アイリーンの存在に気づいたコートニー司教
この中で一番年若いロイル修道士が、おずおずと口を挟んだ。
「あの、ちょっといいですか……先々代の勇者様が、すでに魔王を滅ぼしているのですよね? それにより、残存している悪魔たちは、力の大部分を失っていると習いました。だから平和はしばらく続くだろう、と」
「魔王は滅んでいない」
コートニー司教がきっぱりと宣言した内容が、ロイル修道士には理解不能だった。
……今、なんて? 習ったのと違う。ロイル修道士は混乱し、訳が分からなくなってきた。
司教が続ける。
「先々代の勇者様は、とても頭の良い方だった。見た感じは豪放磊落――しかしその内実は、緻密で巧み。彼はあらゆるデータを集めて分析・予測を繰り返し、最短距離で魔王のもとに辿り着いた。完全に敵の不意を突く形で。そして騙し討ちのように、裏技を使って魔王の力を封じた」
「裏技? それはどんな」
「詳しくは私も聞かされていない。一度きりの騙し技だったらしい。二度目はないと言われた。だから訊くな、と」
「なぜコートニー司教はそのことをご存知なのです?」
「討伐から戻ったご本人から伺った。先々代の勇者様は魔王と戦った時に負った傷がもとで半年後に亡くなったが、将来の脅威に備えるようにと、ずっとおっしゃっていた。魔王の力が抑えられるのは、長くて三十年――孫の代で、ふたたび大きな争いが起こるだろう、と」
先の大戦から三十年後――それはすぐそこまで迫っている。
「では、現勇者であるレジナルド・カーディフ公爵に、すべての責任がかかっているのですか?」
「そうだ」
それはあまりに大きな負の遺産だ……部屋の中に重い沈黙が落ちる。
ノートン修道士は教区の地図を眺めおろしながら、あることに気づいた。
あれ……今さらと言えば今さらなのだが、やはり変ではないか?
「コートニー司教、よろしいですか? ――そもそもどうして聖女は、この教区からのみ選ばれるのです? 全国で広く列福精霊審査会を開けば、エミリー・バデル伯爵令嬢のように、精霊の光をいくつも発現させられる、最強の人材が見つかるかも」
「それはありえない」
「なぜですか?」
「現存する悪魔はすべて、この教区のそばで生まれた。――その始まりの地は北にそびえるプロヒビトゥム山」
「え」
「人智を超えた現象には、土地の恩恵が大きく影響する。光と闇は表裏一体――聖女もまたここ以外では生まれない」
「しかし勇者はこの土地の生まれではないですよね? カーディフ公爵家は、ここから馬車で五日もかかる」
「勇者は特殊で、土地ではなく血で選ばれるからな」
「……血統」
「勇者のことはさておき、我々はすべきことに集中しよう。ハートネル教会は、正しく聖女を選定する――これは責務だ。間違いがあってはならない」
「間違いなんてあるはずがありません。今回、教区に住まう未婚の令嬢はすべて、列福精霊審査を受けました。それにはこの地で誕生したあと、引っ越しをしたご令嬢も含まれています。全員例外なく、完了している」
列福精霊審査の件があるので、未婚の令嬢が教区から退去する場合、転出先を提出させている。その点に抜けはない。
そして転居さえしていなければ、住人による相互監視が機能する。多数の大人たちが『未婚の令嬢は全員受けるように』と隣人をチェックするから、『うちの子には受けさせません』という人がいたとしても、それを許さないという土壌ができ上がっていた。少なくとも、『受けようとしない人がいる』という情報はこちらに届くので、漏れがあるのに把握できていないということはない。
全員が審査を受けて、エミリーだけが光の精霊を発現させることができたのだ。これを疑う必要があるのだろうか?
ところが。
ノートン修道士が「全員例外なく」と口にしたあとで、建物全体がピシリと鳴った。
「なんだ……?」
空気が膨張し、反転して収縮したような、奇妙な感覚。全員が天井や床に視線を走らせ、顔を強張らせる。……まるで精霊が腹を立てているような……?
コートニー司教がハッとして息を呑む。
「全員……いや、本当に?」
あれは何年前だ? 確かに私は遠目に見たのだ――ウサギのマスクをかぶった、不思議な少女を。あの子は一体?
ピシ、また建物が音を立てた。
「な、なんだこの現象は……!」
年若いロイル修道士が怯えた様子で声を震わせる。
コートニー司教がふたたび地図に視線を落とすと、紙の隅に複数個所、切れ込みが入っていることに気づいた。上、下、右、左――その小さな切れ込みが直線状に伸びて行き、やがて結ばれ、横の線一本、縦の線一本になる。
線二本が交差する点、そこにあるのは――……
「――バデル伯爵家」
コートニー司教の声は掠れていた。
これはエミリー・バデル伯爵令嬢のことを指しているのか? 『エミリーで聖女は決まりだ、疑うな』という――いや、しかし。
「待てよ、あの家には重病の子供がいなかったか」
遠い昔の記憶が刺激される。バデル伯爵家が厳重にそのことを隠蔽したので、あまり表に出ていない話だ。
「そういえば確かに。しかしすでに亡くなっているのでは?」
ノートン修道士の疑問はもっともだ。
十年前の時点で瀕死ということだったから、あのあとすぐに亡くなったのだろう。上流階級のバデル伯爵家なら、死亡に関する必要な届け出はしているはずだ。
バデル伯爵家が伏せているのなら、周りが触れるべきではないだろうと、十年前に姿を消した子供のことを、みんな考えないようにしていた。もともとバデル伯爵家は保守的で、子供が幼いうちは外に出さないという教育方針だった。元から知られていない存在であれば、周囲の関心も当然薄い。
「亡くなっているという確証はない」
コートニー司教は直感で、『その子は生きている』と考えていた。彼の熱が伝わったのか、ノートン修道士も顔色を変えている。
「男子か女子か不明ですが……家督を継ぐ男子ならこんなふうに有耶無耶になっていない気がします。女子かもしれない」
「バデル伯爵家に至急使いをやれ――教区の未婚の女子は例外なく、列福精霊審査を受けなければならぬ。これをあざむくことは、大貴族カーディフ公爵家への反逆行為だ」
* * *
バデル伯爵家の離れには、顔に問題を抱えた女の子が住んでいる。
彼女は長いあいだ人間扱いされずにひっそりと生きてきた。
――アイリーン・バデル伯爵令嬢、十八歳。
ウサギの精霊ニームを相棒に持つ彼女は、大それたことは何も望まず、ただ同年代の友達を欲しがっていた。
そしてみんなが受けている列福精霊審査を、自分も受けてみたいと考えていた。
受けてみたかった理由は、『聖女になりたいから』ではなく、『普通の人と同じことをしてみたいから』――ただそれだけ。
『列福精霊審査を受けてみたい』という彼女のささやかな願いは、これからすぐに叶えられるだろう。
バデル伯爵家からすれば、アイリーンの存在は恥でしかない――けれどハートネル教会からすれば、まったくそんなことはないからだ。
こうしてアイリーン・バデルのあずかり知らぬところで、彼女の運命が大きく動き出そうとしていた。