顔が爛れた経緯
アイリーンはモジモジと両手を動かした。拳をグーにしたり、パーにしたり。
――あの日のことはなるべく思い出さないようにしてきた。つらい記憶だ。
「あの頃、身の周りで不思議なことがよく起こりました。……風が吹くと、誰かに話しかけられたように感じたり、蕾だった花が突然開いたり、目の前に金色の光が舞ったり。私がぼうっとしがちなので、妹のエミリーは怒っていました」
「どうして怒るのでしょう? 彼女には関係のないことだ」
「……一緒にいるのに、ぼうっとするのは感じが悪いって……確かにそうです。私はエミリーの話をちゃんと聞いていないことがたまにありました。ほかに気を取られて」
アイリーンはしょんぼりして俯いてしまった。きゅっと唇を噛みしめる。
足元に視線を落としていたので、コートニー司教が何かをこらえるような顔をしていることに気づけなかった。
そのままアイリーンは話を続けた。ポツリ、ポツリと。
「あの日は朝からエミリーの機嫌が悪くて……私はひとりになりたくて、屋敷の外に出たんです。バデル伯爵家の裏側は低い山になっていて、自然が豊かだから、私はそこに行けば、もっとお話ができると思いました」
「お話? 誰と?」
「誰かは分かりません。でも、ずっと合図を送られている気がしました。それはもしかすると私の勘違いだったかもしれません。――あとで妹から、『それはあなたの頭の中にだけ存在する声よ』と言われました。『心が寂しいから、架空の誰かを作り出しているのよ』って。私には分かりません。だって……私が無意識に作り出していたのなら、それは私自身には判別できない」
息が浅くなり、アイリーンは呼吸を整えた。じわりと涙が滲む。
私は間違えたのだ。行動を変えていれば、今こうはなっていなかったかもしれない。あの日、どうして――どうして私は裏山に行ったのだろう――……
「父から、『裏山にはあまり行かないように』と注意されていました。ルブラスピナの藪があるからです」
「ルブラスピナ……! 赤い棘、別名、悪魔の爪」
コートニー司教が息を呑む。
アイリーンは戸惑い、そっと彼の顔を見上げた。――コートニー司教の表情は硬く強張っている。彼はとても混乱しているようだった。
アイリーンはこくりと頷いてみせた。
「ルブラスピナはとても危険です。触れるとひどく肌がかぶれてしまう。気をつけなければなりません。でも、人が踏み慣らした通りから外れなければ、問題はないはずでした。私は道から外れないよう、慎重に歩きました。それで……」
言葉を途切らせ、アイリーンは途方に暮れた。
十年前の、あの日。
大樹が陽光を遮り、裏山の通りは日陰になっていた。けれど反対に、アイリーンの心は晴れやかだった。
――世界はなんて美しいのだろう!
鳥がさえずり、風が歌う。
くすくす……幼い女の子が笑うような、歌うような、優しい声が耳をくすぐる。アイリーンも笑い返した。
――楽しいね。今日は良い日だね。
アイリーンの足取りがどんどん軽くなる。羽が生えたみたいな気分だ。
ぽわ、と右耳の辺りが明るくなった気がした。次いで、肩も、胸も、お腹も――あちこち、どんどん温かくなる。光が浮き立つように舞う。
「私はたくさんの光に包まれました。でも……分からない。勘違いだったのかな。あの時、私は楽しくなって、ずっと笑っていたと思います。そうしたら……そうしたら、妹の怒鳴り声が響いて」
『何やってるの! やめてよ!』
空気を裂くような金切り声。気が狂わんばかりの、怒りに満ちた音。破壊の音。
アイリーンは驚いて振り返った。いつの間に裏山へやって来たのだろう――十メートルほど後ろに、ひとつ下の妹の姿があった。七歳の彼女は仁王立ちになり、憤怒の表情でこちらを睨み上げている。
あの子が何をあんなに怒り狂っていたのか、いまだに分からない。
エミリーが走り寄って来る。ひと足ごとに、彼女の怒りや憎しみがどんどん跳ね上がっていくのが感じ取れた。
『お姉ちゃんばっかり、ずるい! 特別でずるい! 死んじゃえ!』
ドン、と強く胸を押される。
あ――……
アイリーンは倒れていく。通りの左側に生い茂っていた、ルブラスピナの藪のほうに。
光、が――……
時間がゆっくりと流れているかのようだった。アイリーンは咄嗟に藪に手をついて、できるだけ接触面積を少なくしようとした。
しかし伸ばしかけた手が途中で止まる――……だってアイリーンだけが回避してしまったら、纏わりついている光たちは藪に沈んでしまわない? この子たちが大丈夫なのか、分からない。
一瞬の迷いが命取りだった。冷静になってみれば、光は飛べるのだから、アイリーンが心配するのはお門違いであったのかも。アイリーンはまず自分の頭部をかばうべきだった。
ルブラスピナの藪に顔から突っ込んだ瞬間、アイリーンの世界から光が消えた。まるで頭から黒のヴェールをかぶせられたみたいに。
あとに残ったのは、虚無。
アイリーンはかけがえのないものを失ったのだと悟った。