フラグの種類を勘違いしていた
この世界の神は、キリスト教とローマ文化がごた混ぜになった感じである。
だから唯一の神に仕える聖職者は神父や牧師でなく神官と呼ばれるし、ローマ寄りの建築物は、教会ではなく神殿と呼びならわされる。
「これは、これは、アプリコット男爵夫人ではありませんか。いつも篤い信仰心を示してくださって、ありがとうございます」
首席神官が揉み手をしながら現れた。よく見たら、揉み手ではなく、祈りの形であった。
この神殿で一番偉い神官である。更に偉いのが神官長で、国内の神殿を束ねる立場となる。
ちなみにクリストファー=サルビアのルートをクリアすると、クリストファーが神官長に就任するのだ。
この場合、ヒロインは聖女の称号を得て修道女のトップに立ち、側面からクリストファーを支援する、というエンドを迎える。攻略キャラと結婚せず仕事に生きる、という選択肢の設定自体は個人的に好きだ。
しかし、前世でクリアした友人は、散々イチャコラした挙句に結ばれず、しかも仕事は愛人を盛り立てる無償奉仕か、と不満を語っていた。身も蓋もない言い方である。
どうせオリジナル宗教を打ち立てたのなら、聖女に認定されれば神官長と結婚できることにしておけば良かったのに、との意見は、乙女ゲームとしては頷けた。
そしてめでたく聖女になったとして、その後の生活実態は、不明である。
今の時代、聖女が存在しないのだ。現在、修道女を取りまとめる立場にある人は、男性である。
神殿では、奇跡的な活躍で人々を救ったりして、宗教の発展に貢献した人たちを、聖人と呼ぶ。よく知られている聖人は全員が男性であった。
それも、生前からの呼称ではなく、亡くなった後、神殿が生涯の活動を精査し、聖人と認める形をとっている。
世の中に知られず、聖人と認定された女性も、歴史上存在した可能性はある。
ただ、聖人は故人に対する称号だ。そのままでは使えない。
もし、クリストファールートを単独攻略した暁には、生きているヒロインへのご褒美として、聖女という称号が生み出されることになるのかも。
まさか、クリストファーが神官長の権力を使って、ゴリ押しするのか? それでは彼のイメージが台無しだ。
逆ハーレム成立時も、エンドは結婚場面ではない。ヒロインが聖女になっても矛盾はないが、果たしてどうだったか。
自分で攻略していないと、どうしても記憶が曖昧になる。
聖人と聖女について、つらつら考えるうちに、首席神官が、母だけを連れ去っていた。
母が私を置き去りにしたのは、イベント成立目的である。
神殿には私一人で行くつもりだったのが、母までついてきたのは誤算だった。どこかから隠れて覗き見されるかと思うと、下手に動けない。
今回も、神殿に行って、クリストファーが神殿に入るよう説得しろ、と無茶ぶりしてきたのだ。
男爵令嬢が、伯爵に爵位を捨てろ、と迫れるものか。不敬どころか、その気になれば反逆罪を適用される。
身分秩序に混乱をきたし、以て体制の転覆を謀った、とか何とか。
むしろシナリオ強制力で、クリストファーが神殿入りしたくて現れる流れだってあり得る。
好感度フラグ折りのためにも、ここはサルビア伯のままで居てもらおう。
神殿は広い。どの辺りにいれば彼と会えるか、肝心な情報を母は教えてくれない。勝手な願望を指示するだけの丸投げは、いつものことだった。
私は王太子ルートしかプレイしていないが、ゲーム画面上でも、詳しい図面なんかは表示されない。
全ルート制覇した母なら、前世でヒントとなる場面を見たかもしれないのだ。ついてくるなら、その辺のことも教えて欲しいところである。
「これは、これは、アイリス侯爵令嬢では、ございませんか」
建物中に響くような声に、聞き覚えがある。それより、内容が気になってそちらを見た。
揉み手、ではなく、祈りの手を組み歩み寄るのは首席神官、出迎えを受けるのは、グレイス嬢だった。
母の姿は見当たらない。別室へ通して、鉢合わせないようにしているのだな。売れっ子キャバ嬢みたいなことをしている。
何故受験生がそのようなことを知っているか。前世の漫画で読んだのだ。
前世の親が知ったら、色々びっくりするような内容の本も、スマホ上で隠し場所を気にせず堂々読めた。
もう、続きは読めない。
サブスク解約する時に、履歴を検索されたらバレる。どうか、そのまま解約して欲しい。
でも、ログインパスワードをどこにも書き残していなかった。親は無事解約できるだろうか。
前世の始末を心配する場合ではなかった。
首席神官が声を張り上げたのは、私に警告したのだ。
ヒロインが、悪役令嬢に虐められないよう助ける意味ではない。
こちらは男爵令嬢、あちらは侯爵令嬢。優先すべきは、あちらである。しかしながら、こちらの金も捨てがたい。
