フラれたエミリー
エミリーは縋りつくようにカーディフ公爵の腕を掴んでいたのだが、彼から淡々とこう注意されてしまったのだ。
「……離してくれないか」
「え?」
「腕を掴まないでくれ」
「そんな、レジー」
――どこか遠くのほうから鐘の音が聞こえてくる。
うるさいわね! エミリーは怒鳴り散らしたくなった。今私たちは大事な話をしているのよ!
しかしカーディフ公爵にはその鐘の音に心当たりがあるらしく、微かに瞳を細め、呟きを漏らした。
「どうやら公式に決まったようだ」
「は? 何を言って――」
「今代の聖女は君の姉――アイリーンで決まりだ。さようなら」
エミリーは耳を疑った。
はぁ? 何を言っているのよ? 何がどうなったら、そうなるわけ? もしかしてカーディフ公爵が先ほど口にしていた、「今の衝撃波を、感じ取れなかったのか?」という、あれが関係している? 訳が分からないんだけど! こんなの納得できるわけないでしょ!
必死で彼に縋る。
「どうして? 私たち、大昔に会っているのに! 絆があるでしょう? これは運命よ! 私たちは結ばれるべきだわ!」
「だとするなら」
彼の口角は皮肉げに、ほんのわずか上がっているように見えた。
……でも気のせいかもしれない。
だって彼はエミリーとの別れを悲しみこそすれ、皮肉に感じるはずがないのだから。
カーディフ公爵が続ける。落ち着き払った綺麗な声で。
「美しい思い出のまま、別れよう」
「いやよ!」
叫ぶエミリーを、感情の読めない瞳で見おろす彼。
やがて小さくため息を吐き、カーディフ公爵が続けた。
「私は悪魔に脅されている――『花嫁を真っ先に殺す』と。近づくと危険だぞ。君はここに残り、達者に暮らしてくれ」
カーディフ公爵はエミリーの腕をはがし、踵を返した。
彼がエミリーから視線を切る際、虹彩の青は凍てつくように冷たく、彼女に対する思いやりは皆無に見えた。
しかし彼の心のうちは、本人にしか分からない。
鈍感なエミリーに伝わるはずもなかった。
* * *
カーディフ公爵は『こんなものか』と落胆していた。
なんの根拠もない、形のないものを支えとしていたことに、今更ながら気づかされた。
……会わなければよかった。
ため息すら出ない。
美しい思い出のまま終えていれば、心の中にほんのひと欠片、温かみを残していられたかもしれない。しかしすべてが色褪せた過去になった。
八年ぶりに会ったというのに、彼女の瞳を間近で覗き込んでも、少しも心が動かず。
彼女が喋れば喋るほど、耳を塞ぎたくなった。
がっかりした。
彼女にがっかりしたのか、大切な思い出をあっさりゴミ箱に捨ててしまえる自分にがっかりしたのか、それすらもよく分からない。考えることすら億劫だった。
……さようなら、リイ。
君のことを思い出すことは、この先二度とないだろう。
* * *
エミリーは顔色を失い、ブルブルと怒りに震えながらその場に立ち尽くしていた。
……何よ、なんなのよ、これ。
どういうこと? は? アイリーンが聖女?
許せるものですか――絶対絶対許さない!
もうどうあっても覆せないの? そんな馬鹿な――納得できない! そうだわ、アイリーンに直接会って、説得できれば、どうかしら? まだチャンスはある。
アイリーンが『列福精霊審査』でどんな結果を残したのか、エミリーには知るすべがない。けれどハートネル教会の方角から狂ったように鐘の音が響いているということは、つまりはそういうことなのだろう。
途中でカーディフ公爵も何かを感じ取っているようだったし。
だけどやはりこれはフェアじゃないわ――だってそうでしょう? 光の精霊を十以上発現させた、私のあの大記録がなかったことにされるのはおかしい。
邪魔なアイリーンさえどかせられれば、まだ逆転できる。私に逆らわないよう、アイリーンには長いあいだ厳しく教育してきた。
エミリーは素早く考えを巡らせる。
なんとかしてハートネル教会に潜入できれば……そしてアイリーンを説得して、すぐにどこかへ姿を消すように言い聞かせられれば。
そうすれば花嫁は私のまま変更なし――カーディフ公爵は私のもの。
だけど忌々しいコートニー司教が邪魔をしてくるかも。こっそり教会に入らないと、この作戦は上手くいかない。
こっそり……ああ、そうだわ。
エミリーは妙案を思いついた。
彼女はにんまりと、狡賢い笑みを浮かべた。
2.花嫁交代(終)