絶対、好きとかじゃないと思う
「何故、私を婚約者に選んだのでしょうか?」
王太子は、意外な事を耳にしたように、目を瞠り、私の手を取って口付けた。
「好きだから」
私は、手を振り払い、触れられた箇所をハンカチーフで拭った。傷付いた顔をする王太子。大袈裟すぎる。
「建前は不要です。アプリコット家が富裕で、どこの派閥にも属していない利点は理解します。しかし、より家格の釣り合った令嬢は、他にもいらした筈です。パトリニア伯爵家とか、同じ男爵家でもカモミール家でしたら歴史があります」
「ふふ。ティナにかかっては、敵わないな」
王太子が、腹黒い笑顔を見せた。彼は婚約して以来、二人きりの場で私を愛称で呼ぶ。
「アプリコット伯爵は、随分前から陞爵を断っていた。何故だろう?」
「商売が好きなのと、貴族社会が煩わしいからですか?」
「その通り。伯爵は、むしろ平民になりたかった」
私と一緒だ! 父と、もっと腹を割って話せばよかった。
「伯爵が平民になられると、支援を受けにくくなる。出国する可能性もある。今回、伯爵となり、娘を王家に嫁がせて、ようやく諦めがついたみたいだね。彼は、社交の腕もなかなかだ。あれほど有能な人材を逃す訳にはいかない」
「ひどい、です」
私を人質にして父を縛ったのだ。
「ああティナ、そんな顔をしないで。私が君を好きなのは、本当だ。他の男に取られたくなくて、父上にも無理を言った」
王太子は、再び私の手を取った。振り払う気力もない。
「父のこと、話してくださってありがとうございます。ですから、もう建前は要りません。私も王家に嫁ぐ以上、求められる義務は果たすつもりです」
彼は、手を離さなかった。
「そんな他人行儀な。私は、遠慮なく話すティナが好きなのだ。王族並みの教養を持っても引けらかさず、それでいて王族に媚びず、やりたい事は極める。あの抜剣は素晴らしかったよ。この剣だこが出来た手も、愛おしい」
私は手を引っ込めようとした。王太子は離さない。
「その割に、こちらの侍女はタコを小さくする方に熱心です。それに、王宮に来てから、剣のお稽古もさせて貰えませんわ」
王宮で配属された侍女は、入浴する度に、剣だこを揉みほぐそうとする。私の腹筋も気に入らないようだ。食事や間食に、私の分だけ、やたら脂肪分の高い食材が使われている気がする。
部屋でこっそり自主練しているが、短剣であっても、思い切り振り回すには気を遣う。腕立て伏せと腹筋も、睡眠時間を削って続けている。もう、商人や冒険者になる芽はなく、不要な訓練なのに、辞められない。
「稽古の時間を作るよう、父上に進言しよう。師匠はパトリック=フォスター殿だったかな?」
「はい。そうです」
フォスター先生か。懐かしい。私が鍛錬を辞められないのは、これまでの生活、失われた未来に対する未練からかもしれない。
それでもいつか、何かの役に立てば良い。
私の去った世界で『花咲く乙女のトリプルガーデンII』が発売され、そのシナリオがこの世界で発動することだって、あり得る。
王太子は、本当に剣の稽古をさせてくれた。師匠にフォスター先生も呼んでくれた。
先生は、初め王宮で私相手に教えることに緊張していたが、何度も頼むうちに、以前の関係に戻った。
先生はケネスの指導も続けていて、アプリコット家の様子を聞けるのも、嬉しい。
両親も弟も、皆変わらず元気なようだ。
『咲くトリ』シナリオ終了後の状況を、母がどう思っているのか知りたかったが、フォスター先生に尋ねるのはお門違いであった。
「これは、プロテア宰相。気付かずに失礼しました」
フォスター先生の声に振り向くと、テオデリクが立っていた。
「お構いなく。稽古の邪魔をしてしまいましたね。どうぞ、続けてください」
「いいえ。そろそろ終了時間ですので」
まだもう少し見てもらいたかったのに、先生は片付けに入ってしまった。
王宮に来てから、テオデリクに会う機会が増えた。
こちらは住まい、あちらは職場だから、というのもある。結婚式の打ち合わせにも、同席することが多い。
それ以外で、こんな風に不意に現れることも、しばしばあった。
「フォスター殿。我が国では将来的に、女性騎士の登用を考えているのですが」
「えっ。本当ですか?」
つい会話に割り込んでしまった。
「はい。まだ検討段階ですので、実現までには数年を見込んでおります」
テオデリクは、最初から私を勘定に入れていたみたいに、話を続けた。
「採用に当たり、身分を限らなければ、希望者は集まると思いますよ」
フォスター先生には、心当たりがありそうだ。冒険者のことだろうか。
「最初に経験者を集める、という考えもありますが」
ここでテオデリクが私に目を向けた。
「騎士である以上、国に対する忠誠心が求められます。ある程度、身元の確かな者を揃えたいです。アザレア嬢は、剣術の初心者だったのですよね?」
「ええと、はい」
誠実に答えようと、前世の記憶まで辿ってしまった。学校の授業で一回だけ剣道をした覚えがあるけれど、あれは数に入れなくて大丈夫だろう。
「素人から、ここまで育て上げたフォスター殿の技量は、素晴らしい」
正面から褒められて、先生が照れる。
「いいえ。マル‥‥アザレア公爵令嬢の才能と努力の賜物です。普通のご令嬢は、あんなに筋肉つけませんよ」
フォスター先生は、腹筋と腕立て伏せが連続百回可能な筋力量について語っているのであって、直接私の筋肉を見た訳ではない。
「ほう、それは興味深いですね。是非とも拝見したいものですな」
テオデリクが、にこやかに言った。もちろん冗談だろう、と思って笑顔で返したが、彼は話を終わらせない。まさかここで、腹筋を見せろと?
