淡い思い出
翌朝。
執事が寝室に現れ、礼をとる。
「おはようございます、レジナルド様」
「……おはよう」
レジナルドは上の空で挨拶を返した。
執事はそこに何かを感じ取り、レジナルドの様子を注意深く眺めた。相変わらず端正であるが、なぜか今朝は少し乱れがある。
気にはなったが、あるじは詮索を嫌う。執事はすぐに表情を切り替え、落ち着いた声音で話し始めた。
「馬車の用意はできておりますので、いつでも出発可能です。婚約者に決まった聖女様との面会ですが、目的地のハートネル教会まで、片道五日の道のりになります」
「朝食後、すぐに出る」
「聖女様の身上書が届きましたが、読み上げましょうか」
「いや、どうでもいい」
レジナルドの瞳は凍てつくように冷たい。婚約者に対して一片の関心もないようだ。
「でも、そうだな――名前だけ教えてくれ」
対面した際に、名前すら把握していないのはさすがにまずい。
執事は佇まいを正し、名前を告げた。
「エミリー・バデル伯爵令嬢です」
「分かった」
レジナルドは小さく頷いてみせた。
一瞬、彼の脳裏に、八年前に出会った少女の姿が蘇った。当時レジナルドは十歳で、彼女も同じくらいの年に感じられた。
……こんなことを思い出したのは、なぜだろう。ハートネル教会と聞いて、記憶が刺激されたのか。
あの日――夏の強い陽光に照らされた道を、ふたり並んで歩いた。長いようで、短い道のり。
『私、あなたにお歌を聞かせてあげる』
そう提案してきた彼女は笑んでいただろうか。……どうだろう。
菫色の瞳が物柔らかにこちらを見つめていたのは、鮮烈に覚えているのだが。
『なぜ』
レジナルドはつっけんどんに返した。どうしていいか分からなくて。
あの時、レジナルドはあらゆることにうんざりしていた。まだ十歳だというのに後継の派閥争いに巻き込まれ、大人から陰湿な嫌がらせを受け、見知らぬ地でひとり放置されたのだ。
道に迷って途方に暮れていた時に、『教会まで送ってあげる。そうしたら教会の人がなんとかしてくれると思うから』と声をかけてきたのが彼女だった。
助かったと感謝をする余裕もなかった。レジナルドはとにかく混乱していたのだと思う。
それに彼女はとても変わっていた。『私、あなたにお歌を聞かせてあげる』だなんて、一体どういうつもりで口にしたのか分からなくて。
こちらの態度は散々だったが、彼女は腹も立てなかった。小首を傾げ、彼に告げる。
『私ね、お歌が下手なの』
『それならどうして歌いたがるんだ』
『私の下手な歌を聞いたら、あなたは元気が出るんじゃない? 最低な歌を聞けば、その反動で、景色の美しさに心打たれるかも』
よく分からない理屈だった。彼女の話し声は泣きたくなるくらい優しくて……けれど、本当に、本当に、歌い出したらものすごく音痴だったんだ。
耳が変になると考えながら、レジナルドの口角はいつの間にか少し上がっていた。……驚いた。笑う気分になるなんて。
彼女が楽しげにこちらを流し目で見てきた。
歌い終えたあと、彼女がレジナルドに言った。
『私の愛称はリイだよ。昔、親しい人はリイって呼んでくれた』
……昔? どういう意味だろう。今は違うのか?
戸惑いを覚えたが、レジナルドは踏み込むことができなかった。その代わりに、異母兄にしか許していない呼び方を教えた。
『僕も愛称を教える――レジーだ』
『レジー』
リイはとても変わっていた。今でも時々レジナルドは、『リイは妖精だったんじゃないか』と思うことがある。
――だって彼女はウサギの目出し帽をかぶっていたから。
『どうしてマスクをかぶっているんだ?』
気になって尋ねたら、
『おまじない』
彼女ははにかんだように答えた。
リイ……元気にしているだろうか。
自分は生きることになんの意味も見い出せていないが、それでもたまに君のことを思い出す。たった一度会ったきりの、君のことを。
どうか――どこかで幸せに生きていてほしい。
この先、互いの道が交わることはないだろうけれど。