カーディフ公爵は合理的
立ち上がっていたアイリーンがふたたび着席し、話を再開した。
「あの、ニームが悪魔だったとしても、人に害をなすとか、そういうことはないです」
アイリーンとしては心から自信を持ってそう言える。ただ、カーディフ公爵は納得できないだろう。
ニームがアイリーンのところに来たのは七、八年前だから、カーディフ公爵はその時十歳前後だったはずで、直接ふたりが戦ったことはないと思う。けれど敵陣営にいたはずの存在が目の前にひょっこり現れて、すぐに警戒を解けるか? となると、それは無理だというのは理解できる。
「人に害をなすことはない――なぜそう言い切れる?」
尋ねられ、アイリーンは答えに詰まらなかった。なぜならそれについて確信があったからだ。
「私は八歳の時、ルブラスピナの藪に触れて、肌が爛れてしまいました。症状は普通にルブラスピナに触れた場合よりも重く、肌が腐り落ちるほどにひどいものでした。コートニー司教がおっしゃるには、祝福が反転して、呪いになったらしいです。それで……傷口は絶えず膿み、いやなにおいがして、見た目もとても気持ちが悪く、ずっとひどい状態でした。けれどニームは毎日塗り薬を塗ってくれました。先ほど『列福精霊審査』で私は許され、傷も癒えましたが、それまでずっと――ニームは出会ってからこれまでずっと、根気強く、薬を塗ってくれたんです。だからニームは大丈夫なんです」
アイリーンはこの時、爛れた場所が『顔』であることを伝えなかった。特に箇所を伝える必要性を感じなかったためだ。
カーディフ公爵はカーディフ公爵で、まさか爛れた場所が『顔』だとは考えなかった。普通に考えて、顔面から藪に突っ込むことはまずない。手でガードするのが自然だろう。だから腕か足が爛れたのだなと解釈した。
――ここで『顔』が爛れたのだと分かっていれば、カーディフ公爵は『アイリーンがリイだ』という真相に容易に辿り着いたはずである。
――顔が爛れていたから、それを隠すためのウサギマスクだったのか、と。
けれど今『リイ』についてあれこれを考えるのは、カーディフ公爵にとって苦痛以外の何ものでもなかった。それほどエミリー・バデルと話したあの経験が、彼の心を凍りつかせていたのだ。
エミリー・バデルから『ウサギマスクは私の子供時代のお気に入りの仮装だった』と聞かされているので、その印象も強すぎたし。
ただ――彼女から散々悪口を聞かされていたにもかかわらず、こうして実際にアイリーンと対面してみても、不思議なほど悪い印象は受けなかった。アイリーンはエミリーが言っていたような、『癇癪持ちで、暴力を振るう、問題のある人物』には見えない。
――しかし短時間会話しただけで、何が分かるというのか――カーディフ公爵はそう思ってもいた。
なぜなら彼は一度失敗している。八年前に出会った『リイ』とは、ほんの少ししか一緒にいなかったのに、特別な思い出として心の中に残していた。
それで、どうなった?
年月を経て、がっかりしただけだ。
だから彼は何も期待しないことにした。目の前にいるアイリーンの言動は、いかにも真摯で正直に見える――けれど演技である可能性も捨てきれない。
とはいえカーディフ公爵は、アイリーンのことを先入観で軽蔑し、虐げるようなことはしない。そうしないのは彼が高潔だからだ。
アイリーンは貴族令嬢の礼の仕方も知らず、家庭環境に問題があったのは明白である。
ただしそれが親の虐待なのか、あるいはそこまでの話ではないのか、その判断がカーディフ公爵にはつかない。
親が教育を受けさせなかったのかもしれないし、そうではなく、怠惰な子供が学びを拒否したのかもしれない。
とはいえ、たとえ子供が学びを拒否したとしても、それを放っておいたバデル伯爵家は問題があるだろう。
とにかく今日この場でアイリーンがどういう人間なのか、それを判断することは自分には無理だとカーディフ公爵は考えていた。そして彼は、アイリーンがどんな人間であっても結婚する義務を負っている。一族にとって、この結婚が必要だからだ。
カーディフ公爵は良くも悪くも合理的な人間である。
――アイリーンが悪女でも、大嘘つきでも、別に構わない。聖女の責務さえ果たしてくれるなら。
そこで問題になるのが、ニームだが……
確かに頭の痛い問題ではある。ただ、現状マズイ条件があれこれ揃っているので、ニームの存在が逆転の一手になる可能性はあった。
となれば、とりあえず受け入れてみるのも悪くない。
カーディフ公爵は実に合理的に方針を決定した。