逆ハーエンドには気が早い
それから急いで二、三の後片付けをし、彼らが去ったのを見届けてから、私は侍従にそっと声をかけた。
「もしもし。大丈夫ですか?」
侍従に何回か呼びかけると、目が開いた。彼の上にもインクは溢れている。
「あっ。アプリコット男爵令嬢、ご無事で」
慌てて起きあがろうとするのを、押さえて、ゆっくり起き上がらせた。
「ごめんなさいね。私がインク壺をひっくり返してしまったせいで、あなたに怪我を負わせてしまって」
ものすごく無理があるとは承知の上で、強引に設定を進める。
「でも誰かが‥‥」
戸惑う侍従に、被せるように私は早口で話しかける。
「そうね。急に人が来て、びっくりしたのです。あちらも驚かれたようで、すぐに退室されましたわ。あなたにも、こんなにインクがかかってしまったの。できるだけ拭いたのだけれど、早くお戻りになった方がよろしいですわ。幸い、書類の方は書き終えました」
と、記入済みの帳簿とインクまみれのハンカチーフを示した。
帳簿に記された文字の濃さは微妙に違うし、溢れたインク量とハンカチーフの汚れ具合が合わないが、シャーロック=ホームズでもあるまいし、まずバレないだろう。
案の定、侍従はこちらに一瞬目をやった後、自分を見下ろして、顔を青くした。
「おお、大変だ。ご令嬢に、お怪我がなさそうで何よりでした。急がせてしまい申し訳ありませんが、どうか早急にご退室をお願いします。ここを施錠しなくてはなりません」
「もちろんです」
私は、図書室を後にした。テオデリクに羽ペンを返し損ねてしまった。
王宮が、舞踏会を開催する、と通知してきた。
アイアン王国へ帰国するベリル=ブロンズ嬢の送迎会だという。
歓迎パーティをお茶会で略して、送別会だけ豪勢にしたら、追い出したがっている、と外交問題にならないのだろうか。支出は抑えられるけれども、金に困っていると思われてもつけ込まれる。良いことはない。
そこは、王宮が考えることとして。
招待された私は、ドレスを作らねばならない。
「外国の賓客をおもてなしするのだ。失礼のないように、きちんと着飾りなさい」
父の命である。一緒に出席することになっていた。我が家が商売上、アイアン王国とも取引をしている関係で、男爵なのに呼ばれたに違いない。
社交の場ということで、父のパートナーである母も出席する。
家族の中で、母が一番浮かれていた。
「きっと、逆ハーのエンドシーンね。テオが加わったバージョンかしら。楽しみだわ」
「くれぐれも、パーティ会場で、余計なことを口走らないでくださいね」
母は、すっかりエンディングのつもりでいる。乙女ゲーム『乙女の花咲くトリプルガーデン』逆ハーレムエンディングは、誰とも結婚しないままの筈である。
誰も攻略することなく、ヒロインを降ろされた私も、見た目だけは同じ状況だ。ひょっとしたら母の目を、誤魔化せるかも知れない。
とうとう、私も転生者だ、という秘密を、母に打ち明けないままで来てしまった。
逆ハーレム達成などという非常識に、これ以上協力させられたくなかったからである。その分、『咲くトリ』の攻略情報不足のまま、フラグ折りをしなくてはならなかった。
ここまで来たら、母の持つ情報は、もう大した価値を持たない。
シナリオは追加ヒロインのパートまで進んでいるし、母は追加シナリオをプレイしていないことが、わかっている。
このパーティで王太子とベリル嬢の婚約が成立するのと引き換えに、グレイス嬢が悪役として断罪されるとしたら、取り巻きモブ令嬢と化した私も、流れ弾を喰らう可能性は高い。
逆ハーエンドどころか、ヒロインまさかの断罪エンド。母はさぞかし驚くだろう。
誰とも結婚しない点は同じなのだが、誤魔化されたりはしない‥‥よね、やっぱり。
王宮でのパーティは久々だった。
