ウサギの精霊ニームはアイリーンの相棒
ウサギの精霊ニームは薄暗い階段を苦労して上っていた。人間からすると膝を曲げる程度のなんてことない段差でも、ウサギサイズのニームからすると一段一段がちょっとした壁くらいに感じる。
ニームはパッと見は普通のウサギであるが、喋るし、二足歩行をするし、柄も少し変わっている。両耳が黒で、胴の半分から下も黒。
ニームがユニークな点は、黒い両耳部分に、貰いものの毛編帽子をかぶっているところだった。長い耳にフィットする形なので、かぶる意味があるのかよく分からない。毛編帽子も耳と同じ黒い色なので、余計に。
「まるで牢獄だな、ここは」
ニームは隙さえあればすぐに愚痴をこぼす。努力、忍耐、気遣い――全部くそくらえ、がニームの信条である。
ニームの言葉はある意味では事実だった――ここ、バデル伯爵家の離れは、顔に問題がある長女アイリーンにとっては牢獄と同じだからだ。
牢番がいるわけではないし、監禁されているわけでもない。しかし迂闊に外に出るとあとで折檻を受けるので、アイリーンは段々と外出しなくなった。
武骨な石造りの三階建てで、建築面積は狭く、縦長の塔のような造り。アイリーンの部屋は三階にある。アイリーンのほかに住人はおらず、空いている部屋は物置になっていた。
「おーい、戻ったぞ」
踏み台を使って扉を開け、中に入ったニームは、部屋の惨状を見て仰天した。
「お、おい、アイリーン、大丈夫かぁ?」
先ほど散歩を満喫して塔まで戻って来たニームは、去り行く鬼妹エミリーの後ろ姿を目撃している。
エミリーはとにかく恐ろしい女だ。昔ニームが庭を散歩していたら、うっかり彼女に見つかってしまい、残虐な方法で踏み殺されそうになった。別にアイリーンの相棒だからという理由で襲われたわけじゃない。エミリーは単に動物が嫌いなのだ。
そんなことがあったので、ニームはエミリーの視界に入らないよう、いつも細心の注意を払っていた。幸いアイリーンの部屋に住み着いていることはバレていないので、エミリーが来た時は素早く身を隠すようにしている。
そのため先ほどまでは、『あっぶねぇ、エミリー来てたのかよ、部屋にいなくてよかったぁ』なんて呑気に考えていたのだが……。
アイリーンは床に正座して、散らばった鉢植えを片づけている。俯いたアイリーンの肩が小さく震えていることにニームは気づき、『泣いているのか?』とぎょっとした。
アイリーンは大人しい女の子だが、驚異的に我慢強いので、泣くことがほとんどない。
……一体、鬼妹に何をされたんだよ? 大事なクロッカスの鉢植えを壊されたせいで、しょげているのか?
「おい、アイリーン」
近寄って行ったニームは、アイリーンのウサギマスクがドロドロの膿で汚れているのを見て、ひぃと飛び上がった。
「うわ、汚ねっ……!」
反射的に叫ぶと、アイリーンがピタリと片づけの手を止め、ニームのほうに顔を向ける。少し目を細めて、拗ねたような顔だ。アイリーンの眼球は泣いていたせいか真っ赤に充血していた。
「……さすがにひどくないかな、ニーム」
「すまねぇ、俺、正直なんだ」
「フォローになってないよ」
「アイリーン、そろそろ学べ。今度エミリーが来たら、全力で逃げろよ。相手すんな」
「……うん。がんばってみる」
「しゃあねぇ、汚ねぇから気が進まないけど、薬塗ってやるわ」
ニームは「うげキモイ、こんなグジュグジュ見たらもう飯食えない、食欲なくなる」とブチブチ愚痴りながら、アイリーンの怪我の手当をしてやった。
アイリーンは元々ウサギマスクの下に包帯を巻いていたので、マスクと包帯をすべて取り払うところからニームがしてくれた。ニームは口が悪いわりに(そして口にするすべてが嘘偽りなく本心であるわりに)、面倒見が良い。
「ニ……ニーム……あ、ありがと」
床に正座して治療を受けながら、アイリーンはきゅっと目を瞑り、つっかえつっかえニームにお礼を言う。これ以上泣かないようにと顔に力を入れたせいで、口元がへの字に引き結ばれている。
「……いいから鼻水拭け」
「ご、ごめん」
ぐず、とアイリーンは鼻をすする。
ウサギマスクを取り外したことで現れたアイリーンの髪は、癖のない美しいプラチナブロンドで、薄暗い部屋の中でキラキラと輝いているのだった。
* * *
「――光を知らぬ勇者よ」
闇の中から歌うような艶のある声が響いてくる。
レジナルド・カーディフ公爵は悪夢にうなされていた。悪夢――……いや、これは本当に夢なのか?
何者かに首をじりじりと締め上げられている。
レジナルドは微かに目を開いた。自身は仰向けに寝ていて、こちらに覆いかぶさる影がひとつ。
必死で手を持ち上げ、首を絞める腕を掴む。手首を握りつぶさんばかりに力を込めてみたが、相手が退く気配はない。
実体がある――これは現実だ。
どのくらい寝ていた? 昨夜床についたのは日付が変わる前だった。
「今はね、深夜の二時ですよ」
「……心が読めるのか」
「いいえ? なんとなく、教えてあげようかなと思っただけです」
「お前は……誰だ」
喉を絞め上げられているので、言葉を出すのも難儀だ。レジナルドの問いを受け、相手が笑みを漏らした気配があった。
「お初にお目にかかります。わたくしの名はゴモリー、以後お見知りおきを」
吟誦公爵ゴモリーか……! とんでもない大物が出てきたものだ。
暗闇に目が慣れてきて、薄ぼんやりとゴモリーの姿を見ることができた。
――男か女か判然としない。そもそも悪魔に性別があるのかも分からないが。
たおやかで優雅な佇まい。長い髪は癖がなく、頭部からは水牛のような角が生えている。頭部に薄い紗のヴェールをつけているが、からげていて顔は晒していた。絹の長衣は王族の纏うもののように滑らかで豪奢である。
「ヴェールの聖女2巻」本日(6/9)発売です。どうぞよろしくお願いいたします。