私、聖女をやってみます
「少しふたりで話をさせてください」
カーディフ公爵からそう言われ、コートニー司教は少しのあいだ言葉が出てこなかった。
正直に言えば、カーディフ公爵と対面してすぐに、『取りつく島もない』という感想を抱いた。
とはいえ『感じが悪い』とか、そういった単純な話でもなく。
たとえば百獣の王を前にして、『気楽に接することができるか?』と問われたら、大半の人間は『いいえ、無理です』と答えるだろう。その感覚に似ている。畏怖の念に近いのかもしれない。
彼の身のこなしや話し方を見て、頭が良く、きちんとした人間であることはすぐに分かった。
――クールであるけれど、無礼ではない。誇り高いけれど、傲慢ではない。
けれど。
一体何があったのか知らないが、カーディフ公爵は周囲に僅かばかりも期待をしていない――彼の凍てつきそうな青い瞳を見て、それがはっきり分かった。
人間らしい感情の起伏がまるで読み取れなかった。
怒りに駆られているだとかのネガティブな感情であっても、そこに何か熱がこもっていれば、端から見ていてまだ理解はしやすい。けれど彼にはそういった綻びが一切なかったのだ。
……カーディフ公爵はアイリーンを傷つけはしないだろうか。
ふたりを会わせる前に、コートニー司教が真っ先に心配したのはそれだった。アイリーンの素直な瞳を思い浮かべると、ふたりの相性的に『大丈夫なのだろうか?』とまず疑問に感じてしまって。
もちろんカーディフ公爵はスマートな青年だから、女性に暴力を振るったり、暴言を吐いたりという手荒な真似はしないはずだ。けれどアイリーンが真っ直ぐに感情を向けた時、彼はそれをもっとも残酷な方法で拒絶するかもしれない。
不安はあったものの、カーディフ公爵から「聖女に挨拶をする」と言われれば、断れるはずもなかった。そしてふたりが交わす会話をコートニー司教がコントロールするというのも、おこがましい話である。だから速やかにカーディフ公爵をアイリーンのところにお連れした。
それにコートニー司教は、カーディフ公爵がまず「聖女に挨拶を」と口にしたことには好感を抱いたのだ。
まず何よりも聖女を優先し、大切に扱うのだという意思表示を周囲に対してしている。
そんな訳でふたりの対面の場に立ち会ったのだが、まさかあんなことになるなんて。
初めは冷ややかな態度を崩さなかったカーディフ公爵が、アイリーンが挨拶で失敗した瞬間、自然に手を差し伸べ、礼のしかたをレクチャーして空気を和らげたのだ。
……驚いた。
見ていてなんだかくすぐったい気分にもなった。
だからだろうか。
カーディフ公爵から「少しふたりで話をさせてください」と言われ、コートニー司教は考えを巡らせたあとで、
「承知しました」
と快く答えていた。そして会議室をあとにした。
* * *
会議室には大きなテーブルが中央に据えられ、それを囲むように十脚の椅子が置かれていた。
カーディフ公爵は椅子のひとつを引き、アイリーンに勧めた。
「座ってくれ」
アイリーンは言われたとおりに腰を下ろした。
彼も隣り合った椅子を引き、適度な間隔を空けて腰を下ろす。横並びの席だが、置き方を変え、アイリーンのほうに向くようにして。
カーディフ公爵が口を開いた。
「嘘をつくのはフェアじゃないから、あらかじめ言っておく」
「はい」
アイリーンはお行儀良く太腿の上に手を重ね、背筋を伸ばした。
……エミリーとの結婚式のことかしら? 君はエミリーの姉だけれど、式に出席できないよ、とか?