「マルティナ。遅いではないか」
その場の沈黙を破ったのは、ウィリアム王太子だった。そういえば、王太子と予定があった。
「申し訳ございません、王太子殿下。すぐ支度を」
「ウィリアム」
王太子は、私の汗ばんだ手を取る。
「殿‥‥ウィリアム様、お手が汚れてしまいます」
「構わん。フォスター殿、プロテア宰相。マルティナは連れて行く」
「承知しました」
無理に引っ張るので、暇乞いの挨拶が中途半端になってしまった。
「せ、先生。ご指導ありがとうございました。お二方、ここで失礼しますっ」
先生は、目立たないように手を振り、テオデリクは笑顔のままだった。
「どうぞ、殿下。アザレア嬢、また後ほど」
予定とは、定期的に集うお茶会だった。
お茶を飲みながら披露宴の招待客情報を頭に叩き込む、実質打ち合わせである。
招待客の数が多い上、ほぼ全員私の知らない人物である。名前と顔だけでなく、縁戚関係、経歴、趣味、最近の話題、禁忌事項などを一通り叩き込まれたが、人数が多い分、更新頻度も高い。
ただ一旦覚えれば、国際情勢や他の情報と組み合わせて、変わった点だけ記憶を修正する作業は、それほど負担ではない。
変更点が少なければ、ほぼお茶会となる。
私は稽古着のまま、応接室へ連れて行かれた。既にお茶会の支度が整っている。
「殿‥‥ウィリアム様、私、着替えないと」
「時間が惜しい。そのまま座れ。手巾を」
給仕がお絞りを持ってきた。革手袋を脱いで、手を拭うと真っ黒になった。恥ずかしい。顔も拭きたいのだけれど、流石にそれはまずい気がする。思い出した。
私、化粧していないわ。
「構わん。どうせ夫婦になるのだ。プロテア卿が見ているのに、私が見ていけない理由はない。新しい布を渡してやれ。気になるなら、それで顔も拭けば良い」
私の動きを察知した王太子が先制した。私は諦めて座り、給仕に換えてもらった新しいお絞りで、顔と首を拭いた。前世で親父がするもの、と揶揄されていた行為そのものだ。忸怩たる気持ちはあるが、さっぱりした。来世で彼らの行為を目撃した時には、温かい目で見守ろう。
「ティナには、私の婚約者という自覚を、持ってもらいたい」
すっぴんの私を見る王太子の顔は、不機嫌である。だから化粧と着替えをさせて欲しかったのだが。
「承知しております」
私は、熱い紅茶にミルクを目一杯注ぎ、無理矢理啜る。稽古終わりで喉が渇いてしょうがない。
「宰相とよく話しているようだが、一体何の話をしているのだ?」
「その時々の用件です。先ほどは、女性騎士の登用について、フォスター先生と共に話を伺っておりました」
王太子は、ぐっと詰まった。カップを口に運ぶ。
「ああ、あの話か。早く騎士団に担当を割り振らせるべきだな。副団長辺りが適任だろう‥‥だが、三男に投げられても面倒か」
騎士団の副団長は、パーシヴァルの兄が務めている。攻略キャラではないが、兄も眉目秀麗で、やはり婿養子の口が決まっていた。最終的に騎士団が窓口となるのは妥当だが、男性ばかりでやってきた集団に、いきなり任せて大丈夫だろうか。
「アイアン王国から、女性騎士を招聘してはいかがでしょうか」
アイアン王国は、武勇の国である。女性騎士も普通に活躍している。高位貴族が恋愛小説に耽溺していると、女性でも軽薄とされる風潮らしい。そのせいで、ベリル嬢が覆面作家として活動することになったのだろう。
「女性に技術を教える際、体に触れる必要が出てくることもありましょう。女性の指導者は必要です。国に対する忠誠に関しては、期間限定の指導のみに徹するか、あるいはどなたかの婚約者としてお招きするのも良いかもしれません。プロテア宰相は、まだ御婚約されておられませんでしたね?」
追加シナリオのヒロイン、ベリル嬢がコガンを選んだせいで、王太子が私と結婚したのだ。
私が攻略ルートを放棄したから、シナリオの強制力が働いたとか。メインキャラが未婚では、格好がつかない。
クリストファーはグレイス嬢と結婚し、パーシヴァルはエスメ嬢と婚約のまま、隠しキャラだったテオデリクには、お相手がいないままである。
これも私が逆ハーレムルートを辿らなかったせいで、隠しルートが開かなかったのかもしれない。何となく責任を感じる。
宰相が未婚のままというのは、外交上見栄えが悪く、いずれ国の評判にも関わるだろう。名門プロテア家を途絶えさせる訳にもいかない。
騎士に宰相夫人が務まるかという問題はさておき、まずは思いつきを口にしてみたのだった。
「ティナ。君は、素晴らしい」
王太子が目を輝かせて、手を伸ばしてきた。
「早速提案しよう」
ともかく、王太子の機嫌が直ったようで良かった。