再会し、変わらなかったもの
――ハートネル教会。
会議室に通されたアイリーンは、窓辺に立って熱心に外を眺めていた。
ここからはぶどうの木が綺麗に並んでいるのが見えて、それがとても見事なものだから、ちっとも見飽きない。
列福精霊審査を受けたあと、コートニー司教がこの部屋まで案内してくれた。けれど彼はすごく忙しいらしく、
「こちらの椅子に腰かけて、しばらくお待ちください」
と言ってすぐに出て行き、それきりになっている。
その後、修道女がお茶を出してくれて、アイリーンははにかんで礼を言ったのだが、やはりその人も忙しいらしくて、すぐに部屋から出て行ってしまった。
ひとりになったアイリーンは、いつ屋敷に戻されるか分からないので、外の景色を眺めておくことにして、窓辺に行ったというわけだ。
コートニー司教はとても親切な人なので、アイリーンがぶどうの木を夢中で眺めていても、怒ったりしないだろう。
アイリーンは窓辺に頬杖を突き、外の景色を眺めた。
「良いお天気……それに、顔がかゆくない。痛くない。嬉しいな」
幸せすぎてじんわりと涙が滲む。
教会に呼んでもらえてよかった。
顔の爛れが治ったから、これからは父も外出を許可してくれるかもしれない。そうしたらまたハートネル教会に来られるかしら。
コートニー司教は審査の前に、『たとえ失敗したとしても、私は君の味方だよ。また教会に来なさい』と言ってくれた。あの約束は、成功しても失敗しても、きっと有効だろう。家族が許可してくれれば、またここに来られるのに……。
――アイリーンは自身が今どういう立場に置かれているかを、きちんと理解できていなかった。
彼女の認識としては『とても幸運なことに、光の精霊がまた友達になってくれて、顔の爛れを治してくれた』――シンプルにただそれだけなのだ。
教会に集っている大勢の人たちが、アイリーンのことを『稀代の大聖女』と称しているなんて、夢にも思っていない。だからカーディフ公爵の結婚相手が、妹のエミリーから自分に変更になったなんて、なおさら悟れるはずもないのだった。
扉をノックする音がして振り返ると、コートニー司教が部屋に入って来た。
「――アイリーン様、よろしいですか。カーディフ公爵がお着きになり、この部屋の前にいらしています。ご挨拶を」
「はい」
……カーディフ公爵って、エミリーの結婚相手ね。
そうか、カーディフ公爵が妹と結婚したら、私が義姉になるんだわ。だから挨拶してくださるのだろうか。偉い人なのに、律儀なのね。
窓辺にいたアイリーンはコートニー司教のいる扉のほうに急ぎ向かった。
すると扉からひとりの青年が入って来た。
「……あ」
思わず呟きが漏れる。
どうしてだろう。何年もたっているのに、すぐに分かった。
――レジーだ。アイリーンに初めてできた友達。
八年前に会った少年の面影が記憶から呼び起こされる――海の雫のような綺麗な瞳に、漆黒の癖のない髪。
彼だけだった……普通に話してくれたのは。
顔が爛れてから、家族はものすごく冷たくなったし、それは使用人も同様だった。なんとか受け入れてほしくて、ウサギマスクをかぶってみたが、事態は好転せず。皆が気味悪そうにこちらを眺めてきた。
アイリーンはそのたびに少しずつ傷ついたけれど、自分を嫌いになるのはやめようと心に誓って生きてきた。
顔が醜くなってしまったことは、残念ではあるけれど、『自分に責任があるか?』といえば、そんなことはない。『誰かに意地悪して嫌われた』とかなら、反省して悪いところを直せる。でも顔のことで誰かが不快になっている件はどうしようもない。
アイリーンは自分にできること、その反対にできないことを、頭の中で順番に整理して、『自分にコントロールできないことは、考えないようにしよう』とルールを決めた。
それでもう納得するしかなかったけれど、日々の生活の中で、やはり少しずつ心はすり減っていく。
時々たまらなく悲しくて、やりきれなくて、ひとり泣くこともあった。
妹のエミリーから『塔を出るな』と言われていたのに、ある日、発作的に外に飛び出した。屋敷を出て、真っ直ぐに伸びている通りを眺めた時、『ずっと歩き続けたら、どこか知らない世界に行けるだろうか』と考えた。ずっとずっとひたすら歩いて、死ぬまで歩いて、歩きながら死ぬ……それは幸せなことに思えた。
