ボロ雑巾女
部屋の中はとても静かだった。
ひっそりとしていて、物悲しく、うらぶれている。
この部屋のあるじはアイリーン・バデル伯爵令嬢、十八歳。
奇妙なことに彼女はいつも、ウサギを模した目出し帽をかぶっていた。白い毛糸で編まれたそれは頭と顔の大部分を覆い隠していて、露出しているのは穴の開いた両目の部分だけ。頭頂部には長いウサギ耳の飾りがついている。
マスクの穴から覗く瞳は美しい菫色で、どこか物悲しげだ。
アイリーンが所持している家具はとても少ない。簡素なベッドに、歪んだチェスト、モミ材の武骨なテーブルとイスがひとつ。
テーブルの上には鉢植えのクロッカスが置かれている。アイリーンはテーブルのそばに佇み、美しいクロッカスを眺めて瞳を和らげた。
「アイリーン! あなたにいいものを見せてあげる!」
突然、静寂を破る騒がしい音が響いた。部屋の扉を乱暴に開き押し入ってきたのは、派手な身なりをした勝気そうな少女だ。彼女が歩くリズムに合わせて、艶のある茶色の髪がフワフワと揺れる。
「エミリー」
アイリーンは小さく呟きを漏らし、怯えたように体を強張らせた。
部屋にやって来た勝気なエミリーは、ひとつ年下の妹だ。
姉妹の瞳は同じ菫色をしているのに、アイリーンとエミリーのそれには大きな違いがあった。姉アイリーンの瞳は悲しみの色が濃いのに対し、妹エミリーの瞳は炎のような熱を放っている。
「ちょっとあなたね、私にちゃんと敬意を払って、『聖女エミリー』と呼びなさいよ」
目の前まで来たエミリーがきつく注意する。アイリーンはハッとして、美しく澄んだ瞳で妹を見返した。
「……そうだったわね。あなたは先日、教会で聖女に選ばれたんだもの」
この辺りは王都から離れた田舎だが、癒しの力を持つ聖女が輩出される土地として有名だった。
「アイリーンにも見せてあげたかった」
エミリーが得意気に顎を上げる。
「私の呼びかけに、光の精霊が応えたのよ! 祭壇にキラキラと光が舞ってね、私は自分が天から祝福された存在なのだとはっきり確信できたの! ああ、もう――あなたったら姉のくせに、私の晴れ舞台を見ていないだなんて!」
「私も行けたらよかったんだけど……」
アイリーンは口ごもる。
この年、教区に住まう少女の大半がハートネル教会に行き、列福精霊審査を受けた。月食が三回起きた年は、未婚の女性はみんなそうしなければならないという、教会で定められた決まりがあるからだ。月食が年に三回起きる周期はまちまちで、前回起きてから数年後の場合もあれば、七十年近くあいだが空くこともある。
今年まさにそれが起きたので、本来ならば未婚のアイリーンも教会に行っていなければならないはずなのだが……。
「私も行けたらよかった、ですって? 冗談はやめてよ、アイリーン!」
エミリーが侮蔑的な笑みを浮かべる。
「あなたみたいな穢れたボロ雑巾女が教会に出入りしたらだめに決まっているでしょ! あなたのそのおぞましい姿を見たら、みんなが怯えるわ」
「わ、私……顔のマスクを外すつもりはないし、誰も怖がらせたりしない」
アイリーンは混乱しながらも、『自分は他人に害をなすことはない』と必死で訴える。けれど彼女の想いは何ひとつ伝わっていないようだった。
「外さなきゃいいってもんじゃないから! 開き直らないでよね、図々しい。マスクの下は地獄の使者みたいな姿をしているくせにさ」
エミリーが唇を歪める。
「あなたのせいで、家族はみんな苦労しているの。当家の恥になるから、ボロ雑巾女を外に出すわけにはいかないし」
「ひどいわ……」
「これでも優しく教えてあげているんだけど。誰だってあなたを見たら『気持ち悪いものをうつされちゃ敵わない、そいつを近づけないで!』って言うわよ」
「私の顔の爛れは、他人にうつったりしない。ルブラスピナの藪に入ったせいでこうなったって、あなたも知っているはずでしょう?」
「ああもう、うるさい――あなたってどこまでもみじめよね。その道化じみた格好も、見ているだけで恥ずかしいし」
エミリーは気分屋で、しばしばこんなふうに論理的ではなくなる。
アイリーンはかぶっている毛編みのウサギマスクに指先でそっと触れた。
このマスクはアイリーンなりに一生懸命工夫して作ったものだ。背中を丸めず、希望を持って生きていけるように。鏡に姿が映った時に、『可愛いウサギさん』と思えば、心が和らぐから。
「そんなことを言わないで」
「でも事実でしょ。みじめじゃないの」
違うわ、私はみじめじゃない、そう気丈に言い返せない自分が悲しい。アイリーンは打ちひしがれ、瞳を伏せる。
「今日は……どうしてそんなひどいことばかり言うの?」
アイリーンはドレスのスカートをきゅっと握り締め、なんとか言葉を押し出した。
勝気なエミリーは大抵のケースで当たりがきついが、普段はさすがにここまでではない。
問われたエミリーは口元をへの字に曲げ、きゅっと眉根を寄せた。不機嫌さをおもてに出しているというよりも、戸惑いの色が濃く、虚を衝かれたような表情だった。
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