だから、こちらが不快な思いをせずに済むよう、というか、彼が応対に困らないよう、席を外して欲しい、という意味だ。
あちらが気付かぬうちに、こっそりと、を求められている。格上に挨拶せずにいることも、失礼に当たる。そして、私がグレイス嬢に挨拶してしまうと、首席神官が苦労する羽目となる。
こうすることで、表面上は、私に気遣ったことになるのだ。
「いやあ。まことにご熱心に通ってくださって、神もその篤い信仰心をお慶びになられること、間違いありません」
首席神官がしきりとグレイス嬢に話しかけている。私は急いで、しかし静かに席を立ち、中腰で移動した。
イベント会場でヒロインの私と対面したら、悪役令嬢が発動するのは目に見えている。意地悪されるために、わざわざ首を差し出すのは嫌だ。
私がいた場所は、神の像を祀る礼拝堂である。そこから廊下へ出て、どちらへ行こうか考えた。私自身は、神殿をそれほど頻繁に訪れることもなく、どちらかと言えば不案内である。
どうせわからないので、適当に歩いたら、裏庭のような場所に出た。ミントや、ラベンダーといった、ハーブが植えられている。セージもあった。
そして、クリストファー=サルビア伯爵がいた。花の話だが、セージはサルビアの仲間である。
「やあ。マルティナ=アプリコット男爵令嬢。図書館でも会ったね」
「サルビア伯爵」
母の指示が雑でも何とかなってしまうのは、これだ。ヒロインかシナリオか、何かの力が働いているに違いない。
「畏まらなくてもいいよ。もしかして、また迷子になった?」
紫の瞳が、いたずらっぽく煌めく。パーティ会場でのことを根に持っているのか。
「その節は、ハンカチを無駄にして、失礼しました」
「ああ。そういう意味ではないよ。からかって悪かった。神殿には、よく来ているの?」
下位貴族に簡単に謝ってしまう素直なところは、クリストファーの美点だけれど、貴族社会より神殿の方が向いている。神殿も清浄とばかりは言えないが。
ここで、はい、と答えたら、彼は爵位を捨てるのだろうか。乙女ゲームの選択肢がわかれば良かったのに。
「いいえ。今日は、母のお供でたまたま訪れました」
「そうか。私も、義姉のお供で来たのだが、中までついてこなくて良い、と言われてね‥‥いっそのこと、神官にでもなってしまおうか、と思うよ。そうすれば、信者と面会したり、信者のために祈ったりできるからね。結婚した婦人にも、信仰の道は開かれている」
おやあ?
前も思ったのだが、クリストファーは、義姉のグレイス嬢が好きなのでは?
今、確かに母の言うイベントに入っている筈なのだが。
何故か、攻略キャラから悪役令嬢への恋心を打ち明けられるヒロインの図になっている。クリストファー目線では、グレイス嬢がヒロインで、私はモブか悪役みたいではないか。
恋愛フラグを折る気では、いた。黙っていても、クリストファーは神殿に入るつもりだ。
これで、母の要求も達成できる。彼がグレイス嬢を好きな故に神殿に入るなら、彼との恋愛を避けたい私にとっても好都合ではある。
いいのだろうか、これで?
不安に思うのは、先が見えないからである。クリストファールートはもちろん、逆ハーレムルートにも踏み込んだことのない私には、正解がわからない。
今の状況が、シナリオ通りという保証はないのだ。
ナビに従って進んだら、崖から落ちそうになった、という怪談を思い出した。
私の表情から何を読み取ったのか、クリストファーの笑顔に翳りが生じた。
「ただ、私が神官になったら、父から譲り受けた爵位が途絶えてしまうのが、問題だ」
そう言って、ため息をつく。揺れる銀髪が周囲の緑に映える。
二、三度会っただけの格下令嬢に、恋や爵位といった、繊細な問題を軽々打ち明ける心情は、理解不能である。それこそヒロイン特権か。
そうか。
このルートでは、もともと攻略キャラとヒロインが結婚しないエンドだった。
神殿の頂点である神官長にとって、修道女の頂点となる聖女は、よき相談相手なのだ。
つまり折るべきは、恋愛フラグではなく、相談フラグ。
何それ? どうやって折ればいい?
待て。落ち着こう。私の目的は、何だったかな。
その一。王太子との結婚は、常識的にムリ。
そして、順調に好感度は下がっている筈。お茶会でもろくに話さなかったし、途中退席したし。
その二。母が狙う逆ハーレムの成立を避けたい。
これも、王太子ルートが崩れていることで、順調と言える。強盗事件で、パーシヴァルの好感度も下がった。
その三。できれば、結婚せずに暮らしたい。
母が逆ハールートの攻略を考えているお陰で、縁談の話は全くない。
これで逆ハーが失敗すれば、そうそう結婚相手など現れないだろう。まだ生活の目処は立っていないのが、難点だが、一応目的の方向へ進んでいるように思える。
ということは、クリストファーの相談フラグは、折らなくても大丈夫かな。