85 悪夢
イーアは悪夢を見ていた。
最近は、悪夢を見るのはめずらしいことではなくなっていた。
たぶん、幼い頃の、ガネンの森にいた頃の記憶が戻ったからだ。
記憶の封印がとけた時に、すべての記憶が一気に戻ったわけではなくて、少しずつ、何かのひょうしにそれまで忘れていたことを思い出すことがあった。
それは、オクスバーンの大樹の下で精霊たちと遊んだ楽しい記憶だったり、おしゃべりなお花たちと会話したほのぼのとした記憶だったこともあれば、あの日のつらい記憶のこともあった。
そして記憶は、時には悪夢の中で不完全によみがえっては消えていった。
それが、現実に起きたことなのか、ただの夢なのか、うやむやなままに。
悪夢の中で、白いローブがひるがえっていた。
白いローブと、奇妙な十字架。
恐ろしい、恐ろしい白装束の魔導士たち。
だけど、なによりも恐ろしかったのは、黒い炎だ。
イーアの悪夢の中に、その黒い炎は何度もでてきた。
けっして消えない黒い炎。
その黒い炎は、触れたものを焼き尽くすまで消えなかった。
黒い炎の使い手を、その夜、イーアは悪夢の中にはっきりと見た。
他の者と同じように、フードを深くかぶり、さらに銀仮面をかぶっているため顔はわからない。
だけど、白いローブの袖口から黒い炎をまとわりつかせた手がのぞいていた。
その手の甲には黒い蛇のようなアザが見えた。
女の人の声が聞こえた。
「やめて! アンドル! あなたは真実を知らないの!」
あの声は、イーアのお母さんだ。
夢の中、イーアはお母さんの姿を探した。
赤い炎で燃える家の前にお母さんの姿が見えた。
赤く燃えさかる村の中で、黒い炎をまとう白装束の魔導士が怒鳴り返した。
「どの口が言う! この裏切り者が! 真実? そんなものは関係ない。知るべきことは知っている。我らは任務を遂行するのみ」
「正気にもどってアンドル! なぜ、こんなことを……。あなたは絶対に後悔する!」
そのとき、倒れていたガネンの村人が、最後の力を振りしぼり、その手に持っていた槍を白装束の男にむけて投げた。
白装束の魔導士の手にまとわりついていた黒い炎がふくれあがり、槍を投げたガネンの村人に向かって大きくのびていった。
イーアのお母さんが、とっさに動いて村人を守ろうと身を盾にした。
黒い炎がおかあさんの右肩から腕にかけてを襲った。
お母さんが何か呪文を唱えると黒い炎は小さくなった。だけど、黒い炎はそのままお母さんの肩にアザのように染みこんでいき、そこでくすぶりつづけた。
黒炎の使い手が、言い捨てた。
「愚か者が! その呪炎は消せない。死ぬまで肉と骨を燃やし続ける。お前の命はあといくばくもあるまい」
そうだ……。あの黒い炎が、お母さんを殺したのだ。
あの男が、お母さんを殺したのだ。
イーアは夢の中でお母さんにかけよろうとした。
でも、走っても走っても、イーアはお母さんの近くにはかけよれなかった。
『お母さん!』
イーアは必死に叫び続けた。
だけど、その時……
『イーア! イーア!』
自分を呼ぶ声で、イーアは目覚めた。
目を開くと、目の前にイーアをのぞきこむティトの大きな顔があった。
ティトの顔の毛やヒゲがほおや鼻にふれてくすぐったい。鼻息もぶつかってくる。それくらい近くにティトの顔があった。
『ティト?』
『すごくうなされてたぞ?』
ティトは、悪夢にうなされるイーアを心配して起こしてくれたようだ。
『お母さんが……。蛇みたいな黒いアザが手にある黒い炎を使う人に……』
ティトはイーアのおでこをなめた。
『忘れろ。嫌なことや憎しみは忘れて、楽しく生きろ。それが、イーアの母さんの願いだったんだ。仇なんて討ったってしかたがない』
たしかに、そう思ったからお母さんはイーアの記憶を消したのかもしれない。
だとしても、イーアの記憶はすでに戻ってしまった。
もう忘れることなんてできない。
大事だった人達、大切な思い出、そして胸を切り裂くような悲しみは、どんなに忘れようとしたって消えはしない。
イーアは目の前にもう一度、あの黒い炎と蛇のような黒いアザが浮かび上がるように感じた。
あれはただの夢ではないだろう。
イーアはあの日、見たのだ。あの黒い炎の使い手を。
同時に、イーアは感じた。
(どこかで、最近どこかで、あの人を見たことがある気がする……)
でも、イーアには思い出せなかった。