あの時のアイリーンはコップの水がいっぱいに溜まったような状態だった。苦しくて、もうどうにでもなれと投げやりになっていた。
そして思い詰めたように歩いている途中で、道に迷っているレジーに出会ったのだ。
――彼は自分以上に困っているように見えた。
家では『なんでまだ生きているの?』と言われてきたアイリーンだけれど、困っているレジーに道案内するという、大事な仕事が見つかった。
嬉しかった。自分でも誰かの役に立てるんだ、って。
アイリーンは少し舞い上がっていたし、彼を元気づけたくて、空回りして、下手な歌を歌ったりもした。それは以前に『誰かと仲良くなるには、失敗談を話すといい』と聞いたことがあったので、自分が一番苦手なことをみせたら、レジーが友達になってくれるかもしれないと思ったからだ。
アイリーンの下手な歌を聴き、あの時レジーは笑いをこらえていた。
夏の日差しに照らされながら、通りをふたり並んで歩いた。
アイリーンにとってはかけがえのないキラキラした思い出。
――もう何年もたつけれど、再会できた。
アイリーンはカーディフ公爵と向かい合う形で立ち止まった。懐かしさもあり、気が急いていて、彼を見上げて一生懸命に話しかける。
「こ、こんにちは。あの私、昔――」
けれど最後まで言わせてもらえなかった。
「――はじめまして、ミス・バデル」
カーディフ公爵はせっかちな人には見えない。整った佇まいもそうだけれど、発した声も落ち着いている。だから今の遮りは『あえて』そうしたのだろう。
アイリーンは戸惑い、彼の青い瞳を見上げた。
……凍てつくように冷たい。
それでなんとなく悟った。昔の話をしては、だめみたい。
そうだわ、ちゃんとまともな挨拶をしないと……
アイリーンはまともな教育を受けていないので、正式な挨拶の仕方を知らない。手元と足元を見るため顔を俯け、慌てながら不格好にドレスのスカートをぎゅっと摘まむ。足……どうしたらいいんだろう……分からなくて右足を前に踏み出した。そしてお辞儀……頭を性急に前に倒すようにして、同時に言葉を発する。
「わ、私はアイリーンと言いまふ――」
ゴチン。
おでこがカーディフ公爵の胸にぶつかってしまう。
元々適度な距離を取っていたのに、アイリーンが片足を踏み込み、距離を詰めたせいだ。カーディフ公爵はアイリーンの動きを不審に感じたに違いないが、まさかそのまま頭突きをしてくるとは想定外だったはずで、後退するなどの対処をしなかった。
アイリーンは彼の胸から額をそっと離し、俯いたまま謝った。
「……ご、ごめんなさい……」
消え入るような声。アイリーンは顔を上げられなくなってしまった。
ど、どうしよう……どうしたら……大失敗しちゃった。
手がプルプルと震え出す。
……すると。
「――深呼吸」
カーディフ公爵の声が上から降ってきた。
なんとなくだけれど、声音が和らいでいるように感じられる。
アイリーンが恐る恐る顔を上げると、カーディフ公爵が真顔でこちらを見おろしている。真顔ではあるけれど、氷が解けて、少し素の部分が覗いているような気もした。
カーディフ公爵の斜め後ろに控えているコートニー司教が、ハラハラしたようにふたりを見守っている。
「――息を吸って――吐いて――」
彼に促され、アイリーンは言うとおりにした。三回繰り返すと、不思議と肩から力が抜ける。
「体に触れるぞ。いいか」
尋ねられ、こくりと頷く。彼がまず右肩に指で軽く触れた。
「そう――少し下げる」
そしてトン、と額を押された。
「前のめりにならない――吸って――吐いて――」
言うとおりにする。彼がスカートを鷲掴みしていたアイリーンの指に触れ、
「力を抜け」
アイリーンはそれに従った。
「左足を半歩引く――膝を軽く折って――そう」
滑らかに体が動き、アイリーンは自分が綺麗に礼をとれたのが分かった。
スッと姿勢を正してから、カーディフ公爵を見上げる。
「私、初めてちゃんとできました」
「できたかどうかはこちらが判断する」
「あ、そうですね」
「……でもまぁ、綺麗な礼だった」
カーディフ公爵が腕組みをして、冷静にそう告げて来る。
彼は相変わらず真顔だったけれど……前ほど怖く感じない。
アイリーンはホッと肩の力を抜いた。