痛くて、怖くて、悲しい
『私が聖女になれるわけないもの』というアイリーンの叫びは身を切るようにつらいものだったが、それは妹をそこそこ満足させたようだ。
「いい気味! なんだ、分かっているんじゃない! 笑える」
「エミリー……」
「聖女エミリーだってば、頭弱いの? ああ、そうだ――これ返すわ」
エミリーは右腕からブレスレットを抜き取った。淡いピンクのそれは安価なビーズでできており、宝石はひとつも使われていない。アイリーンが趣味で作ったものなのだが、先日部屋を訪れたエミリーが『アイリーンのくせにブレスレットなんて生意気』と言って持ち去ってしまったのだ。今日も腕に嵌めていたということは、意外と気に入って、あれからずっと身に着けていたのだろうか。
エミリーは外したブレスレットをテーブル上に放り投げる。ゴミでも捨てるかのように、投げやりに。
「もう安物はいらないの。だって私、カーディフ公爵に本物の宝石を買ってもらえるんだから」
得意気に言い放ったエミリーが、芝居がかった仕草で大きく腕を動かしたので、アイリーンはヒヤリとした。言葉の内容はどうでもいい――気になったのは、テーブル上に置かれたクロッカスの鉢植え。それにエミリーの拳が当たりそう。
「手を乱暴に動かさないで、エミリー」
「は? 何言って――」
「だめ、下がって! いけないわ!」
鋭い声で制止しながら、アイリーンは焦りを感じていた。え――どうして? 注意したことで、妹はますますテーブルのほうに体を寄せていく――警告したのに、なぜそれをするの?
「な、何よ、アイリーン、私をぶつつもり?」
この時、エミリーは恐慌状態に陥っていた。それは止めに入ったアイリーンの態度が切羽詰まっていたためかもしれない。これまではどんなに馬鹿にしても、姉がキレたことはなかった。こんなふうに問答無用で何かを迫られたことだって一度もない。
仕返しされると恐れたエミリーは、ブン、と腕を振りかぶった。とにかく近づいて来るアイリーンを撥ねのけたい、それしか頭にない。
「花が……!」
アイリーンが身を投げ出すようにしてエミリーの腕に飛びかかる。妹の暴力性が恐ろしくてたまらなかったが、鉢植えを護りたい一心だった。花だって床に叩きつけられたら、きっと痛い。
「放しなさいよ、この!」
エミリーの細腕にここまでの力があろうとは。
アイリーンは吹っ飛ばされ、床に転がった。同時にガシャン、と陶器の鉢が砕け散る音が響く。エミリーの大暴れで、鉢もテーブル上から弾き飛ばされてしまったようだ。
倒れ伏したアイリーンは首を巡らせ、離れた場所に放り出されたクロッカスの鉢植えを眺めた。割れた鉢の残骸と、散らばった泥。倒れた花……ああ……なんてこと……。
「私に触るんじゃないわよ! この化けもの!」
ふ、と頭上に影が差す。え、と思っているあいだに右頬に衝撃が走った。あまりのことに頭がついていかない。上から顔を蹴られたのだと理解するのに数秒かかった。
悲鳴も出ない。あまりの痛みに目の中で星が散る。脳がグワンと揺れた。
容赦なく降って来る喚き声。
「汚い、汚い、汚い……! 何よあんた、私に蹴られたところから、汚い汁が滲み出ているわよ! 何それ、おぞましい。私の靴にもそのキモイ汁がついたのかしら」
罵倒されながらも、アイリーンは腕を震わせ立ち上がろうともがく。するとそれを忌々しく思ったのか、エミリーが追撃で肩を蹴ってきた。
痛い……怖い……さっき蹴られた右頬がじゅくじゅくしている。焼きゴテを押し当てられたかのように熱い。
蹴られたことで、もともと爛れていた表皮が破れたのだろう。じんわりと顔から膿が染み出て、それがかぶっているウサギのマスクのほうまで染み出ているのが自分でも分かった。
「やだもう、マスクに紫と緑と橙の染みができてるぅ! 黒ずんでいるところもあるわ! あんたの体って、どうなっているの? アンデッドの魔物みたい! 気持ち悪い!」
今度は甲高い声で笑われる。
アイリーンは下を向いたまま奥歯を噛みしめた。木床に額をつけ、震えながら小さく丸まる。ウサギ耳の毛編み飾りがへたれて床についていた。
「昔を思い出すわね! 八歳のあんたはいつもそんなだった! 爛れた顔を包帯で必死に隠していたけれど、それをいつも汚い汁で汚してさ、ついたあだ名が『ボロ雑巾女』――ねぇあんたさ、このあいだ、『だいぶ良くなった』なんて言ってなかったっけ? はぁ? どこが? 大人になっても、まだ変わらないじゃない! ウサギのマスクをして誤魔化したってね、あんたは未来永劫ボロ雑巾女のままなんだよ!」
エミリーが足音高く出て行き、部屋に静寂が戻った。
アイリーンは床に小さく丸まったまま、静かに泣き続けた。