伝説が生まれる
ノートン修道士は身廊の下座に控えていた。
コートニー司教との話し合いから、急展開で物事が進んでいる。
――にわかには信じがたい、バデル伯爵家の背信。
魔物・悪魔との戦いは人類全体の課題であるが、厳しい最前線で自ら体を張り、盾となってみんなを護ってくれているのがカーディフ公爵家だ。ノブレス・オブリージュ――権力を持つ者には責任が伴う――言うは易しだが、自らを律して正しいことを行うのは難しい。けれどカーディフ公爵家は長いあいだそれをしてきた。
勇者の気高い振舞いを見て、下の者もそれにならう。平民であっても、聖女選定の儀式には大変協力的だ。彼らもまた近しい誰かを護るため、力になれるならと率先して動く。
だから貴族階級に属する者は、カーディフ公爵家の手足となり、大勢の見本となるよう行動しなければならない。列福精霊審査に率先して協力するのは、当たり前の話だ。
ところが。
誰も彼もが――下町で暮らす十代前半の少女までもが、家族のため名誉のため列福精霊審査を受けたというのに、貴族であるバデル伯爵家が、まさか。
十年前から軟禁していた長女を、この大事な場面でも隠し続けた。
あまりにも無責任。あまりにも身勝手な行いだ。
ハートネル教会は教区全体の名簿をしっかり管理しているつもりでいたが、貴族階級に関しては盲点になっていた。貴族にとって、娘が聖女に選ばれカーディフ公爵家と縁が繋がることは、非常に名誉なことである。責務と名誉、ふたつが揃っていることから『ごまかすわけがない、率先して受けるはず』という強固な思い込みが教会側にはあった。こちらに不手際があったのは認める。しかしそれよりも、あざむくほうがずっと罪は重い。
皮肉なことに今代の聖女は、この罪深きバデル伯爵家から選ばれることになる。
今回追加で列福精霊審査を受ける長女アイリーン――彼女が受かれば姉妹どちらか優秀なほうが、落ちれば次女が聖女で決まりだ。
しかしバデル伯爵家の未来は暗い。
聖女に選ばれた子供はカーディフ公爵家に嫁入りするので、手厚く護られる。しかしバデル伯爵家に残される者は、犯した罪を一族で償っていくことになるだろう。
――身廊の大扉が開かれた。
中央通路に進み出て来た、ひとりの少女。静かに歩を進めるアイリーン・バデルの姿を見て、多くの者が度肝を抜かれた。
頭部に揺れるあれは、ウサギを模した毛編の耳か? 顔全体を覆う白い奇妙なマスク。両目の周りだけ穴が空き、ほかはすべて隠されている。
今、身廊には多くの神職者、教区の有力者が集まっている。
身廊には礼拝者用の席が並んでいるが、参加者は席に着かずに横に避け、列柱に沿う形で直立していた。遠巻きに中央通路のほうを見つめ、その時を待つ。
――ふわり。
いち早く気づいた者が数名。いつの間にか、タンポポの綿毛のような淡い光の玉が中空に発現している。
ひとつ、ふたつ、三つ、四つ――……瞬きする間にその数は増え、すぐに数えきれなくなった。十や百といった単位ではない。
――列福精霊審査で発現する光は、平均でふたつだという。ふたつでも過去の聖女たちは偉業を成してきた。
ノートン修道士は心を揺さぶられ、目を瞠った。――我々は今、奇跡を目撃している。
高窓から射し込む光がなびくように揺れる。まどろむような優しい光。
どこからか歌が聞こえてきた。それは人の世界にはない歌だった。さざ波のようで、光のようで、やはり音、歌だった。人々はうっとりと耳を澄ませた。心が浄化されていく。泣き出す者もいた。
通路を進むアイリーンの足取りが軽やかになる。羽根のように軽そうだ。彼女の姿は透きとおるほどに輝いている――人々の目にはそう映った。
身廊全体の光が強まる。
眩しい――……鮮烈な白。
アイリーンが祭壇へと続く階段を上がって行く。それは気取りのない動きだった。少女めいていたし、力強い足取りでもない。とても自然で、けれど不思議と優雅である。
後陣に踏み入った彼女は、祭壇を前にしてピタリと足を止めた。
そこでじっと動かなくなる。彼女は顎を持ち上げ、天高いほう――何かを一心に見つめていた。
光がさらに強まった。その光は身廊全体を眩く照らしていたが、アイリーンが起点になっていた。彼女を中心として衝撃波にも似た白い光が、音もなく放射状に広がっていく。浄化の波は数秒間続いた。
やがてそれが納まると、アイリーンが右手を持ち上げ、ウサギマスクにそっと触れた。彼女は皆に背を向けたままで、ゆっくりとウサギマスクを脱いだ。
その下から包帯でグルグルに巻かれた頭部が現れる。アイリーンの華奢な指が動き、包帯を外していく。白い長布が音もなく彼女の足元に落ちていった。
包帯が取り除かれると、美しいプラチナブロンドの髪が現れた。癖のない絹糸のような髪が、光を反射して淡く輝いている。
アイリーンは何かを確かめるように、そっと頬を撫でた。ゆっくりと、何度も。
――彼女が手を下ろし、振り返る。
人々は息を止め、聖域を見上げていた。
かつてこれほどまでに美しいものを目にしたことがない。彼女は――人なのか? 神の領域に足を踏み入れているような気がする。
薄紫の澄んだ瞳。それは黄昏時の静謐な色であり、夜明けの希望を表す色でもあった。
そしてあれは幻だろうか――光の粒子が彼女の背に集まり、エネルギーの塊が天使の羽のように広がっていた。
――アイリーンは向こうのほうにコートニー司教の姿を認めた。
彼は緋色の大扉を背にして佇んでいる。コートニー司教と目が合うと、アイリーンはにこりと微笑みを浮かべた。
コートニー司教は涙ぐみ、静かに膝を折った。彼は心から敬服し、アイリーンに頭を垂れた。
その場にいた誰もが次々に膝を折り、頭を垂れていく。
光がひと際強くなり、その聖なる余韻はしばらくのあいだ静かに続いた。
1.大聖女誕生(終)