ゲームシナリオを舐めてはいけない
王太子からの好感度は、順調に低飛行を続けている。クリストファールートは、最悪クリアしても聖女だ。
修道女のトップということは、独身確定である。
修道院もまた窮屈そうだけれど、王太子妃よりはましだろう。それに、上に立つなら、権力を握って改革もできそうだ。ぐふふ。
「大丈夫? 顔色がころころ変わっているよ」
「へっ?」
気がつけば、銀のカーテンに覆われた、紫の瞳が至近距離にあった。
近い近い近い!
美形は令嬢にとって、破壊兵器と同等の威力がある。恋をしていない私でも、フリーズして冷や汗が浮いた。
クリストファーが、ハンカチーフを取り出して、私の顔に当てた。
「汗もかいている。どこかへ座って休もう。繊細なご令嬢を、屋外で立たせたままにすべきではなかった」
そう言うと、私を抱えるように腕を背中へ回した。だから、近いって。私の背中から、ぶわっと汗が噴き出した。
「だ、大丈夫です。ありがとうございます。それより‥‥」
「何をしておいでですの?」
鋭い声に、二人でびくりと肩を震わせてしまう。まるで、本当に悪いことをしていたみたいだ。
見ると、建物の出入り口に、グレイス嬢が立っている。目が合った。
怒りの矛先は、私ですか。だよね〜。
悪役令嬢とヒロインのエンカウンターだもの。
薬草園の柔らかい土の上を、器用につかつかと歩み寄った侯爵令嬢は、たちまち私の元まで到達した。
近くで見ても、怒っていた。その迫力たるや、栗色の髪から湯気が出る幻覚が見えるほどだ。
「あなた、身分を弁えるということを学びなさいな。この間の茶会でも、勝手に王太子殿下と言葉を交わすわ、ドレスが少し汚れたからと言って、嫌味たらしく先に帰るわ、神殿に来れば、クリスに言い寄るわ‥‥」
うわあ。怖い怖い怖い!
悪役令嬢の説教タイムだ。私の体から、先ほどとは別の汗が滲み出る。こんなに汗をかいたら、ドレスが湿りそう。
怒涛の如く繰り出されるグレイス嬢の攻撃を逃れようと、私は口を開いた。
「アイリス侯爵令嬢、誤解です。サルビア伯爵は、神官になるか悩んでいただけで」
クリストファーが急に慌て出した。
「アプリコット嬢!」
グレイス嬢も、はた、と動きを止めた。
「何ですって?」
しまった。グレイス嬢が怖くて、余計なことを喋ってしまった。悪役令嬢、迫力あり過ぎ。
これで、クリストファーからの好感度も下がったな。彼のルートは恋愛ではなく、友情を育む感じで進んでいただけに、少々残念に思う。
「クリス。貴方は、サルビア伯爵なのよ。先代唯一の嗣子である貴方が神殿に入ってしまったら、由緒ある爵位を誰が継ぐというの!」
そこで私の存在を思い出したグレイス嬢は、急に居住まいを正した。
「この話は、馬車へ戻ってからにしましょう。行くわよ、クリス」
「はい。義姉様」
クリストファーは素直に従った。目の前で、あれだけ激しく私を罵る姿を見ながら、グレイス嬢に対する好意は変わっていないようだった。
もう、これは恋じゃなくて、愛なのでは?
二人が去った後、地面に白い物が落ちていることに気付いた。
ハンカチーフだった。拾い上げてみると、サルビア家の紋章がバッチリ刺繍されている。
間違いない。クリストファーが、先ほど私の汗を拭いた物だ。
平然として見えたサルビア伯爵も、実は悪役令嬢の義姉に怯えて、ハンカチーフを取り落としたのか。
それとも、私が余計なことを口走って動揺したのか。きっと、後者の方だ。
洗って返そう。紋章入りである。そのまま放置すれば、悪用される恐れもあった。
「マルティナ。ここにいたのね」
入れ違いで、母がやってきた。首席神官は、それぞれの客を上手くあしらったようだ。今頃、次の面倒臭い客を相手取っているのだろう。
神に仕える身でも、処世術は必要なのだ。
「まあ。クリスのハンカチじゃない。好感度上げイベント成功ね」
上がるどころか、爆下がりである。
母ではなく、私のためにイベントをクリアしようと思ったのに、結果として失敗だった。
最初に、クリストファーの神殿入りを阻止しようと考えたのが、いけなかったのだろうか。乙女ゲーム的には、悪役令嬢の妨害が成功した感じである。
しかし、そんなことを報告できる訳もなく、私はご機嫌麗しい母と帰途についた。
好感度は下がり、イベントフラグも折りまくっているのに、何故かクリアアイテムが手に入る。まるで、ホラーだ。
『咲くトリ』に、ホラーの要素はなかった筈だけれど。
これが、全攻略失敗ルートの道のりだったりして。道の先には何が待っているのか。
悪役令嬢がざまあする、ヒロイン断罪イベントとか。笑えないよ。
そういえば、と私は現実逃避にかかる。
神殿入りを、あんなに反対するとは、もしかしたら、グレイス嬢もクリストファーを好きなのかも。
クリスなんて、愛称呼びしていた。随分と親しげだったではないか。
表向き、血統を重んじている貴族家系ではあるが、養子を取ることは、珍しくない。それも、愛人の子とかではなく、養護院から見込みのありそうな者を迎えることもある。もう、貴族どころか、誰の子かもわからない。
要は、貴族の家の後継者など、どうとでもなると言いたい。
グレイス嬢が王太子の婚約者候補であるのは、家格が釣り合うとか、その他政治的な条件からであって、彼女が王太子に恋して自ら押しかけたためではない。
まあ、あいつ見目麗しいし、立ち居振る舞いも完璧だし、腹黒を気にしなければ、最高の結婚相手ではある。
未来の王妃という地位もついてくる。
あはっ。心の中ではあるが、とうとうあいつ呼ばわりしてしまった。
貴族の結婚は愛情と関係がない。政略結婚一択である。夫と妻にそれぞれ愛人がいることもざらにある。
グレイス嬢は、クリストファーを愛人にしようとしている?
違う。
愛人にするなら、むしろ神殿入りを勧める筈だ。神官なら、堂々王妃と二人きりになれる。私なら、そうする。
きっと、本当に好きだから、クリストファーのためを思って、神殿入りを止めるのだ。
グレイス嬢とクリストファーが結婚すれば、クリストファーの恋も成就するし、サルビア伯爵家も安泰である。ここはヒロインとして、後押ししてあげるのも、良いかな。
待て待て待て。
グレイス嬢が婚約者候補から降りたら、誰があの腹黒王太子と結婚してくれるのか。
ライバルと目されてきたエスメ=ネモフィラ伯爵令嬢には、今やパーシヴァルという婚約者がいる。
こちらを別れさせたら、パーシヴァルは誰と結婚すれば‥‥。
やっぱり、母の目論見に乗っかって、シナリオ通り進めた方が、無難に思えてきた。
ヒロインだからって、何でもかんでも好き勝手できる訳ではないのだ。私はゲーム世界を舐めていたようだ。