしれない。
説明しようにも、彼女は王太子の私に媚び諂うどころか、むしろ嫌われたいのかと思うほど他人行儀で、とうとう言い出せなかった。
尤も、彼女が王太子の地位に擦り寄る姿勢を見せていたら、私の気持ちは彼女から離れていただろう。
他方、マルティナと近しく話したことで、メリイ=ビスマスと再会するという収穫があった。
メリイは、アイアン王国ビスマス家の伯爵令嬢で、私の母ルビーに付き従って、フリチラリアへ来た。
母亡き後、私の行く末を案じ、王宮を追われても帰国せず、王都に留まっていたのだ。
次の仕事に困っていたところ、アプリコット卿への輿入れが決まったエブリンの侍女として、安く雇われたのであった。
そのまま嫁ぎ先へついてきて、今に至る。
つまりはマルティナの母親付きの侍女なのだが、パーティの付き添いで来たのには訳があった。
エブリンが言うには、私たちのいる世界は、彼女が前世でゲームとして遊んでいたものなのである。
乙女ゲーム『花咲く乙女のトリプルガーデン』と言うタイトルで、マルティナがヒロインとなって、幾人もの男性と恋をするストーリー‥‥と聞いて、私は文字通り目眩がしたものだった。
しかも、恋をする相手を攻略対象と呼び、陥落させることが目的なのだとか。
エブリンのいた世界は、技術が発展し過ぎて、道徳が退廃している。
メリイは、『花咲く乙女』ゲームの記念すべきオープニングイベントとやらを見届けるため、パーティに派遣されたのだった。
マルティナの母親が、ゲームの思い出を満喫するのは自由である。
問題は、現実がその乙女ゲームのストーリーに沿って、進みつつあることだった。
ほぼ内定済みだった、グレイス=アイリス侯爵令嬢との婚約が一旦白紙となり、やり直し選定の候補に、マルティナが加わった。
彼女とじっくり話す口実を得られたことは、嬉しかった。
ただ、常識として、平民上がりの男爵令嬢が王太子妃候補に加えられた事は、訝しかった。
経緯を聞けば、一応納得するものではあったものの、メリイから情報を得ていた私には、ここが乙女ゲームの世界であることの確証に思えた。
メリイによれば、エブリンはマルティナに、逆ハーレムを達成させようと目論んでいた。逆ハーレムというのは、ヒロインがゲームに登場する攻略対象者全員から寵愛を勝ち取った状態である。
何だ、それは。
我がフリチラリア王国でも、後宮制度は廃止されて久しいのに。
そして、その攻略対象とやらに、私も含まれているのである。
他には、パーシヴァル=アキレア、クリストファー=サルビア、テオデリク=プロテア宰相まで標的だった。アキレア家の三男は、既に婚約しているというのに。
マルティナが、宰相やサルビア伯爵やパーシヴァルから求愛されるのか。私に冷たかったのは、彼らのうちの誰かを好きだからだろうか。
そうでなくとも、年頃の令嬢から人気の高い彼らに迫られれば、心を動かされることもあり得る。彼女を王太子妃候補に組み入れて貰えたのは、私にも好都合だった。
ちなみに、『花咲く乙女』では、私とグレイスが婚約した状態から始まったという。
ゲームに似た世界ではあっても、ゲーム世界そのものではないのだ。そのことに、私はほっとした。
だから、私がマルティナと親しくなりたいと思う気持ちも、ゲームのせいではない、と言える。
ヒロインであるマルティナも、私を攻略したいようには見えないのだ。
それはそれで、面白くないのだが。
更に、彼女は他の攻略対象とは、距離を縮めていくのである。
いつの間にか、サルビア伯爵とも、アキレア家の三男とも、友人のような関係になり、宰相までもが、マルティナに興味を示し始めた。