それも、前回はガーデンパーティだった。如何に花の色が派手でも、緑が過剰なほど繁茂させられても、それらは人の手によって調整済みであり、自然の輝きは結局のところ、目に優しい。
今回は、シャンデリアやドレスや宝石の煌めきが、直接目に飛び込んでくる。刺激の度合いはこちらの方が強い。
昼間と夜間とでは、参加者の服装にも、はっきりとした違いがあった。
招待客は皆、一段と華やかに装って参加していた。女性は、肌の露出が多いドレスを着ている。かく言う私も、それなりに出している。
「ケネス=アプリコット男爵令息だな」
会場で、声をかけて来たのは、パーシヴァルだった。隣には、婚約者のエスメ嬢が控えている。
私は、弟のケネスをパートナーにして参加したのである。
「パーシヴァル=アキレア殿に、名前を覚えていただけるとは、光栄です」
ケネスが感激の面持ちで礼をとる。弟が、彼に憧れているとは知らなかった。
彼は爵位を継ぐ身として、騎士団には加わらなかった。厳密な決まりはないが、そういう家は多い。
「パット先輩‥‥フォスター殿から、よく話を聞いているよ。これからも、精進すると良い」
「はい。ありがとうございます」
パーシヴァルは、私には目もくれずに去った。代わりのように、エスメ嬢が私の挨拶を無言で受けてくれた。
改めて、ヒロインではなくなったことを感じる。
気楽だった。
好きでもない攻略対象に絡まれることもなく、従って、悪役令嬢とも穏やかな関係でいられる。
後は、他の政略結婚を強いられる前に、独りで生きていけることを父に示すだけだ。
いきなり冒険者は絶対反対される。まず、父の得意分野である、商売で納得させるつもりだ。母と同じように、私にも前世の知識がある。母にバレない程度の商品案を、いくつか考えていた。
「あら。今夜のドレスは、なかなか素敵じゃない」
グレイス嬢だった。そういう彼女は、悪役令嬢の親玉らしいシャープな印象の、ゴージャスなドレスを着ていた。
「ありがとうございます。グレイス様の、着ておられるドレスも素晴らしいです」
彼女の横で、クリストファーも嬉しそうに微笑んでいる。とりあえず神殿入りは保留にして、今日はサルビア伯爵として出席したのだ。
並び立つ彼の優しい雰囲気が、彼女の尖った部分を上手く和らげている。お似合いの二人である。
「お聞きになって? このパーティで、いよいよ王太子殿下の婚約が発表される、と噂になっているわ」
クリストファーの表情が曇った。グレイス嬢の笑顔と対照的だ。彼女は、王太子の婚約者に自分が選ばれることを、確信している。
ちなみに王太子の側にいるのは、翡翠色の清楚なドレスを纏ったベリル嬢だ。
水色の髪に、よく似合っている。
この流れでは、ベリル嬢が婚約者になると思うのだが。悪役令嬢には、見通せないのか。
アイリス侯爵家に文句を言わせないため、送別会の名目で貴族を集めたのかもしれない。
「その噂は存じませんでした。てっきり、ブロンズ侯爵令嬢とのお別れを惜しむ会、と思っておりました」
「そうね。庶み‥‥ごく一部にしか知らされていないみたいね」
今、庶民、と言いかけたのを止めた。私に気を遣っている。となると、彼女に取り巻き認定されたということか。一緒に断罪されなければ良いが。
しかし、グレイス嬢は、私がヒロインだった頃でも、大した悪行は仕掛けていない。せいぜい紅茶をこぼした程度である。ベリル嬢にも、私の目の届く範囲では、嫌味をぶつけるくらいだった。
普通に考えたら、断罪の心配は要らないのだが。それとも、私の知らないところで、壮絶なバトルがあったとか。
ここは、乙女ゲームの世界である。
やる気のないヒロインの私にも、攻略アイテムが次々転がり込んできたのだ。シナリオの力は怖い。
乙女ゲームに悪役令嬢とくれば、断罪がつきものである。
シナリオの強制力が、どう転ぶかわからない。
一応、対策は考えてみたけれど、使わずに済む方が良い。