でもそれはもう理解しているのだけれど……。
「まず、俺と君は安全じゃない」
彼が魔物討伐をしているというのは知っている。けれど確か妹のエミリーから『カーディフ公爵は、とても強い方なんだから』とも聞いていた。実力があるのに、何か不安要素があるのだろうか。
「カーディフ公爵は安全じゃないのですか?」
「うん。俺だけじゃなくて、君もだ」
「どうして私も?」
「悪魔から宣戦布告されている――『花嫁を真っ先に殺す』と」
「花嫁……では私には関係なさそうです」
会話の行先が分からない。とりあえず応答するのが精一杯で、実際に花嫁になる妹が危険であるとか、その辺のことには頭が回らなかった。とにかくカーディフ公爵はアイリーンのことを語っているので、「私には関係なさそうです」と言うしかない。
ところが。
「……いや、君のことだが」
「? でも私は花嫁ではないですし」
「いや、君が聖女、及び、花嫁に決まったんだが――て、知らないのか?」
……え……
ものすごくゆっくり衝撃がきた。
アイリーンは驚きのあまり息を止め、そのまま固まってしまった。
……人生の転機というのは、こんなに突然訪れるものなの? なんの心の準備もしていない。
列福精霊審査――確かに先ほど受けたけれども。
でもそれは先日エミリーが合格したのよね? まさかそれが覆るとは思えない。
だってアイリーンが受けたあれは、事務的なものではないの? 全員受ける必要があるから念のためという、それだけのことかと。
「――おい、アイリーン?」
カーディフ公爵が眉根を寄せ、アイリーンの目の前で手のひらを振って『見えているか?』と確認する。
アイリーンは縮こまって固まったまま、十秒近くそのままでいた。
やがて息苦しくなり、は……と浅く息を吸う。
カーディフ公爵は訝しげにそれを眺めていた。
アイリーンが混乱した顔で口を開く。
「わ……」
「うん」
「私、あの」
「ああ」
「いえ、だって……間違いでは」
「あのな」
カーディフ公爵がテーブルに片肘をつき、トントンと指で軽く卓上を叩く。苛々しているというよりも、『おい、戻って来い』という合図のようだ。
「順番に理解していこうか――OK?」
「お、OKです」
アイリーンはまだ緊張していたが、素直に頷いてみせた。
それを眺め、カーディフ公爵の瞳が和らいだのだが、アイリーンはそれを気にしている余裕がない。
「コートニー司教から聞いたが、君は『列福精霊審査』で光の精霊を一万以上――目視では数えられないほど大量に出現させている。君の妹であるエミリー・バデルの記録は十とちょっとだそうだから、当然君が聖女に決まった」
「は、はい」
「聖女になると、カーディフ公爵家に嫁入りするという慣例がある――つまり今回は俺の花嫁になるわけだ」
「あ……は、はい」
「君からすれば迷惑な話だろうけれど、なんとか……」
カーディフ公爵が言葉を途切れさせた。彼が気重そうな顔つきになっているのを見て、アイリーンはハッとした。
「カーディフ公爵、どうしたのですか?」
「いや、君からすると、嫁入りする義務はないし、ましてや危険を冒して戦う義務もないんだ。酷なことを強いているなと、今さらながらに気づいた」
「でもそれはあなたもでしょう?」
「なぜ俺が?」
「あなただって、戦う義務なんてないはずです」
アイリーンに真っ直ぐ見つめられ、カーディフ公爵は言葉を失った。
菫色の瞳……とても綺麗だ。野花のように素朴であり、明け方の空のように泰然としてもいる。
アイリーンが真摯に続けた。
「あなたはピンチなのですか?」
「……そうだな。素直に認めると、結構ピンチだ」
「敵は強いですか?」
「強い。というか、俺が万全の状態ではない」
「私は助けになりますか?」
「正直に言うと、とても」
「じゃあ私、頑張ります」
――本当は、その言葉を口にするのが、アイリーンにとってはすごく勇気がいった。
自分に何ができるのか分からない。『あなたが今代の聖女です』と言われても、それに相応しい実力が本当にあるか、自分自身が一番分かっていない。
――けれどレジーは大切な友達だから。
友達がピンチなら、真っ先に駆けつける。
あなたがさっき『アイリーンなんていらない』って言わなくてよかった。必要としてくれて、嬉しかった。
やっぱりレジーは優しい人だ。アイリーンのことを気遣って、巻き込んでしまうと気にしている。そんな優しいあなただから、隣にいたい。ピンチの時は、絶対にそばにいる。
「私、聖女をやってみます」
これまでずっと、何かに挑戦してみると、はっきり意思表示をしたことがなかった。自分にはそんな資格がないと信じ込んでいて――でもそれはたぶん逃げていただけだった。
小さなことでもいい、本当はもっと、できることがあったはず。あの侘しい塔にアイリーンを長いあいだ縛りつけていたのは、実はアイリーン自身の怯えだったのかもしれない。
アイリーンは自分の意志で「聖女をやってみたい」と思った。心からそう思った。
すると。
「――おう、アイリーン! 俺も手伝ってやるぜー」
ジャジャーン、と効果音がつきそうな勢いで、アイリーンのスカートをからげて、ウサギの精霊ニームが飛び出してきた。
ピョンピョン、と跳ね、アイリーンの太腿に飛び乗り、次いでテーブル上に移る。
両耳が黒で、その両耳に地毛と同色の黒い毛編帽子をかぶり、下半身も黒――それ以外は白の珍妙なウサギが、二足歩行で景気良くぶち上げた。
端正なカーディフ公爵はそれを冷静に眺めおろしてから、腕を伸ばし、ニームの耳をガツッと遠慮なく掴んだ。