来る
カーディフ公爵ったら可哀想に。あの馬鹿の作戦に引っかかったんだ!
子供時代のアイリーンは見事に彼をたぶらかしたようだ。そして目出し帽から覗く菫色の瞳が、少年の印象に残った。
それが今回、私と会って菫色の瞳を見たことで、彼の記憶が刺激された……
エミリーはこういう時、とんでもなく頭が回る。
瞬き一回分くらいの僅かな時間で、彼女は脳を高速回転させ、恐るべき勘の良さを発揮し、見事正解に辿り着いた。
そして本能により、今自分がすべきことを悟った。
『え……あなたはあの時の? そんなまさか……』という、いかにも『アイリーンぽい』表情を作ったのだ。
カーディフ公爵はそれで確信を強めたようだ。
「憶えていないか? この近くで道案内をしてくれただろう。互いに愛称しか知らないが――俺はあの時、『レジー』と名乗った」
「……よく私だと分かったわね、だって私……マスクを」
言葉を濁す。
もう少しよ、頑張るのよエミリー……このターンを乗り越えられれば、アイリーンを出し抜ける。
焦らないで……ここが肝要……あとで誤魔化しがきくよう、「マスクを」で会話を打ち切った。もしも先の推測が外れていて、彼から「マスクってなんのこと?」と返されたら、また探りを入れながら、会話を誘導していけばいい。
エミリーがドキドキしながら待っていると、カーディフ公爵から返答があった。
「ウサギの目出し帽から、菫色の瞳が見えていた」
――やった、当たった!
エミリーはこれが天の導きであると考えた。やることなすこと、すべてが上手く噛み合っている! これは良い兆候だと思うわ。
私にツキが回ってきた! 神様が私に『カーディフ公爵を落とせ』と命じているのよ!
カーディフ公爵は『互いに愛称しか知らない』と言っていた。つまり彼は『リイ』の本名を知らないのだ。そこがまずエミリーにとって最大のラッキー。
やだもう……『リイ』ですって! エミリーは拳を突き上げて踊り出したい気分だった。
『リイ』というのは確かに姉『アイリーン』の子供時代の愛称である。だけど『リイ』ってね――私の名前『エミリー』の愛称であったとしても、まったく不自然じゃないのよ!
ああ、神様、ありがとうございます! チャンスをありがとう!
これで私はアイリーンの過去を乗っ取ることができる!
先日教会で光の精霊を十以上も出した功績、それにプラスして、カーディフ公爵と昔会っていたという運命的な絆が加われば、もうアイリーンなんかに勝ち目はない。
「あの、レジー」
エミリーは図々しくもカーディフ公爵の愛称を口にして、足を大きく前に踏み出した。気が早いことに、心の中で彼女はすでに身に纏っているドレスを脱ぎ捨てており、すっかりのぼせ上って、はしたなく彼に触れたくてたまらなかった。
エミリーが甘えて彼にしなだれかかろうとした、その時。
カーディフ公爵が何かに気を取られたように、素早く視線を上げた。
「――来る」
対面にいるエミリーにかろうじて聞き取れるかどうかという、小さな呟き。
中空を見据えた彼の美しいサファイアの虹彩が、微かに揺れている。
……え? 何が来るの?
エミリーはポカンとした。訳が分からない。
カーディフ公爵が見上げているあたりを、慌てて振り返って仰ぎ見てみるのだが、なんら不思議な点は発見できなかった。
彼が見つめているのは、ただの玄関ホールの吹き抜け空間――それ以上でも、以下でもない。
訝しげに彼のほうに視線を戻したエミリーは、カーディフ公爵が何かに衝撃を受けたように身じろぎしたのを見て、呆気に取られた。
その様子はまるで、落雷が大木に直撃した瞬間を目の当たりにした人のようだった。端正な顔に驚きと畏怖の念が浮かんでいる。
な、なんなの?
エミリーの心がざわつく。
女の勘が『気をつけろ』としきりに警告を発していた。
エミリーはこの感じを幼少期に何度も味わっている。それはどんな時に起こるかというと、例外なくいつも姉のアイリーンが関係していた。姉がこちらを不快にさせる時はいつも、このザワザワする嫌な感じが先にやって来るのだ。
あの女が化けものに成り下がってからは、久しくなかった感覚である。それなのによりによって今、どうしてそれが……。